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羊飼い 降誕節第3週
『謙遜の神』
ピリピ人への手紙 2章1−11節
2004/12/12 説教者 濱和弘
賛美  2、239、89

さて、今、司式の方に呼んでいただきました、ピリピ2章1節から11節の中で、特に6節以降は、「キリストの謙卑」と言われる部分です。「謙卑」というのは、本来、高貴な立派な方が、へりくだって、自分を卑しくすることだと、そう考えていただければよろしいかと思います。つまり、神の御子であられるイエス・キリスト様が、神であられるのに、人間になられたというのです。もちろん、私たち人間が卑しい存在かというと、必ずしもそうではありません。私たち一人一人は、本当に尊い、尊厳ある存在です。しかし、そのような、価値ある尊い存在である一人一人の人間であったとしても、神というお方の前に立ち、神というお方と比べますと、決して胸を張ることが出来ないようなことがたくさんあります。

私たち日本にある神社の中には、人間が神となってまつられている神社が多くあります。例えば天神様は、学問の神として菅原道真が祭られれていますし、乃木神社には、乃木希典が祭られ、靖国神社には、多くの軍人が祭られています。そういった意味では、私たち日本人の感覚からすれば、人が何か立派な行いや、何か際だった働きをすると神となり、神社の奥に祭られ、だんだんと私たちと縁遠い存在になって行きます。けれども、神の独り子なる神イエス・キリスト様は、神であられるのに、私たち人間に近づいてきた下さり、近づくだけではなく、こともあろうに人間の姿をとって下さったと言うのです。しかも、単に外見だけ人間のような格好になられたというのではなく、まさに人間そのものになられたのです。新約聖書のヘブル人への手紙4章14節から16節(口語訳聖書ですと後ろの方の新約部分p347)に、このように書かれています。それは、イエス・キリスト様がどのようなお方かと言うことが書かれているのですが、お読みします。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通って行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることの出来ないような方ではない。罪は犯されなかったかが、すべてのことについてわたしたちと同じように試練にあわれたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」ここには、神の御子であるイエス・キリスト様は、私たちと同じ試練にあわれ、私たちの弱さを知っておられるということが言い表されています。ですから、神であるお方が、姿だけ目に見える人間となって、上座に鎮座して崇められ、誉め称えられたというのではなく、私たちと同じような生活をし、同じような苦しみや悲しみをおって下さったというのです。まさに、ピリピ人への手紙3章6節以下に記された神であるキリストが人となられたという「キリストの謙卑」の内容が、このヘブル人へ手紙4章14節から16節に示されているといっても良いだろうと思います。

そして今は、クリスマスを控えたアドベント(待降節)の最中(さなか)であり、来週はクリスマスですが、このクリスマスこそ、イエス・キリスト様が人間となってお生まれになった日です。ですから、クリスマスは、「キリストの謙卑」が表わされた日であると言ってもよろしいかと思います。そこで、この神であるイエス・キリスト様が、わざわざ人間となり、私たち人間と共に住み、共に生きながら、私たしが経験する様々な試練や苦しみを味われた目的について、少し考えてみたいと思うのですが、先ほどのピリピ人への手紙2章6節から8節にはこう書かれています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえっておのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。そのありさまは人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順であられた。」このように、人となられた神イエス・キリスト様の、人としての生涯は十字架の死で終わりを告げています。しかも、父なる神のお心に従順に従って十字架の上で死なれたのです。ですから、イエス・キリスト様が人となって、私たちの中に住み、私たちと共に生き、私たちと全く同じようになって下さったのは、私たちの代わりに、十字架の上で死ぬためだったと言うことができます。

この十字架の死は、私たち人間が犯した様々な罪、それは人類全体の罪といった抽象的なものだけでなく、私たち自身の犯した様々な罪や、心の底にある醜さや、自己中心な物の見方や考え方に対する神の裁きを、私たちに変わって、その身に受けるためのものでした。私たち一人一人が、罪を犯したその罪を神の前に取りなし、赦しをもたらすために、神の一人子が、わざわざ人間になって、私たち人間の代表者として十字架の上で死なれる。そのために、イエス・キリスト様は、人になられたのです。それは、イエス・キリスト様が、私たちの事を思い私たちのことを考えて下さったからです。そのように、思い考えていたからこそ、人となるまでにへりくだられたのです。

