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羊飼い 『義の奴隷』
ローマ人への手紙 6章12−23節
2004/9/5 説教者 濱和弘
賛美  2、139、376

さて、先々週の礼拝において、私たちはローマ人への手紙6章1節から14節までを通して、イエス・キリスト様にあずかるバプテスマ、つまりは洗礼と言うことについて学びました。そこにおいて学んだことは、洗礼とは、イエス・キリスト様と私たちが一つに結びあわされることであるということでした。このイエス・キリスト様と私たちが結びあわされることを、イエス・キリスト様との合一と言うことが出来ますが、この合一は、イエス・キリスト様の死と私たちが合一し、またイエス・キリスト様の復活と合一すると言うことであります。 つまり、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を赦すためであったと信じる者は、イエス・キリスト様と共に十字架の上で罪に対して死に、かつ、イエス・キリスト様と共によみがえり、神の対して生きる者となったのです。

洗礼という礼典は、神と人との前にそのことを明らかにし、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を赦すためであったと信じる者を教会に迎え入れるためのものであると言っても良いだろうと思います。そして、それは、教会を通して神と人との前に公にされるものですから、「この人が、神によって罪が赦され、キリストの体なる教会に繋がるものとなった」と言うこと示す、言葉によらない行為を持って示される神の言葉であり、約束であり、宣言です。神によって罪が赦されること、それは何も洗礼という礼典を受けなくても成り立つものです。というのも、罪の赦しは、一人一人が、自分は罪人であることを認め、聖書に示されている神、すなわち父なる神、子なる神、聖霊なる神からなる三位一体なる神を信じ、その子なる神イエス・キリスト様が私の罪を赦すために十字架の上で死んでくださったと言うことを信じるならば、その人は罪ゆるされ救われるからです。

そのように、人は信仰によって救われ神の子とされるのですが、それはあくまでも個人の信仰であり、言うならば、一人一人の心の中に起こった主観的な霊的出来事(spritual fact)です。実存的な事実と言ってもいいかもしれません。その一人一人の心の中に起こった信仰の出来事を、客観的な歴史に刻まれて出来事として、神と人の前に公にするのが洗礼という礼典なのです。いうなれば、主観的霊的な出来事(spritual fact)を客観的な歴史的な出来事(historical fact)ものが洗礼の働きであると言えます。本来、信仰とはその人の心の中の問題です。心の中で神を信じ、イエス・キリスト様を信じていれば、それだけで人は救われ神の子とされるのです。けれども、キリスト教の信仰は、本来心の中の問題である信仰を、心の中に留めておくことは出来ないのです。と申しますのも、私たち心の中にある信仰によって、私たちがイエス・キリスト様と結びあわされますと、その信仰の出来事が、私の生き方に決定的な影響を及ぼしてくるからです。

つまり、私たちが、イエス・キリスト様と結び会わされ、一つとされたと言うことは、単なる宗教的な思弁や神学的思索といったことでありません。この地上での具体的生き方の中に反映されてくるものなのです。だからこそ、神は教会を通して、自分が罪人であることを認め、聖書に示されている神を信じ、その子なる神イエス・キリスト様が私の罪を赦すために十字架の上で死んでくださったと言うことを信じる信仰を、単に個人的な信仰にとどまらせるではなく、歴史に横たわる教会に繋がる歴史的存在として公に示し、明らかにしていくのです。そして、私たちクリスチャンも、またそのクリスチャンが集う群れである教会も、具体的な歴史の中で、クリスチャンとして、また教会として生きて生きいくのです。信仰は、ただ自分一人の心の中の問題だけではなく、具体的生き方、たとえば家庭の在り方、家族との関わり合い方の中に反映されていかなければなりません。そして、それは社会倫理と言ったところにまで及んでいくべきものなのです。

ですから、キリスト教の信仰とは、単に心の中の問題だけでなく、また魂の救いといった内面的なものだけではない、具体的な生活や人間関係の中での、実体をもったものなのだといえます。そして、このように、キリスト教の信仰において、心の中の信仰が、単に心の中にとどまらないで、具体的な生き方に反映されてくるものだからこそ、パウロは「あなたがたの死ぬべきからだを、罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、またあなたがたの肢体を、不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ死人の中から生かされたものとして、自分自身を神にささげるがよい。」とそう言うのです。このパウロの言葉は、自分自身を神にささげることを示唆しています。自分自身を神にささげると言っても、それは何も自分自身を何か「いけにえ」のように神にささげると言うことではありません。むしろ、それは神に献身すると言う言葉に置き換えた方がよいのかも知れません。

