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羊飼い 『信仰の確信とその歩み』
ローマ人への手紙 8章14−17節
2004/10/24 説教者 濱和弘
賛美  105、38、354

今日、この礼拝に集っている方の多くは、いわゆるクリスチャンとよばれるお一人お一人です。もちろん、その中には、まだ洗礼を受けていないと言う方もおられることでしょう。しかし、そのような方々も、たとえ洗礼を受けていなくても、聖書に示された神を信じ、また子なる神イエス・キリスト様が、私たちの罪の救い主として、十字架の上で私たちの罪を赦すために死んでくださったと言うことを、心で信じ、そのことを心から言い表す人は、クリスチャンであるといってよろしいのであります。それは、洗礼は、クリスチャンになるために受ける者ではなく、クリスチャンになった者が洗礼を受けるからです。もちろん、だからといって洗礼は受けてもうけなくても良いというものではありません。それは主イエス・キリスト様が定められ、教会にゆだねられたところの大切な礼典ですから、クリスチャンになった者は、この洗礼を受けるべきなのであります。

私たちの教会では、洗礼を受けますと洗礼証書というものをくれます。そこには、きちんと何年何月何日に何という牧師から洗礼を受けたと言うことが、ちゃんと記され、丁寧に教会の印鑑まで押されています。ですから、この洗礼証書があるならば、私は聖書の神を信じ、イエス・キリスト様が私の罪の救い主であると信じてクリスチャンになったと言うことの証明になります。クリスチャンになったと言うことを、教会が認めたからこそ、教会が洗礼を授けたからです。2000年にわたるキリスト教の歴史、そのキリスト教の歴史の中にある教会がクリスチャンであると認め洗礼を授けたわけですから、私たちが洗礼を受けたという事実は、実に重みのあることなのです。

このような、実に重みのある洗礼を受けたという事実を洗礼証書は証明してくれるのですが、実は私は、その洗礼証書を持っていません。無くしてしまったとか過って燃やしてしまったと言ったことではなく、私の母教会は、私が洗礼を受けたときにこの洗礼証書を下さらなかったのです。それは、私の母教会が、私の洗礼を認めなかったということではありません。その教会では洗礼証書というもの自体がないのです。ですから、私は、目に見える形で私はクリスチャンであるということを、形として証拠立てて見せる外的証拠は、何も持っていないのです。もちろん、たとえそのような洗礼証書をもっていなくても、私が1977年12月18日に洗礼を受けたという歴史的事実は、私の心にしっかりと刻み込まれておりますので、そのことが、私が神を信じ、イエス・キリスト様を信じたという事を、証してくれているのです。

今日、礼拝に集われている皆様の中にも、私と同じように、「私は洗礼証書をもらっていない」という方がおられるだろうと思います。しかし、これまた、私と同じように、その方も、洗礼を受けたという事実は、私たちの人生の歴史にはっきりと刻み込まれ、私がクリスチャンとなったということの外的な証拠として証してくれるのです。このように、洗礼を受けたと言うことは、私たちが神を信じ、イエス・キリスト様を信じてクリスチャンとなったと言うことを紛れもなく証するのですが、信仰のやっかいのことは、それがただ外的な証拠だけでは満足しないと言うところにあります。外的には、私たちがクリスチャンになったという証をいくら持っていても、私たちの心が、自分はクリスチャンであると言う内的な確信をもっていませんと、私たちの神を信じる心は、決して満足しません。そして、私は本当に罪赦されてクリスチャンになったのだろうかと、絶えず自分を不安な思いにさせ、心を揺り動かせるのです。

大変卑近な譬えで申し訳ないのですが、私は、高校まで柔道をやっておりました。高校を卒業するときに、柔道部の監督が、卒業生全員に、「君たちを2段に推薦するので、2段の申請書と登録料とを持ってくるように」とそう言われました。もちろん私も、その中に入っておりましたので、家に帰って父に「今度2段になるので、登録料を頂戴」といいますと、父は、「お前、本当に2段の実力があるのか」とそうたずねるのです。「本当に2段の実力があるか」と言われても、私の心は不安になりました。監督は確かに私を2段に推薦してくれました。しかし、私の心は、自分が本当に2段の実力があるということに対して確信が持てなかったのです。そんなわけで、結局、私は2段の推薦を辞退してしまいました。今考えてみれば、柔道部の監督は、当時6段で県下でも実力の認められている方でしたから、その方が推薦してくれるのですから、外的には2段の実力が認められるものだったのかもしれません。しかし、私の心に確信が無かったがために、せっかく2段という資格を頂く機会を逸してしまったのです。

