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羊飼い 『神の思いに満たされる心』
ローマ人への手紙 8章1−17節
2004/10/10 説教者 濱和弘
賛美  18、344、357

さて、昨日は、台風22号が東京付近にやってきましたが、この台風で、私たちの教会堂も玄関の所に雨漏りがしました。この玄関の雨漏りは、何も今回だけのことではありませんが、雨漏りがしている箇所が、電気の分電盤にかかっていますので、ちょっと心配と言えば心配といえます。そんなわけで、何とかしなくてはと思ってはいたのですが。しかし、今まで特に何か対策をしていたというわけでは在りませんでした。そんなわけで、今回は、どこから水が漏っているのか確かめるために、点検口から天井裏をのぞいてみました。そうしたら、ちょうど水滴がしたたり落ちている箇所が見えましたので、バケツを天上裏に持ち込んで、とりあえず雨漏り対策を致しました。しかしながら、いくらバケツで水を受け止めて、天上から水滴が落ちてこないようにしたとしても、それで、雨漏りが解決したわけではありません。

実際、雨漏りしていると思われる部分を見てみますと、その部分の柱や梁に使われている木材は、もうビッショリと濡れているのです。確かにバケツで、目に見える雨漏りは押さえられました。けれども問題の根本となっている雨漏りそのものが解決しないかぎり、これからも、相変わらず水が漏ってきて、あの雨漏りしていると思われる部分の柱や梁をびしょびしょに濡らしていくだろうと思うのです。そのことは、柱や梁に少しづづダメージとなって、それらを弱めていくことになるだろうと思います。ですから、やはりどこかで、雨漏り自体を修繕するという根本的な解決が必要です。この雨漏りの状況は、実は、私たちの罪の問題に極めて似かよっています。

私たちの表面上の目に見える罪の行いがなくなった。それはそれで嬉しいことですし、喜ばしいことだと言えます。けれども、それで罪の問題が本当に解決したわけではありません。私たちの罪の問題は、私たちの目に見える罪の行為、あるいは心で感じ取ることの出来る、妬みや嫉妬、憎しみといった思いの罪を生み出してくる、私たちの罪の性質という、根本的問題が、解決しなければ、実は私たちの罪の問題は解決したとは言えないのです。ちょうど、雨漏りの話を致しましたので、もうすこし、雨漏りの話を致しますが、私が、この三鷹教の前は、四国の土居教会で2年間ほど、牧師としての働きをさせて頂いておりました。土居教会に赴任し、引っ越しの荷物を運び込んでいたときに、ふと天井を見ますと、くっきりと雨漏りの後が染みになって残っておりました。それで、「ああ、雨漏りするんだな」と覚悟していたのですが、私が在任中の2年間は、一切雨漏り致しませんでした。

そんなわけで、私たちは、もう雨漏りは完全に修理されてなくなっているものだと、そう思っていました。ところが、この三鷹教会に移ってきた後に、私の後任の先生からこんな話を聞きました。というのは、その先生が、土居教会に引っ越しをなされて、しばらくして、天上からどっと雨漏りがしてきたというのです。そこで、その先生は何事かと思って、天井裏をのぞいてみると、そこにはもう沢山の、ビンやコップが並んでいたというのです。どうやら、私のより前の牧師の方が、雨漏りをして水滴がしたたり落ちるところに、そのビンやコップをおいて、落ちてくる水滴を受けていたようです。それで、私たちは、在任中2年間雨漏りを経験することがなく、雨漏りは完全に直ったと思っていた。ところが、雨漏り自体という根本的問題は直っていなかったのです。そして、水滴を受けていたビンやコップに水が一杯になって、今度は一気に水が天上から溢れてきたわけです。

雨漏りと、罪の問題はこんな所まで似ているのですね。仮に私たちが、自分の力で自制して、目に見える表面上の罪の行いを押さえこんで行なわないようにしても、私たちの罪を生み出す、私たちの罪の性質という根本的な問題が解決していなければ、どこかで、私たちの罪の問題は表面にどっと現われてくるのです。雨漏りを直す場合は、どこから雨水が漏っているかをちゃんと確認して、もれている場所をふさがなければなりません。つまり問題点がどこにあるかをちゃんと見つけることです。私たちの罪の源にあって、私たちの罪の問題の根本的問題となる罪の性質もまた、私たちに罪の性質が根深く潜んでいるということに気付かなければなりません。

