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羊飼い 献堂記念礼拝
『光り輝く生き方』
ピリピ人への手紙 2章12−18節
2004/11/21 説教者 濱和弘
賛美  22、376、270

今日は、私たち三鷹キリスト教会の献堂記念礼拝です。 私たちは、私たち三鷹キリスト教会の教会堂がここに建てあげられ、礼拝が守られ、信仰が伝えられてきたことを、神に心から感謝しなければなりません。そして、そのような信仰が伝えられてきた結果として、今日笹澤明子さんの洗礼式が、持たれることを心から喜びたいと思います。洗礼式は、笹澤さんがイエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じ、その罪が赦されイエス・キリスト様の体なる教会に繋がることをしめす、大切な信仰上の出来事です。そして、それは、神と無関係に生きていた生き方に別れを告げ、神と深い関わり合いの中で生きて行く、新しい生き方を歩み始めたことの証でもあります。その新しい生き方の具体的な内容は、ここに集っているお一人お一人とは異なった、笹澤さんでなければならない、まさに笹澤さんらしさの中で表現されていく生き方です。そういった意味では、教会に集うお一人お一人は、決して他の誰かと同じ生き方をする必要はありません。神様は、教会に召し集められた神の民一人一人が、その人らしい生き方をすることを望んでおられると、私は信じて疑いません。教会は、そのような一人一人の個性が生かされ、一人一人の独自性が寄り集まって、初めて一つの教会となることが出来るからです。

けれども、どんなに沢山の個性や独自性豊かな生き方が寄り集まったとしても、教会という神の民の群れに集められた一人一人の生き方の中に、一つの共通点がなければなりません。その共通点とはそれは、先ほどお読み頂きましたピリピ2章15節に記されている言葉の中に示されていると言うことができるであろうと思います。そこにはこう記されています。「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の異なるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で、星のように輝いている。」昨夜は、あいにく月が明るく輝いていましたので、東京では星はほとんど見えませんでした。星というのは、闇夜であればあるほど、暗い空にあって美しく輝くものであります。もし、世の中が暗い世相でなければ、私たちクリスチャンの光が、人々の目に止まることはないのかもしれません。けれども、星が点在する夜空が、暗ければ暗いほど、夜空に浮かぶ星は輝いて見えます。そのように、私たち聖書の神を信じるものは、世の中が暗い世相であるならば、そのくらい闇を照らす光となって輝かなければならないのです。

このピリピ人への手紙が書かれたのは、古代のローマ帝国の時代でした。古代ローマ帝国の時代、特に、このピリピ人への手紙が書かれたと考えられている1世紀半ば頃のローマ帝国は、道徳的にはかなり荒廃し始めていたと言える時代であったといえます。この1世紀半ばから、キリスト教はローマ帝国内の著しい広がりを見せ始めるのですが、ある方は、このようなローマ帝国内でのキリスト教の進展の理由を、このように言っておられました。それは、圧政と道徳的な荒廃の中にあったローマ帝国内で、例えば、純潔と言うことを大切にしたクリスチャンの生き方や人に見捨てられたような病人を、手厚く介護するクリスチャンの愛を基盤に置いた生き方が、当時の人々の心をゆり動かしたのではないかと言うのです。まさに性的に退廃した中で、性的な純潔さと家族愛に結ばれ、また周囲の人にも愛を持って接し、仕え助け合い、希望を持って生きていたクリスチャンの生き方があったのです。そのような姿こそが、パウロが言う「あなたがたが責められることのない純真なものとなり、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を持って、彼らの間に星のように輝いている。」という、光り輝く生き方であったのだろうと思います。

そして、そのような道徳的荒廃という暗やみの中にあったからこそ、そのようなクリスチャンの生き方は、夜空で光り輝く星のようになって、人々の心に輝いていたのです。けれども、そのように光り輝いた生き方をするためには、「自分の救いに務めることが大切だ」とそう言っています。今日のテキストのピリピ人への手紙1章12節です。そこにはこう書かれています。「私の愛する者達よ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、私が一緒にいるときだけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて、自分の救いに務めなさい。」従順ということは、相手の言葉によく聞き従うことです。ですから、ピリピという町ににあった教会の人々は、パウロの語る言葉に良く耳を傾けて聴き、その言葉に聴き従っていたのでしょう。パウロは、あなたがたはいつも従順であったとそう言うのです。

