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羊飼い 『罪と誘惑』
ローマ人への手紙 7章7−13節
2004/9/19 説教者 濱和弘
賛美  20、215、376

先日、ニュースで、大阪の池田小学校に刃物をもって乱入し、8人の子供を殺害し、15人の子供に怪我を負わせた被告の死刑が執行されたことを知りました。私は、子供を持つ親としてこの事件には、深い痛みを感じていましたが、今回の死刑執行の報道には、他ならぬ思いを持って聞いりました。というのも、数年前に、私は、私たちの教会が所属する日本ホーリネス教団の青年キャンプに、講師として招かれたときに、死刑の賛否に関して、青年たちとディベートという討論のときを持ったことがあるからです。このディベートでは、個人が死刑に賛成するか反対するかと言うことは別にして、グループを機械的に「死刑賛成グループ」と「死刑賛成グループ」の二つに分けて、互いに意見を戦わせました。

このとき私は、死刑賛成のグループに入れられました。そして、「死刑反対グループ」に入れられた人たちと討論したのです。そのとき、「死刑反対グループ」の人たちが主張した議論の中心は、罪を犯した人が罪から更正する機会を奪う死刑には反対であるという面から議論を組み立てていました。そのとき、私は、ちょっと考えさせられたのです。もともと、私は、死刑に対して、明確で強い反対というわけではないのですが、どちらかというと死刑には否定的な見方をしていました。たまたまその時は、「死刑に賛成する立場のグループ」に入れられましたので、「死刑」を擁護する立場で、死刑の正当性を考えなければなりませんでした。そのような中で、罪を犯した人が罪から更正する機会を奪う死刑には反対であるという主張の前に立ったときに、ふと、この「罪から更正する」という言葉に引っかかったのです。

罪から更正するということは、自分の犯した罪の大きさを知り、その罪を反省し、生き方を変えると言うことです。そういった意味では、私たち教会が言う「罪の悔い改め」に似ていると言えます。悔い改めというのは、何よりもます自分が罪人であると言うことを認めること、これを神学的用語で言うならば認罪といいますが、この認罪から始まります。そして、その私たちの罪は、私たちの自己中心的な欲望という罪の源、つまりは原罪に端を発しているものですから、そのような自分自身を見つめ自分自身の欲求を追求する自己中心的な生き方から、神を見つめる生き方に方向転換することが、悔い改めと言うことです。このように、「罪からの更正」も「悔い改め」も、いずれも自分の罪を自覚し、それを認めるところから始まります。私が、「死刑に反対するグループ」に入れられた人たちが、「罪を犯した人が罪から更正する機会を奪う死刑には反対である」という主張を聞いたときに、心に引っかかったのは、この「自分の罪を自覚し、それを認める」という点だったのです。

言うまでもありませんが、「死刑」という判決は、そう頻繁に出されるものではありません。よほど多くの人の命を奪い、非人道的な殺害の仕方をしたような人に対してのみに出される判決であり、刑罰としては最高の刑罰です。人の命を奪うという罪は非常に思いものだといえます。この非常に重たい罪の、その重さ、重大さを知って、反省することによって初めて本当の意味で、罪から更正することができるはずです。だとすれば、死刑を犯すような犯罪を犯した人は、人の命を奪うと言う罪の、その重さを一体なにによって自覚するのだろうか、私はこの事が疑問となって、私の心に引っかかったのです。人の命は、一度奪われてしまったならば二度と戻っては来ません。命を償うものなどは何もないのです。それほどの罪を犯したと言うことを自覚させ、認めさせる量刑など、「死刑」をのぞいて果たしてあるのだろうか、そんな疑問が心に湧いてきたのです。