先週、私たちは、パウロの「わたしは、自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲することは行なわず、かえって自分の憎むことをしているからである。」「わたしはなんとみじめな人間だろうと」という、自分の心の内に、根深く救っているパウロの自己への気付きの言葉から、私たちもまた、この私たちの内に根深く潜んでいる、私たちの罪の性質に気付くことの重要さ、大切さを学びました。そして、同時に、私たちの主イエス・キリスト様の十字架による罪からの救いは、そのような罪の性質からも、私たちの罪の性質に対してまで及び、私たちを罪の性質から解放して下さっているのだと言うことも学びました。それほどまでに、イエス・キリスト様の十字架による罪からの救いは、徹底した救いなのです。今日のテクストとなったローマ人への手紙8章1節から4節までは、この事を私たちに確認させてくれます。

ここにおいて、「こういうわけで、今やイエス・キリストにある者は罪に定められることがない。」というのは、イエス・キリスト様が、私たちの全ての罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったという歴史的事実が在る以上、私たちは、私たちの犯した罪のゆえに、神に断裁され罪に処せられることは、今から未来永劫に渡ってないと言うことです。そこには、徹底的な罪の赦しが宣言されています。そして、そのような将来に渡るまで徹底的な罪の赦しがなされる根拠は、イエス・キリストのある御霊の法則が、私たちを、罪と死の法則から解放したからだというのです。この御霊の法則というのは、私たちが霊にしたがって生きる者になったと言うことです。霊といいますと、なにやら心霊的な、こうおどろおどろしい感じや、何やら嘘っぽい感じがしますが、そうではなく、聖霊に従って生きるということです。

聖霊というのは、聖なる霊と記しますように、神の霊であり、父なる神、子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神の決して切り離すことの事の出来ない深い愛の交わりで結ばれた三位一体なる神であられます。三位一体なる神の決して切り離す事の出来ない深い愛の交わりで結ばれたと申しましたが、この交わりが深い愛の交わりでありますから、それは人格的な交わりであり、聖霊なる神も、父なる神、子なる神イエス・キリスト様と同じように人格的なお方です。そして、この人格的存在である聖霊なる神が、父と子との切り離さすことの出来ない深い愛の交わりで結ばれているのですから、聖霊なる神もまた、父なる神、子なる神イエス・キリスト様の御思いと同じ思いを持ておられるのです。いうなれば、父なる神、子なる神イエス・キリスト様が私たちに願っておられるその思いと、同じ願いを、私たちに漏っておられるのです。私たちがクリスチャンとなるということは、実は私たちの内にこの聖霊なる神が、一人一人に与えられていると言うことなのです。

私たちの国には、背後霊とか守護霊といった考え方があるようですが、私たちの内にこの聖霊なる神が、一人一人に与えられているということは、そのようなお方ではありません。ましてや、狐付つきた降霊術のような霊にとりつかれるといったことでもありません。しかし、私たちが神を信じクリスチャンとなるならば、聖霊なる神が私たちの内に住んでくださって、私たちと人格的な交わりを通して、私たちの生き方を導いて下さるのです。もちろん、私たちの人格的な交わりを通してと申しましても、何か聖霊なる神の語りかけてくる声が聞こえてくるとか、聖霊なる神に私たちの人格が乗っ取られてしまうと行ったことではありません。もしそうだとすれば、それはオカルトであり聖書の言うところではありません。むしろ、聖霊なる神は、ご自身の存在を隠しながらも、私たちの心や考え方に深い影響力をもって導いて下さるお方なのです。

今日のテクストのローマ人への手紙8章7節に、「肉の思いは神に敵対するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。」とあります。肉の思いというのは、私たちの意志や、私たちのものの見方・考え方といったものです。そして、ここにおいて、神の律法というのは、パリサイ派的な規則や決まり事というよりもは、もっと広い意味で、神が私たちに願っておられる神のご意志といったものだと考えた方が良いだろうと思います。そのような、私たちのものの見方や考え方・意志によって行動するときには、私たち、私たちは神のご意志に従い得ないと言うのです。もちろん、私たちが神のご意志と言ったことを全く知らないと言ったら言い過ぎになるだろうと思いますし、私たちのものの見方や考え方、意志といったものが神の意志に従って生きることが出来ないと言ってしまうことも出来ないだろうと思います。

