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羊飼い 『自己への気付き』
ローマ人への手紙 7章14−27節
2004/10/7 説教者 濱和弘
賛美  399、341、266

さて、前回、ローマ人への手紙7章7節から13節までにおきまして、律法と罪との関係についてお話しさせて頂きました。そこにおきまして述べましたことは、律法によって私たちの罪が明らかにされ、私たちもそれによって自分の罪を罪として認識できるということでした。しかも、その私たちが認識する罪は、単に行為の罪と言うだけのことではありません。その行為の罪の背後にあって、行為の罪を生み出していく思いにおける罪まで至り、さらには、その思いの罪を指し貫いて、私たちの罪を犯さざる得ない罪に性質、すなわち原罪といったことにまでも至って、私たちの内に宿る罪ということを、明らかにするのです。

しかしながら、そのような律法と罪との関係を明らかにし、罪と言ったものを、単に行為の罪だけではなく、私たちの心の内に宿る罪深さ、罪の性質といったものまで掘り下げていったとしましても、それが頭に置ける理解に留まっているとしたら、それは極めて思弁的な言葉にとどまってしまう可能性があります。もちろん、信仰とは、確かに思弁的な言葉に支えられなければなりませんし、また私たちの信仰も、そのような思弁的な言葉に支えられてはおります。だからこそ、2000年間という歴史の荒波にもまれながらも、キリスト教はキリスト教たりえたのであり、そうやって、今日私たちの教会も、ここにキリスト教かとしてたち得ているのです。

しかし、同時に、信仰というものの実体は、極めて実際的であり、私たちの生活に密着した実存的なものです。信仰は、ただ頭で考えられるだけのものではなく、実際に生きられる者なのです。ですから、このローマ人への手紙7章7節から13節までで、パウロによって律法と罪の関係をとおして明らかにした私たちの罪の性質の問題は、単なる理屈や論理と言った思弁としてだけではなく、実際に私たちの生きている生活の現場で、私たちによって、自分の現実の問題として感じ取られなければなりません。そんなわけでしょうか、パウロは、罪の性質という問題が、どれほど自分自身の現実にとって根深い問題であるかと言うことを、この7章14節以降で告白するのです。パウロは、そこにおいて、こう言っています。15節です。「私は自分のしていることはわかりません。なぜなら、私はじぶんの欲することは行なわず、かえって自分の憎むべき事をしているからである。」

このパウロが言う、自分が行なっている自分の憎むべき事とは、罪のことに他なりません。16節以降でこう言うからです。「もし、自分の欲しない事をしているとすれば、私は律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。私の内に、すなわち私の肉の内には、善なるものが宿っていないことを知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にはあるが、それをする力がないからである。すなわち、私の欲している善をしないで、欲していない悪は、これを行なっている。もし、欲していないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。」パウロが、「もし、自分の欲しない事をしているとすれば、私は律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。」とか、「もし、欲していないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。」というのは、決して、自分の犯してしまう罪に対して自分に責任がないなどと言っているのではありません。

むしろ、どんなに良いことをしたいと思っても、逆に罪を犯してしまうほど、自分の内には深く罪の性質が根ざしている現実の自分の姿を語っているのです。それは、だれの性質でもない、まさにパウロ自身の本性なのです。そこには、罪と律法の関係を語りながら、人間の罪と、罪を犯さざる得ない原罪という罪の性質を語りながら、まさに自分の内にも罪の性質が宿っている。人間の罪の問題は、もはや人間一般の問題でも、あなたがたの問題というだけではなく、現実の私の問題でもあるのだという、パウロ自信の自己への気付きに基づく言葉であると言っても良いだろうと思います。考えてみますと、私たちは、この罪の問題を現実の自分自身の問題として捕らえていない場合があります。もちろん、そこに盗みを犯したとか、人を傷つけたといった、具体的な行為の罪があったり、どうしようもない自分の心の醜さを突きつけられた状況の下では、自分は罪人であるという自覚を持つことは出来るだろうと思います。