そして、ひょっとしたら、「死刑」という量刑があるからこそ、自分の犯した罪の大きさを、重さを知ることが出来るのかも知れない、という思いも心に起こってきたのです。特に、同じような悲しい事件で、長崎で同級生を殺してしまった女の子が、今でも、人の死というものが、単にいなくなることとしてしか、理解されておらず、ことの重大性が認識されていないなどという報道を聞きますと、そんな思いが更に広がっていくような感じさえ致します。もちろん、今でも私は「死刑」という刑罰を強く賛成する立場ではありません。むしろ、否定的、懐疑的な立場であると言えます。けれども、それでもやっぱり、人の罪の重さを自覚させ、認めさせるのは、何なのだろうかと言う疑問は、依然と心に残ったままです。ところが、今日のテキストとなった箇所には、このように書かれています。それはローマ人の手紙7章7節8節の言葉です『それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私の打ちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです』

この、7節8節が言っていることは、律法があったために私たちが罪を犯すようになったということではありません。むしろ律法があるからこそ、私たちの罪、私たちに明らかにされ、私たちが、自分の罪というものを自覚することが出来るようになるのだと言っているのです。律法とは、神から与えられた戒めであり、神の民にとって、神と人の前に如何に生きるべきかということを示す行動基準です。この行動基準を尺度として、それに自分をあて、それから離れている自分の姿をみることによって、自分が正しいところから逸脱していると言うことに気がつくことが出来ます。それによっては、如何に神の前に逸脱した生き方をしているかと言うことを知るのです。逆に言うならば、律法がなければ、私たちは神の前に罪人であると言うことに気がつかないと言うことです。

もちろん、聖書に記された律法とは、もともとはイスラエルの民に与えられたものです。ですから、イスラエル民族以外は律法なしに生きていたと言えます。けれども、パウロはローマ人の手紙2章14節15節でこう言うのです。「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで、律法の命じる行いをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また彼らの思いは互いに責め合ったり、また弁明しあったりしています。」このパウロの言葉は、聖書に書かれた律法がなくても、私たちの心には律法と同じ行いを命じる働きがある。例えば、良心といったものがそのような働きをしているというのです。だからこそ、イスラエルの民であろうとなかろうと、人々は神の律法のもとに生きていると言うことが出来ます。

確かに、私たちの周りを見渡しても、どこの国においても自分たちの社会の中で、人のものを盗むことを赦したり、人を殺すことを赦す法律などありません。もちろん、昔に日本においては、仇討ちということが認められていたことがありますが、それは、最初に自分の身内を理不尽に殺されたという条件の下での報復をゆるしたものです。ですから、やはり、人を殺すことを認めているわけではありません。そういった意味では、聖書の律法を知らなかった人たち、知らない人たちの中にも、神の律法は働いているといえます。それは、私たち人間一人一人が神によって作られたからです。作品には、必ず作者の痕跡が残ります。同じように、神によって作られた私たち人間の中には、どんなに傷つきぼろぼろになっていたとしても、神のかたちが残されています。ですから、そのような私たちが寄り集まって住んでいる社会には、神の律法にならう、行動基準、倫理基準を見出すことが出来るのです。

このようにして、律法を通して、私たちの具体的な罪の行いが明らかにされていき、私たちは自分が罪を犯したと言うことを知ることが出来るのです。ところが、聖書は、このローマ人への手紙7章7節から13節までを通して、自分の犯した具体的な罪の行為を私たちが知り認めると言うことから、更に一歩踏み込んでいきます。律法が私たちの心の内にある罪、あるいは罪の性質と言うことも明らかにするというのです。先ほども引用いたしましたように、パウロは『律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私の打ちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。』とそう言っています。この「むさぼってはならない」と言う言葉のむさぼりとは、実にわかりにくい言葉です。一体むさぼるとは何を持ってむさぼるというのか。

昔、私が学生時代に、食べ放題のお店がありまして、クリスチャンの友人とそこに食べに言ったことがあります。当時は貧しい貧乏学生でしたから、友人と二人でそれこそむさぼり食うように腹一杯に食べたことがあります。そのあと、その友人と二人で、「俺たちは、むさぼってはならない」と言う戒めを犯して罪を犯したことになるのかなと、冗談半分、まじめ半分で話したことがありました。実際、こんな笑い話になるようなくらいに、むさぼると言うことはわかりにくいものです。このローマ人への手紙の7章7節、8節で言う「むさぼり」とは、普通、出エジプト記の20章17節にある10戒の中の戒めの一つと関係づけられて考えられます。そこには、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」と書かれています。つまりこのローマ人へ手紙の7章にある「むさぼり」とは。私たちの心の中にある欲望や願望と深く結びついているのです。

