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羊飼い 降誕節第2週
『平和をもたらすみどり子』
イザヤ書 9章1−7節
2004/12/7 説教者 濱和弘
賛美  21、429、88

ここ1,2週間で街もすっかりクリスマスモードに入ったようで、商店街に限らず、普通の民家でもライトアップされたクリスマスの飾りが目に付きます。先週、私は、両親の引っ越しの手伝いで、月火と大阪に行って来ました。その際、家内の実家で車を借りたのですが、家内の実家のすぐ近くの家では、実物大以上に大きなサンタクロースの人形が、あたかもスパイダーマンよろしく、塀をよじ登ぼっている格好で飾り付けられ、電飾で飾られていました。聞くところによりますと、そのお宅は創価学会の方なのだそうですが、創価学会の方でも、クリスマスには、家を電飾でライトアップして飾るのです。それぐらい、クリスマスには、暗やみを照らす灯りが街を被うのです。まさに、そういった意味では、暗やみに灯りが照らされるとき、それがクリスマスのときであると言っても良いだろうと思わされます。

今日、司式者に呼んでいただきました聖書の箇所は、預言者イザヤによって、一人のみどりごが生まれるという預言が語られているところです。イザヤ書の9章6節にこう書かれています。「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は『霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和なる君』ととなえられる。」ここにおいて、言われている一人のみどりごというのは、イエス・キリスト様のこと指し示していると、キリスト教会は長い歴史の中でそう信じ、受け止めてきました。というのも、このみどりごが生まれるのは、9章1節に記されている、「苦しみのあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに栄光を与えられる。」その時のことだからです。

つまり、暗やみの中にある最中(さなか)に、差し込んでくる光として、ひとりのみどりごがわれわれのため生まれる、ひとりの男の子がわれわれに与えられるのだと、そうイザヤは預言したのです。この「ゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめがあたえられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに栄光を与えられる。」というイザヤの預言に対して、新約聖書のマタイによる福音書の著者は、それは、イエス・キリスト様が、救いの主キリスト様として、公に活動しはじめたときのことを指しているのだとそう言っています。それは、マタイによる福音書の4章12節から17節までです。そこにはこう記されています。「さて、イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海辺の町カペナウムに行って住まわれた。これは預言者イザヤによって言われた言葉が成就するためである。『ゼブルンの地、ナフタリの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった』この時からイエスは教えを宣べはじめて言われた。「悔い改めよ。天国は近づいた。」

このように、マタイのよる福音書の著者は、暗やみの中に住んでいる民が光を見る。その暗やみに差し込む光であるひとりのみどり子こそ、イエス・キリスト様であるとそう言うのです。だからこそ、キリスト教会は、ずっとずっと昔から、イエス・キリスト様こそ、このイザヤ書にある私たちに与えられるひとりのみどり子であると、そう受け止めてきたのです。もっとも、このイザヤ書9章1節から17節の言葉を語ったイザヤ自身は、自分が生きているその時代から700年も後に生まれてくる、イエス・キリスト様のことを明確に意識して、この言葉を語ったかというと、必ずしもそうとはいえません。イザヤ自身は、もっともっと身近なことを考えながら、この言葉を語ったようなのです。けれども、結果として、イザヤが語ったことはイエス・キリスト様のことを預言することになった。実は、ここに聖書の不思議さと神様の知恵があります。

私たちの国を代表する旧約学者のお一人に浅野順一という先生がおられます。この方は、青山大学にまだ神学部がある頃、その青山大学神学部の大学院で教えておられました。私たちの教団でも、亡くなられた千代崎先生などが、この浅野先生の教え子になります。この浅野順一先生が、旧約聖書を研究していく中で、旧約聖書の預言の中に一つの構造があることに気が付かれました。それはこういうことでした。イスラエルの預言者は、非常に身近な社会現象、それはイスラエルの民の不信仰や、その不信仰のゆえに起こる、不正や暴虐といったものを指摘し、それが罪であることを指摘します。そしてその罪のゆえにイスラエルの民が神に裁かれることを告げ知らせるのですが、結果として、その身近な神の裁きの宣告が、更に遠い未来にやってくる更に大きな神の審判、つまり最後の審判をも指し示しているのだというのです。