しかし、自分の内に宿る罪深さとか罪の性質といったもののなりますと、きわめて抽象的なものとして、自分自身の事として捕らえられないことも少なくありません。まさに、ここに罪の性質、原罪といったもののやっかいさが在る。このような「やっかいさ」のゆえに、具体的に認めることの出来る「思いにおける罪」や「行為における罪」が心に浮かんで来ない限り、私たちは自分が罪人であるという現実は、深い自覚を持って受け止めらないと言っても良いかも知れません。加えて、具体的に認めることの出来る罪というのは、具体的であるがゆえに、人と比べる事ができます。そして人と比べることができますと、「あの人と比べればましだ」とか、「誰でもやっていることだ」などと、自分の罪深さを薄め、曖昧にするようなことにもなってきます。そして、人の罪深さや問題点ばかりが目についてしまって、自分自身の罪の問題に気付くことが出来なくなってしまうこともあるのです。

実際にそう言ったことは、少なくないのです。例えば、今、ここで、礼拝の説教が語られています。私は礼拝の説教を語り、皆さんはそれを聞かれている。言うまでもないことですが、礼拝における説教では神の言葉である聖書の言葉が語られます。ですから、礼拝の説教を聞く皆さんは、神の言葉の前に立たされ、神の言葉の前に心探られます。当然、その説教の言葉を語る、私もまた、説教に耳を傾けて下さる皆さんのことを心に留めながら、説教の準備をし、そして、皆さんのことを心に留めながらこの場で語ります。しかし、だからといって、この礼拝の説教は、皆さんに対して語られる言葉としてだけ捕らえるならば、そこには語る私は入っていません。私という存在が、神の言葉の前に立っていないのです。神の言葉の前に立っていなければ、その神の言葉に心を探られ、心を刺し通されることもありません。そして、そのように心を探られ、心を刺し通されることがない以上、そこには自分自身に対する気付きなど生まれようはずがありません。

それは、説教を聞かれる皆さんも同じであろうと思います。説教に耳を傾けながら「これは、私の主人に聞かせたい説教だ」とか「この説教を聞いて、家内は何か感じ取ってくれるだろうか」などと思うことはないでしょうか。もし、そのように思うことがあるのならば、その人は、決してその礼拝の説教を通して、自分の心が神の言葉によって探られ、自分の心が神の言葉によって指し貫かれることはないだろうと思います。そして、そこにはやはり自分自身への気付きなど生まれてこないのです。パウロという人は、ピリピ人への手紙3章6節において、自らを「律法の義については落ち度のない者である」と自負しています。もちろん、あえて言うならば、その「律法の義については落ち度のない者である」と言う言葉も、当時の人々の中にあって、その人たちと比較してみるならば「律法の義については落ち度のない者である」と言うことだろうと思います。

そのパウロが、律法と罪の関係を述べていく中で、自分自身の罪深さと言うことを告白していくのです。そのようにパウロが自分の罪深さ、自分の身に染みついている罪の性質、パウロの言葉を借りるならば「私の内に宿っている罪」に気付いたのは、パウロが神の言葉にじっと耳を傾け、それを聞き、神の言葉の前に立ったからです。パウロはこう言っています。「私たちは、律法が霊的であることを知っています。」あるい「もし、自分の欲しない事をしているとすれば、私は律法が良いものであることを承認していることになる。」また、このようにも言います。「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいる」このような言葉は、パウロもまた神の言葉にじっと耳を傾け、それを聞き、神の言葉の前に真摯に立っていた姿勢を伺わせます。なぜなら、旧約聖書に記された律法も神の言葉だからです。そして、神の言葉の前に真摯になって向き合えば、向き合うほど、自分の罪の性質、肉に宿っている罪の現実に、パウロは気付くのです。

