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羊飼い 『信仰の呪縛』
ローマ人への手紙 7章1−6節
2004/9/12 説教者 濱和弘
賛美  1、36、272

さて、先週の礼拝において、私たちが、聖書に示されている神、すなわち父なる神、子なる神、聖霊なる神からなる三位一体なる神を信じるならば、私たちは罪から救われると同時に、罪の支配され奴隷であった状況から解放されるのだと言うことを学びました。もちろん、この聖書の神を信じるということは、その神のなされた行為、つまりは、子なる神イエス・キリスト様が、私の罪を赦すために、私の罪を身に背負って、十字架の上で死んでくださったと言うことを信じることでもあります。ですから、罪の赦しということと罪からの解放ということは、深く結びついていると言うことができます。まさに罪の赦しがなければ、罪からの解放はあり得ないのです。

というのも、私たちの主イエス・キリスト様による罪の赦しの出来事の前には、私たちの罪の悔い改めと言うことがあるからです。罪の悔い改めとは、私たちが、自分の犯した罪、あるいは自分の内にある罪の性質を深く悔やみ後悔し、神に目を向け、神に罪の赦しを求めることです。自分の罪を深く悔やみ後悔するのですから、そこには、罪を嫌い、罪から離れたいという明確な意志や願いがあります。このような意志や願いがあるからこそ、神は罪からの解放という救いの手を延べることが出来るのです。そうやって、私たちを罪から解放し、「神の奴隷」として「義の奴隷」として、神と人の前に正しく、神と人とに喜ばれる生き方に導かれていくようになります。ところが、実際の信仰生活をみますと、そうことは簡単に運んでは生きません。神を信じ、イエス・キリスト様が自分を罪とその罪の裁きから救ってくださるお方だとしても、簡単に私たちは、神と人の前に正しく、神と人とに喜ばれる生き方に導かれていくかというと、現実はそうではないのです。

以前にもお話ししたことかも知れませんが、私の知り合いに一人の人がいます。もちろん、彼もまたクリスチャンです。それこそ、私よりずっとまじめで、敬虔なクリスチャンだと言ってもいい男です。その人が、あるとき、彼の友人の家をたずねました。彼は、たずねた友人の家で、彼の友達としばらくの間話をしていましたが、やがて友人が、ちょっと席をはずし、部屋には彼がひとり残されたのです。ふと見ると、机の上に女性からの手紙がありました。彼は、ふと、その手紙を見たいという衝動にかられたそうです。もちろん、人の手紙を勝手に読むことは悪いことです。たとえ、親や奥さんであっても、子供や旦那さんに来た手紙を読むことは、良いことではなりません。ましてや友達に来た手紙を黙って読むなんてもってのほかです。当然、彼も、そんなことはわかっていました。だから、そんなことはしてはいけないし絶対にしたくないと思っていたそうです。でも、結局彼は、その手紙を見てしまったと言うのです。そして、その手紙を読んでしまった後、どうしようもないほどの後悔で心が一杯になったそうです。

彼が、どうしようもないほどの後悔で心が一杯になったという気持ちも良くわかります。彼は、信仰にまじめで真摯な男だったからです。そのように信仰に真摯でまじめだったからこそ、彼の心の痛みはより一層深かっただろうと思うのです彼は、自分自身では、人の手紙を勝手に読むといった悪いことは決してしたくないととそう思っていました。でも最後には、その手紙を見たいという誘惑に負けてしまって、自分ではしたくないと思っていたことをしてしまったのです。このような彼の姿は、「なるほど、これが罪の奴隷と言うことなんだなぁ」と思わせるようなものです。それはまさに、私たちは自分で自分をコントロールできない不自由な存在であることを表わしたようなものだと言えます。けれども、私たちはそれが他人事だとして、見てはいられません。同じようなことは私たちも、色々な場面で経験することであり、経験して来たことだからです。クリスチャンとなり、罪の奴隷から解放されたはずなのに、以前、罪の奴隷とも言える状況の中に、私たちは留まっているとしか言えない現実がそこにあるのです。