ところが、そのような目的でなされた「キリストの謙卑」をピリピ人への手紙では、それに先立つ2章の1節から5節までのあとに置いているのです。そこで、2章1節から5節までにどのようなことが書いてあるかというと、「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つの思いになって、私の喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって互いに人を、自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりではなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。」

このピリピ人への手紙を書いたのは、パウロという人ですが、そのパウロは「どうか、同じ思いとなり、同じ愛の心を合わせ、一つの思いになって、私の喜びを満たしてほしい」とそう訴えています。それは、このピリピ人への手紙を受け取ったピリピというギリシャの一都市にあった教会に、パウロの心を心配させるような、仲違いが起こっていたからです。その仲違いは、同じピリピ人への手紙の4章をみますと、ユウオデヤという女性と、スントケという女性の間におこった仲違いのようです。しかし、この不仲は、2章の3節に「何事も党派心や虚栄心からするのではなく」と書かれてありますところからも伺われるように、もはや単に二人の問題だけではなく、ピリピの教会にユウオデアを中心としたグループとスントケを中心としたグループの対立と言ったような、個人的な問題では納まらないようなことになっていたようです。そのような、状況の中で、パウロは何とか仲直りをしてほしい、互いに仲良くして欲しいというそういう願いから、「キリストの謙卑」の話をするのです。それは、互いに仲直りをして、仲良くなっていくには、私たちの罪を赦すために、神であられたのに、へり下って人となって下さったイエス・キリスト様の生き方を、思い出しなさいと言うのです。

しかし、一体どうして、この「私たちの罪を赦すために、神であられたのに、へり下って人となって下さったイエス・キリスト様の生き方を、思い出す」ことによって、仲直りが出来るのか?私なりに考えてみました。そのとき、ふっと一つのことが思い起こされてきたのです。それは、自分自身のこと、実際には私たち夫婦のあいだにあったことですが、まあ仲直りのことを考えているわけですから、当然と言えば当然ですが、要は夫婦げんかのことを思い出したのです。それは、私たち夫婦の間の夫婦げんかの中では、最大級の喧嘩の中の一つでしたが、原因はさておき、私は、その時の夫婦げんかの最中の私の気持ちを思い出されてきたのです。その時私は、家内に「馬鹿にされている、見下されている」とそう思っていました。ところが、喧嘩の最中に家内が、喧嘩中の独特のトーンで「あなたなんか、わたしのこと馬鹿にしているでしょう」と、そう怒鳴ったのです。そのとき、わたしは不思議な驚きを感じました。私は、怒りの中で「自分は馬鹿にされている、見下されている」と思い、激しく怒っている。言うまでもないことですが「自分は馬鹿にされている、見下されている」とするならば、本当なら、相手は優越感をもち、「自分の方が優れている」とそう思っているはすです。

ところが、優越感をもち、「自分の方が優れている」と思っているはずの家内も「自分は夫から馬鹿にされている、見下されている」とそう思っていたのです。これでは、その時の喧嘩が最大級の夫婦げんかの一つに数えられるのも当然です。というのも、喧嘩の場合、どちらかが悪くて、どちらかが義しいならば、悪い方が義しい方に対して謝れば問題は解決していきます。あとは、謝られた方が赦しさえすればいいのです。けれども、私たちの場合、お互いに相手が自分を「馬鹿にしている、見下している」と互いに思い合っている。もし、本当に、私が自分の家内に対して、馬鹿にし、見下したような態度をとっていたのであれば、「あなた、私のことを馬鹿にしているでしょう」と言われたときに、自分が相手を見下していた態度を謝れば、ともかくも問題は解決の糸口を見いだせるのです。そのような、相手を見下したような態度が喧嘩の原因だからです。ところが、私たちの場合は、お互いが、相手が自分を見下していると思っているのですから、問題はこじれる一方です。