それは、神による救いの恵みも同じです。イスラエルの民にもたらされる神の裁きを告げる預言者は、イスラエルの民が、自分の罪を悔い、神に立ち返るならば、そこに神の恵みと祝福が回復されるという救いのメッセージも語ります。この救いの出来事は、目の前にいるイスラエルの民に対する救いのメッセージですが、これもまた裁きの宣告と同じように、目の前の救いの出来事を通して、更にずっと先にある、より大きな救いの出来事を語っているというのです。つまり、イスラエルの預言者が、より身近な問題から神のメッセージを語っているその内容は、それに重なり合うような遠い将来の出来事をも伝えていると言うことです。そういった意味では、私たちは、イザヤがこのイザヤ書9章の言葉を語った背景を知ることによって、そこに言い表された暗やみに光を差し込ませるイエス・キリスト様というお方がどのようなお方であるかということを、より鮮明に知ることが出来るはずです。

そこで、このイザヤ書9章1節から17節がどのような背景の基に語られたかというと、おおよそ、このような状況であったと考えられます。イザヤは、南ユダ王国でウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤという、4人の王様のもとで、預言者として活動しましたが、この9章の言葉を語ったころは、前後関係から見て、アハズ王の時代であったろうと思われます。このアハズ王の時代は、アッシリアという大国が、近隣の国々を攻め滅ぼす脅威でありました。そこで南ユダ王国とは同じイスラエル民族で、もう一つの国を作っていた北イスラエル王国は、このアッシリアと対抗するために、シリア、その中心的な町の名を取ってダマスコともいいますが、そのシリアという国と手をむすび、アッシリアに対抗するための反アッシリア同盟を作ります。この反アッシリア同盟に南ユダ王国も入らないかと誘われるのですが、その誘いを断るのです。そのため、南ユダ王国は、この反アッシリア同盟の北イスラエル王国とシリアから攻撃されることになってしまいした。

そこで、困ったアハズ王は、こともあろうにアッシリアに助けを求めます。結果として、アッシリアは、この反アッシリア同盟の北イスラエルとシリヤを打ち破り、南ユダ王国は、取りあえず目先の難はのがれます。しかし、アハズ王は、そのようにアッシリアに頭を下げて救援を求めたことによって、アハズ王は、アッシリアの王ティグラテ・ピレセルに会うために、ダマスコに行きます。そのことによって、南ユダ王国に、さまざまなダマスコのあった偶像信仰が持ち込まれたのです。そして、人々の間には偶像崇拝やオカルト的なことが広がりはじめた。それがイザヤ書8章の後半に書かれている記述だと言えます。周りの国々は、アッシリアに滅ぼされ植民地のようにされていく状況を見、また自分の国の南イスラエル王国も、偶像礼拝やオカルト的なことが蔓延していくような社会情勢を見ながら、イザヤは、軍事力の強い大国に頼ったり、偶像やオカルトに頼ったりせずに、ただイスラエルの神、つまり聖書に記されている、天地創造の神により頼まなければ、この国も北イスラエル王国と同じように滅んでしまう。ただ、聖書の神のみに頼らなければならないとそう言ったのです。

実際、9章の1節には、「さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられた」とありますが、ゼブルン、ナフタリという地名に代表される北イスラエル王国のほとんどの地域は、アッシリヤによって滅ぼされたのです。イザヤは、そのような状況を見ながら、ただ神により頼みながら歩んでいくならば、私たちの未来には希望があることを示すのです。それは、戦争と争いの中で、暗やみに暗澹とした時代に平和という希望の光を差し込ませる、救い主となるようなひとりのみどり子が生まれるからだというのです。それが、6節の「ひとりのみどり子がわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれにあたえられた。」というのです。そして、このみどり子こそ、イザヤの時代から700年以上も後に生まれるイエス・キリスト様というお方が、重ね合わされるようにして言いあらわされている。

ですから、イエス・キリスト様というお方は、争いのあるところに平和をもたらし、支配と暴虐に満ち、不安が満ちているところに、平安をもたらして下さるお方だといえます。それは、このみどり子がうまれるところには、暗やみに光が照り、農業をする人々が借り入れをするときのような喜びがあり、人々を虐げ、重い苦しみと苦痛を与える支配者のムチが折られ、戦争が終わり戦場ではかれる靴や戦闘服が焼き払われるときだからです。イエス・キリスト様がお生まれになるところには、このような喜びと平和と、安心がもたらされるのです。しかし、そのようにイザヤによって預言されたイエス・キリスト様がお生まれになったのに、今だ世界には戦争があり、争いがあり、不安と恐れがあります。また不正や暴虐が横行しているのです。なによりも、イエス・キリスト様が人となられたときに選ばれたユダヤ民族自体が、世界で最も争いの場となっているパレスチナ情勢の中にあるのです。いったいイザヤの預言はどうなってしまったでしょうか。イエス・キリスト様は平和をもたらすみどり子ではなかったのでしょうか。

