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羊飼い 『弱さをになう』
ローマ人への手紙 8章26−30節
2005/1/2 説教者 濱和弘
賛美 : 19,185,357

さて、11月の様々な行事や、12月のクリスマス等がございましたので、ずっと連続的にローマ人への手紙連続説教が中断しておりました。そこで、8章の1節からを振り返りつつ、今日のテキストとなりました26節から30節までを見てみたいと思います。そもそも、ローマ人への手紙は、私たちが神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰によって、私たちは罪から解放されているということを中心に、書かれています。その罪からの解放を、私たちは救いと言ったりしますが、その神の救いのみ業は、私たちがなした行いに対する報酬として与えられるのではなく。ただ、一方的な神の恵み(恩寵)にゆって与えられるものです。このような、神の救いの恵みが、私に与えられたということを、神は、私たちの心に聖霊なる神というお方のよって教えて下さいます。それによって、私たちが罪から救われ、神の子とされたのだということを、私たちの心に確かなものとして下さるのです。

そして、その聖霊なる神は、私たちの人生の歩みを導いて下さるお方でもあります。しかし、だからといって、その私たちの現実の歩みは、クリスチャンといえども、けっして平坦なものではありません。そこには、様々な困難や問題が数多くあるのです。それは、私たちの住んでいる現実の世界が神との関係に置いて断絶した世界であるということ深く関わっています。神と断絶するところに罪があり、罪があるところに悲しみがあるからです。けれども、そのような現実の問題や苦難の中であっても、神を信じて生きる者には、将来の確かな希望があります。というのも、イエス・キリスト様の十字架の死と復活は、私たちの罪を赦し神との和解を与えてくれるからです。そしてその神との和解はやがて来るイエス・キリスト様の再臨の出来事を通して完成するからです。この神との和解の完成として結実するのが、神の恵みが支配する神の国、天国だといえます。ですから、この将来の希望は神の国、天国への希望といっても良いものです。そして、この今の時のというのは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活によってもたらされた神の和解の御業の完成の途中にあって、希望を持って生きることが出来るものされていると言っていいだろうと思います。

しかし、以下に希望があるからといっても、私たちは今を生きています。そして今、ここでという場で如何に生きるかという現実は、やがて来る神の国という将来の希望だけではづけられない現実的な問題だからです。このように現実的な問題と申し上げますと、経済上の問題や健康上の問題などを思い浮かべられるかもしれません。もちろん、このような現実的な問題の直接的な解決も大切であり、その中に含まれているでしょう。しかし、私たちが、現実の中で如何に生きるかということは、直接的な物事の解決以上に、それに向き会う、私たちの態度や姿勢が問われるものであるといって良いだろうと思います。このような、私たちの態度や姿勢といったものは、私たちの内面と深く関わっています。それは、様々な問題にぶつかったときに、私たちがどのように感じ、どのように、それを受け止めるかということに、寄りかかっているからです。そして、そこには、苦悩や悩みといったものがあるのです。もし、表面上に現われている問題が、私たちの努力や、あるいは誰かの助けによって解決できるものであるならば、そこには本当の意味での苦悩や悩みといったものはありません。

それは、私たちの存在の根底を揺るがせないからです。しかし、努力や誰かの助けによっても、どうにもならないような問題、まさに私たちが抗えないような問題に直面しますと、私たちは本当に苦悩し悩むのです。旧約聖書には、ヨブ記と呼ばれるところがあります。これは、神の前に実に誠実に歩んでいたヨブという人に起こった、自分の存在の根底を揺るがすような、様々な試練の物語りについて書かれています。ヨブ記の1章1節を見ますと「ウズの地にヨブという名の人があって、その人となりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」とあります。そしてそのようなヨブに対して、神様は「わたしのしもべヨブように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者は世のいない」とまで言うのです。しかし、その神の言葉を聞いた、悪魔(サタン)は神様が、ヨブに対して守り、多くの祝福を与えているから、彼はあのように「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる」のだと言います。その悪魔(サタン)の言葉に対して、「それならば」といって、悪魔(サタン)が、ヨブに様々な試練を与えることをお許しになるのです。それによって、ヨブに様々な試練がおそってくるのです。

