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羊飼い 『神の御手の中で』
ローマ人への手紙 8章26−31節
2005/1/9 説教者 濱和弘
賛美 : 20,201,384

さて、今朝も先週に引き続きローマ人への手紙8章26節〜31節から、礼拝のメッセージをお取り次ぎしたいと思いますが、先週は、主に26節の「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けて下さる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらせない切なるうめきを持って、わたしたちのためにとりなしていて下さるからである。」ということを中心にお話しいたしました。そこでお話しいたしましたことは、私たちの内に信仰の弱さや至らなさがあり、クリスチャンとしてとても誇ることのできないような不完全な者であっても、聖霊なる神は、その弱い私たちをになってくださり、助けてとりなして下さると言うことでした。このことは、それに先立つ8章18節から述べられていることと繋がっています。8章18節以降は、神を信じる者が、今という時を生きるときに様々な苦難や苦しみに出会うことがあっても、そこには神が与える将来の希望があるということでした。そして、それを受けて、8章26節27節において、神を信じる者に訪れる苦難に対して希望が与えられるのと同じように、神を信じる者の持つ信仰の弱さに対しては、聖霊なる神の助けがあるとそういうのです。

そして、そのような苦難に対する希望や信仰の弱さに対する助けといったものは、結局、私たちクリチャンを、イエス・キリスト様に似た者とするためであり、私たちを神の栄光に導き入れるためであるというのが、今日のテキストとなったローマ人への手紙8章29節30節の言うところであろうと思われます。それは、神様が私たちを教会に導き、神を信じる者として下さったということの背後にある、神のご計画だからです。目的といった方が良いかも知れません。神様は、私たち一人一人がどんなに弱く、頼りない者であったとしても、イエス・キリスト様と似たものとなるまでに、信仰者として成長していくようにと願っておられるのです。そのために、私たちが苦難や苦しみの中を通るときにはやがて来る神の恵みと慈しみが支配する国という希望を与え、私たちが信仰の弱さを露見し、くじけそうなときにも、私たちを助け支えながら、とりなして下さっているのです。そのように、神様の願い、目的があるからこそ、様々な苦難や試練、私たちの弱さが露見したような場面であっても、そのことを無駄にしないで、神は、そのことを私たちの益となるようにして下さるのです。

この場合の益というのは、イエス・キリスト様と似たものとなるまでに、信仰者として成長していくようにと願いの下にあっても益ですから、私たちの信仰の成長の糧となっていくものであると言っても良いだろうと思います。このイエス・キリスト様と似たものとなるまでに信仰者として成長していくという事が、どのようなものであるかというと、それはイエス・キリスト様の御生涯がどのようなものであったかということにかかっています。というのも、私たちが如何に、イエス・キリスト様に似たものとなるといっても、三位一体なる神の内にある神の独り子としてのイエス・キリスト様と同じようになることはできないからです。そこには神と人との間にある決して超えることのできない一線があります。この一線の前に、人は神となることなどはできないことです。それは、神が人に対して超越した存在であられるからです。けれども、神は人に対して超越した存在ですが、人は神に対して超越した存在ではありません。ですから、決して人は神になることはできませんが、神が人になることは出来ます。

今、私は剣道を習っていますが、私を指導して下さっている先生方は7段教士や6段錬士といった高段者であり、私から見れば、雲の上のような存在です。ですから、どんなに頑張っても、その先生のような剣道は出来ません。けれども、その先生方は、私と同じレベルのまでご自分の力を落として、私と同じようになられて、稽古をつけて下さるのです。そうやることによって、私の剣道の地力が付くようにと導いて下さっているのです。同じように、イエス・キリスト様は神の独り子であり、その事においては神として私たちと全く一線を画しておられるのですが、しかし、その神であられるお方が、人となられて、人としての御生涯をこの世で生きられたのです。ですから、この世にお生まれ下さったイエス・キリスト様の御生涯を見て、習うときに、そこに、神が目的とご計画なさった、私たちの目指すべき「イエス・キリスト様と似たもの」となった、信仰者として成長した姿があるのです。そこで、その私たちが目指すべき信仰者としての成長した姿としてのイエス・キリスト様の御生涯が何であったかというと、一言で言うならば、「神に御旨に従って生きる生涯であった」と言うことができるだろうと思います。