同じように、私たちが洗礼を受けた、あるいは受けると言うことは、教会を通して、外的には私たちがクリスチャンであるということを認めることであるかもしれません。そして、洗礼を受けたことによって、そのことを、私たちの人生の歴史、また教会の歴史に刻み込んで決して消えることのない外的な証となるのです。けれども、それだけでは、信仰は立ちゆきません。私たちの心の内側から私たちの信仰を支える内的な証をしっかりと持つと言うことが大切なことになってくるのです。そうでなければ、私たちの信仰は、大風に揺れる小舟のような存在となってしまいます。ですから、ある意味、私たちの心の内側からわき上がってくる内的な信仰の確信が、私たちの信仰の生命線ともなってくるのです。

そこで、今日のテキストの箇所に目を落としますと、「すべて、御霊に導かれている者は、すなわち神の子である。あなたがたは再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」とあります。この「すべて、御霊に導かれているものは、神の子である」と言う言葉は、ローマ人への手紙8章1節から13節までに述べられている内容の延長線上にあります。そのローマ人への手紙8章1節から13節までの内容に関しては、先週の礼拝で話したことでもありますので、ここでは繰り返しませんが、大まかに言って私たちの意志やものの見方、考え方と言ったものに由来する肉の思いと、御霊なる神である聖霊の思いを相比べながら、神に罪ゆるされクリスチャンになったものは、聖霊の思いに教えられ導かれながら生きなければならないことを教えています。

聖霊なる神が、私たちを教え導かれる事は、父なる神と子なる神イエス・キリスト様の御思いだからです。そういった意味では、まさに聖霊なる神が私たちに語りかけ、教え導かれる言葉に耳を傾けながら、神の意思に従い、神の意思に動かされながら生きる者たちは、まさしく、イエス・キリスト様の十字架の死によって罪ゆるされ神の子とされた者たちなのです。いえ、私たちは神の子であるからこそ、神の御思いに従っていきようと思い、生きようとするのだと言っても良いのかも知れません。けれども、このような神の御思いに従って生きようとする生き方を、なにもクリスチャンになった後の私たちの生き方と言うことだけに限定する必要はないと思います。ともうしますのも、聖霊なる神は、私たちが気付き意識するといったことがないとしても、私たちがクリスチャンになる以前から、私たちを教え導いておられるからです。

先日も横浜の家庭集会に集まられた方々と、色々とお話しをしていました。その中で、こういう問いかけをしてみました。「今こうして、三鷹にある教会の牧師の私が、こうして横浜で家庭集会をしているということは、本当に不思議な感じがするのですが、皆さんも、こうして、家庭集会に来られるようになられたことは、不思議なことだと思いませんか。」その問いかけに、その日はあいにくといつもよりも、家庭集会に来られた方はずっと少なかったのですが、しかし、来られたみなさんは、どこか、不思議な偶然を感じておられました。確かに、横浜の家庭集会に来られた方は、みなさん、家庭集会に来ませんかと誘われてきた方です。ですから、不思議な偶然と言っても、そこには「家庭集会に誘われた」という、明確な理由があります。

けれども、その「集会に誘われる」あるいは誘った側にしてみれば「集会に誘う」きっかけになった出合いは、まさに、たまたま父母会で隣に座り合わせたとか、運動会で一緒のペアになったとかという、まさに一回限りの、偶然の出合いだったのです。何度も何度もしつこいぐらいに誘って、そしてようやく来てくださったというのではなく、本当にたまたまの出合いの中でお誘いした方々が、集まって家庭集会が持たれ、そこで聖書の言葉が語られ、キリスト教信仰が語られるようになったのです。更には、そのようなたまたまの偶然な出合いの中に、実は私と共通のクリスチャンの知人がいたなどの、もっと驚くような偶然の出来事もありました。それは、当人達にとっては、それは確かに不思議なことなのです。もちろん、それをたまたまの偶然と言い切ってしまえば、そういう言い切ることもできるでしょう。そして普通は、それらのことを、たまたまの偶然の出来事として片づけていくのです。