そして、そのような自分の罪の性質に対する気付きがあるからこそ、「ああ、私はなんとみじめな人間なのだろう。だれが私を、この死のからだから救ってくれるだろうか」とそう言わざる得なくなるのです。そこには、罪の奴隷となっている自分自信の現実があります。このような、パウロの罪の奴隷となっている自己の気付きと似たような経験は、おおくのクリスチャンが経験するところ自己の気付きでもあります。クリスチャンになり、聖書に記され、礼拝の説教で語られる神の言葉の前に真摯に立てば立つほど、罪に対して心が鋭敏になり、それに比例して自分の罪深さを自覚すると言うことは、パウロでなくても私たちも経験するところの、私自身の問題ではないかと思うのです。それは、私たちが向き合う神の言葉は、全く聖い、聖なる神から発せられた言葉だからです。神の聖さは、罪と一切交わらない清廉潔白な聖さです。いわば、真っ白い、一点の汚れもない洗いざらしのシーツのようなものです。

そのような真っ白いシーツの前に立つならば、わずかな汚れに染まった布切れの汚れは、際だって明らかになります。そのように、聖書の神は、全く聖い聖なる神ですから、その神から発せられた言葉もまた、罪と一切交わらない清廉潔白な聖さをもつ、真っ白いシーツのような言葉なのです。ですから、その神の言葉の前に立ち、それに、向き合い、心探られるならば、私たちは自分の罪深さに気付かざる得ません。いみじくも、宗教改革者を成し遂げたルターは、『キリスト者は確かに神を見上げる時、罪なきものであるといえ、自分自身を見る時、自己のキリスト者としての存在を顧みる時、繰り返し罪人となる』とそういましたが、まさにその通りです。ここに神の言葉の力があります。

しかし、聖書に記され、礼拝の説教において語られる神の言葉が、そのように私たちを、自分の罪深さへの気付きに導くものであるとするならば、キリスト教の信仰とは、なんと残酷なものでしょう。私たちに、自分自身の罪深さや、抗うことの出来ない罪の性質を自覚させ、罪の奴隷となっている現実に気付かせ、「ああ、私はなんとみじめな人間なのだろう。だれが私をこの死のからだから救ってくれるだろうか」と嘆かせるだけならば、一体キリスト教の信仰とは、ただ私たちを絶望の縁に追いやるものにしかすぎません。もちろん、パウロはそのような絶望に私たちを追いやるために、私たちに自分自身の罪の奴隷となっている現実を告白したわけではありません。むしろ、そのような罪の奴隷となっている現実に気付いた私たちを、更なる自己への気付きに導こうとしているのです。

「ああ、私はなんとみじめな人間なのだろう。だれが私をこの死のからだから救ってくれるだろうか」と嘆くパウロは、その嘆きの言葉の後に間髪入れず、「私たちの主イエス・キリスト様によって神は感謝すべきかな」とそう言うのです。一体、「私はなんとみじめな人間なのだろう」と言わざる得ないような罪の奴隷となっている自分自身に気付くとき、どうして神に感謝など出来ようはずがないと考えるのが道理だといえます。けれどもそのような罪の奴隷となっている自分自身の現実に気付くときにこそ、神に感謝できるのです。というのも、その感謝は「私たちの主イエス・キリストによって」生み出される感謝だからです。ですから、このパウロが述べた「私たちの主イエス・キリストによって」という短い言葉は決して見落としてはなりません。その言葉の背後には、イエス・キリスト様の十字架が在るからです。私たちの罪を赦すために、その罪深い私たちの罪を背負い十字の上で死なれた、そのイエス・キリスト様の十字架があるのです。

私たちは聖なる神の前に、また聖なる神の前に立つ、自分自身の存在を顧みるならば、罪の奴隷となっているみじめな罪人である自分の姿に気付かざる得ません。しかし、そのみじめな罪人であるという自己への気付きから、イエス・キリスト様の十字架を見上げるときに、私たちは、その罪が赦され、神の子とされたという、恵みに生きる者であると言う、もう一つの自分自身の姿に気付かされるのです。このイエス・キリスト様の十字架のもたらす恵みは、罪人の私たちの、その罪が赦されるという恵みにとどまるだけではありません。自分自身を「ああ、私はなんとみじめな人間なのだろう。だれが私をこの死のからだから救ってくれるだろうか」とそう嘆かせた、罪の奴隷である自分の現実の姿からも、解放してくれるのです。

