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羊飼い 『神が共に歩まれる』
イザヤ書 43章1−7節
2005/1/1 説教者 濱和弘
賛美 : 11,247,340

今日、私たちは、私たちと私たちの教会が迎える新しい年を、まず神を礼拝することをもってはじめようとしています。昨年、私たちは礼拝について何回か学び会を持ちました。その最初のときに、礼拝という言葉が、聖書、特に新約聖書でどのような言葉で言い表されているかについてお話いたしました。そのひとつに神の民の奉仕という意味のレイトルギアという言葉があります。ですから、教会が一年の初めにまず礼拝を持ってスタートをするということは、この三鷹キリスト教会につながる私たちは、今年一年間も神に仕え、神に奉仕する歩みをいたしますという意思表示でもあります。その礼拝の説教のテクストとなる身言葉は、旧約聖書のイザヤ書43章1節から7節の言葉から、お言葉をおとりつぎさせていただきました。

この聖書の言葉は、神の言葉を民に取り次ぐイザヤという預言者によって語られた言葉です。このイザヤという預言者は、イスラエルの民が神の裁きを受けてバビロンという国に奴隷として連れ去られるということを、告げました。これは、バビロン捕囚と呼ばれる歴史の教科書にも載っている歴史的事件となり、実際に起こったことです。しかし、それだけではありません。イザヤは、イスラエルの民がそこで70年間奴隷として捕らえられ、その後に開放され、自分の国に帰ることができるということをも預言したのです。そして、それもまた現実になりました。このイザヤ書43章1節から7節は、そのイスラエルの民を開放するという神の救いの思いをつげらた部分です。その紙がイスラエルの民をお救いになるという思いは、神がイスラエルの民を愛しておられるからです。神のイスラエルの民を愛する思いが、奴隷である彼らをお救いになるという、神の強い意志となったのです。そのような神のイスラエルの民への深い思いを、アブラハム・ヘッシュルという人は、パトスと呼びました。

パトスという言葉は、日本語では、熱情と訳されています。神はイスラエルの民の状況をご覧になり、その状況に対して、激しい熱情を持たれ、人間に関わられるというのです。その人間の状況が、罪を犯しているならば、神の熱情は裁きという形で歴史的出来事となり、イスラエルの民に望みます。またイスラエルの民が、その裁きの中で苦しんでいるのならば、神の熱情は、救いという形でイスラエルの民に関わられ、歴史的出来事となっているというのです。人間が罪を犯す時には裁き、その裁きで苦しむ時には救いの出来事を起こされるというと、なんとも矛盾した感じがしないわけでもありません。見方によっては、神の気ままであるといわれても仕方がないよう感じさえします。けれども、旧約聖書に見られる一見神の気ままとも思えるような熱情を、神はイスラエルの民の歴史の中に何度も何度も表し、具体的な歴史的出来事を起こしているのです。そして、この預言者イザヤを通して語られる、裁きの預言と、救いの預言も、そのような神の熱情によるものなのです。

それは、神がそのような裁きと救いの出来事の繰り返しを通して、イスラエルの民を神の民として正しい歩みへ導こうとしておられるからです。そして、正しい歩みに導こうとする神の熱情を、私たちは愛と呼ぶことができます。神は、イスラエルの民を愛するがゆえに、彼らが罪を犯すときに、神の熱情は、彼らを正しい道に導かずにはいられないのです。だからこそ、イスラエルの民の罪を放っておくことができないのです。また、その罪のゆえに受ける裁きに苦しむイスラエルの民もまた放っておくことができないのです。結局、神は人間が罪を犯すときも、人間が罪の結果裁きの中にあるときも、私たちと共に苦しんで折られるのです。ですから、先ほどのアブラハム・ヘッシェルという人は、聖書の神は人間と共感する神だというのです。私たちの心と深く共感し、共感するからこそ私たちを正しく導こうとする熱情をもって私たち人間の歴史に関わられるのです。神が歴史に関わられるという事は、神が人間の歴史の営み、私たち教会の歩み、また教会に繋がる一人一人の歩みと共にいてくださるということです。

おりしも、今日のテキストとなったイザヤ書の53章1節から7節の中に、神が共におられるということが書かれている個所が2箇所あります。ひとつは1節2節で「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることがなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」もうひとつは5節で「恐れるなわたしはあなたと共におる。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたの子孫を東からこさせ、西からあなたを集める。」という言葉です。この二つは、共に「恐れるな。」という言葉によって導かれています。それは、イスラエルの民が、バビロンという国の奴隷となっていたところから、救い出されるという約束の出来事に直面するそのときに、「恐れるな。」と、そう言われるのです。

