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羊飼い クリスマス記念礼拝
『出合いの不思議な導き』
マタイによる福音書 2章1−12節
2004/12/19 説教者 濱和弘
賛美  76、86、79

今日は、クリスマス礼拝であります。もっともクリスマス自体は、12月25日です。しかし、教会で、クリスマスをお祝いする礼拝は、通常、クリスマス直前の日曜日におこなっているところが多く、私たちの教会もそのようにしています。ですから、今朝の礼拝は、神の独り子なるイエス・キリスト様が、この世にお生まれ下さったことに、深い感謝の気持ちを持ちながら、礼拝を捧げなければなりません。それは、神の独り子であるお方が、人間の姿に身をやつし、私たちと同じようになられることで、人を罪とその罪ゆえに神から下される、罪の裁きから救い出す「救い主」となって下さったからです。そして、今、司式の方にお読み頂いた箇所は、その救い主であられるイエス・キリスト様がお生まれになった時の出来事についてマタイが書き記した所の一部分であります。そこには、イエス、キリスト様の誕生を知った東の博士たちの事が記されていますが、それはおおよそ、次のようなことです。

イエス・キリスト様がベツレヘムにお生まれになったとき、遠く東からやってきた博士たちがエルサレムにやってきて、ヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたはどこにおられますか。私たちは東の方でその星を見たので、その方を拝みに来ました。」と言います。この言葉を聞いたヘロデ王をはじめ、エルサレムに人々もみな不安を感じたというのですから、この東の国からやってきた博士たちの事や彼らが語った言葉は、当時のエルサレムの町の人たちには、かなり広く知れ渡っていたのかもしれません。もちろん、ヘロデ王が不安感じたのは、この博士たちが言う、ユダヤ人の王が自分の地位を脅かす様な存在になるのではないかと恐れたからであろうことは、ほぼ間違いがないだろうと思います。だからこそ、祭司長たちや律法学者達を呼び集めて、キリスト様がどこにお生まれになるかを調べさせ、殺そうとしたのです。この様なヘロデの思惑のもとからでた命令ではありましたが、ともかくも、祭司長たちや律法学者達は、旧約聖書ミカ書5章2節の言葉から、キリスト様がどこで生まれるかを突き止めます。それが、マタイによる福音書2章6節に記されている「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの君達の中で、決して小さいものではない。お前の中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう。」という言葉なのです。

しかし、この言葉は、単にベツレヘムという町でキリストがお生まれになると言うことを示しているだけで、具体的にいつ、ベツレヘムのどこで生まれたかは明らかにされていません。実際、この東からやってきた博士達は、新約聖書のオリジナルの原語であるギリシャ語では、マゴイ(μαγοι)となっており、本来はメディア人で、ペルシャ帝国内で占星術や自然科学、哲学、などに秀でていた人たちであったようです。そんなわけで、彼らは東から来たと書かれていますが、どうやら現在のイラクあたりからやってきたと考えても差し障りがないように思われます。そう言ったわけですから、エルサレムに到着するまでには、砂漠を越えた長い距離を旅してこなければなりませんから、この東の博士達がキリスト様の誕生を知らせる星を見てから、エルサレムに到着するまでには長い時間が掛かったものと思われます。だからこそ、マタイによる福音書2章16節でヘロデ王が、キリスト様を抹殺するために2歳以下の男の子をみんな殺したのです。つまり、少なくとも東の博士たちがベツレヘムに到着するまでには、2年近い歳月がたっていたのです。

もちろん、当時のベツレヘムは小さな村でした。それでも、そう簡単にお生まれになったキリストに出会うというわけには行きません。そう簡単にいかないからこそ、ヘロデ王は、ベツレヘム付近にいた2歳以下の男の子をことごとく殺したのです。ところが、この東の博士たちは、早々簡単にはいかないはずのイエス・キリスト様の居場所をちゃんと突き止めています。それは、彼らが東方で見た星が、彼らをイエス・キリスト様の居る場所迄導いたからだとそう言うのです。もちろん、この記事を書いたマタイは、イエス・キリスト様の誕生に関する一部始終を見ていたわけではありません。ましてや、マタイはエルサレムやベツレヘムから遠く離れたカペナウムの人です。東方の博士たちの来訪に関しては、先程も述べたように、エルサレムの町でもうわさになったことのようですので、あるいは知っていたかも知れません。しかし、博士たちを星が導いたと言う出来事は別です。それは、誰もが知っていることではないのです。そのことを知っているのは、当の博士たち自身と、おそらく、そのあたりのいきさつを聞かされたであろうマリヤとヨセフと言った限られた人だったと思われます。

ですから、この話はマリヤから伝え聞いたことによって、聖書に書き留められる出来事になったのです。つまりは、マリヤにとっても、博士たちが星に導かれてたずねてきたと言うことは、心に残り、人に語り伝えるような不思議な出来事だったのです。このように、東の博士たちとイエス・キリスト様の出会いは、星の不思議な導きによって起こったのです。考えてみますと、人と人との出会いそれ自体が、不思議なものです。旧約聖書箴言30章18節19節に、このような言葉があります。「わたしにとって不思議に絶えないことが三つある、いや四つあって、私には悟ることができない。すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うヘビの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである。」この言葉は、マッサの人ヤケの子アグルの言葉であるといわれますが、彼が最も強調したかったのは四つめに挙げられていることだと考えられます。つまり男が女に出会うということは、実に不思議なことだというのです。もちろん、ここで男と女が出会うということは、男と女が出会い深い結びつきの中で結ばれていくような、そんな出会いです。それは単に偶然という言葉では片づけられない不思議な出会いであるというのです。