私たち福音主義の教会では、「献身」と言いますと、牧師になることを指す場合が多いようですが、「献身」ということは、なにも牧師になることだけを意味していません。むしろ、神の言葉を聞き、神の言葉に聴きに従いながら生きる生き方が「献身」だといえます。そのような、神の言葉を聞き、神の言葉に聴きに従いながら生きる『献身者』の生き方をするように、パウロはそう勧めるのです。この、神の言葉を聞き、神の言葉に聴きに従いながら生きる『献身者』の生き方を、パウロは義の奴隷として生きることだと、そう言っています。「義の奴隷」という言い方は新改訳聖書や新共同訳聖書の言い回しで、口語訳聖書では「義の僕」ですが、いずれにしても、神を私たちの主人としている人のことです。奴隷という表現は、いささか「どきつい感じ」がしますし、歴史の中で奴隷というものがどのようなものであったかを考えると、あまり使いたくないような表現ではあります。しかし、奴隷という存在を考えますときに、奴隷は確かに、主人の言うことを聴き、そのことばに従いながら、」主人に仕える者達です

そういった意味では、確かに、神の言葉に耳を傾けて聴き、その言葉に聴き従いながら生きていく者達に対して、パウロが「神の奴隷」というような表現を用いたのもわからなくはありません。しかも、その「神の奴隷」は「義の奴隷」と言うことも出来るのです。つまり「神の奴隷」は「義の奴隷」であり、「義の奴隷」はまた「神の奴隷」なのです。なぜなら、神が私たちに求めておられることは神の前に正しいこと、すなわち義を行うことだからです。もっとも、パウロが、「神の言葉を聞き、神の言葉に聴きに従いながら生きる『献身者』の生き方をする者たち」を「神の奴隷」あるいは「義の奴隷」と呼ぶときに、私たちがイメージする奴隷と、大きく違う点があります。私たちがイメージする奴隷は、主人の命ずることに抗うことは出来ません。奴隷であるがゆえに否応なしにでも従わざる得ません。私たちがイメージする奴隷は、全く自由を奪われてただ従うしか出来ないものなのです。しかし、「神の奴隷」あるいは「義の奴隷」と呼ばれる者たちは、自分自身の意志から神の言葉に耳を傾け、神の言葉に聴き従うことができるのです。

だからこそ、パウロは「またあなたがたの肢体を、不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ死人の中から生かされたものとして、自分自身を神にささげるがよい。」とそう勧めるのです。パウロがそのように言うのは、パウロの言葉を借りて言うなれば、私たちがイエス・キリスト様と結びあわされることによって、罪から解放されたからです。罪から解放されると言うことは、自由になると言うことです。それまでは、罪に支配され、罪の奴隷になっていたのだけれども、今は、その罪から解放され自由が与えられている、自由が与えられているからこそ、その自由を用いて、あなたがたはあなたの意志で、神に献身し、神の言葉に耳を傾け、神の言葉に聴き従いながら生きていく生き方が出来るものとなったとそういうのです。しかし、私たちが罪の奴隷であったとそう言われても、何だかピンと来ないような感じがしないわけでもありません。というのも、私たちは日本という国にうまれ、法の下に自由が保証され、今までも自分で考え、自分で自分の行動を選び取ってきたからです。

いえ、むしろ日本の国は、罪と思われる行為を禁じ、その行為に反しない限りにおいて、自由を保障している。そういった意味では、私たちは、罪の奴隷ではなく、ずっと自由であったと言っても良いようにさえ思うのです。だとすると、パウロのいう私たちは罪の奴隷であると言うことは、どういうことなのでしょうか?実は、私たちが罪の奴隷であるかい否かということは、キリスト教の歴史、とくに教理史と呼ばれる歴史の中では、繰り返し繰り返し論じられてきたことです。例えば、宗教改革をおこなったルターは、奴隷意志論という文書をあらわし、当時のキリスト教ヒューマニストのエラスムスと言われる人と論争を繰り広げています。また、古くはアウグスチヌスという人が「人間は罪を犯さざる得ない悲惨な状況にある」として、人間は罪の奴隷になっていると主張しています。もちろん、先に述べましたように、私たちは、良心の働きによって悪いことを思いとどまることも出来ますし、法律によって規制し、その法律を遵守する誠実さも持ち合わせている人が多くいいます。そういった、実際的な側面を見るならば、私たちは全ての者が。自由を全く失っているとは言えないのではないかとそう思う人がいても、決しておかしいことではないのです。