たとえば、私たちが人を愛し、人を慈しむことを願っておられるだろう事は間違いのないことだろうと思います。また平和を愛することや、平和を生み出すことが神のご意志であることを伺う人はいませんし、それはまさに聖書の言うところでも在ります。しかし、では、具体的にその人を愛したり、平和を生み出す行動を起そうとするときに、私たちのものの見方や、考え方、意志といったものが、正しく神の願いに従っているかどうかは疑問です。例えば、今、アメリカは、イラクで戦闘状況にあります。私たちの国も、アメリカを支持し、自衛隊をイラクに派遣しておりますから、このイラクでの戦争はひとごとではありません。アメリカがイラクにおいて軍事行動を展開していることについて、アメリカのクリスチャンの中には神の正義といったものを、その大義に掲げているように伝え聞いています。

実際、私の周りでも、なぜクリスチャンがあのような戦争をするのかといった質問を投げかけてくる人がいます。それは、あの戦争が、どう見ても正しいことのように思えないからであり、そこにおいて神の正義であるといっても、とても正当性を持つもののようには見えないからです。当然、多くの人が見て正しいと思われないようなことの中に、神の正義と言ったことがあるとは思えません。もちろん、私自身、アメリカ政府が、本当に神の正義のためにイラクに信仰したとは思えません。そこには、むしろアメリカの国益とか利権が最優先しているのだろうとそう推察します。だからこそ、日本のクリスチャンは、あのイラクでのアメリカの戦争に賛成できないのであり、わたしたしの属する日本ホーリネス教団も、またその日本ホーリネス教団が属する日本福音同盟も、イラクにおける戦争が始まったときに、遺憾の意と、抗議の声を発したのです。

しかし、あのイラクで軍事展開をしているイラクのアメリカ軍の中には、多くのクリスチャン兵士がいることも事実です。そして、彼らは確かに敬虔なクリスチャンなのであり、このイラクでの戦いが正義のための戦いと信じている人も少なくはないのでないかと思います。それに対して、私を含めた多くのアメリカ人以外のクリスチャンの中には、このイラクでの戦いが神の正義のための戦いであると言うことを飲み込めない人が少なからずいるのです。では一体どうして、このような違いが起こったのか。以前もお話ししたことがありますが、私の親しくしている友人が、アメリカの経営大学院で勉強して帰ってきたときに、アメリカのクリスチャンのものの見方や考え方について話してくれたことがありました。彼が言うには、アメリカのクリスチャンは、良きアメリカ市民であることと良いクリスチャンであることとは、決して矛盾しないというのです。それは、良きアメリカ人であることが良きクリスチャンであるということでもあります。

このことは、つまりは、クリスチャンのものの見方や考え方、あるいは意志といったものが、アメリカという国の国民性や思想と言ったものに影響を強く受けているということを意味しています。このような、アメリカの国民性や思想と言ったものに強く影響を受けたものの見方や考え方、あるいは意志といったもので、神の正義のためと言われ行動されたとしても、同じクリスチャンであっても、それが神の願っておられることだとは承伏しがたいのです。このように、私たちのものの見方や考え方、あるいは意志といったものは、民族性や思想、あるいは生まれ育った環境といったものに強く影響されています。そして、その民族性や思想と言ったものに影響された私たちの肉の思いは、必ずしも神が私たちに願っていることを見出すことが出来るとは限らないのです。

あるいは、何か犯罪や不道徳なことをしないようにと神が願っておられるということは、多くの人が認めるところであろうと思いますし、パウロが言うところの私たちの心に刻まれた神の律法である良心も、そのことを明らかにします。当然、私たちの理性も何が犯罪であるかは法律を通して知り、何が不道徳なことであるかも理解出来るだろうと思います。ですから、頑張って罪を犯さないように、また不道徳的なことをしないようにと、自制することも少なからずあることでしょう。しかし、先ほど雨漏りに対する対処として天井裏に並べられたビンやコップの話を引き合いにお話し致しましたが、どんなに見た目には問題が起こらなくなったように見えても、その根源がきちんと解決されていなければ、ビンやコップに雨漏りの水が一杯になってしまったときに、どっと水がもれてきたように、いつかはどこかで問題が吹き出すのです。

私たちの心に深く根ざす罪の性質とは、それほどまでに私たちの心に、思いに、そして行動に影響を与えるのです。ですから、この罪の性質の影響の下に在るままの肉の思いに従って生きる限り、私たちは、どんなに自分の意志や努力で頑張っても、神が私たちに願っていることに従うことができないと言われても仕方がないのかも知れません。私たちの意志それ自体が、罪の影響をうけているからです。だからこそ、私たちが、聖霊なる神との人格的な交わりの中で、この聖霊なる神に教え導かれて生きることが大切なのです。また、クリスチャンとなった者には、この聖霊なる神が私たちの内側に共に住み、私たちと交わりを持とうとして下さっているのです。