けれども、それでもまあ、お互いが「相手に見下されている」と思っているわけですから、裏を返せば、お互いに相手を「馬鹿にしている」と思っているわけでもなければ、見下しているわけでもないということになります。ですから、問題がこじれて、私たち夫婦にとっては最大級の夫婦げんかの一つにはなりましたが、夫婦の間に亀裂を産み出すまでの喧嘩ではなかったのです。けれども、この時、もしお互いが、互いに「あいつは自分より劣っている。自分の方があいつより優れている」と思っていたら、どうなっていただろうかと思うのです。お互いが「自分の方が優れている」とそう思っていたら、相手の言葉などに耳を傾けることは出来なくなります。いえ、お互いと言うことだけでなく、どちらかが一方だけが、「自分の方が優れている」とそう思っていたとしても、そのような関係は、どこかできしみ始め、やがては亀裂が入って修復が出来なくなってしまいます。

仮に、馬鹿にし、見下したとおもわれるような態度であっても、本当に「自分の方が優れている、あいつの方が自分より劣っているんだ」と思っていなければ、そのような態度を謝ることが出来るでしょう。けれども、本当に「自分の方が優れている、あいつの方が劣っている」と思っていたとしたら、相手の言葉にしっかりと耳を傾けて聞くことなどできなくなるからです。もちろん、「能力的に優れている、劣っている」といったことは、実際上は存在します。けれども、だからといって「自分は相手より優れている」と思っているならば、お互いの間に意見の違いが出たときに、相手の意見に耳を傾けることが出来ません。自分の意見の方が正しいと思うからです。

先日、ある方から相談を受けました。それはその方が務めている会社で、上司とうまくいかなくなったと言う相談でした。その上司となる方は、実際に実績を残してきていることもあり、自分に自信があり、そのため、彼をはじめ、他の部下の誰の意見も聞いてくれないというのです。そのため、部下と上司が対立し人間関係もうまくいかなくなり、そして、自分がこうだと思ったことだけをやらせられるので、仕事に対する意欲がそがれてしまうと、そう言うのです。もちろん一般企業ですから、利益を上げるという目的のためには、みんながみんな自分の思うことを勝手に出来るわけではありません。けれども、相手の言うことに耳を傾けて聞くならば、対話が生まれてきます。そして、そこに対話があったならば、仮に自分の意見が通らなくても、仕事に対する意欲がそがれると言ったことは起こりません。企業における上司と部下の関係は、はっきりとした上下関係にもとずく権威の構造があります。立場的には一方が秀でた立場にあり、一方が劣った立場にあるのです。そのような関係の中で、上の立場にある者が、部下の言うことに耳を傾けず、一方的に自分の意見を押しつけていくならば、結果として、うまくいかなくなった一例です。

もしその上司が、神であるイエス・キリスト様の様が、へりくだって人となって私たちの間に共に住まわれ、共に生きられたように、へりくだって部下の言葉に耳を傾け対話していたならば、きっと、そのような人間関係がうまくいかなくなるといったこともなかっただろうと思うのです。私は、その話を聞きながら、人ごとのように思われませんでした。自分はどうなのか。例えば親子関係においては、親は圧倒的に優位な立場、いわば上位者におかれます。また、子供の言うことは、自分勝手で、社会で到底通用しないようなことや甘い物の見方も少なくありません。けれども、親という、子供にとっては上位者にあるそう言った立場にあっても、へりくだって相手を認め、子供の言葉にちゃんと耳を傾けて聞き対話していたかどうかについては、問われる思いなのです。もちろん、子供も子供で、対話すると言うことにおいては、一方的に自分の言いたいことを良い、自分のやりたいことを何とか実現しようとするのではなく、相手の意見に耳を傾けて聞くと言うことも求められるのですが、やはり、そこには親を親として相手の言葉に耳を傾けるというへりくだりが求められます。