けれども、それでも聖書は、イエス・キリスト様と結びあわされなければ、人は罪に支配され、罪の奴隷となっているというのです。というのも、聖書の言う罪というのは、私たちの自己中心的な心に根ざしているからです。むしろ、この自己中心的な心そのものこそが、聖書で言うところの罪の源なのです。そして、様々な具体的な犯罪といった法律上の罪の行為や道徳的な罪の行為は、この私たちの心の中にある自己中心的なものからが起こってくるものなのです。ですから、どんなに、良心の働きによって悪いことを思いとどまろうと、法律によって規制し、その法律を遵守する誠実さを発揮したとしても、私たちの内に自己中心的な心があるかぎり、そこには私たちの罪が潜んでいると言うことが出来ます。そもそも正しいことをするには、理由などいりません。まさにそれ良いことだからするのです。それ以外に何の理由もありません。けれども。良心が痛むからとか、法の規制があるからという理由から、罪の行動を自制すると言うこと現実があること自体、私たちが罪とその罪に対して下される罰の原則に支配されていることを証しているのです。

ですから、結局のところ、パウロのいう罪の支配から解放され、義の奴隷として生きると言うことはこのような自分を中心にして物事を考え、自分のために生きる生き方から解き放されて、神のために生きる生き方へ変えられることだということが出来ます。17節、18節には「しかし、神に感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教えの基準に心から服従して、罪から解放されて、義の僕となった」とあります。ここには「伝えられた教えの基準に心から服従して」と書かれています。「心から」という以上。そこには服従する人の意志があります。それは伝えられた教えの基準が良いものだからです。伝えられた教えの基準が良いものだからこそ、それに従うには何の理由もいりません。心から従えるのです。では、この伝えられた教えの基準とはいったい何なのか。初代の教会は、まだ今日私たちが新約聖書を、信仰の基準、教えの基準としているような形で、新約聖書といったものを持っていませんでした。

しかし、当時の教会は、ケーリュグマといわれる、キリスト教の教え、つまりイエス・キリスト様が私たちの罪のために十字架について死んでくださり、それによって私たちの罪が赦されたという福音を人々に伝えるために、一定の型をもった言葉を持っていたようです。また、同時にディダケーと呼ばれる、クリスチャンは如何に生きるべきであるかということを教えた、いわゆる倫理的な教えもまた、一定の型を持った言葉で伝えられていたようです。おそらくは、パウロはこういったものをまとめて、伝えられた教えの基準と言っていたのではないかと思われます。というのも、この「伝えられた教えの基準」と言う言葉は、原文のギリシャ語では「伝えられた教えの型」とも訳されるからです。つまり、あう一定の型をもとに伝えられた教えがあったと言うわけです。そして、実際に、確かなこととして、あの初代教会が一定の型をもって伝えた福音、それは、私たちはイエス・キリスト様が私たちの罪のために十字架について死んでくださり、それによって私たちの罪が赦されたということですが、その福音を、私たちは心で信じて罪から解放されるのです。

また、クリスチャンは如何に生きるべきかという倫理的な教えが、それがよいものであるからこそ、心からそれに従っていきようとするのです。もちろん、その倫理的な教えがよいものであるのは、それが神の言葉から発しているからです。そのように、私たちクリスチャンという存在は、心で、イエス・キリスト様のもたらした罪の赦しの福音を信じて、罪が赦され、罪から救われ、この世にあって、神に従い、神の前に正しい倫理的な生き方を心から願い、生きることによって全うされるのです。それにしても、神に従い、神の前に正しい倫理的な生き方というものは、時代時代によって具体的内容が違ってきます。というのも、倫理的な内容は人と人との関わり合いの中で起こるからです。そして人と人の関わり合いは、社会を生み出し、その社会の状況は、時代を反映して行きいます。私たちは、そのような歴史的状況の中で生きているからこそ、具体的な倫理的な教へというものは、時代時代の状況の中で、文化的状況の中で適用させていかなければなりません。