もちろん、当のヨブ自身は神様と悪魔(サタン)との間に、そのようなやりとりがあったなど知るよしもありません。ある日突然に、それまで幸福だった人生に、驚くような試練がおそってくるのです。最初は、自分の財産である牛やあるいは、自分の僕達が強奪されたり、あるいは天災で失われたりするというような出来事が起きます。それに加えて、自分の子供達も大風によって家が壊されるという災害によって死んでしまうのです。先日も、インド洋で大きな地震があり、津波によって12万人を超える方々がなくなりました。12万人といいますと、私の故郷の山口市の人口に匹敵する人数です。一つの市が全滅してしまうほどの災害の前では、私たち人間は抗うことはできません。このような大きな災害に出くわしますと、私たちは言葉を失います。そのような実に大きな悲劇の前には、力のないただ独りの人間として、言葉を失い立ちつくすしかないのです。自分ではどうしようもないところで、家族を奪われ、財産を失いただ呆然と立ちつくす、そういった意味では、ヨブもまた、あの津波の災害に遭われた方々と同じ悲しみの内にいたと言えます。それは、本当に深い悲しみでした。

聖書には、「この時ヨブは起きあがり、上着を裂き、頭をそった」とあります。上着を裂き、頭をそるというのは、深い悲しみを表わす表現だと言えます。このような表現がなされていることからも、ヨブの悲しみの深さをうかがい知ることができます。それは、自分の子供や家族が失われた時の悲しみを想像しても、おわかるになるのではないだろうかと思いますが、どうでしょうか。私は、子供が殺されたとか、事故や災害で死んでしまったなどというニュースを、なかなか見ることができません。自分の子供がもし、そのような目にあったらと思うと、胸が締め付けられるような思いになるからです。ですから、この時のヨブの心もまた、張り裂けそうな思いであったろうと思うのです。けれども、ヨブは、そのような中にあって、「、上着を裂き、頭をそり」ながらも、地に伏して神を拝し「私は裸で、母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」とそう言っているのです。

さらに、これも悪魔によって引き起こされた試練ですが、ヨブの全身にはれ物ができ、全身をかきむしるような苦しみの中にかれます。それでもヨブは、「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも、受けるべきではないか。」とそう言うのです。これらのヨブの言葉は、私とヨブと野距離を遠ざけます。ヨブは、一瞬にして自分の子供達や財産を失い奪われるという現実に直面し、深い悲しみの中にあっても、その現実を引き受ける強さを持っているからです。けれどもそれは、私には到底持ち得ない強さなのです。少なくとも、私はヨブような試練の中に置かれたならば、ただただ、「神様、なぜですか」と自問するのが精一杯だろうとおもいます。いえ、自問することすらできず、祈ることも、その祈りの答えを待ち望むこともできないだろうと思うのです。ましてや、「私は裸で、母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」や「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも、受けるべきではないか。」などと言った言葉は、口をついて出てくることは決してなだろうとそう思うのです。

確かに、このようなヨブの言葉は、ある意味、実に信仰的な言葉です。それは、実に立派な信仰者の姿勢と態度であると言うことができます。だとすれば、そのヨブの言葉と生き様に、遠い距離を感じてしまう私自身は、なんとみじめな弱いクリスチャンなのでしょうか。そのような信仰の弱い者が、今ここで、牧師として立っていて良いのかとさえ思わされてしまいます。ところが、このローマ人への手紙の8章26節の言葉は、こう言うのです。「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けて下さる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらせない切なるうめきを持って、わたしたちのためにとりなしていて下さるからである。そして、人の心を探り知る方は、御霊の思うところが何であるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神のみ旨にかなう取りなしをして下さるからである。」「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けて下さる。」と書かれています。同じようにというのですから、何かと同じようにということです。それでは何と同じなのかと問いたくなりますが、おそらくは、その前の文脈に関連して「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けて下さる。」といっているのだろうと考えられます。

そこで、前の文脈がなんといっているかというと、おおよそこのようなことです。それは、「神を信じキリストを信じて生きる者は、それゆえに苦難にうめき苦しむようなことがある。しかしそのような苦難にあっても、神を信じ罪赦されたものには、復活の希望があり、神の恵みが支配し、神の慈しみに満ちた神の国の到来という希望があるのだ」という様なことです。ですから、「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けて下さる。」というときに、それは、「神を信じる者が受ける苦難に対して希望があるように、神を信じる者が信仰の弱さを持っていても、そのような弱さに対しては御霊の助けがある。それは御霊によるとりなしだ」と言うことを意味しているといって良いだろうと思います。ですから、あのヨブのように、耐え難いと思われるような試練にあったときに、けっしてヨブのような立派な信仰の姿勢や態度をもって生きることができなくても、私たちは自分の信仰を責めたり、自分の信仰に絶望する必要はありません。なぜなら、そのような私たちの弱さが露見するときにこそ、御霊なる神、聖霊の取りなしという助けがあるからです。