けれども、それでもやはり、へりくだって相手のことを思い、考えるという、「キリストの謙卑」に倣う生き方が大切なのです。そうすれば、私たちは、色々な行き違いはあるかも知れませんが、仲良くなることが出来ます。また、仮に仲違いが起こり、仲良くできなくなってしまったような間柄があったとしても、へりくだり、相手のことを思い、考えるならば、関係を修復し、仲良くできるようになるのですところが、このへりくだると言うことは、本当に難しいことです。難しいことだからこそ、今、こうして「へりくだることの大切さ」を語る説教を氏ながら、自分自身に対して、親子関係の中で、自分はどうだっただろうか?あるいは教会の牧師としてどうだっただろうかと問わざるを得ません。いったいどうすれば、へりくだることができるのか?もし私たちが、相手に対してへりくだることが出来ないとするならば、私たちがへりくだることを阻害するものは、私たちの自尊心です。もちろん、ある意味、自尊心というものは、私たちにとってなくてはならない大切なものです。自尊心があるからこそ、私たちは前向きに生きていくことが出来ますし、頑張ることも出来るのです。

ところが、この自尊心は、一歩間違えると、高慢な心となります。そして、この高慢は、へりくだると言う言葉の反対の意味の言葉なのです。私たちの自尊心は、自分自身に栄光をもたらそうとします。栄光は、人から誉められ、賞賛されることです。ですから栄光は、私たちの自尊心を十分に満足させてくれます。ですから往々にして自尊心は栄光を求め、その栄光を、自分は人よりも優れてものとして、人と自分を計る尺度に用いるようになると、自尊心は、高慢な心となっていくのです。この高慢な心を聖書は罪の一つに数えています。人と自分とはかり、自分は人よりもすぐれた者だとして自分に栄光を帰する、そこに、私たち高慢な心となって、私たちを、神の前に罪人に定めるのです。私たちにとって、本来はなくてはならない自尊心ですが、その自尊心が自分自身の栄光を求めはじめると高慢という罪の心になっていく。だからこそ、このピリピ人への手紙を書いたパウロは、2章の11節で、イエス・キリストが人となり私たちの罪のために十字架について死なれたのは、「あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰すためである。とそう言うのです。

私たちが、イエス・キリスト様を私たちの罪の救い主として信じ、このイエス・キリスト様の生き方を模範として生きるならば、私たちは、すべての栄光は父なる神に帰する生き方に導かれます。なぜならば、イエス・キリスト様ご自身が、神と等しいお方、つまりは神であられるのに、神よりも低い人間になられ、神に栄光を帰される生き方をしたからです。このお方を信じる生きるものは、このお方にならい、すべての栄光を神に帰しながら生きていく者となるのです。すべての栄光を神にお返しする以上、もはや私たちの自尊心は、栄光を求めることは必要ありません。人から誉められることや人からの賞賛といった、人からの栄光がなくても、私たちの自尊心は、神から与えられる救いという栄光で十分に満足できるからです。そして人からの栄光を求めない自尊心は、決して高慢という、私たちのへりくだろうとする心を阻害する者とはならないからです。

ユウオデアとスントケという二人の女性によって、教会を分裂させるような亀裂を産み出しそうになったピリピの教会に対して、仲直りして欲しいと願ったパウロが示した解決の道は、「キリストの謙卑」に倣う、互いにへりくだるということでした。そして、それは、どんな仲違いをも解決に導く道なのです。クリスマスは、その「キリストの謙卑」が、具体的にこの地上に示された最初の日です。ですから、私たちは、このクリスマスの時に、心から「イエス・キリスト様は、私たちの主なる神であり、私たちの罪の救い主である」と告白したいとそう思います。そして、イエス・キリスト様の謙卑を、私たちの模範とし、互いにへりくだって、相手のことを思い、相手のことを考える生き方を生きたいと思います。そうすれば、私たちは仲良く生きることが出来るようになるのです。そして、それこそ、クリスマスに込められた神の願いの一つなのです。

お祈りしましょう。