もちろん、パウロがあなたがたは従順であったとそう言うとき、それはパウロの語る言葉に対して従順であったと言うことです。しかし、それは、パウロと言う人に対する従順さというよりもは、パウロの伝えたキリスト教の信仰を伝える言葉に対して従順であったと言うことだろうと思います。だからこそ、「いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて、自分の救いに務めなさい」とそういうのです。自分の救いとは、罪からの救いです。パウロがピリピの人々に伝えたキリスト教の信仰は、「私たちは神の前に罪人であり、イエス・キリストが、その私たちの罪を赦すために、私たちの変わりに十字架についてしんでくださったのだ。そして、それを信じる、神を見つめながら生きていくものは、神から罪が赦され、罪とその罪の裁きから救われるのだ」ということです。この言葉に、従順に耳を傾けて聴き従うときに、私たちは罪から救われるのだとパウロはそう言うのです。

従順になって、相手の言葉に耳を傾けて聞くことができるためには、自分自身が謙遜にならなければなりません。まず自分が謙虚になってこそ、あいてのことばをきくことが出来るのです。自分が、相手より優れたものであるとか、優ったものであると思っていると、相手の言葉に耳を傾けて聴き従うと言うことなど出来ません。そして、この謙遜さや、謙虚さが失われますと、人は傲慢になったり、高慢になったりします。実は、聖書は、この高慢さや、傲慢さを罪と呼ぶのです。というのも、私たちが高慢になり、傲慢になるときに、人は正しく生きることが出来なくなるからです。確かに、私たちの心の中に傲慢さや高慢さがあるならば、仮に過ちに陥ってしまったときに、蒼の過ちを忠告し、正しく軌道修正するための助言の言葉に耳を傾けて聞くことができなくなってしまいます。そういった意味では、私たちの心の中に高慢さや、傲慢さがあるならば、その高慢さや傲慢さは、私たちを正しく生きることが出来なくしてしまうのです。ですから、私たちが、パウロが伝えた信仰の言葉に、従順になって神を信じる信仰の言葉に耳を傾けて生きない限り、私たちは神の前に過った生き方をしてしいても、決してそれを神の前に正しい方向に軌道修正できないのです。

昨日、私は息子と一緒に剣道の稽古に出かけました。そこには、ときどきアメリカから来られたブライアンサンという方が稽古にお見えになっています。稽古が終わって、一人の方が、ブライアンさんに、今回のアメリカ大統領選挙についてどう思われますかとたずねました。そうすると彼は、「あのような結果になって、本当に申し訳ない。」とそう謝るのです。「さらに、どうして、あんな結果になるのか理解に苦しむ」ともいっていました。もちろん、私を含めて、いろいろなものの見方があるだろうと思いますし、政治的信条もあるでしょうから、ブッシュ政権がどうこうと言ったことを、この教会の講壇から皆さんに述べることが目的ではありません。しかし、世界中の多くの国々や、多くの人々がブッシュ政権が交代することを期待していたこと確かなことだろうと思います。それは、ブッシュ政権が、多くの国々と強調しながら外交や国際問題を解決していこうとするのではなく、アメリカの一国主義に基づいて政治を行ない、外交や、国際問題に望むからです。そのもっとも顕著な例が現在のイラク戦争に端的に表れていると言えます。ところが、このブッシュ政権の継続に大きな力となったのは、実は、アメリカの保守的なキリスト教会であり、クリスチャン達であったと言うことも、紛れもない事実なのです。

もちろん、日本の多くの保守的なクリスチャン達や教会は、イラク戦争を支持していませんし、ブッシュ政権の政治手法に疑問を呈したり、具体的に抗議を述べたりしています。どうして、このような違いが生まれてくるのか。理由は様々あるだろうと思いますが、一つにはアメリカの保守的なクリスチャンは、このイラク戦争を神の正義と関係づけて捉えていると言うことがあるだろうと思います。と同時に、それ以上に超大国としてもアメリカという国のおごり、言うなれば傲慢さや高慢さがそこにあると言って良いのではないかと思うのです。そのような傲慢さや高慢さがあるからこそ、自分たちの行動が神の正義を行なっている行動だと言うことが出来るのかも知れません。けれども、結果として、あのイラク戦争は、闇夜に光り輝く星のようなものではなく、むしろ今の世の中に、もっと混乱や暗やみをもたらしてしまっているように思うのです。