イエス・キリスト様は、私たちの罪を背負い、私たちの罪を贖うために十字架に架かって死なれました。それは、罪人である私たちを愛してくださった神のご意志に基づく、神の救いご計画を成し遂げるためのものだったのです。その、十字架の死に至るまでの御生涯は、けっして楽しい歩みではなかったことは、私たちがちょっと想像すれば、誰にもわかることです。事実、イエス・キリスト様ご自身が、あのゲッセマネの園で、「出来ることならこの十字架の死という苦難を、避けることが出来るならば避けさせて下さい。」とそう祈られておられるのです。そこには、自分の前に待ち受けている苦難や苦しみの前に苦悩する、人となられた神イエス・キリスト様のお姿があります。けれども、そのような中にあっても、イエス・キリスト様は「神の御心のままになさって下さい。」と、神のみ旨に従って生きられるのです。そのように、神の独り子であり、神であるお方が、十字架の上で私たち人間の代表となり、神の裁きを身に受けて死なれるという苦難をも引き受けられたのは、その十字架の死の先に、神の国という将来の希望があったからです。この神の国、天国という希望のゆえに、イエス・キリスト様は今の苦しみの中を、神のみ旨に従い抜いて生きられたのです。

この神の御旨に従って生きられたイエス・キリスト様だからこそ、その当時罪人として嫌われた人にまで徹底的に愛を注がれたのです。また、当時は宗教的には立派な人だとされていたパリサイ派の人たちやサドカイ派の人たちであったとしても、その偽善に対して、徹底的に正義を持って望まれたと言えます。そのような、イエス・キリスト様の人としての生き様に習うものとなることを、目的として神は私たちを、教会に召し集め、罪の赦しの恵みを与えて神の前に義なるものとして下さったのです。けれども、現実問題として、私たちは弱いのです。決してイエス・キリスト様のような生き様など出来ようはずのない、弱い一人一人が教会に召し集められているのです。第一、神様の御旨に従うと言ったところで、何が客観的な神様の御旨であるかを知ることすら難しいことです。

先日、ある一人の青年とお話しをする機会がありました。その方は、結婚を控えているのですが、お相手の方の教会の牧師が、その結婚に賛成してくれないと言うのです。というのは、そのお相手の方の女性が、教会の教職者としてご奉仕しているからだそうです。そして、その相手の方が結婚して、教職者としての奉仕の場から離れ、主婦として働くことは、教職者として召して下さった神の御旨にお従いすることを放棄することだと、その牧師はそう言って反対しているのだというのです。そのため、その青年はもとより、それ以上にお相手となる方は、非常に苦しんでおられるようです。というのも、その方は、その青年との結婚のために祈り、その結果として、その青年と結婚し主婦とし歩む決断をしたからです。そこには、信仰の祈りと確信があったのです。ですから、その方にとっては、結婚し主婦として生きる生き方の中に神の御旨を見出していたのです。ところが、それこそが神の御旨のお従いすることを放棄することだと言われると、自分の祈りや信仰は何だったのかと戸惑い迷うのは同然のことかも知れません。

私は、その当事者の一人である青年に「こう言ったことどう思われますか?」と問われて、考えさせられました。それは、そもそも神の御心や御旨といったことを、当事者を含めて、人が客観的見分けられるのかどうかということです。例えば、私がこうして牧師としてここに立っているのも、そこには牧師して導かれているという、「神様の導きと召しと」を感じたからです。けれども、それは、私の心の中の事実であって、それが間違いないものかどうかを証拠立てるものは何もないのです。もちろん、私が神学校に行き、牧師になるにあたって、聖書の言葉を通して神様がそのように導いて下さったと確信するものはあります。それはイザヤ書40章1節の言葉です。私は、このイザヤ書の40章1節の言葉で、神様は私に牧師としての道に導かれたと、今でもまじめに信じています。また、決断してから神学校に入り、今日までの歩んできた歩みの中にある出来事の一つ一つに、牧師として働いていく為の、様々な神様の導きと備えがあったと、そう信じています。それは、私の確信なのです。

けれども、その私の確信でも、誰か第3者から「あなたの主観にも続く思いこみだ」と言われればそれまでです。確かに、イザヤ書40章1節の言葉も、神様の導きと思われる様々な出来事も、私の心には神の御旨を示す紛れもない証拠です。しかし、たとえ私にとっては、紛れもない証拠であっても、それは「あなたの主観にも続く思いこみだ」という人の言葉をくつがえすほどの決定的で客観的な証拠にはなり得ないのです。そして、それは、誰もが納得する証拠ともなり得ないのです。結局、私たちが神の御心や御旨といったものを、如何に知るかと言っても、絶対にこれという、明らかな方法や手段といったものなどを挙げることなど、誰一人出来ません。ただ、一人一人が真摯な姿勢で神の前に進み出て、祈りの内に心で確信するしかないのです。だからこそ、私たちは、人生の歩みの中で何かしら決断しなければならないときに、自分自身で祈らなければならないのです。そして、誰にもその決断をゆだねるべきではないのです。それはたとえ牧師であってもです。そして、自分自身でしっかりと確信を持つことが大切なのです。