私たちは、すでに、ローマ人への手紙の6章5節から7節の言葉において、イエス・キリスト様の十字架の死が、私たちを罪の奴隷である状況から解放して下さっていることを学び、知りました。そこにはこう記されています。「もし私たちが彼(この彼とはイエス・キリスト様のことですが、その彼)に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに彼の復活の様にもひとしくなるであろう。私たちはこのことを知っている。私たちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、私たちが、もはや罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだものは、罪から解放されているからである。」私たちは、聖なる神の前に立ち、また聖なる神の言葉の前に立つときに、自分が罪びとであるという自己に気づかざる得ません。それは、私たち人間の実存であり、現実の姿なのです。

パウロが、その人間一般の姿を罪と律法の関係を通して語るとき、それはもはや人間一般の問題や、あなた方の問題であるとして、語ることができなくなりました。それはパウロもまた人間の中の一人だからです。一人の人間として全人類につながるパウロは、罪を犯さざる得ないという、まさに罪の奴隷となっている自分の姿を認めざる得ないのです。確かに、パウロは、自分自身が人間として人類に結びついていると自覚ときには、罪の奴隷である自分の姿に気付きました。しかし、そのパウロは自分自身がキリストに結びついているということを自覚するならば、その罪の奴隷から解放されている自分の姿を見るのです。ここに、パウロの「私たちの主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな。このように私は心では、神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えている。」というパウロの喜びの言葉あるように思うのです。

私たちの罪の行為は、私たちの罪の心から起こってくるものです。しかしパウロにおいては、その心が、すでに神の仕える者に変えられているのです。ですから、今、ここでの自分の姿が、「肉では罪の律法に仕えている。」といわれるような罪の奴隷とであったとしても、その罪を生み出す心が、すでに神に仕えるものと変えられているならば、その私たちの現実の生き方も、必ず変わってくるのです。先ほど、ルターは『キリスト者は確かに神を見上げる時、罪なきものであるといえ、自分自身を見る時、自己のキリスト者としての存在を顧みる時、繰り返し罪人となる』という言葉を引用いたしました。そのルターの言葉になどらせていうならば、「キリスト者は自己自身を見るとき、罪人であるとはいえ、十字架上のイエスを見上げるとき、イエス・キリストの十字架によって新しく生まれさせられた者としての繰り返し『新しき生に生きる』者となる。」といえます。まさに、」イエス・キリスト様という一人のお方につながるすべての人は罪から解放された、新しい生き方が始まっているのです

私たちもまたパウロと同じ人間の一人です。私もそうです。その意味では、私たちもまた人間の一人として、全人類につながっています。この事実は、私たちにも、私たちは罪を犯さざる得ないという、まさに罪の奴隷となっていることを思い知らせるのです。けれども、私たちもまた、パウロと同じようにイエス・キリスト様という一人のお方につながっている神の民の一人です。この神の民であるという事実は、私たちが罪から解放され、イエス・キリスト様によってもたらされた新しい生き方をもたらしているのです。私たちは、このことに気付かなければなりません。私はこの、罪の奴隷と思わざる得ないような自分の現実の姿から、すでに、もはや解放され、イエス・キリスト様にある新しい命と生き方に招き入れられた一人なのだという、自分の姿に気付くのです。そのような自分に気付くならば、私たちは自分の存在を喜び、感謝を持って生きていくものに変えられていくと私は思うのですが、どうでしょうか。

今日、私たちはこれから聖餐式を持とうとしています。聖餐式に用いられるパンとぶどう酒は、まさに十字架の上でイエス・キリスト様が裂かれた肉であり流された血です。そういった意味では、この聖餐式に預かるということは、私たちを罪の奴隷であった状態から解放してくださった、あのイエス・キリスト様に結びついているという事実を、私たちに具体的に体験させてくれるものだといえます。ですから私たちは、この聖餐のパンと杯に預かりながら、罪の奴隷から解放され、新しい命と生き方に招き入れられた自己の姿を確認させていただきたいと思います。そして、まだ洗礼を受けていないがゆえに、この聖餐のパンと杯に預かることのできない方も、イエス・キリスト様は、あなたもまた、罪の奴隷から解放し、この新しい命と生き方に招いておられるお一人であるということにお気づき願えればとそう心から願います。

お祈りしましょう。