そして、私たちを暗やみに光り輝く星のような生き方に導かないものであるとするならば、それがなんであろうと、決して神の前に正しい生き方ではないのです。神の前に正しい生き方でないものは、人の前に正しい生き方でないことは言うまでもありません。神は真実で正しい方だからです。だからこそ、私たちは、この神との関わりの中で、神と向き合って生きていくことが大切なことになってくるのです。けっして神と無関係であってはならないのです。私たち一人一人は、自由が与えられています。それこそ、自由な思いと自由な願いの中で生きていくことが出来ます。まさに、この自由は私たちに与えられた人間が持つ生来の基本的人権の一つであると言えます。けれども、この私たちの自由が、神と無関係に行使されていくならば、その自由はいとも簡単に「わがまま」や「エゴイズム」にすり替えられていきます。というのも、自由は「自己中心」と極めて結びつきやすい性質を持っているからです。

そのような「自己中心」と自由が結びついたとき、それがどんなに大きな問題となって現われてくるかということは、最も自由を大切にし、自由を謳歌しているアメリカや日本を見れば良くわかります。そこには、犯罪が横行し、性的な乱れや、道徳的な荒廃が確かに広がっていっている現実を見ることができます。ならば自由を制限すればよいかというと、必ずしもそうとは言えません。そこには自由が制限された北朝鮮や中国のような状況を垣間見ることになります。確かに、自由は私たち一人一人にとってなくてはならない大切なものです。結局、この自由を、本当に素晴らしいものにするかどうかは、私たち一人一人に架かっていると言うことが出来ます。私たちの持つ自由を自己中心的なエゴイズムやわがままと結びつけるのか、それとも、神というお方と結びつけて生きるのかが問われるのです。そして、今私たちが生きている社会は、確かに自己中心的なエゴイズムに結びついた社会であり、神とは無関係な社会です。私たちも、私たちの子供たちも、そのような社会の中で、犯罪や暴力や道徳的荒廃、性的退廃といった様々な社会問題の中で生きていかなければなりません。

そう言った意味では、私たちはだんだんと暗さを増していくような時代の中で生きていると言って良いのかも知れませんし、私たちは自分達の子供を、また教会に集う子供達を育てていかなければならないのです。だからこそ、私たちは、星のように光り輝く生き方を失ってはなりません。私たちが、光り輝く星のような生き方を失ってしまったならば、私たちの子供や、私たちの周りにいる人々、教会の周りにいる人々も、光り輝く生き方を見失ってしまうのです。ですから、私たちは、決して神と無関係な生き方に身を置いては行けないのです。神に目を向け、神と関わり合いながら生きかなければなりません。私たちは、私たちの内側にある「自己中心」や「エゴイズム」といった聖書が罪の根源であると言ったものがあることに気付き、またそれらが具体的な罪の行為になって現われた罪を神の前に認め、その罪を赦すためにイエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりになって死んでくださったと言うことを信じることが大切なのです。

そこには、私たちの罪を赦そうとする、神の愛があります。そして、その愛は、ご自分のいのちまで投げ出して、私たちを赦そうとするほどの神なるイエス・キリスト様の愛なのです。そのような、深い愛で愛された者は、愛することを学び愛する者となります。そして他者のために生きるものとなることが出来る。また、そのような愛で赦されたものは、人を赦すことが出来るものとなっていくことが出来ます。また、人が赦すものとなっていくことが出来るところには、和解の出来事が起こってきます。そう言った生き方こそ、憎しみが憎しみを生み出しているような現代社会、また道徳的に荒廃していくような世相の中で、光り輝く星のような生き方となって、暗やみに輝くことが出来るのです。ですから、今日ここに集われたお一人お一人は決して神と無関係な生き方の中を生きるのではなく、神を見上げ、神との関わり合いの中で生きる者になって頂きたいとそう願います。

また私たち三鷹キリスト教会が、また教会に集う一人一人が、光り輝く星として、私たちの子供や家族に、また私たちの周りにいる人たちに希望の光を照らす者になっていきたいとそう願います。ちなみに、私の母は、私が大学に入り、上京する際に、自分はクリスチャンでもないのに、「東京に行ったら必ず教会に行くんだよ」とそう言いました。それは、自分の息子が教会に行けば、決して道を踏み外すことがないだろうと思ったからです。都会という様々な誘惑が渦巻く中に置かれても、教会に行けば、自分の息子は過ちを犯すことがないだろうと、そう私の母は思ったのです。それは、教会は、真実で聖く正しく神との関わり合いの中で生きているからです。そして、それが、まさに都会という真っ暗な闇のように思われる世界の中で、光り輝くような存在だったからです。ですから、私たちは、この真実で聖く正しく神を見上げて歩む、神の民の群れとしての教会を、これからも気づきあげていきたいとそう願います。

お祈りしましょう。