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羊飼い 『キリストに結ばれて』
ローマ人への手紙 6章1−14節
2004/8/22 説教者 濱和弘
賛美  20、206、399

さて、私たちは、先週の礼拝において、キリストに繋がっているものは、すべからく、神から罪が赦され、神と和解し神の子とされるのだと言うことを学びました。この神による罪の赦しは、私たちの過去の罪、今ここでの罪、そして将来犯してしまうかも知れない過ちにいたるまで赦す、徹底した罪の赦しであるということも、これまでのローマ人への手紙を通して確認してきたことです。また、この様な罪の赦しは、私たちが何か罪の償いとなる行為をしたとか、代償を支払ったと言うことではなく、神を信じる信仰によって、この神の御前に罪が赦されたのだと言う、ローマ人への手紙の主張も知りました。自分が何か代償を支払うこともなく、また何か償いとなる行為をすることもなく、罪が赦されるとすれば、それはただ神の憐れみによって赦されたとしか言えない出来事です。

そんなわけで、宗教改革以降、プロテスタント教会は、人が罪とその罪の裁きである死から救われるのは「ただ神の恵みによるのみである。」ということを強調してきたのです。「ただ恵みによってのみ」ですから、私たちが、深く罪を意識すればするほど、神の恵みを深く感じ、喜びがより強く感じられてきます。ですから、考えようによっては、私たちは積極的に罪を犯せば犯すほど、罪の赦しの恵みによって喜ぶことできますし、神の罪の赦しの恵みを現すことが出来ると言おうと思えば言えることになります。私は、先日一枚のトラクトを見ました。それは金沢泰裕さんという牧師の方のトラクトです。この金沢牧師は、もと暴力団員でした。皆さんもご存知でしょうが、ミッション・バラバというグループがあります。このミッション・バラバは、もと暴力団員だった人たちがクリスチャンになり、体に入れた入れ墨をみせながら、「私はかって暴力団員として罪を犯して生きてきましたが、イエス・キリスト様に罪ゆるされた、この様に変わったのです。」と神を証し、伝道している人たちです。その中の何人かは、実際に牧師となり伝道をし、また牧会をしているのですが、その中の一人が、この金沢泰裕牧師なのです。この方の暴力団員だった経歴を思いながら、彼の書いたトラクトを読みますと、本当に神様の恵みの大きさを感じさせられます。

そのように犯した罪が大きければ大きいほど、また多ければ多いほど、神様の恵みの大きさを感じるというのも、実際にあり得ることです。しかし、だからといって、私たちが「神様の恵みの大きさ現すために、私たちは積極的に罪を犯そう。私たちが罪を犯し、その罪が赦されることで、私たちは神様の愛の大きさと、恵みの深さを現すことが出来るのだから。」と言ったとするならば、言うまでもないことですが、それは違うと、私たちは直感的にそう感じるのではないでしょうか。ところが、初代教会の時代、つまりはパウロが生きていた時代には、そのような考え方、それをアンチノミニズムと呼ぶのですが、そのアンチノミニズムのような考え方が起こってきたのです。ですから、学者の中には、このローマ人への手紙の背景には、ローマ教会にアンチノミニズム的な考え方が入り込んできており、それに対するパウロの反論が述べられていると、そう主張する学者もおられるのです。

そこで、今日のテキストの6章1節2節を見ますと、パウロは「では、わたしたちは、なんと言おうか、恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。」と、はっきりとそう言っています。このパウロの言葉は、それに先立つ、5章20節21節の言葉を受けてのものですが、そこにはこう書いてあります。「律法が入り込んできたのは、罪過が増し加わるためである。しかし、罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、私たちの主イエス・キリストにより、永遠の命を得させるためです。」この「律法が入り込んできたのは、罪過が増し加わるためである。しかし、罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」というような表現は、まさに先ほどのアンチノミニズム的な響きを感じさせる言葉だと言えます。だからこそ、パウロは、そのような誤解を生み出さないためにも「わたしたちは、なんと言おうか、恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。」とそう言っているのです。

そして、「私たちは、断じて罪にとどまるべきではない」と言うことの根拠を、2節の後半で示します。その2節の後半の「罪に対して死んだ私たちが、どうして、その中に生きておられるだろうか。」と言う言葉は、当然、「死んだものは生きることが出来ない」と言う答えを私たちに思い浮かべさせます。生きることが出来ない状態が死んだ状態であり、死んだ状態のものは、決して生きることが出来ないからです。つまり、パウロは、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を赦すためであったと信じるものは、一度死んだのだとそう言うのです。しかし、死んだといっても現にクリスチャンは生きていますし、この時にはパウロも生きていました。なのにパウロは、クリスチャンは死んだというのです。それは、パウロの言葉を借りて言うならば、罪に対して死んだということです。罪に対して死ぬと言う言葉は、一見するとわかるような感じもしますが、この罪に対して死んだと言うことはどういうことなのかということを突き詰めると、ちょっと考えさせられるような気がします。