例えば、12使徒の遺訓と呼ばれる古い文書があります。どのくらい古いかというと、学者によっては紀元50年から90年頃に書かれたという人もいますし、いやいやもっと後期の紀元150年ぐらいではないかと言う人もますが、いずれにしても、まさに12使徒たちが生きた時代とそう違いのない古い時代のものです。そこには、クリスチャンはどうあるべきかというおしえがかかれているのでありまして、それゆえに、この12使徒の遺訓は、まさに12使徒のディダケーと呼ばれるのです。この12使徒の遺訓には、様々なことが書いてありますが、しかしその文書は、その時代背景と、それを読む読者が背負っている文化を背負っています。ですから、それを、その字句通りに現代の日本のクリスチャンに守れと言っても、そこには無理があります。けれども、この12使徒の遺訓をよんでまいりますと、そこに書かれている内容は、ことごとくイエス・キリスト様が語られ得た言葉に頼り掛かっているのです。ですから、クリスチャンが如何に生きるべきかと言うことは、とどのつまりはイエス・キリスト様の生き方に倣うと言うことです。

そう言った意味では、この「伝えられた教えの基準」「伝えられた教えの型」というのは、「イエス・キリスト様の生き方」と言うことであると言えます。そして、そのイエス・キリスト様の生き方は、病んでいるもの癒し、悲しんでいるもの慰め、罪人の共となられるようないきかたでした。それは、愛と慈しみに満ちた生き方だといっても良いだろうと思います。その愛と慈しみに生きた生き方は、ご自分を十字架に架けて殺そうとしている人たちに対してまで「父よ彼らをおゆるし下さい、彼らは何をしているのかわからないでいるのです」といのるほど、徹底的に人を愛し慈しまれた生き方だったのです。ですから、「伝えられた教えの基準」「伝えられた教えの型」に心から服従し、「神の奴隷」として「義の奴隷」として、神のために生きる生き方はとは、他者を愛する生き方であると言うことが出来ます。神が徹底して私たちを愛してくれたからです。私を愛してくれたように、私の家族を愛してくれ、私の周りにいる人を愛してくれたからです。

いま、あなたの回りにいる、あなたの奥さんを、ご主人を、お子さんを、お友達を、教会の仲間をイエス・キリスト様はあなたを愛し、あなたのために命を投げ出したように愛していられます。そしてイエス・キリスト様が愛したように、あなたも愛するならば、あなたは「義の奴隷」なのです。そして、そのような生き方は、人と人との間の関係に麗しい交わりを生み出します。パウロは、このローマ人への手紙6章23節で「しかし、今や、あなたがたは、罪から解放されて神に仕え、きよきにいたる実を結んでいる。その終局は永遠の命です。」といっていますが、まさにこの他者のことを思い、愛する生き方が清きに至る実を生み出すのです。というのも、その23節に引き続き、24節では「罪の支払う報酬は死です。」とそう言うからです。この「罪の支払う報酬は死です。」と言う言葉の、一義的な意味は、罪が神と私たちの関係を破壊し、滅ぼしてしまうと言うことです。つまり、罪は関係といったものを傷つけ破壊して壊してしまうものだと言うことです。

ですから、私たちが罪の奴隷の中にあるならば、私たちと神との関係が破壊れてしまい、また人と人の関係もまた壊れてしまうのです。それは、今、どんなにうまく行っていると思われる関係であったとしても、それは危うさの中で成り立っている「良い関係」だといえます。というのも、その「良い関係」のなかに、お互いが持っている自己中心的な思いがぶつかり合うならば、その「良い関係」は、意図もたやすく壊れてしまうからです。しかし、私たちが、イエス・キリスト様が私のことを思い、私のために生きたように、私たちの回りにいる一人一人の、その相手のことを思い、相手のために生きたならば、そこにはしっかりと愛で結びあわされた、互いに許し合い愛しあう麗しい関係うみだされます。イエス・キリスト様が与えてくださる永遠の命清きに至る実が結ばれるのです。

そのことを、おもいながら、私たちはイエス・キリスト様の生き方に倣うものでありたいと思います。イエス・キリスト様が私を愛し、あなたを愛し、あなたのために生きてくれたその愛を、心でしっかりと信じ受け止めたいと思います。そして、その同じ愛で、あなたの家族を、奥さんを、ご主人を、子供たちや親を、友人や教会の仲間を、また私たちの回りにいる全ての人を、父なる神は、またイエス・キリスト様および聖霊なる神は愛しておられるのです。今、心の中に思ってください。あなたのすぐ近くにいる人は誰でしょうか。誰の顔が思い浮かんできたでしょうか。三位一体なる神様は、その心に浮かんできた人を愛し、その人のためにも自らを投げ出されたのです。ですから、私たちも、同じように、その人のことを思い、愛そうではありませんか。それが「伝えられた教えの基準」「伝えられた教えの型」に心から服従し、「神の奴隷」として「義の奴隷」として、神のために生きる生き方なのです。

お祈りしましょう。