しかし、これらのたまたまの偶然と思われる出来事を、「そりゃ、たまたまの偶然さ」と片づけていくか、「本当に不思議なことなんだよね」と捉えていくかによって、「月とすっぽん」のような違いが生まれてきます。というのも、私たちが、聖書の言葉やキリスト教信仰に触れ、それを知り、聖書の言葉や信仰の言葉に心が捉えられていくということは、まさに偶然ではなく、そこには確かな聖霊の導きがあるからです。今日のテキストを書き記したのは、パウロという人ですが、このパウロは、コリント人への手紙も書いています。そのコリント人への第一の手紙12章3節でパウロはこう言うのです。「神の霊(すなわちそれは聖霊なる神のことですが、その)神の霊によってかたるものはだれも、『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことはできない。」

「イエスは主である」という言葉をいうことは、誰にでもできそうに思います。しかし、この「イエスは主である」と言う言葉は、その当時の、ローマ帝国時代に生きたクリスチャンにとっては、単なる言葉ではなかったのです。まさに「自分は聖書の神を信じ、イエス・キリスト様を自分の救い主であり、主なる神であると信じます。」という信仰を告白する言葉だったのです。ですから、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということができない。」ということは、聖霊の導きと助けなしには、だれも自分は神を信じますという信仰告白の言葉を語ることができなと言うことなのです。私たちは、様々なきっかけを通して、教会に導かれ、キリスト教の信仰に触れ、聖書の言葉にふれます。それはたまたま、友達や親戚にクリスチャンがいて、その方に誘われたということであったり、親がクリスチャンであったり、夫や妻がクリスチャンであったと様々です。

中には、偶然テレビやラジオのキリスト教の番組を見聞きしてキリスト教に興味を持ったことがきっかけとなって教会にきたという人もいるでしょう。それらは、確かに、表面上は、たまたまの偶然として片づけることができることかも知れません。しかし、それは決してたまたまの偶然ではないのです。その背後には、聖霊なる神の豊かな導きという必然がそこにあったのです。クリスチャンの親の元に生まれるといったことも、クリスチャンの友人と知り合うと言ったことも、決して偶然ではないのです。そこには、確かに聖霊なる神に導きがあってのことなのですし、聖霊なる神の働きがあってのことなのです。このような、聖霊なる神の豊かな導きという必然の中で、私たちは、自分の罪がわかり、イエス・キリスト様が私の罪を赦すために、十字架に架かって死んでくださったのだと言うことを知っていくのです。

そして、神を信じ、主なるイエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じクリスチャンとなっていく。それは、まさに聖霊なる神の導きという必然の中でおこった出来事だと言えます。だからこそ、きょうのテキストにありますように、この、私たちを教え導く聖霊なる神によって、私たちは神様を「アバ、父よ」と呼ぶことができるのです。この「アバ、父よ」という言葉は、私たちが神を父と呼ぶことのできるほど親しい関係になったことを意味しています。この「アバ、父よ」の「アバ」という言葉はアラム語で、実に親しい愛情のこもった表現でお父さんを呼ぶときの言葉です。私たちは、聖霊によって、そのように神を親しい愛情を持った人格的な関係に招き入れられたのです。だからこそ私たちは、神の恵みによって、神に選ばれた神の民であると言えるのです。

しかし、もし、私たちが信仰を持つに至たるまでの全ての道のりの、どれかひとつでも、「たまたまの偶然」としてかたづけるならば、私たちの信仰は偶然をきっかけに生まれた「偶然の産物」にしかすぎません。それは一つ間違えば、存在しなかったかも知れない、実に危うい存在なのです。そして偶然をきっかけに生まれたものは、偶然をきっかけに壊れ失われてしまうのです。そこには、確かな保証もなければ確信もありません。今は確かに信じているかも知れませんが、将来に渡るまで信じ続けられるものであるかどうかは疑問です。その信仰は神の導きによる必然ではないからです。しかし、私たちの信仰が、神の確かな導きによる必然であるならば、どんなことがあっても、私たちは神の恵みの中でクリスチャンであり続けることができます。それは、私たちを導き、私たちを信仰に招いて下さった神は、永遠に変わることのない真実なお方だからです。この永遠に変わることのない真実な神が、その神のご意志とご計画のなかで、私たちを導いておられるのです。

