『揺るぐことのない事実』
ローマ人への手紙 8章31−39節
2005/1/16 説教者 濱和弘
賛美 : 22,272,201
さて、今日の礼拝説教のテキストの箇所は、31節に「それでは、これらのことについてなんと言おうか」と書かれておりますことからもわかるように、パウロがそれまでに述べていたことを受けて、その話の内容をさらに一歩前進させて論じているところであります。そこで、パウロがそれまでに述べている内容というのは、イエス・キリストにある者、すなわちクリスチャンは、罪とその裁きかである死から解放されていると言うことです。もちろん、クリスチャンであっても、実際には死から免れる訳ではありません。ですから、この罪とその裁きである死からの解放というのは、将来訪れるいわゆる「最後の審判」といわれる、私たちの罪が神様によって裁かれる時の問題だと考えられます。つまり、私たちは、如何にクリスチャンであっても、今というこの時においては、罪を犯してしまうことがあるのです。それは、私たちの持つ心の弱さや過ちのためでるといえます。けれども、私たちがどんなに弱さや過ちを持っていたとしても、神を信じ、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主であると信じる者は、その弱さや過ちのゆえに犯してしまう罪までも、神の裁きの場においては赦され、そして罪の裁きである永遠の死から救われるというのです。
とは言え、私たちの心は弱く過ちを犯しやすい者であることに変わりはありません。ですから、困難や試みにであったりしますと、私たちの心は激しく揺り動かされます。以前にもご紹介いたしましたが、いのちのことば社から「神様の絵の具」という本が出ています。この本の著者である能登一郎という牧師は、36才の若さで、脊椎ガンのために天に召されてしまいました。脊椎ガンというのは、かなりの痛みを伴うようです。くわえて、幼い子供達を残して死という現実に向き合うことは、肉体的にも精神的にも大変なことであったことは、想像に難くありません。ある時、この能登牧師は、知り合いの一人にこう語ります。
その知り合いというのが、昨年私たちの教会に来て下さいましたゴスペルシンガーの岩渕まことさんなのですが、その岩渕さんに能登牧師は「僕は今、聖書を読むことが出来なくて、毎日漫画ばかり読んでいるんだ」とそう言うのです。「今、聖書が読むことができなくて」というのは、病気のために「読みたくても読むことが出来ない」というのではなく、とても聖書を読む気になれないということです。それは、神に向き合い信仰に向き合う気になれないと言っても良いことかも知れません。牧師であっても、自分の死と言う現実に向き合わなければならなくなったとき、聖書を読む気にもならないで漫画ばかり読まなければならないような現実はあるのです。けれども、だからといってそれは、その人の信仰がなくなってしまったとか、神に見捨てられてしまうと言うことではないのです。確かに、現実に目の前にある苦しみや試練は、私たちの心に重くのしかかってきて、私たちの心を押しつぶしてしまうことがあります。そして、現実の重みの前に、神の愛であるとか救いの喜びといったことが現実感をもって受け止められないこともあるかも知れません。
しかし、そこには確かな希望があるのです。死という現実を乗り越えて、やがて来る神の裁きの場において、罪ゆるされ、その罪の裁きである永遠の死から救われ神の国に生きる永遠の命の希望が、私たちにはあるのです。もちろん、先ほども申しましたように、私たちの心は弱く過ちを犯しやすいものです。ですから、苦難や試練の中に置かれ、苦しんでいるときには、到底、つぶやいたり不平をいったりすることもあるでしょう。神様に向き合ことや信仰的な考え方や物の見方をすることが出来ないこともあるのです。それでも、そのように私たちが神様に向き合うことが出来ないようなときであっても、神様は私たちを見守り、そのような私たちの弱さをとりなし、支えて下さっているのです。そして神にふさわしいものへと育っていくことが出来るように、神様は私たちと共にいて、私たちのために働いて下さっているのです。先ほどの能登牧師が「僕は今、聖書を読むことが出来なくて、毎日漫画ばかり読んでいるんだ」と言いう言った時、その言葉を聞いた岩渕まことさんは「そう、あなたが漫画を読んでるときに、きっとイエス様もあなたの横で一緒に漫画を読んでいると思うよ」とそう答えたと言います。
私も、本当にそうだろうなと思います。36才という若さで脊椎ガンという病に冒され、幼い子供や奥さんを残し、牧師としてまだまだこれから多くのことが出来るだろう時に、自分の死と向き合うのですから、その心の痛みや苦悩はどれほどだったろうかと思うのです。そのような心の痛みや苦悩があるからこそ「漫画ばかり読んでいる」しかないのです。その彼のかたわらにあってイエス・キリスト様も一緒に漫画を読んでおられるとするならば、それは、能登牧師と一緒に漫画を読むことで、能登牧師の心の痛みや苦悩を、イエス・キリスト様も味わい知ろうとして下さっているからだと言っても良いだろうと思うのです。そして、その心の痛みや苦悩を知って、父なる神様とイエス・キリスト様から私たちの助け主として送られた聖霊なる神様は、私たちを取りなして下っている。そして、その苦悩と痛みをしって、その中から神様にふさわしい者へと育てていって下さっているのだろうと思うのです。そこには、私たちを愛してくださった父なる神様の愛、子なる神イエス・キリスト様の愛、聖霊なる神様の愛があります。そして、その愛があるからこそ、私たちを罪から救い、弱さをとりなし、全てのことをはたらかせながら、私たちを神様の愛にふさわしい者へと育て変えて下さろうとしているのです。