パウロは、今日のテクストのローマ人への手紙8章12節から14節でこう言っています。「それゆえに兄弟達よ、私たちは果たすべき責任を負っているものであるが、肉に従って生きる責任を負っているのではない。なぜなら、もし肉に従って生きるならば、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によって体の働きを殺すならば、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は神の子である。」この果たすべき責任とは、神が私たちに願っておられることであり、ときには、それは倫理的道徳的な内容であったり、平和を生み出すような活動であったり、愛を実践するようなことであったりするだろうと思います。けれども、私たちがそれを実践するときに、私たちは、自分の思いや意志や、努力によってそれをなそうとするのではなく、聖霊なる神が、私たちに教え導かれることに従うことが大切なのです。

聖霊なる神は、パウロが9節で「神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉のおるのではなく、霊におるのである、もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」と言っているように、神を信じ、キリストを自分の罪の救い主として信じる者の内にあって、私たちと共にいて下さいます。私たちの内というすぐそばに共にいて下さるからこそ、聖霊なる神は私たちのことを知って下さっています。そのように私たちのことを知って下さっているからこそ、聖霊なる神が、私たちを教え導かれるとき、けっして私たちに出来ないことを求められるお方ではないのです。私たちは、その聖霊なる神との人格的交わりを通して、教え導かれるのです。

しかし、先ほど私は、聖霊なる神の語りかけてくる声が聞こえてくるとか、聖霊なる神に私たちの人格が乗っ取られてしまうと行ったことではないと申し上げました。そして、聖霊なる神は、むしろご自身の存在を、私たちにお隠しになるお方であると申しました。私たちのすぐそばおられるけれども、自らの存在を隠すお方。そのようなお方と、私たちは一体どのようにして人格的な交わりを持てば良いのか?月並みな言葉のようですが、心を静めて神の前に祈り、聖書を読むことです。心を静めると言うことは、私たちの心に強く影響を与える民族性や思想といった、私たちに先入観として働きかけるものから解き放たれて、静かに聖書が語りかける言葉に耳を傾けることです。聖書を解釈したり理解しようとするのではありません。聖書を解釈しようとしたり理解しようとすると、そこには私たちの考え方の前提となる思想やものの見方、あるいは私たち個人の願いといったものが読み込まれていきます。ですから、ただ心を静かにして聖書が語りかけることに耳を傾けることに心するのです。

そのような、敬虔な時間、敬虔な生き方といったものが、大切なのです。神が私たちに対して願っておられることや、神の私たちに対する思いといったものは、私たちの心が勝手に生み出すものではありませし、生み出せようはずもありません。ただ私たちが、神が語りたもう言葉に耳を傾けて聞いてこそ、私たちの心に、神が私たちに対して願っておられることや、神の私たちに対する思いが満たされるのです。だからこそ、私たちひとりひとりは、静かに神に聞くという敬虔な時間や敬虔な生き方を大切にしなければなりません。聖霊なる神は、自らの存在を隠しながら聖書の言葉を通して、神が私たちに対して願っておられることが何か、神の私たちに対する思いはどんな思いであるかを教え導いて下さるからです。この聖霊なる神の教えと導きとによって、私たちの心は神の思いで満たされることが出来るのです。

しかし、そうはもうしましても、静かに祈り、私たちの思いを縛り付ける民族性や、思想や個人的願いといったあらゆる先入観から解き放たれて、聖書が語りかける言葉に耳を傾けたとしても、そこに間違いや誤りが入り込まないという保証はありません。どんなに、神の前に静まって聖書を通して神の言葉を聞こうとしても、私たちは自分の願いや思い、あるいは思想と言ったものを、読み込んでいく危険性にさらされています。だからこそ、そのように、静まって祈り、聖書の言葉に耳を傾ける私たちは、同時に教会の交わりの中に身を置かなければなりません。聖霊なる神は、教会の交わりを通して私たちを、教え導かれるお方でもあるからです。