だからこそ、みなさん。私たちは知らなければなりません。私たちが生まれ、今日こうして、教会の礼拝に出席し、神の言葉である聖書が解き明かされていく礼拝の説教に耳を傾けているこの私の、その人生の全ての曲面で、聖霊なる神の導きがあってのことなのです。決して偶然ではないのです。そして、私たちが、神を知り、自分の罪を知り、イエス・キリスト様が自分の罪の救い主であると言うことを知るようになったのは、決して偶然ではないのだということを、私たちの頭が、ちゃんと知っておかなければならないのです。しかし、みなさん。私たちの頭が、私たちの信仰が聖霊なる神の豊かな導きという必然の中で起こった出来事であって、決して「偶然の産物」ではないと知ったとしても、それだけで、私たちの信仰が確かな確信に至るとは限りません。そのような、頭で理解し受け止めた出来事を心が受け止めなければなりません。それは、信仰は、心の領域にまでおよぶものだからです。頭で理解したことを心が受けとめなければ、信仰の確信は揺るぎのないものにならないのです。

もちろん、私たちが信仰は、聖霊なる神が導いて下さった結果であるということを、ちゃんと頭で知り、理解しておくと言うだけでも、様々な苦難や困難の時に、私たちの信仰が、苦難や困難に押しつぶされないための大きな支えとなってくれることは、間違いありません。けれども、それは押しつぶされそうになったときの信仰の支えとはなっても、その困難や苦難を乗り越えていく力となるかというと、ちょっと頼りない感じがしないでもありません。というのも、苦難や困難というのは、現実の問題です。そして、現実の問題に接して苦しんでいるのは、生身の私たちであり、生身の私たちの心です。私たちが、頭で理解した受け止めたことは、現実の問題で苦しみや悩む心を支えてくれるものとなりますが、その苦しみや悩みを実際に乗り越えていくのは、私たちの心です。ですから、私たちの心自身が力を得、その力によって苦しみや悩みを乗り越えていかなければなりません。

だからこ、私たちは神の豊かな愛と恵みの中でクリスチャンとなり、神を「アバ、父よ」と呼べる、人格的な親しい関係に入れられているのだと言うことを、心が受け止めていなければならないのです。心が、受けていれていてこそ、心の内側から力が湧いてくるからです。私たちの教会は、日本ホーリネス教団に属していますが、この日本ホーリネス教団の神学的基盤は、ウェスレアン・アルミニアンと呼ばれています。ウェスレアンと言う言葉は、ジョン・ウェスレーと言う人の名前から出ているものでありまして、ウェスレアン・アルミニアンという神学的立場は、このジョン・ウェスレーという人の神学的在り方に立脚しています。このウェスレーという人は、牧師の子供として生まれましたが、自身も1725年の22歳の時に英国国教会、日本で言えば聖公会が、これにあたりますが、その英国国教会の聖職者になる決断をします。ですから、少なくとも1725年時点で、ジョン・ウェスレーと言う人は、自分がクリスチャンであると言う自覚を持っていたことになります

けれども、その後、このジョン・ウェスレーはオックス・フォード大学に学びますが、そこで「ホーリークラブ」と呼ばれる、クリスチャンの集まりを作ります。その「ホーリークラブ」厳格で規則正しい信仰生活がなされるのですが、ウェスレーが、このような。厳格で規則正しい信仰生活を送ったのは、一つには自分の魂を救うためであったとも言われています。ウェスレーは、極めて理知的な人でした。そして、確かにキリスト教の信仰を持っていたのです。この当時の英国国教会の中では、キリスト教の信仰を信じると言うことは、教会が持つ信仰の内容に対して、理性的に同意することであると考えられていたようです。そして、そのような考え方は、どうやらウェスレーの中に合ったようです。まさしく、先ほど申し上げたように、頭で理解し納得したことが、ウェスレーの信仰を支えていたのであります。しかし、心が、自分はクリスチャンであり、神を信じていると言う事実を、なかなか受け止められないのです。だからこそ、厳格で規則正しい信仰生活を起こることで、自分の魂に救いの事実を確認させようと頑張っていたのかも知れません。