本来、罪の奴隷であったところから解放され、義の奴隷とされたはずなのに、一体どうしてこの様なことになったってしまったのか?そのことの鍵が、今日のテクストの箇所であるローマ人への手紙7章1節からにあるよう思われます。この7章の1節には、「私は律法を知っている人々に語るのであるが」と書かれていますから、2節以降に書かれている内容は、主にユダヤ人クリスチャンを念頭に置いて書かれているようにも見えます。それは、私たちの罪が赦され、罪の奴隷から解放されたと言うことは、律法を行なうことによってではなく、神を信じ、キリストの十字架の救いを信じる信仰による恵みによってだからです。そのことは、それまで、律法を行なうことが信仰の主たる内容であったユダヤ人たちにとっては、全く逆の生き方だと言えます。

もちろん、律法を守り行なうということが、神の前に悪いことだというのではありません。律法それ自体は、神から与えられたものであり良いものです。しかし、律法に繋がり、律法の下にある限り私たちは、決して罪の奴隷からは解放されないとパウロは言うのです。律法に繋がり、律法の下のあるということは、平たく言うならば、神を信じる信仰とは、律法を守ることだと考え、ひたすら律法を守るように努力し頑張ることです。それは自分の頑張りや努力が強調される生き方です。けれども、私たち人間の努力や頑張りによって成り立っている信仰には限界があるのです。先ほど、お話しした私の知り合いは、自分の努力や頑張りだけでは、友達に来た手紙を読みたいという、彼の衝動や欲求は退けられませんでした。私たちの努力や頑張りでは、神に喜ばれる生き方を全うすることは出来ないのです。だからこそ、そういった努力や頑張りだけで、神の前に正しく生きようとしてはだめだとパウロは言うのです。そこには、そのような生き方をしている限り、私たちはいつも失敗を繰り返すだけだというパウロの主張があり、聖書の主張があります。

ですから、パウロは、このローマ人への手紙の7章1節から6節までで、そのような自分の力で頑張ろうとする生き方を止めなさいと言っているのです。そのことを、夫婦が死に別れることにたとえながら、勧めているのです。夫婦が死に別れるという譬えは、あまり好ましい譬えには思えませんが、しかし、ともかく、パウロは、何か自分自身の努力や頑張りで信仰生活を送っていこうとする生き方は止めようとそう言うのです。この様に、パウロがローマの教会の人たちに進めの言葉を書き送ったのは、この自分自身の努力や頑張りで信仰生活を送っていこうとする生き方が、当たり前のようにして、私たちを取り巻いているからです。特にユダヤ教おいては、律法を守ることが信仰の中心的内容でしたから、パウロは「私は律法を知っている人々に語るのであるが」といってユダヤ人クリスチャン喚起を促しているといえます。

しかし、ユダヤ教に限らずおおよそほとんどの宗教というものは、私たち人間の修練や修行と言った行いに関わることやあるいは宗教行事を守るが、その信仰生活の中心となってきます。たとえば、日本の仏教のように、法事をしっかりと守るとかお祭りをおこなうと言ったように、しっかりと宗教行事を守り行なうこととか、あるいは、いろいろある宗教的タブーをおかさないとかいったことを守り行なうことで、宗教的な正しさを全うしようとします。そういった意味では、ほとんどの宗教、信仰といったものは、私たちが何をし、何を行なうかに掛かっていると言っても良いのではないのでしょうか?そしてそれは、結局のところ、宗教の主体は私たち自身にあると言うことであり、私たちの努力や頑張りに掛かっているという、いわゆる人間本意の宗教である言えます。この、私たちの努力や頑張りに私たちの生き方や人生が掛かっているという人間本意な生き方は、宗教だけではありません。教育やスポーツ、仕事といった私たちの生活を取り巻く全てに置いてみられるものです。