もちろん、ヨブのような立派な発言ができ、立派な態度と姿勢でききられた方がよいのではないかと言われれば、それは確かにそうだろうと思います。しかし、誰もがヨブのようになることはできません。いえ、私を含んで、なかなかヨブのようにはなれないという弱さを持った方のほうがほとんどなのだろうと思います。けれども、そのような信仰の弱い私であっても、決して神はお見捨てにはならないのです。また、こうして主の御用に立てて下さるのです。それは、神が、私たちの強さゆえに私たちを選び、私たちを神の使命や神のご奉仕に立てたからではないからです。むしろ、私たちの弱さゆえに神は私たちを選び、私たちを神の働きに立てて下さったからです。神は決して強いものだけをお選びになることはないのです。弱い私たちが、その弱さの中で、神に支えられ助けられ生きているのです。

現実の生活の中で、問題や困難な事に会えば、すぐに疑ったり、つぶやいたり、不平や不満でてくるような、弱さを誰しもが持っています。また、けっして模範的な立派な信仰生活をおくっているわけでもなく、自分は何と不信仰なんだろうと、自分で自分自身を責めるようなこともあるかも知れません。けれども、神様は、そんな私たちの現実の生活の中で露見する信仰の弱さをすべて知っておられるのです。そして、そんな私たちを、聖霊なる神は、いつも神様の前にとりなし、神様の前に生きていくことができるようにと、とりなして下さるのです。ですから、私たちは決して神から見捨てられることはありません。私たちが神を捨てない限り、神の方が私たちを擦れることはないのです。私たちに、どんなに問題があり、神の前に不完全な者であったとしても、聖霊なる神というお方のゆえに、神ご自身が、自ら私たちをとりなし、神様にふさわしい完全な者として下さるからです。

私たちは、この事をしっかりと心に留めておきたいと思います。というのも、私たちが自分の信仰の弱さを感じるとき、往々にして私たちは自分自身の信仰の弱さを責め、クリスチャンとしての存在の根底を、自分自身で否定したり、揺るがしてしまうからです。けれども、私たちの信仰の弱さは、決して私たちのクリスチャンとしての存在の根底を揺るがしたり、否定したり、くつがえしたりするようなものではないのです。むしろ、神は、そのような私たちの弱さを知りながらも、私たちを教会に召し、神を信じて生きる生涯に召して下さったのです。だからこそ、どんなに私たちが、弱い信仰しか持ち合わせていない者であっても、私たちの弱さをにないとりなして下さる、御霊、聖霊なる神がみ旨にかなう取りなしをして下さるのです神のみ旨、この神のみ旨がないかということについて、ここの私たちに生活の中に持っておられる神の様々なご計画と理解することもできるでしょう。しかし、何よりも大きな神のみ旨は、私たちの罪が赦され、救いのみ業が私たちに全うされることです。

そして、この神の大いなる救い中で、私たちが聖なる者となることです。神のみ旨である「聖」。この聖と言うことについては、昨年、私たちの教会の一年の標語として掲げました。その時に、神の聖とは、私たちが完全に神の所有される民となることであると申しました。いうなれば、すべてを神におまかせすると言うことなのです。すべてを神にお任せし、おゆだねするからこそ、私たちは聖霊なる神の取りなしに身をゆだねることができるのです。そんなに弱くても、弱いからこそ、自分でなにもできません。そしてなにもできないからこそ、神様におゆだねしお任せし負ければならないのです。ですから、言うなれば、私たちは、自分の弱さを知ることによって、聖なる者となることができると言うこともできます。ですから、そんなに私たちの弱さが露見したとしても、私たちの弱さをになう神を決して忘れないで、このお方を信頼して歩んでいきたいと思います。そのような歩みがなされるところに、私たちは現実に起こってくる様々な問題に直面しながらも、その出来事を乗り越えて生きていくことが出来るようになるのだと、そう思うのです。

お祈りしましょう。