そんなウェスレーの姿を見てか、ジョン・ウェスレーの父、サムエル・ウェスレーという人は、その臨終の間際に、ジョン・ウェスレーに「息子よ、キリスト教の証拠、極めて強い証拠は内的な証、内的なあかしなのだ」とそう言い残して、この世を去ります。つまり、自分が神に罪ゆるされ、神の子とされたのだという事を、私たち自身がしっかりとした確信を持って受け止めることができるのは、信仰の内容に対して、理性的に同意するということや、厳格で規律正しい生活を送ると言うことによっては、満たされることができないのです。もちろん、それらは、大きな助けとなり支えとなることは間違いありません。そういった意味でも。信仰の内容をきちんと理性的に知り、受け止めると言ったことや、厳格で規則正しい信仰生活を送ると言うことは、私たちの信仰にとって、極めて有益です。

けれども最も大切なのは、私たちの心に、私たちがクリスチャンであり、イエス・キリスト様の十字架の死によって、私たちの罪が贖われ、私たちは、罪とその裁きである死から救われたのだという、私たちの心内に明らかにされる内的な証拠なのです。この事を、ジョン・ウェスレーに強く教える事件が起こります。ウェスレーは32歳の時に、イギリスからアメリカのジョージアに伝道に出かけます。このジョージアに伝道に出かけた目的もまた、自分の魂を救うためでした。そのような中、ジョン・ウェスレーはアメリカに向う船の中で、激しい嵐に遭います。船が激しく揺れ、遭難の危険にさらされる中で、ジョン・ウェスレーは死の恐怖におびえます。ところが、そのような激しい嵐の中にあっても、静かに落ち着いて賛美歌を歌う人たちがいました。

彼らは、モラビア派と呼ばれるクリスチャンたしでした。ウェスレーは、当初、このモラビア派の人たちを、愚鈍で頭の切れない人たちだと、少し小馬鹿にしたような感じで見ていたようです。いわば、知的ではなかったのです。けれども、その知的ではないと思われる人たちが、自分が死の恐怖におびえている中でも、静かに、神に祈り、心に平安を持って賛美歌を歌っているのです。ウェスレーは、モラビア派の人たちに、「死ぬのは恐くないかとたずねます。」すると、彼らは、男生も女性も、子供さえも、「死ぬのは恐くない」と答えるのです。そこで、ウェスレーは、モラビア派の牧師のシュパンゲンベルグという人をたずねます。それは、あの死ぬかも知れないような嵐の中であっても、死を恐れず心静かに神に祈り、静かに賛美をささげる人たちの姿に、自分が求めていた魂の救いを確かに持っている人の姿を見たからです。

ウェスレーがたずねたシュパンゲンベルグは、ウェスレーに質問しました。「あなたは、あなたのうちに証がありますか。神の御霊は、あなたの霊と共に、あなたが神の子であることを証しておられますか」。そう訊ねるのです。このシュパンゲンベルグの問いかけは、まさに今日のテキストのローマ人への手紙8章16節の言葉そのものの問いかけです。それは聖書に書き記されていることですから、ウェスレーもこのような神の御霊が、私たちの霊と共に、私たちが神の子であると言うことを証すると言ったことが理屈の上であることを、頭では知っていました。しかし、それがまさに自分の内的な証の経験として経験されたことはなかったのです。この時から、ジョン・ウェスレーの聖霊による内的な証を探求する歩みが始まりました。

そして、ついに1738年の5月21日に、ロンドンのアルダスゲートという町で行なわれていたモラビア派の集会に出ていたとき、ウェスレーは、その集会でルターの「ローマ人へ手紙のための序文」が読まれているときに「心が不思議に燃やされるのを感じ、自分は救われるために、ただキリストだけに信頼したと感じた」という経験をするのです。そして、「この私の罪をキリストが取って下さり、罪と死との律法から私を救って下さったと確信した」というのです。これは、ジョン・ウェスレーのアルダスゲートの回心という有名な出来事ですが、このアルダスゲートの出来事によって、ウェスレーは聖霊の導きによって自分は罪から救われクリスチャンになったのだと言うことを、深く確信したのです。