私たちはもう一度預言者イザヤの預言に立ち返って見なければなりません。イザヤは、一体何を伝えようとして語ったのか。そのように、このイザヤの言葉が語られた背景に立ち返ると、そこには大切なことがあります。イザヤは、人々が、大国の軍事力に頼るのでもなければ、偶像礼拝やオカルト的な力にたよるのでもなく、ただ聖書に表わされている天地創造の神のみにより頼むときに、希望の光となるみどり子が生まれるといっているのです。そう考えますと、私たちの時代の世界は、必ずしもこの聖書の神を信頼し、天地創造の神により頼っているかというと、必ずしもそうであるとは言えません。むしろ、軍事力や経済力により頼みながら生きているのが現状だと言えます。そのような状況では、如何にイエス・キリスト様がお生まれになって下さったという歴史的事実があっても、このイエス・キリスト様は平和の王として、この世に平和をもたらすことが出来ないのです。

私たちが、このお方を拒否しているからです。だとしたら、私たちの住む世界には希望がないのでしょうか。平和の君であるお方が、せっかくこの世に来て下さったのに、その方が受け入れられず、拒否されている現実の中で、不安ではなく平安に満たされ、喜びに満ちあふれるようになることは出来ないのでしょうか。ここで、私たちはもう一つのことを思い出したいと思うのです。それは、イスラエルの預言者が語る預言は、身近な状況のことと重ね合わせながら、遠い未来のことを語ると言うことです。ですから、国と国との戦争や、人が人を支配し、不正が横行し、暴虐が行なわれている現実の世界を見る限り、本当の平和は遠い未来のことだと言わざるを得ません。実際、平和な世界と不安と恐れがない世界というのは、イエス・キリスト様の再臨と神の国の完成という将来のことのように思えます。けれども、それは私たちの身近な生活と重なり合っているところの将来なのです。ですから、私たちが、聖書の神を信頼し、聖書の神を信じより頼んできていくならば、私たちは、まず私たちの身近な生活の中から、平和で平安と喜びに満たされる生活が始まっていくと言える。それは、まさに預言の持つ性質だからです。

それは、何よりも私たちの心の中から始まります。私たちが、聖書の神に記された天地創造の神を信じ、そのひとり子であるイエス・キリスト様を私たちの罪の救い主であると信じ、このお方に信頼し、寄りすがりながら生きていくときに、まさにイエス・キリスト様は私たちの心に生まれて下さいます。2000年前に、あのイスラエルのベツレヘムという小さな村に起こったクリスマスの出来事が、私たちの心に起こるのです。そして、神を信じ、キリストにより頼んで生きる私たちの心に、ひとりのみどり子が生まれ他ならば、このお方が、私たちの人生の様々な困難や試練のときにも、慰めを与え、平安を与え、喜びに心が満たされるようにして下さるのです。そして、それは、ただ単に心の中の平安や喜びと言うことだけにとどまりません。家庭の中に、イエス・キリスト様が生まれて下さったならば、家庭の中に平和が訪れ、喜びが訪れて来ます。

私自身何度も経験したことですが、私たち夫婦はかなりなかの良い夫婦だと自負しています。けれども、それでも何度かは大きな喧嘩をしたことがあります。でもそんなに大げんかをしても、どちらかがお祈りしようといって祈りの場に座ると、仲直りするのです。どんなに激しく言い争っても、ひとたび祈りという神の前に座し、イエス・キリスト様の前に座するところに出てきたならば、平和の神が争っていた私たちの間に和解をもたらし平和を生み出していくのです。イザヤは、この私たちに与えられるみどり子は「霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と唱えられる。と言っています。まさにみどり子の名は「霊妙なる義士」であり「大能の神」であり「とこしえの父」「平和の君」なのです。この「霊妙なる義士」と言う名前を、新改訳聖書は「不思議な助言者」と訳しています。英語では「wonderful counseler」です。そのように、喧嘩し言い争っている私たちの間に立って、不思議な助言を与えるかのようにして、和解させ平和を生み出してくれるのです。

このような、家庭に平和をもたらす「ひとりのみどり子」がせっかく、私たちに与えられているのに、私たちの家庭は、このお方に寄りすがって生きているのでしょうか。夫婦の間に、親と子の間に問題や軋轢があり、言い争ったり仲違いをしているようなことがあっても、私たちには、解決の方法が与えられているのです。それは、神を信じ、イエス・キリスト様に寄りすがって、このお方の前に、互いが共に出ていくということ、具体的には一緒にお祈りすると言うことです。夫婦の間で、親と子の間で、共に祈ると言うことがなされていくならば、どんなに激しく言い争い、お互いが深い溝を感じていても、そこには和解と平和が生み出されてくる。せっかく神を信じるものの家庭には、このような平和を生み出す、「ワンダフル・カウンセラー」「不思議な助言者」が与えられ、祈りという手段が与えられているのに、もし私たちがそれを使っていなかったとするならば、何ともったいないことでしょう。そしてそれは、神を信じる者達の家庭だけのことではない、神を信じる者達の群れである教会や、クリスチャンの集まる交わりの中についても言えることです。