「一体、罪に対して死ぬとはどういうことなのか。」それは、罪を犯さないということなのか。しかし、たとえクリスチャンといえども過ちは犯しますし、明らかに罪と思われることが教会の中にも起こってきます。それこそ、教会の歴史を振り返ってみますと、多くの過ちと罪とが数多くあることをひていすることは出来ないのです。そういった意味では、クリスチャンも、そのクリスチャンの集まりである教会も、全く罪を犯さなくなるといった、完全無欠な者になることは出来ないと言えます。もし、神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を赦すためであったと信じるものは、一切罪を犯さなくなるのだというならば、誰が胸を張って、私はクリスチャンと言えるのでしょうか。だとすれば、罪に対して死ぬということは、どういうことなのか。パウロは、そのことを、バプテスマつまり洗礼と言うことを通して、教えていると考えられます。

それは、パウロが「わたしたちは、なんと言おうか、恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、その中に生きておられるだろうか。」と言った後に、こう言っていることからも明らかです。「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、私たちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた、新しいいのちに生きるためである。」パプテスマというのは、主イエス・キリスト様が定められた教会の礼典の一つです。バプテスマは、全身を水につける全浸礼と頭に水を浸す滴礼という二つの方法がありますが、その意味するところは、どちらも同じで、両者の間に違いはありません。

そしてその意味するところは、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を赦すためであったと信じるもの、すなわちイエス・キリスト様と繋がったものは、イエス・キリスト様と共に死に、イエス・キリスト様と共に新しい命に生きると言うのです。バプテスマの方法における全浸礼は、それこそ全身を水の中に一度どっぷりと付けます。そもそもバプテスマという言葉の語源となるギリシャ語のバプティゾーと言う言葉は、浸すと言う意味ですから、全身を水の中に沈めるのです。そのように、私たちの体が水に沈みますと、私たちの体は水と一つのなります。そのように、私たちがイエス・キリストにあずかるバプテスマを受けるとき、私たちはイエス・キリストにしっかりと結びあわされるのだということ現しています。ですから、バプテスマにおいて、水の中に体をどっぷりと浸すことで、私たちはイエス・キリスト様が十字架で死なれたその死に自分も結びつけられ、それゆえに死んだことを現し、そこから起きあがることによって、イエス・キリスト様が死から良いが得られたその新しい命へ結びつけられたことを示すのです。

つまり、イエス・キリストにあずかるバプテスマは、罪と死の原則に支配されていた私たちの生き方が、イエス・キリストにある新しい命にある生き方に結びあわされるということを意味しているのです。このイエス・キリストにある新しい命にある生き方に結びあわされるということを、パウロは、神に対して生きることだと言います。神に対して生きると言うことは、神を意識し、神のことを思う生き方です。そして、神を意識、神のことを思いながら生きていくならば、私たちは「私たちが罪を犯し、その罪が赦されることで、私たちは神様の愛の大きさと、恵みの深さを現すことが出来るのだから。神様の恵みの大きさ現すために、私たちは積極的に罪を犯そう。」などとは言えなくなります。なぜなら、神は、罪を嫌い憎まれる方であり、憐れみと恵みに満ちた愛なる神だからです。

私が、愛媛県の土居町という田舎町の教会で牧会しておりましたときに、大西ハルエというおばあちゃんがおられました。このおばあちゃんは私に、教会学校の復帰したいと申し出られたのですが、その時には、もう90歳になっておられたと記憶しています。もちろん、私はその申し出をお受けして教会学校の教師になって頂きました。内の子供たちを含めて、7-8名の教会学校です。その生徒の前で、最初にこのおばあちゃんが話をなされた話は、こんな話でした。ある時、お父さんが、小さな子供を連れて畑に出かけました。そのお父さんは、畑の脇に来ると、子供に向って、「お前はここで待っていて、誰かが来たら知らせるんだよ」といって、畑に入っていきました。このお父さんは、スイカ泥棒をしようとしていたのです。畑に入ったお父さんは、おいしそうなスイカを見つけました。そこでそのスイカを取ろうとすると、道ばたに待たせていた子供が、「お父さん、見てるよ、見てるよ」とそう言うのです。お父さんは、誰かがやってきたと思い、あわてて畑を飛び出しました。けれども、回りを見渡しても、自分の子供しか居ません。そこで、お父さんは「嘘を言っちゃいかん。嘘つきは泥棒の始まりだ」とそういって、また畑に入っていきました。