実際「書を読むことが出来なくて、毎日漫画ばかり読んでいるんだ」と言わざるを得ないような苦しみと痛みを通った能登牧師が語った説教は、それを聞いた人を慰め励まし、力づけるものとなりました。そんなわけで、能登牧師の説教はテープとなって、人々につたえられるようになりました。そして、さらにそれが、「神様の絵の具」という一冊の本になり、もっと多くの人を慰め支えたのです。この現実を見るときに、私はパウロと同じように、「もし、神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵し得ようか」とそう言いたくなるのです。また「だれが、キリストの愛から私たちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か。」とそう言うことが出来るように思うのです。
確かに、患難や苦難、迫害、飢え、裸、こういったものは、私たちの信仰を揺るがせるような出来事です。このような試練や試みといったものの前に立ったとき、私たちは、「本当に神はいるのだろうか」とか、「神様がいるならば、どうしてこんな事があるのだろうか」と言う思いになることもあります。本来は「本当に神はいるのだろうか」とか「神様がいるならば、どうしてこんな事があるのだろうか」という思いを持つということは、とらえようによっては不信仰な思いであると言うことができるかも知れません。しかし、様々な試練や患難や苦しみの中で、私たちが「本当に神はいるのだろうか」というような、一件、不信仰に思われるような思いに心が支配されたとしても、父なる神様も子なる神イエス・キリスト様も、決して私たちを見放してはいないのです。父なる神も子なる神も、そのような弱さを持つ私たちの心を知り、私たちの弱さに寄り添ってくださり、聖霊なる神様によって、そんな私たちを取りなし続けて下さっています。そして、私たちが神にふさわしい者となるまで、じっと忍耐して見守り育てて下さているのです。
だからこそ、私たちは、だれが「あの人は、とてもクリスチャンにふさわしい人ではない。」とか「あれでも信仰を持っているのか」というようなことがあっても、恐れる必要はありません。例えばそれが、人間であろうと、あるいはサタン(悪魔)といわれるような霊的なぞんざいであったとしてもです。私たちを愛し、私たちの罪をとりなす意志において、まったく一つに一致し、同じ思いで固く結びつけられた三位一体なる神ご自身が、私たちの罪をとりなし、私たちの罪を赦して下さっているのですから、だれが私たちを訴えても恐れること入らないのです。仮にそれが、私たち自身が、自分自身を訴えるようなことがあってもです。自分が自分の信仰者としての生き方を責め、訴えると言うことは、決して珍しいことではありません。むしろ、自分自身が神の前に誠実であればあるほど、自分の心に疑いや不信仰な思いがあるときに、自分で自分を責める者です。また自分がなかなか罪から離れられないようなときにも、自分はもう、クリスチャンとしてダメなのではないかと、自分で自分を責め、自分はもうダメだと自分で自分を訴えるのです。
ところが、自分で自分がどんなにダメだと思っても、当の神様は私たちを赦し受け入れて下さっているのです。どんなに、「あの人は赦されないのではないか」、「あんなことではダメなのでしょう」と言っても、神様が、「いや良いのだ」というのです。そうなると、もはやだれも罪に定めることなど出来ません。神が、私たちの罪を赦すとそう宣言なさったならば、それほどまでに完全な罪の赦しを与えてくださるのです。それほどまでに、神様は深く私たちを愛していて下さるのです。この愛において、神様は「決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)とそう言われるのです。この「私たちを愛する神の愛」を、私たちから切り離すことはだれにも出来ません。そして、このような深い愛で、神様が私たちを愛していて下さるからこそ、私たちの中に「からし種」一つのような、本当に小さな信仰のかけらが残っているのならば、私たちには、天国という勝ち得てあまりある勝利が待ち受けているのです。
最近では、勝ち組とか負け組と言った言葉が聞かれることがあります。この勝ち組とか負け組といった言葉は、成功を収めた人とそうでない人を分ける言葉のようですが、その勝ち組と負け組を区別する一つの基準は、収入や社会的な地位であったりします。もちろん、私たちの国日本は、一時期、一億層中流意識といったことが言われましたように、それほど貧富の差がない国でした。しかし、その私たちの国も、だんだんとアメリカ型の競争社会の様相を呈してきました。そういった意味では、貧富の差が大きくなっていく可能性が高くなっています。ですから、今後、ますます勝ち組と負け組といった意識は、強くなるとも考えられます。けれども、この世の人生の歩みが、たとえ、負け組という範疇に入れられたとしても、私たちの心に、聖書に示された父なる神様、子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神様からなる三位一体の神を信じる信仰があるならば、その人生は神の前には勝ち得てあまりあるものになるのです。