実は、この箴言の言葉は、私たちが結婚式を挙げたときに、その式の中で説教をして下さった聖公会の司祭の文屋義明先生が、説教のテキストとして用いられた言葉です。そして、人と人との出会いは、例えば、安易に神の思し召しなどと言う言葉片づけてはならない、実に不思議なことであり、驚きの感情と共に畏れおののきながら、その出会いの事実を受け止めなければならないということ述べられたのですが、それは、まさにこの聖書の言葉の言わんとする、その通りであろうと思います。それほど、人と人が出会い、深く結びつけられていくと言うことは、とても不思議で深遠な事なのです。ましてや、私たち人間と、神の独り子であるイエス・キリスト様が出会い、深く結びつけられていくと言うことは、もっともっと不思議で深遠な事だと言えます。

今日、私たちの教会は、先月に引き続き喜びの時を持ちます。それは、R.Y.さんが洗礼を受けられるからです。こうしてひとりの人が洗礼を受ける、それは実に喜ばしく、不思議なことです。洗礼は、罪人であった私たち人間が、自分自身の罪を悔い改め、その自分の罪に対する神の裁きをイエス・キリスト様が身代わりになって受けて下さったと言うことを信じ、その救い主イエス・キリスト様と私たちとが結びつけられることです。ですから、R.Y.さんが、今日洗礼を受けられると言うことは、まさに救い主イエス・キリスト様と出会い、イエス・キリスト様と結びつけられたと言うことの証でもあります。もちろん、R.Y.さんが洗礼に至るまでのいきさつについては述べて欲しいと言われれば、それを詳しく述べることはできます。それこそ、ご主人であるR.S.さんと出会われ、ご結婚なさり、そのR.Y.さんがクリスチャンであって、そのため教会に来られるようになってと、その経過は子細に渡って、説明はできるのです。

けれども、その経過の一つ一つには実に不思議が伴います。そもそも、日本では現在40秒に一組が結婚するそうですが、その中にR.S.さんとR.Y.さんのような出会いを経験し、その結びつきによって今日の洗礼式に至るようなカップルは、そう多くはありません。ましてや、そこに起こった出来事の一つ一つや、心の動きなどを詳細に負っていくならば、この世の中には、全く同じ歩みをする同じカップルなどは一つもないのです。ですから、そのようなことを考えてみますと、今日、R.Y.さんの洗礼式を持つと言うこと自体、驚きと畏れおののかなければならない不思議な導きの中で起こったことなのです。そして、それは、単純に神様のおぼし召しであったという言葉で片づけてはならないことなのです。なぜなら、私たちがイエス・キリスト様と出会い、イエス・キリスト様と結びつけられると言うことは、けっしてそれで終わることではないからです。それからの私たちの歩みを神のみ手の中にあって守り導き、これからの私たちの歩みを守り導くものだからです。

今日、この教会を含めて日本中、世界中で、このクリスマス礼拝に集っている一人一人は、そのような不思議な神の導きの中で、イエス・キリスト様がお生まれになったという歴史的な事実の前に向き合っています。それは、あの東方の博士たちが、星に導かれてイエス・キリスト様のいる場所に導かれたのと同じぐらいに、不思議なことです。たとえば、それは親がクリスチャンであり、そのために今日のクリスマス礼拝に出ざるを得ないと行ったクリスチャンホームの子供もいるでしょう。あるいは、家族や知り合いにたまたまクリスチャンがいて、クリスマスだからと言うことで教会に来たという人もあるだろうと思います。けれども、そうやってイエス・キリスト様のご生誕を記念し祝う場に、居合わせると言うことは、神の独り子イエス・キリスト様との出会いへ、不思議な導きによって招かれたのです。それは、イエス・キリスト様が、今日ここに集われたお一人お一人に深い関心を持っておられるからです。それは、イエス・キリスト様が、私たちの罪を神の前に取りなし、赦しを与えるためにこの世に生まれた救い主だからです。

もし、私たちが、神と人の前に一切の汚れや、心の醜さや、行いにおける罪がなければ、イエス・キリスト様は、私たちに何の関心も、関わりもありません。その人は、イエス・キリスト様を必要せずとも天国の狭い門をくぐって行けるからです。けれども、もし私たちの心に、また行いに悪いことや、汚れや醜いものが潜んでいるとしたら、イエス・キリスト様は、その人のことが気になって仕方がないのです。そして、気になって気になって仕方がないからこそ、その人と関わり合いが持ちたいと思い、ご自分の所へと招いておられるのです。私たちが、今日、こうしてこの教会で、そのイエス・キリスト様の誕生を記念し祝うクリスマス礼拝に共に出席していると言うことは偶然ではありません。そこには、神の不思議な導きがあるのです。ですから、その不思議な導きのことを私たちは決して忘れてはなりません。キリスト様の母マリヤが、東の博士たちが星によって不思議に導かれてきたことを、決して忘れずに伝え語ったように、私たちも、私たちが今日、こうしてイエス・キリスト様の誕生を祝うクリスマス礼拝に共に集ったことを決して忘れてはならないのです。

それは、私たちが、私たちの罪を赦し、互いに愛し合い、赦し合い、神の恵みの中で生かされる天国へと導かれていく、神の不思議な導きのなかにある出来事だからです。そして、このイエス・キリスト様のもたらす罪の赦しの恵みと天国への希望は、イエス・キリスト様を私たちの救い主として信じることからからはじまります。ですから、私たちは、今日ここで、神を信じ、またその独り子なる神イエス・キリスト様を信じる信仰に固く立って歩んでいきたいと願います。

お祈りしましょう。