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羊飼い 『大きな希望を与える信仰』
ローマ人への手紙 8章18−30節
2004/10/31 説教者 濱和弘
賛美  1、395、474

さて、本日の礼拝説教のテキストは、「わたしは思う、今のこの時の苦しみは、やがて私たちに表わされようとする栄光に比べると言うに足りない。」という言葉で始まっています。この「今の時の苦しみ」という言葉は、その「苦しみ」と言う言葉からみても、また聖書の文脈の流れから見ても、その直前にある17節との関わり合いの中で、語られていると言っても良いだろうと思います。そこで、ローマ人への手紙8章17節に何と書かれているかというと、こう書かれています。「もし子であれば、相続人である。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするたに苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」このローマ人への手紙の著者であるパウロが、「キリストの栄光を共にするために苦難をも共にしている」と言うときに、何を思っていたかというと、それはイエス・キリスト様の十字架と復活であろうと思います。

イエス・キリスト様というお方は、私たちの罪、それは単に行いにおける罪や、思いにおける罪、それだけではなく、私たちの心の奥に潜み、私たちを罪に誘う、罪の傾向性と申しますか罪の性質までに至るまでの全てを完全に赦しを与えるために十字架に貼り付けられて死なれました。それは、私たちの罪に対して下される神の裁きを、私たちの身代わりとなって受けて下さったものであり、それにより、私たちは罪とその罪の裁きから救われたのです。だからこそ、その罪と、その罪の裁きから救われた証として、主イエス・キリスト様は私たちの罪の結果である死から復活なさったのです。しかし、ここで、私たちはこの罪の結果である死と言うことを、ただ単純に、私たちの体の医学的な意味での死としてだけ捉えるべきでありません。少なくとも。聖書が捉える死は、そのような肉体における医学的な意味での死というものも含んでいますが、それだけにとどまらず、もっと大きな意味で死を捉えていると思われるからです。

例えば、創世記1章16節から17節にはこのようなことが書かれています。「主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままにとって食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」この神の命令に対して、最初の人であるアダムとエバは、「食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬであろう」という神の言葉に反して、その善悪を知る木の実を取って食べてしまうのです。ところが、「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」と神は言われましたが、この善悪を知る木の実を食べて、アダムとエバは直ちに死んだわけではありません。私たちが、この私たちの体を死に追いやるような食べ物を想像するならば、底には人を肉体の死に追いやる何やら毒物のようなものが入っているものを想像します。けれども、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」といわれた、善悪を知る木の実を食べたアダムとエバは、そのような状況に陥ってはいません。

むしろ、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べてどうなったかというと、創世記の2章8節にこう書いてあります。「そこで、人とその妻とは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」つまり、アダムとエバとは、神の命じた「あなたは園のどの木からでも心のままにとって食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。」という言葉に従うことの出来なかった不従順さのゆえに、神の前に出て行くことが出来なくなったのです。このことは、神と人との関係がうまくいかなくなったことを意味しています。うまくいかない気まずい関係になったからこそ、神の前に出て行くことが出来ず、神の顔を避けて身を隠すようになったのです。ですから、アダムとエバが神の命じる言葉に聴き従わず、善悪を知る木の実を取って食べたことによって起こったことは、神と人との関係が壊れてしまうということでした。そういった意味では、神と人との関係が壊れ断絶してしまうと言うことが、神と人との関係における「死」であると言うことも出来るのです。

私たちは、このような神と人との間に起こった関係における「死」を、私たちの霊的な死と言うことができるだろうと思います。この霊的な死があったがゆえに、創世記3章19節において「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰る。」という、体の死の問題が語られるのです。考えてみますと、体の医学的な意味での死も、私たちの命が肉体と断絶することです。動物を使ったある実験があります。それは子供が死んでしまった母親が、その子供の死を死として受け止めるかという実験です。そうすると、一般的に動物は、子供が死んで体が腐敗し始めると、その子供の死骸から離れるようです。つまり、肉体が朽ちると言うことを通して死と言うことを知り受け止めているのです。それはまさに肉体が朽ちると言うことを通して、命と体との関係が失われた「死」という現実を捉えるのです。ですから、そういった意味では、「死」という言葉は、まさに大きな意味では関係が壊れ、失われてしまうことだと言えます。