もちろん、このイザヤ書43章に先立つ42章の18節以降には、イスラエルの民に対する神の怒りと裁きが宣告されています。ですから、そのような裁きがあっても「恐れるな、そのような裁きがあなた方の臨んでも、私はあなた方とともにいて、あなた方を救う」という意味で「恐れるな」といわれたと受け止めることもできます。しかし、2節ある「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。」という言葉は、イスラエルの民にとって旧約聖書の出エジプト記に記されている遠い昔の出来事を思い起こさせる言葉です。実際、旧約聖書出エジプト記には、モーセに率いられて、奴隷となっていたエジプトから神によって救い出された出来事が記されています。このときに、イスラエルの民は、海の水が分かれた中を歩いてわたるという、壮大な奇跡を経験しています。イザヤはこのときの出来事になぞらえて「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。」といっているのです。

ですから、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることがなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」という言葉は、救いの出来事に望んだときに、「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」とそう言っているとも言えるのです。「恐れるな」という以上、そこには恐れを感じるような事態があるということです。ですが、救いの出来事とは、本来は喜ばしいことです。なのに、恐れなければならない事態があるというのは、どういうことなのでしょうか。

2節の「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。」という言葉は、イスラエルの民がモーセに率いられて、奴隷となっていたエジプトから神によって救い出された出来事になぞらえられています。このときのイスラエル民は、エジプトの地から救い出されて、神の約束の地であり故郷の地であるカナンの地に向かって旅発つそのときです。しかし、故郷の地とはいっても、そこは彼らのまだ見知らぬ地です。同じように、バビロンの地に奴隷となっていたイスラエルの民も、このバビロンの地で70年も過ごしているのです。ですから、神の救いによって開放され、彼らの故郷の地に帰るといっても、彼らもまた見知らぬ地に帰っていかなければならないのです。たとえそこが故郷であっても、そこが見知らぬ地であるならば、不安もあるでしょうし、そこで新しい生活を一からはじめて行くとなると、恐れを感じても不思議ではありません。まさに、私たちは新しい事態に向き合い、新しい出来事に足を踏み出していくときに、恐れを感じるものなのです。そして、今、私たちは新しい年を迎え、新しい歩みをはじめようとしています。

この新しい年の新しい歩みに、あのバビロンから帰ってこようとするイスラエルの民と同じように全たく見知らぬ地に出向いていく兄弟姉妹もおられますし、もちろん、そのような見知らぬ地に移り住むわけではない方々もおられます。しかし、この三鷹の地に留まろうと、新しい地に旅立とうとも、私たちは、すべからく、私たち一人一人がこの一年、日々新しいことと向き合いながら生きていくのです。そこにはまったく新しい出来事があります。その新しい出来事を通し、私たちは父なる神とキリストと聖霊の栄光を表していくのです。そうやって私たちは、神に対するご奉仕をしていくのです。そのような、新しい出来事に向き合っていくとしても、私たちは恐れたり、おじまどったりする必要はありません。神が共にいてくれるからです。「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることがなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」といわれる神が私たち共にいてくれるからです。

この神が、私たちと共にいてくださる限り、この神によって私たちは正しく導いてくださいます。ですから、私たちもまた、神とともに歩むということを心に留めなければなりません。私たちに神と共に歩むという意思がなければ、どんなに神が私たちを神が導く正し道を歩ませようとしても、それはできないことです。神は私たちの意志を超え、私たちの同意なしに、私たちの歩みを決定なさる方ではないからです。しかし、私たちが、神とともに歩み神の栄光をあらわそうとする意思をもって歩んでいくならば、神はいつでも、どんなときにでも私たちと共にいてくださり導いてくだいます。たとえそれ「水の中を過ぎ、火の中を行く」ような厳しい歩みであっても、神は私たちと共にいて、私たちを慰め支えてくださるのです。そして、そのような厳しい歩みであっても、私たちが紙に慰められ、支えられながら歩んでいくならば、それは、まさに神の栄光を表すところの歩みとなります。そして、それこそが、私たちの教会が元旦に礼拝することによって意思表示しているところの、神に仕え、神に奉仕する歩みなのです。

お祈りしましょう。