それからのジョン・ウェスレーの働きは、後の世に大きな影響を与えました。それは単に信仰の世界にとどまるだけではなく、資本主義と言った経済制度にまで及んでいると言われています。それはひとえに、このウェスレーのアルダスゲートの経験という、聖霊なる神が、ウェスレーにあなたは確かに神の子でありクリスチャンだよと言う信仰の事実を、ウェスレーの心の内側に証し、確信させて下さって出来事にあるのです。そして、私たちの教会は、また私たちの教会が属する日本ホーリネス教団も、このウェスレーに繋がる、ウェスレアン・アルミニアンの伝統に立っているのです。確かに、ジョン・ウェスレーという人は傑出した人物です。そのウェスレーの、自分はイエス・キリスト様の十字架によって、自分の罪とその裁きから救われ、神の子となったと言う信仰の事実を、聖霊なる神によって、心に深く確信させていただいたと言うことは、ウェスレーが傑出した人物であったという、そのことによるのではありません。

ウェスレーのアルダスゲートの経験と同じように、あなたは確かに神の子でありクリスチャンだよと言う信仰の事実を私たちの心の内側に、聖霊が明らかに証してくださり、私は確かに神の子だという確信を持つことができる経験を与えて下さるのです。というのも、それは、私たちがクリスチャンとして生きていくその歩みが、決して平坦な楽な道ばかりとは限らないからです。私たちがクリスチャンとして生きていくとき、そこには悩みや苦悩や困難といった苦しみが必ずあります。クリスチャンだからこそ、悩むことや苦しむこともあるのです。たとえば、聖日である日曜日に礼拝を厳守するといったことに忠実であろうとするならば、仕事のことや地域とのこと様々な困難に向き合わなければなりません。時には、周囲と折り合いを付けなければならないために、私たちの信仰的良心の痛みを感じることもあるだろうと思います。

また、献金や奉仕にしても、よろこんでお金や時間をささげることが出来るかと言ったことに対しても、それが出来ることもあるでしょうが、そのことに葛藤を感じる事もあるだろうと思います。また互いに愛し合い、赦し合おうとしても、愛せない、赦せない自分の現実に愕然とし、そんな自分に悩み苦しむこともあるだろうと思います。また、自分の罪の現実の打ちひしがれてしまうこともあるかも知れません。それこそ、私たちの周りには、沢山の信仰の勝利と、沢山の信仰の敗北があるのです。そして信仰の勝利を得たとしても、また信仰の敗北を感じるようなときでも、そこには、クリスチャンであるからこその、様々な苦しみや悩みや葛藤があります。そのような、苦しみや悩みや葛藤のなかにあっても、私たちが神の子として、しっかりと信仰にたち続けることのできるための力は、この聖霊なる神の内的な証によってもたらされる、私はイエス・キリスト様によって罪ゆるされて神の子となったという確信に立つ以外ないのです。

だからこそ聖霊なる神は、ウェスレーと言った傑出した人物にだけでなく、私たちにも、私たちが神の子であることを証して下さり、私たちは神の子となったのだという信仰の事実を確信させて下さるのです。このように、聖霊なる神は、絶えず私たちの心の中に、私は神の子であると言うことを、実感の持てる経験として、私たちの心に受け止めさせようとして下さっています。ですから、私たちは、この聖霊なる神の働きかけを見落とさないようにしなければなりません。そして、私たちが、「ああ自分は、イエス・キリスト様の十字架によって罪が贖われのだ、救われたのだ。そして、自分は神の子とされたのだ」と感じられた時があったならば、どうかその経験を忘れないで、心に刻み込んでいて欲しいのです。その信仰の内的な確信の経験が、あなたの悩みや苦しみ、困難や葛藤の中にある時に、それを乗り越えさせる信仰の力を、あなたの心の内に生み出すからです。信仰の内的な確信。私たちはその経験を大切にし、その経験を、心にしっかりと持っていたいと、そう願います。

お祈りしましょう。