ですから、イエス・キリスト様が、十字架にかかり死んでくださり、私たちを、私たちの罪とその罪の裁きから救ってくださり、その救われた証として、主イエス・キリスト様は私たちの罪の結果である死から復活なさったということは、神と私たちの間の壊れてしまった関係が回復したということの証だとも言えるのです。つまり、イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死が、私を罪から救い、私の罪に対する神の裁きから救うものであったと信じる者は、神との和解を得、神の子とされたのです。もちろん、神と人との間の霊的な死が、私たちの肉体の死に繋がっていますから、神と人との関係に和解は、私たちの肉体の死も克服に繋がります。ですから、キリスト教の信仰は、この世の終わりの時にもたらされる、神の国の到来と肉体の復活という将来の希望に繋がるものでもあるのです。このようにやがて来る将来の希望をも含んだイエス・キリスト様の十字架と復活を思いつつ、パウロ私たちは「キリストの栄光を共にするために苦難をも共にする」というのであり、その苦難が「今の時の苦しみ」として、私たちの前に置かれているのです。

この「今の時」というのは、ただパウロが生きている時代と言うことではありません。確かに、イエス・キリスト様が十字架の上で死んでくださり復活してくださったことで、私たちの罪の赦しは完全に成し遂げられました。しかし、この世の終わりにおける神の国の到来と肉体の復活という将来の希望が現実になっていないのです。この将来の希望が現実になるまでは、どの時代のどの地域に生きる者も「今の時」を生きるのです。ですから、私たちも、今、この日本において「今の時」を生きるのです。そして、その「今の時」を生きるには「キリストの栄光を共にするために苦難」が多くあるのです。この「キリストの栄光を共にするために苦難」は、一つには、先週も触れましたが、私たちがクリスチャンとして、神の言葉に聴き従いながら生きて聞くことによって感じる悩みがあります。それは、この現実の世界のすべてが、必ずしも聖書の神を認め、聖書の神の言葉に耳を傾けて生きる世界ではないからです。

それは、日本のようにキリスト教の信仰や、その信仰に裏打ちされた文化ではなく、むしろその国独特の宗教事情を背景に持つ国においては、顕著に現われてきます。けれども「キリストの栄光を共にするために苦難をも共にする」苦難は、それだけはありません。というのも、キリストの栄光を共にするために苦難をも共にする」苦難は、その内容は、イエス・キリスト様が味われた苦難です。その、イエス・キリスト様が味われた苦難とは、まさに十字架なのですが、それは、いわば人の罪と神の裁きの狭間に立つ苦難だと言えます。人間の罪の現実に身を置くことによって味わう苦難であると言っても良いのかも知れません。このイエス・キリスト様の苦難を共にするとき、私たちも私たちの罪の現実の中に身を置くことによって味わう苦難を共にするのです。それは、関係が壊れてしまった中に身を置くことによって味わう苦難です。

人間の罪の現実、それは、私たちの様々な人間関係のトラブルや争いといったものの中に現われてきます。そういった意味では、私たちが生きている世界の中で、人と人とのエゴイズムのぶつかり合いや、国と国とのエゴイズムのぶつかり合いが、様々な問題や争いが実際にあるのです。例えばそれが、様々な犯罪とか戦争といった大きい悪から小さい悪を生み出していく。そう言った中で、私たちは、神様がいらっしゃるならば、どうしてこのような悪が存在するのだろうかと悩むのです。もちろん、これらは人間の罪の問題が現実に反映したことです。私たちが、私たちの心から神を排除してしまうことによって起こってくる問題です。もし、私たち心が、しっかりと神に向き合っていたならば、私たちはこのような悪から遠ざかっていきことが出来るのです。そういった意味では、私たちはこの人間の罪によって生み出される、社会の問題に対しては、自分自身が、まず神を信じる信仰、イエス・キリスト様を信じる信仰を持つことで、それに向き合いながら生きることが出来ますし、希望を持つことが出来ます

けれども、私たちひとりひとりが、どんなに「神を信じる信仰、イエス・キリスト様を信じる信仰」に生きてとしても、解決の付かないような出来事にぶつかることがあります。先日、インターネットを見ておりますと、ある方が書かれた悲痛な叫びが目に飛び込んできました。その文章のタイトルは「何故、神は罪無き子に試練を」というもので、新潟の中越地震で土砂崩れに巻き込まれてなくなった親子のことについて書かれた「今日は新潟の母子ニュースのショックで心穏やかでありませんので」というたった一言の言葉でした。しかし、その言葉の背後には、神様がいらっしゃるならば、どうしてこのような悲惨な自然災害で悲しみと苦しみの中に置かれる人々が出てくるのかという、極めて厳しい問を、それを読んでいる神を信じる私に突きつけてきたのです。

人間がもたらす様々な犯罪や、戦争やテロといったものの背後には、人間の罪が渦巻いています。ですから、それに対して何らかの行動を起すことが出来ます。例えば、今回のイラク戦争に対して抗議の声を挙げるとか、犯罪をなくすための様々な努力をすると言ったことができないわけではありません。それは、私たち人と人との関わり合いにおける倫理の上の人間の罪の問題だからです。しかし、今度の地震や台風と言った天災は、人間の問題と言うよりもは自然の問題なのです。天地創造の神がお造りになった自然と人との関わり合いの中で起こる悲惨な出来事に対して、一体なぜ神はこのような災害をもって、悲しい出来事を起すのかと問われると、私たちは言葉をなくしてしまうのです。