だからこそ、本来は神を中心に生きる信仰の世界にも、人間本意な生き方が容易に入り込んでくるのです。これは、極めて自然なことです。そして、それは、キリスト教と言えども同じなのです。むしろ、信仰に真摯に取り組むものほど、神の前に正しく、誠実に一生懸命生きようとして、努力や頑張りといったものを信仰生活の持ち込んでしまう傾向が強くあると言っても良いのかも知れません。今日、私はこの礼拝説教のタイトルを「信仰の呪縛」とつけましたが、この信仰の呪縛とは、私たちクリスチャンが、神の前に正しく、誠実に一生懸命生きようとして、努力や頑張りといったものを信仰生活の持ち込んでしまう傾向が強くあることを指しています。クリスチャンが、この様な傾向を示すのは、神が聖なるお方であり、義なる正しいお方であるということを知っているからです。しかし、その神の正しさを知っている頭と、自分の心の中が必ずしも一致していないことも少なくありません。

先ほどの、私の知り合いも、頭では「人の手紙を勝手に読むことは悪いことだ」ということは知っていました。そしてそれが、神の喜ばれないことであると言うことにも気がついているのです。けれども彼の心のは、頭とは別です。頭では、それが神の喜ばれことではないことを知っていながらも、心はそれを読みたいと欲しているのです。こうして、彼の中で頭と心が決して一つにならないでバラバラになってしまっている。みなさんも、こういう状況についてはよく理解できるのではないかと思うのですが、どうでしょうか?それは、私たちの中でよく起こる状況だからです。たとえば、神というお方から離れて、法律や規則と言うことを考えてみても、それはよく理解できます。自分がどんなにしたいことがあっても、それが法律に反していることや、非道徳的なことであるならば、私たちは、頭の中で知り、理解している事と心とが、背反して葛藤を感じる事ことがあるとおもうのですがどうでしょうか。

そのようなときに、自分の心を自分の頭に従わせることで、私たちは、自分の正しさを守ります。そして、自分の心を自分の頭に従わせるためには、それなりの意志の努力と頑張りが必要なのです。同じように、私たちが神の正しさを知り、神と人の前に何が正しいかを理解し、知るようになると、しばしば、私たちは、私たちの頭と心が相反して、葛藤を感じはじめます。そして、努力し頑張って、私たちは、私たちの頭が良しと承認することをしようとしますし、またするのです。それは、私たちが、理性的な存在として神様がお造りになったからです。けれども、その頭で良しとするところの、自分の心を従わせていこうとするときに、そこには自分が自分に無理をさせていることになります。こうして、私たちは信仰生活に疲れていったり、信仰そのものが辛いものになって行ってしまったりしてしまうのです。本来は、私たちの心を慰め、癒し、喜びを与える信仰が、また喜びにあふれた信仰生活が辛いものになっていってしまうことがある。

そうやって、教会から離れ、信仰から離れていってしまうことがあるのです。そうした現実があるからこそ、私は、何とか頑張って心を頭に従わせようとする生き方を「信仰の呪縛」というタイトルで表らわしました。一生懸命信仰に生きようとすればするほど、私たちが、信仰に疲れ、信仰が私たちを苦しめてしまうからです。それでは、私たちは、どんなに頭で、神の前に何が正しいことで、神と人の前にどうするべきかを知っていたとしても、心がそれと違うことを望むならば、心のままに生きればいいかというと、そう言うわけではないことは、明らかです。それこそ、パウロが、このローマ人への手紙の中で強く否定しているアンチノミニズム、無律法主義、あるいは無道徳主義の在り方だからです。だとすれば、私たちはそうすればいいのでしょうか。パウロは、7章の4節でこう言っています。「私の兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に死んだのである。それは、あなたがたが、他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。」

イエス・キリスト様が十字架について死なれたのは、頑張って律法を守り、自分の正しさを全うしようとする生き方に対する死でもありました。イエス・キリスト様がそのような生き方に対する終焉を告げられたのです。そして、自分の正しさを全うできない者が、自分の罪を自分で何とか償うのではなく、イエス・キリスト様の贖いと言う恵みによって、行いではなく、信仰によって救われる道を示されたのです。それは、頑張って生きる信仰の終わりを意味しています。私たちは、その原点に返る必要があります。そしてそれは、私たちもまた、イエス・キリスト様と共に、そのような生き方に対して死んだのです。イエス・キリスト様と共に死んだからこそ、イエス・キリスト様の死にあずかるバプテスマを受けるのです。自分の力で頑張り、自分の努力で頭で理解した正しさに心を従わせようとするとするのは、私たちの自律した精神です。しかし、その自律した精神は、同時に自分の力で出来る、自分の頑張りで何とかなるという、私たちの自我性でもあります。ですから、イエス・キリスト様の死にあずかるバプテスマを受け、イエス・キリスト様と共に死ぬと言うことは、この自我性に死ぬと言うことでもあるのです。