欲望や願望というもの、それ自体は決して悪いこととは限りません。今、私の母は入院していますが、一番の問題は、食事を食べないと言うことです。食欲がなく、出された病院食だけでなく、父が用意した母の好物でさえ食べようとはしません。つまり、食欲という人間の欲求欲望のひとつが、私たちの体を生きた者として支えるのですから、食欲それ自体は悪いものではないと言えます。また、人間は願望を持つからこそ、頑張ることが出来ます。「ああなりたい」「こうしたい」という願望をもつからこそ、人は努力するのです。けれども、先ほどの出エジプト記の20章17節が指摘する「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」ということは、やはり良くない欲望であり、願望であると言えます。ここに挙げられている欲しがるなと言われるものを、実際に手に入れようとし、手に入れるならば、そこには具体的な罪の行為が行なわれるからです。

実際、旧約聖書のサムエル記Uの11章にはイスラエルの民が、最も愛し尊敬するダビデという偉大な王のことが記されています。このダビデ王は、神に対して実に敬虔で忠実な王でした。ある時、このダビデ王が夕暮れ時に王宮の屋上を歩いていると、一人の非常に美しい女性が水浴びをしていました。ダビデは、家来にその女性のことを調べさせると、それは、ウリヤという自分の部下の妻バテシェバであることがわかりました。しかし、ダビデ王は、どうしてもそのバテシェバのことが忘れられず、とうとうバテシェバと深い関係になってしまいます。そしてその結果として、バテシェバはダビデの子を身ごもります。この出来事が発覚することを恐れたダビデ王は、なんとかそのことを隠蔽しようとしますが、うまくいかず、最後は謀略を持って、バテシェバの夫ウリヤを戦争で戦死するように仕向けるのです。そして、その策略通り、ウリヤが戦死すると、バテシェバを自分の妻として正式に迎え入れるのです。

このダビデ王の話など、まさに出エジプト記20章17節でいう悪い欲望に駆られた人間が、その欲望を現実にするために罪を犯して行くと言うことを地でいったような話だと言えます。もちろん、ダビデ王自身、神に忠実で敬虔な王でありましたから、自分がしようとしていることが良くないことだと言うことは十分にわかっていました。わかっているからこそ、その後、ナタンという預言者に、自分の犯した罪を指摘され断罪されたときに、ダビデ王は素直に自分の罪を認め、激しく罪を後悔し、悔い改めたのです。つまり、私たちの罪の行為というのは、まずもって、私たちの心の中に浮かんでくる思いとしてあらわれてくるのです。それは、聖書に記されている律法や、あるいは、私たちの良心という、心の書き記された律法によって、それが悪い欲望だとわかりつつ、ある時は思いとどまり、ある時は悪いことだと思いながらやってしまうのです。

ですから、悪いと思いながらやってしまったことは、悪いと知りながらそれを行なうはっきりとした自分の意志がそこにともないます。こうして、私たちは、私たちの意志と決断によって具体的な罪を犯してしまうのです。ですから、私たちが犯す罪というものは、私たちの心の内側と深く結びついているのです。まさに、私たちの心の中にある欲望が、律法によって、それは悪いものだとはっきりと意識されることによって、まさにそれが「むさぼり」と言う悪い欲望であることが、はっきりとするのです。しかし、それが律法によって悪いものかどうかが明らかにされ、意識される以前であっても、悪い欲望は悪いのです。ただそれが意識されないということだけであって、悪いものは悪いのです。そのような悪い欲望が心に浮かんでくると言うこと自体、私たちの内側に、深く罪が根ざしている何よりも確かなあり、証拠だといえます。そして、そのような、悪い思いが心に浮かんでくるようなものだからこそ、罪を犯してしまうという、罪人としての私たちの存在があるのです。