もっとも、最近はモルトマントいった神学者が、人間と自然との関係の中で罪の問題を捉え、人間と自然との関わり合い方を含んだ、生態系全体の関係が破壊されているといった見方をするようになってきています。これはこれで卓越した見方であり、今日のテキストにあるローマ人への手紙8章19節以降にあるパウロの言葉に相通ずるものがあります。パウロは、19節以降で、人間の罪の結果、被造物全体が虚無に服しているというのです。私たち人間の罪が、単に人間の社会の問題だけでなく、自然の世界にもその影響を及ぼしているというのです。私たちは、自然の脅威の前にさらされると実に無力な存在です。阪神大震災や、今回の中越地震、あるいは台風の被害などを見ますと、一体私たちはどのようにして自然の脅威に立ち向かえばいいのかわかりません。実際、当初は予測することが出来ると言われた東海大地震ですら、今では明確に予測することは難しいと言われています。また、地震に限らず、台風の猛威や火山活動などの自然の猛威は、私たちには解決できない、どうすることも出来ないものです。

けれども、その私たちにとって恐るべき脅威となる自然も、滅びのなわめから解放され、神の子たちの栄光に入ることを望んでいるというのです。もちろん、自然そのものに、何やら望みを持つような意志があるというわけではありません。ひょっとしたら動物には、動物なりの意志があるかも知れませんが、私たちクリスチャンが、この世の終わりに訪れる神の国で、永遠の命を持っていくるような、そんな神の栄光への入れられるという具体的な望みを持っているという訳ではないであろうと思います。むしろ、自然が、あの阪神大震災や、今回の中越地震、あるいは台風23号のように、自然の脅威として私たち人間に対峙して、私たちを苦しめる存在となるのではなく、むしろ、私たち人間にとって、いつも変わらずに、麗しい存在となるという希望を、聖書は私たちに告げているのです。

ですから、イエス・キリスト様の十字架と復活という罪の赦しの業は、単に私たち人間の罪や罪深い罪の性質というものを赦し贖うだけに終わるものではありません。イエス・キリスト様によって完成された、その救いのみ業は、神のお造りになった世界、宇宙の隅々にまで行き届くようになると言う、実の壮大な神の救いの計画がそこにあるのです。私たちにはどうしようもない、自然の脅威と言ったことさえも、神の救いのみ業はちゃんと視野に入れているのです。そういった意味では、私たちが立ち向かっても、決して解決が付けられないような自然と人間の対峙も解決するのだとそう聖書は言っていると考えても良いだろうと思います。それほどまでにイエス・キリスト様の救いの御業は大きいのです。そして、それほどまでに大きな救いのみ業だからこそ、私たちには大きな希望があります。私たちには決して解決が付かないと思われる問題にも、神は希望を与えることが出来るお方だからです。

私たちは、到底解決することが出来ないと思われるような問題に直面することがあるだろうと思います。いえ必ずあるのです。それは、まさに、実に大きな今の時の苦しみだと言って良いのかも知れません。しかし、私たちは、その今の時の苦しみに決して絶望に陥ることも、失望に悲嘆することもしなくていいのです。それは、私たちには決して解決できないと思われる、自然と人間の間にある関係のほころびでさえ、神はちゃんと修復し麗しいものにしてくださるという将来の希望が示されているからです。そのような壮大な将来の希望の光が、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の信じる私たちには、確かにのものだからです。そして、聖霊なる神は、そのことを私たちの心に、それが確かなものであると確信させてくださるのです。ですから、この望みに生きる限り、私たちは今の苦しみがどんなものであっても、それが苦しみで終わってしまうことがありません。たとえその今の苦しみというものが、私たちの肉体の「死」というものであったとしても、それが苦しみと苦悩のままで終わる事はないのです。

ある意味では、「死」という現実ほど、今の私たちにとって苦しみとなるものはないのかも知れません。天災と言った自然の脅威も、それが私たち人間の肉体の「死」と結びつかなければ、それは乗り越えられないような脅威ではなくなるからです。けれども、イエス・キリスト様の十字架の赦しは、復活という出来事を通して、その肉体の「死」の克服をも含む、完全な救いなのです。この事を信じる信仰に私たちが生きるならば、それは神が与えてくださる確かな将来の希望です。そしてその希望が、私たちに今の時の苦しみを耐え忍び、乗り越えていく力を与えてくれるのです。

お祈りしましょう。