もちろん、対戦綱決断をするときに、牧師や信仰の先輩に相談することは、無駄ではなく有益なことです。けれども、それらの意見は参考になるだろうと思います。けれども、それとて絶対ではないのです。最終的には、神の前に祈り、自分自身で確信するしかありません。ですから、私は自分自身の結婚問題におこった出来事について、「こう言ったことどう思われますか?」と問う青年の言葉に、こう答えるのが精一杯でした。しかし、それは精一杯の答えではありますが、しかし、深い確信を持った答えでもあります。

それは、おおよそ、次のようなものです。「人には、絶対という言葉をもって示せる神の御心というのは、神が私たち人間が、神様を信じ、イエス・キリスト様の十字架の贖いを受け入れて罪ゆるさ、イエス・キリスト様に似たものになるまでに、信仰において成長していくことを願っておられるということだけだと思う。一人一人の人生において決断すること様々な事ごとにおいては、何が絶対かは、明らかにすることが出来ない。けれども、一人一人が決断する場において、神の前に進み出て、祈り、信仰をもってここに神のお心があると信じ決断したことが、神の御心だと信じて歩みことが大切なのだと思う。仮に、その決断が、神様の目からみると誤った判断であることもあるかも知れない。でも、その人が真摯な思い出神様の前に祈り、そこに神のお心があると真摯な思い出その道を選択したならば、私は、その選択を神様が祝し、その道の歩みを通して、神様はその人をイエス・キリスト様に似たもととなるように、御手の中で導き、成長させ、神の栄光を表わす働きをさせて下さると思う。」といったような内容です

そして、その深い確信は、このローマ人への手紙8章26節から31節の言葉に支えられているのです。なぜなら、このローマ人への手紙の8章28節には、「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、私たちは知っています。」と、そう記されているからです。神のご計画に沿って、召された者たちというのは、ギリシャ語の本文からみると神の目的にそって召された者たちであると言うことが出来ます。そして、その神の目的とは、先ほども申しましたように、「イエス・キリスト様に似たものとなる」ということです。神様は、すべての人がそうなることを望まれ、すべての人を神の救いに導こうとしておられます。もちろん、すべての人がこの神の導きにお答えして、クリスチャンとなるわけではないでしょう。しかし、神様は、すべての人が救われることを切に願っておられるのです。

その神様の願いの中にあって、クリスチャンとなった者、その中には私たちもいるのですが、その私たちは、誤りも犯せば、間違いもします。イエス・キリスト様に似たものとなるといったところで、必ずしもいつも神様の御旨が何かを正しく知ることが出来ない様な者なのです。また、時には神の御旨よりも自分の考えや思いを優先させてしまうような弱さをも持っている者だとも言えます。けれども、私たちはそのような弱さを持ったままで、神様の召しにお答えしてクリスチャンになったのです。神様の招きなしに、クリスチャンになった者など一人もいないのです。この神様の招きによってクリスチャンになった一人一人に対して、聖書は神様が共にいて下さり、共に働いて下さって、神の目的にかなうために、すべてのことを益として下さるというのです。全てというのですから、そこには、私たちの誤りや間違い、あるいは自分の思いを第一としてしまうような、罪人としても私たちの弱さをも含んできます。そういった過ちや弱さをも含んで、神は全てのことを益あるものとして下さるというのです。

もとより、神様は、そのような過ちを犯す私たちであることを知り、また私たちの弱さをも知って、私たちを導き、神の民としてこの教会に召して下さったのです。それは、そのような私たちを、御手の中にあって、「イエス・キリスト様と似たもの」とし、教会をキリストの体なる教会とするためです。イエス・キリスト様と同じように、神様の御心に従って生き、神様が私たちを愛して下さったように、教会の中で互いに愛し合い、教会の外にも愛を注ぐ者となる為です。そのために、私たちの誤りや弱さのある場所においても、神様は共に働いて下さり、イエス・キリスト様に似たものへと成長させて下さるのです。ですから、私たちは間違うことや失敗することを恐れず神の御心を求めなければなりません。神を思い祈りを献げる中で、真摯な思いと願いの中で神の御心を求め、そして決断し歩み始めるのです。そうすれば、たとえそれが、仮に神様の本当に願っておられなかった決断であったとしても、神様は豊かな祝福をもって、その決断に寄り添って下さるであろうと、そう思います。

そして、その決断に寄り添いながら、私たちをイエス・キリスト様に似たものへと成長させて下さるのです。そのことを覚え、私たち一人一人は、神の御心を祈り求める一人一人でありたいと思います。そして、私たちの教会もまた、神の御心を求め、イエス・キリスト様がこの地上で歩まれた御生涯のごとくに、福音を伝え人々を愛する教会でありたいと願います。

お祈りしましょう。