このように、律法は、私たちが罪人であると言うことを明らかにします。それでは、律法は、私たちを罪に定める良くないものなのでしょうか。パウロは、こう言います。ローマ人への手紙7章12節、13節です。「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく良いものです。ではこの良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそうではありません。それはむしろ罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものになるのです。」確かに、律法や戒めは私たちの罪を明らかにします。そして、その私たちの罪が、私たちの人間関係に様々な問題を引き起こしたり、神と人との関係において、私たちを滅びに定めます。けれども、私たちが、私たちの罪と罪深さを知り、自覚するならば、たとえそれが、心の中に浮かんでくる悪い欲望を生み出す私たちの内の深い罪の本質に対する気付きであろうと、具体的な罪の行為で割ろうと、私たちは悔い改めて神の下に帰ること事が出来ます。また自分の罪を知り、自覚するならば、それが具体的な行為の罪については罪から更正することも出来ます。ですから、律法や戒めが私たちの罪を明らかにすることは、私たちにとっては辛い経験なのですが、それはよいことなのです。

もちろん、それは私たちが自分の罪と罪深さを知り、悔い改め神に立ち返るという信仰の決断が必要となります。罪を悔い改め、神に立ち返ることによって私たちの犯した罪と罪深さがすべて贖われるからです。この罪の赦しという神の恵みによってこそ、初めて自分の罪を認めるという辛い経験も、神の恵みの内に罪の赦しという祝福にいたる良いものとなるからです。そして、その罪の赦しを与え、私たちの罪深さに赦しを与えるために、私たちの罪の身代わりとなられて、イエス・キリスト様が十字架の上で死なれたのです。

先日、お茶の水にあるキリスト教の専門書店に行きましたところ、全世界で話題になったパッションという映画のDVDがおいてありました。残念ながら英語版であり、日本語の字幕がついたものではありませんでしたので買ってきませんでしたが、このパッションが放映されたときに、それを見られた一人の姉妹がこのようなことを言っていました。それは、映画のほとんど最初から最後まで映し出されていた、イエス・キリスト様の受難のシーンを見ての感想だったのですが、こう言うのです。「あのイエス・キリスト様が鞭打たれ、肉が避け、血が流され、そして十字架に釘づけられる姿を見て、『ああ、ここまでしなければ私の罪はゆるされなかったんだな』って思もいました」

私も、同じような思いをいだきました。私たちの犯してきた罪、今犯してしまっているかも知れない罪、あるいはこれから犯してしまうかも知れない罪、その一つ一つは、私たちにとっては、些細なものと思われるものかも知れません。しかし、その数は、数え切れないほど膨大なものです。更には、心に思い浮かんでくる悪い欲望などは、到底、些細なものとしてかたずけらないようなものが、多くあります。それこそ、思いの中では、私たちは多くの人を殺してしまいかねないほど、憎んだり、恨んだり、妬んだり、羨んだりしているのです。けれども、私たちは自分の罪や罪深さに気付いても、がっかりすることはありません。その数多い罪と、どこまでも大きな罪深さも、「ああ、ここまでしなければ私の罪はゆるされなかったんだな」と思うほどの苦難と苦しみによって、子なる神イエス・キリスト様は贖って下さっているのです。

そして、その贖いによって、父なる神は、私たちを赦し、赦すだけでなく、私たちを神の子として下さり、罪から洗い清めて下さったのです。ですから、私たちは、自分の罪と罪深さを知り、それを認め、その罪を神の前に告白し、悔い改めて神を信じて生きていく生き方を大切にしなければなりません。そこには、私たちが罪から解放され、再び歩んでいく新しい生き方が開けているからです。どんなに、私たちが罪や過ちを犯したとしても、私たちが、このイエス・キリスト様の十字架の贖いを信じて、罪を悔い改め、神に立ち返るならば、一度だけではない、何度でも、私たちはやり直すことが出来るのです。この大きな神の恵みと祝福の中で、私たちは生きていくものとでありたいとそう願います。

お祈りしましょう。