同時に、イエス・キリスト様の死にあずかるバプテスマは、イエス・キリスト様の復活の命にあずかるバプテスマでもあります。そして、イエス・キリスト様の復活の命にあずかる以上、私たちの内には、イエス・キリスト様による新しい命が生まれ、息づいているのです。私たちは、このことをが、自分の中に起こっているということを認めることから始めていきましょう。イエス・キリスト様の十字架によって自分の罪が赦されたと信じる者は、もはや自分自身の自我に死んでいるのです。ですから、もはや古い自分自身の自我にすがりついて生きていくようなことは止めればよいのです。頑張れないところを頑張る必要はありまえん。もちろん、罪を良くないことだと知り、それを行なわないように思う気持ちは大切で尊いものです。ですから、離れられる罪は離れることが大切ですし、あえて罪を犯す必要もありません。また、できることはしていかなければなりません。

けれども、どうしても頑張れないときに、無理して頑張る必要はないのです。そんなときには、むしろ、頑張れない自分を神様の前に素直にさらけ出すことが大切なのです。そして、頑張れなくても、また何も出来なくても、自分は神の愛、イエス・キリスト様の愛の愛で愛されているということを心にしっかりと留めいかなければなりません。聖なる神・義なる神は、私たちを愛して止まない、愛なる神だからです。私たちが、現実に今頭と心が一致しなくても、私たちがこのキリストの愛、神の愛によって、私たちの内にキリストにある新しい命が生まれ息づいているならば、私たちの頭が理解し、知っている神の正しさや神の御旨と、私たちの心が一つになっていきます。それは、私たちの内に生まれ宿るキリストの復活の命がなせる業です。命は、生まれるとだんだんと成長する者です。そして、命の成長と共に出来ることもだんだんと増えていきます。3歳の子供に、方程式は解けませんが、だんだんと成長するにともなって、それも出来るようになってきます。

同じように、キリストにある復活の命も、それは命ですから、頭と心が一致して行くにも成長の段階を踏みながら成長していくのです。つまり、信仰は成長していくものでもあるのです。そして、命の成長は、一人一人成長の仕方も違います。ですから、当然、信仰をもって何年だからこれが出来る、あれが出来ると言うことではありません。出来る人もあれば、出来ない人もあるのです。頑張れる人もいれば頑張れない人だっているのです。それは、ひとりひとりが、イエス・キリスト様によって与えられた信仰の命の成長過程になる、それぞれの一断面なのです。そのような中で、大切なことは、一人一人がイエス・キリスト様の十字架により、かつての自分の自我性に死に、新しいイエス・キリストにある命に生きていると言うことを、自分自身も教会も認め見守っていくことです。それは、その人が何をし、何が出来ないか、何をしないかと言うことで評価し批判するのではありません。むしろ、その人がイエス・キリスト様にある新しい命に生まれているかかどうかということを見据えながら、その人のうちにある命の成長を見守ることです。

私たちは、イエス・キリスト様の十字架による罪の赦し、罪の裁きからの救いを信じクリスチャンとなったその時から、クリスチャンとしての成熟に目指して、暫時成長しているのです。その暫時的な成長過程における一断面である、その時々の今と言う「時」において、私たちひとりひとりは、クリスチャンとして完全な存在なのです。それが、成熟し完成したクリスチャンの理想像に対し、いかに未熟で至らないものであったとしてもです。自分自身が自分自身を、また教会が一人一人を、そのように見守っていくならば、私たちは、決して信仰の呪縛に陥ることはないだろうと思います。そして、信仰は、また信仰生活は、私たちに、罪ゆるされ、罪から解放されて、神の民として成長していく喜びを与えてくれるものではあっても、決して辛いものにはならないのです。

お祈りしましょう。