私は、信徒であった時代や牧師として、いくつかの教会に身を置きました。その数は10を超えます。また聖書学院やPBA、そのほかの超教派の交わりなども10を超えるクリスチャンの交わりの中に身を置きました。クリスチャンだけの交わりや世界というのは、それはそれで、素晴らしいことや、良いところもたくさんあるのですが、クリスチャンだけの交わりだからこそ、起こってくる問題も以外とあるものです。私は、この教会ではそのような思いになったことがないことを、本当に幸いに思いますが、しかし、教会によっては、教会というクリスチャンの交わりだからこそ、激しく傷つけられたり、そこにいることが嫌になってしまうような現実があることも否定しがたい事実です。けれども、そのようなことがあっても、私たちひとりひとりが、神を信じ、問題の解決を神にゆだね共に祈っていくことが出来たなら、神は私たち一人一人の助言者となり、私たちのかたくなな心さえも、その大能の力で解きほぐし、平和を生み出して下さいます。

以前にもお話ししたことですが、昨年ミッション生としてご奉仕下さった松木修養生のお父様は、教団委員長をなさった松木祐三牧師でした。松木先生が、教団委員長をなさっていたときには、実の難しい問題がいくつかあり、松木先生はそれらの問題の解決に、委員長として人力を尽くし解決してこられましたが、その一つに、私たちホーリネス教団の戦争責任の告白がありました。第2次世界大戦後、50年を節目にして、日本のキリスト教の諸教派が、戦後50年を振り返りつつ、日本にあるキリスト教会としてどのように戦争と関わったのかと言うことを顧みて、多くの教派、教会が自らの戦争責任を告白し、悔い改めを表わしました。私たちホーリネス教団は、戦争中は弾圧をうけ殉教者を出すなどの苦渋の経験をしていましたので、従来は戦争被害者というイメージが強く、戦争加害者という意識は薄ものでした。しかし、過去の週報や、教団出版物が見つかる中で、私たちの教団も戦争責任があると言うことがわかってまいりました。しかし、戦争中に弾圧を受け殉教者を出したと言うことも事実で、この戦争責任の告白と悔い改めには、教団総会等で、意見が分かれそれなりに議論があったと聞きます。

そのような中で、松木先生は教団委員長の職にあったわけですが、私たちの教団の戦争責任の告白をどうするかということに取り組んでいく中で、ある教会が同じような戦争責任の問題が起こったときのことを聞いたそうです。その教会は、私たちの教団の教会ではなかったようですが、自分たちの教会の過去の資料を調べていくと、自分たちの教会も戦争協力をした事実がわかってきたそうです。そして、戦争を知らない若い世代の人たちから、戦争責任の罪を告白し、悔い改めるべきだという議論が起こってきました。しかし、その教会の長老や役員の中には、その当時の教会にいた人たちが残っていたのです。戦争当時の戦争協力の罪を告白し、悔い改めるということは、その人達のしてきたことを罪として追求し糾弾することにもなります。そんなわけで、教会の中の人間関係が、なんだかぎすぎすしてキシミはじめてきたというのです。わかるような気がします。そんなとき、その教会では、その戦争責任の問題について、議論することよりも、みんなでそのための祈祷会を持ち祈り始めたというのです。

そうやって、みんなが祈祷会に共に集まって祈りはじめたときに、問題は知らない間に解決してしまい、教会に平和が訪れたというのです。まさに、教会のひとりひとりが、神の前に共に祈るために進み出るときに、平和の君としてのイエス・キリストが、そこに与えられた出来事だといえます。私たちは、戦争などはもうまっぴらです。争いでひとりの人も死なせたくはありません。しかし現実は、平和はまだまだ遠い未来のことのようです。だからこそ、私たちは、この平和の君であるひとりのみどり子なる神イエス・キリスト様がおうまれになったクリスマスのときに、神を信じる家庭で、神を信じる群れである教会で、お互いの間に平和を生み出していきたいと思います。そのために、私たちは一緒に祈るという方法を与えられているのです。そして、私たちが、家庭の中で平和を生み出し、教会の中で平和を生み出していくことこそが、やがて来るイエス・キリスト様の再臨のときに完成する神の国にある平和を預言する、今ここでの預言的な生き方なのです。

お祈りしましょう。