イエス・キリスト様は、マタイによる福音書18章20節において「二人または三人が私の名によって集まっているところには、私もまたそこにいるのである」とそう言われました。その言葉通り、イエス・キリスト様を救い主として信じるクリスチャンの群れである教会の交わりのなかに、まさにイエス・キリスト様がおられるのです。しかし、教会の交わりの中にイエス・キリスト様がおられるといっても、そこにイエス・キリスト様の姿を目にするわけでもなく、イエス・キリスト様の声が聞こえてくるわけでもありません。しかし、キリストの霊ともいわれる聖霊なる神が、自らのお姿を隠しながら聖書の言葉を通して働き、イエス・キリスト様と言うお方を、私たちに明らかに示しながら、私たちを導いて下さるのです。ですから、教会の交わりと申しましても、教会堂に私たちがただ集まって、お茶を飲み歓談するというのが教会の交わりと言うことではありません。

聖書の言葉が語られ、主イエス・キリスト様の御業が語られるところこそが教会の交わりなのです。そして、そのような教会の交わりを通して、またそこで語られる聖書の言葉を通して、聖霊なる神は私たちを教え導かれるのです。この聖霊なる神が、私たちを教え導くような教会の交わりの頂点にあるのが礼拝だと言えます。礼拝は神の御現臨がある場所であり、神の民と人とが交わる場です。そこでは、まさに神の言葉である聖書の言葉が、説教を通して語られます。だからこそ、私たちは礼拝を大切にし、礼拝をささげるために集ってこなければなりません。もちろん、教会の交わりといっても、そこはそれ人間が集まっている場所です。ですから過ちもあり、間違いが入り込むこともあるでしょう。しかし、教会の交わりが神の言葉である聖書を中心におくものであるならば、そのような誤りや間違いが入り込むことを、恐れることはありません。なぜならば、神の言葉である聖書の言葉を、私たちが中心に据えているならば、たとえ過ちや間違いが入り込んでも、聖霊なる神が、私たちを教え導いて、正しい方向と正してくれるからです。

教会に誤りや間違いが入り込んできたならば、教会は一致を保つことができません。かならず、そこには意見の対立や議論が起こってきます。そして、私たちが、そこで謙虚になってお互いの意見に耳を傾けながら、ああだこうだとやりとりをしていく中で、聖霊なる神は教会の方向を正しく導いて下さるのです。そして、聖霊なる神がそのように、教会を通して私たちの過ちや間違いを正して下さるお方だからこそ、教会は、自分たちの教会の歴史に目を向けなければなりません。そこには、教会に入り込んだ過ちと間違いを神が正しく修正し、導かれた歴史があるからです。例えばそこに宗教改革と言ったこともあるのです。中世の教会は、免罪符を発行して、それを買うことによって教会に功徳をたて、罪から救われようとするような過った方向に進みました。また、それ以外にも、聖遺物といったイエス・キリスト様や使徒達にあやかるようなものを集め有り難がるような様々な誤りの中にありました。教会が、そのような過ちや間違いの中に置かれたときに、マルチン・ルターと言う人が、そのような教会の姿に対して、それは間違っているのではないかと、ウィッテンベルグ城の扉に95か条の質問状を張り出したのです。

それによって、議論が巻き起こり、その議論はルターだけにとどまらす、カルバンなどと言った人を巻き込みながら、宗教改革と呼ばれるような大きな運動となり、その結果、今日のプロテスタントと呼ばれる、カトリック教会とは別の教会の流れを生み出たのです。そして私たちの教会も、このプロテスタントの流れに属するものです。それは、教会に入り込んだ過ちや間違いを正す、聖霊なる神の働きであったと言っても言いだろうと思います。だからこそ、マルチン・ルターから始まった宗教改革を通して、カトリック教会もまた、イグナチウウス・デ・ロヨラと言った人たちによって、カトリック教会の改革が進められていったのです。このイグナチウス・デ・ロヨラという人は、イエズス会という修道会を創立して人であり、個人の敬虔を養う修道と伝統を重んじた人です。まさに、聖霊なる神よって、教会は導かれ正されて来たのです。このように、私たちキリスト教会のもつ歴史はだてにあるのではありません。そこには神が神の民の歩みを導いた歴史があるのです。だからこそ、私たちはその教会の歴史から学ぶのです

このように、私たちが個人の敬虔な時間と敬虔な生き方によって、また教会の交わりを通して聖霊なる神に教え導かれなければならないのは、私たちの心に、私たちの心に神が私たちに願われている神の思いが満ちあふれためです。この神の願われていることに心が満ちあふれ、その神の願いに私たちが従うならば、私たちは確かに神の子として、この世にあって神に喜ばれる者として生きていけるのです。

お祈りしましょう。