それは、どんなに弱く、からし種のような小さな小さな信仰であっても、私たちの心に三位一体の神様を信じる信仰がある限り、やがて来る神の裁きの場にあっても、私たちの罪が赦され、永遠の死という裁きから救われ、神の国に招き入れられからです。そのような、罪を赦し私たちを愛する神様の愛の中で、私たちは愛されているのです。今年に入って最初の1月2日の主日礼拝を終えて、私は大阪にいる私の両親のところをたずねました。実は、私の母は、ずっと具合が悪く、年末の30日には心臓の発作を起して、救急車で運ばれたのです。母は、一年ぐらい前からかなり良くない状態にありましたので、救急車で運ばれたと聞き、正直、私も家内も、これは極めて厳しい事態になるかもしれないという思いになりました。ですから、父から、母が倒れたという電話をもらい、私と家内とは二人で母のためにお祈りをしました。幸い、一応は発作も納まり、応急処置をしてもらってその日は家に帰ってきたのですが、家に帰ってきてから、母から電話があったのです。
その電話口で母は、「ずっとものが食べられない。」とそう言うのです。もとより、母が物を食べられなくなっているというのは、今年の夏の母を見舞いに行ったときから知っていましたし、夏以降も、父からの電話で、その後もほとんど食事を食べないということは聞いていました。また、母が入院するちょっと前から、いよいよ何も食べなくなり、父も医者も困っていると言うことは聞いていましたが、当の本人が「何も食べられない」と訴えてきたのは初めてのことでした。そのように母は、「何も食べることが出来ない」と私に訴えた後に、言葉を続けました。「何も食べることが出来ないので、神様に全部お詫びをして、食べることが出来るようにお祈りしたから、あなたも祈って欲しい」というのです。何も物が食べられないという事態は、深刻な問題です。ですから、本当に心配しましたが、「神様に全部お詫びして、食べることが出来るようにお祈りしたから、あなたも祈って欲しい」という母の言葉は、私の心に小さな光となりました。それは、確かに母の心にあるからし種のような信仰を、私に見させてくれる言葉だったからです。
私の両親は、羽振りの良かった時期もあるのですが、仕事に失敗して山口にあった店をたたみ、大阪に出てきてからは、恵まれない辛いことが多い人生でした。経済的な問題もそうですが、病気や様々な試みや試練がおそっていました。そんな中で、母は信仰を持ち洗礼を受けたのですが、ある時、静岡で牧会している私に電話してきました。その電話口で「私はもう信仰を止める。」とそう言うのです。「どうして?」と聞くと、「教会に行くと、神様を信じて問題が解決したとか、病気が良くなったとか聞くけれども、自分は神様を信じても、何にも良くならない。だから信じていても甲斐がない。」というのです。まさに、患難や苦脳といった試練の中で、「神様を信じていても何の甲斐がない」とそう思うようになっていったのです。もちろん、私も牧師ですから、その母の電話に「お母さん、それは違うよ。キリスト教の信仰は、病気が治るためとかお金が儲かるようになると言うためのものではなく、自分の罪が赦されて、天国に行くことが出来ることがことなんだよ」と説明したのですが、母の気持ちもわからない訳ではありませんでした。その母が、病気で何も食べられないほどに苦しみの中で、「神様に全部お詫びして、食べることが出来るようにお祈りしたから、あなたも祈って欲しい」とそう言うのです。
父と母には、年老いてからずっと苦しいことや悩み事の連続でした。それは今も変わったわけではありません。相変わらずの患難や苦悩の続く、それこそ「神様を信じていても何の甲斐がない」と思われるような中にあっても、なお「神様に全部お詫びして、食べることが出来るようにお祈りしたから、あなたも祈って欲しい」という気持ちが、信仰があるのです。それは、どんなに小さな、それこそ人から、あれでも神を信じる信仰があるのかと思われるような、信仰であっても、神を信じたものに注がれる神の愛の内に置かれていたからだと言えます。そして、どんな患難や苦脳があっても、主イエス・キリストにおける神の愛から、引き離すことが出来なかったのです。確かに、この世の中の基準から言えば、私の母の人生は負け組で終わるのかも知れません。でも、母の心の中にある、あの小さな小さなからし種に様な主イエス・キリスト様を信じる信仰がある限り、母のこの世での人生の先に待っているのは、天国という勝ち得てあまりあるものなのです。
みなさん。私たちも、この神の愛の中に招かれ、神の愛の中で愛される者となることが出来ますし、愛されています。そして、この神の愛で愛されているからこそ、困難や患難、苦悩といった中にも、希望が与えられ、弱さの中にも神の取りなしがあるのです。そして、このような神の与える希望と、取りなしのゆえに、私たちに神が与えて下さった罪の赦しということは、けっして揺るがありません。この揺るぎのない罪の赦しという救いの事実があるからこそ、私たちは「神が私たちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得よか」とそう言うことが出来ます。そして、確かに神は、父なる神様、子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神の三位一体鳴神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死が、私の罪を赦すためのものであったと信じるものに対して、神は味方となって下さるのです。
お祈りしましょう。