そして、先ほどのスイカを取ろうと手を伸ばすと、また子供が「見ている。見ている」とそう叫ぶのです。お父さんは、その声をきいて、再び畑を飛び出しました。けれども、やっぱり誰もいません。そこで、「お前また嘘を言って、嘘をついちゃ行けないよ。って教えたじゃないか」と、そう子供を叱りました。すると、その子供は「嘘じゃないよ。神様が見ている。」とそういって天を指さすのです。その言葉を聞いたお父さんは、「そうだな、神様が見ているのに、悪いことは出来ないな」とそう言って、子供と一緒に何も取らずに帰ったのです。この様に話すおばあちゃんの話は、私の心の中にしみ入るように入ってきました。そして、本当にそうだよなと、心から思わせられたのです。神を意識し、神のことを思って生きているならば、罪など犯せようはずなどないのです。

私は、今1冊の本を読んでいます。その本は「神は悪の問題にどう答えるか」という本なのですが、内容は、神は、「なぜ悪がこの世に存在することをお許しになるのか」という、いわゆる神義論と言われる内容を取り扱った本です。私は、この本を読みながら、人がもし神を意識し、神を思いながら生きていたならば、この世に悪などは存在しないだろう。私たちが神を意識せず。神を思わないでいるとき、つまりは、私たちの世界や、私たちの人生から、神を閉め出してしまうところに悪が存在するのではないだろうかと、そんな思いになってきました。そして、その確信は深まっていくばかりなのです。そして、もし私たちが、神を意識し、神を思うことなく生きていくならば、私たちの人生の歩みには、様々な悪や悪意、罪や醜い思いに支配されてしまうようなものになってしまうのではないかと、そう思うのです。

では、逆に私たちが、神を意識し、神を思いながら生きていくならば、どんなことが起こってくるのか。私の頭の中には、様々な人の姿がよぎっていきます。それは、マザー・テレサであったり、第2次世界大戦直後の韓国で、多くの孤児の母となり育てた田内千鶴子であったと様々です。けれども、それらの人に共通することは、イエス・キリスト様ならこうするだろうと思われることを、実践して生きた人たちであり、その実践した結果は、愛と慈しみに満ちた生き方だということです。決して戦争や憎しみを生み出す者ではありません。これらの人は、「人間の残酷さと醜さを知り、その根源にある人間の罪深さを知っていました。そして、その自分も罪深い人間の一人であることを自覚し、自分の罪深さをも知っていました。知った上で、その罪深い自分の罪赦すために、十字架の上で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった、子なる神イエス・キリスト様の愛を感じ取っていたのです。また、その愛するひとり子を死なせるためにこの世に送られた父なる神の愛を知っていたのです。

だからこそ、様々な憎しみや争いといったものを生み出す人間の欲に駆られた自己中心的な罪に目を向けることを止めて、父なる神と、子なる神の示された愛に目を向け、私たちをイエス・キリストの生き方に導く聖霊なる神の声に耳を傾けて生きたのです。そういった意味では、罪に対して死ぬということは、私たちの自己中心的な欲が生み出す、私たちの衝動に死ぬといっても良いだろうと思います。そして、そのような生き方から、神様を意識し、神のことを思いながら生きる生き方に移されることだと良いだろうと思うのです。なぜなら、イエス・キリストのバプテスマにあずかると言うことは、そのような生き方をなさったイエス・キリスト様と結び会わされ一つとなると言うことでもあるからです。もちろん、私たちの内に巣くう罪は、そう簡単に片づくものではありません。自己中心的な欲とはいっても、それは自分自身の心だからです。自分自身の心は、まさに自分自身でもあるのです。ですから、自分の力で、簡単にどうこうなるものではありません。

けれども、だからこそ、私たちは、明確な意志を持って決断する必要があるのです。それは「私は、イエス・キリスト様に繋がる者となる。」という決断です。この様な、意志の決断をもって、私たちがイエス・キリスト様に繋がるときに、私たちは、自己中心的な欲をもつ自分自身の罪に対して死に、イエス・キリスト様にあって神に生きる者と変えられていきます。たとえ、それが急激な変化ではないとしても、必ずだんだんと変えられていきます。なぜなら死んだものは、もはや生きることが出来ないからです。そして、神を信じ、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じる信仰が、このような明確な意志の決断に基づく生き方の変化をうみだすものだからこそ、バプテスマもまた、自分の意志の決断によってなされるものなのです。愛する兄弟姉妹のみなさん。私たちは、このイエス・キリスト様に結びつけられたものです。またこのイエス・キリスト様に結びつくようにと召された一人一人なのです。そして、そのことを深く心に刻み込んでおかなければなりません。

教会が、単に言葉としてそれを伝えるだけでなく、バプテスマという礼典を通して、それを伝えるのは、私たちがそのことを心に刻んで決して忘れないためです。バプテスマという経験は言葉とは違い、決して忘れられない出来事です。一時的に忘れることはあったとしても、それは、経験として自分に身に起こった出来事であり、それゆえに決して消え去ることのないものです。それは、私たちがイエス・キリストに繋がる者となったことの紛れもない証なのです。そして、その証は、私たちを神を意識し、神を思う生き方に導くのです。そのことを覚え、私たちも神を意識し、神を思う生き方に生きる者でありたいとそう願います。

お祈りしましょう。