『神のあわれみに立つ選び』
ローマ人への手紙 9章1−29節
2005/1/23 説教者 濱和弘
賛美 : 263,339,209
私たちの教会は、いわゆるプロテスタント教会です。先週、私は、三多摩教区の青年会の打ち合わせのために集まりに出かけました。私も、先年行なわれました全国青年大会の委員をしておりました関係で、この三多摩地区の青年の働きにも関わりを持つようになっておりましたので、今回の青年達の打ち合わせの場にも顔を出させて頂きました。今回の打ち合わせは、三多摩教区の各教会の青年達の代表が集まり、今年の9月に行なわれる青年修養会について、色々と検討したのですが、その中で、修養会で何を学びたいかと言うことについて話し合うときがありました。青年達は自分が感心を持っている内容を色々と挙げてくれたのですが、彼らの意見の中に、キリスト教の教派の違いがどこにあるのかを知りたいというものがありました。私たちの教会は日本ホーリネス教団に属していますが、他にもルーテル教会や改革派教会、ペンテコステ派の教会と、確かに多くの教派や教会があります。それらの多くの教派や教会のどこがどう違うのかを知りたいというのです。
そう言われてみると、私たちは、知っているようで、以外とキリスト教の様々な教派についてはしらないものです。そもそも、プロテスタント教会の諸教派の間にある違いを知らないだけではなく、もっと大きなプロテスタントとカトリックという、キリスト教の大きな流れの間にある違いについても、余りよく知らないと言うのが現状です。もちろん、カトリックとプロテスタントの違いを知らなくても、私たちの信仰生活に困るわけではありません。けれども、せっかくプロテスタント教会に集っているのですから、プロテスタント教会の特徴が何であるかということを知っておくのも良いのかも知れません。そこで、プロテスタント教会の大きな特徴といえば、つぎの三つの言葉にまとめることが出来ます。それは、「聖書のみ」、「恵みのみ」、そして「万民祭司」ということです。
「聖書のみ」というのは、私たちの信仰と生活がよってたつ土台は、ただ聖書のみにあるということであると考えて頂ければよろしいかと思います。また、「恵みのみ」というのは、私たちは、いかなる努力や、良い行いをするということによって神に受け入れられるのではなく、ただ神様の恵みとあわれみによって、私たちの罪深さや醜い心を許して頂き、神の子として下さるのだと言うことです。そこにはどんな行いや、業も必要ありません。また、万民祭司というのは、神を信じる者は誰も神様の前に平等であって、等しく神の前に祈り、礼拝を捧げ、神様からの導きと支えをいただくことが出来ると言うことです。このような、3つの特徴をもつものが、私たちプロテスタント教会の特徴であると言うことができますこのようなプロテスタント教会の特徴が、私たちプロテスタント教会をカトリック教会と異なる存在としていると言えます。しかし、そうは言っても、プロテスタント教会もカトリック教会も、どちらもキリスト教です。それはキリスト教をキリスト教をならしめる根幹的な教えを共に受け入れ信じているからです。先ほど、私たちは、私たちの信仰告白として使徒信条をみんなで唱和いたしました。
この信条というのは、私たちキリスト教徒が何を信じているかと言うことを言い表したものであり、私たちの信仰告白といっても良いものです。そして、この信条の内容が、キリスト教をキリスト教たらしめるのです。そして、毎週の礼拝で私たちが信仰告白として唱和する使徒信条は、それこそ、遠く古代の教会が信仰告白として告白してきたニケヤ信条やカルケドン信条に繋がるものだと言えます。ですから、私たちの教会が使徒信条を受け入れ告白するとき、私たちはカトリック教会やプロテスタント教会を貫いて流れるキリスト教の歴史と伝統に繋がります。そして、その歴史の源流となるイエス・キリスト様に繋がるのです。逆を言えば、このニケヤ・カルケドン信条に言い表された内容を受け入れない教会があるとするならば、それは、もはやキリスト教徒は呼べないものになります。今日で言えば、エホバの証人といわれるグループの人や統一協会と呼ばれるグループに人たちです。このように、信仰とは何を信じているかと言うことによって、それがキリスト教であるかないかと言うこと見分けられているのですが、それはキリスト教徒ユダヤ教の関係に置いても言えることでした。
もともと、イエス・キリスト様はユダヤ人、今日のテクストではイスラエル人と書いてありますが、そのイスラエル人としてお生まれになりました。イスラエル人というのは、そのそも、神の皇太子という意味であり、神に選ばれた選びの民でありました。それは、イスラエル人の歴史を通して、神が私たち人間に対して抱いておられる愛や思いや意志といったものを表わされたからです。そして、そのイスラエル人の民族の歴史が伝えられ書き記されて旧約聖書となりました。そういった意味からも、確かにイスラエル人達は神の選びの民であったと言うことができるであろうと思います。その、ユダヤ人の歴史を通して神様が私たちにお示しになったのは、私たち人間の自己中心的な罪深さであり、心の醜さです。聖書の神様は聖い正しい神様です。ですから、罪や心の汚れや醜さをそのままにしておくことが出来ません。そのような罪や汚れは裁かなくてはならないのです。いえ、神の裁きを待つまでもなく、私たち人間の自己中心的な罪や心の汚れ、醜さといった聖書が罪と呼ぶものが、私たちが生きていく中で、様々な問題や悲しみや苦しみを産み出していきます。戦争や争い、中傷や差別、飢えや貧困といった様々な問題の根底には、私たちの罪があるのです。
そして、この罪が引き起こす様々な問題の中で私たちは、悲しんだり、苦しんだり孤独を感じたりします。まさに、私たちは罪の中で生き罪の中で苦しむ様な現実があるのです。けれども、同時に聖書の神様は、そのような罪深い人間のことを思いやり、慈しみ愛してくださる神様でもあります。ですから、罪深く心に汚れや醜さを持つ私たちを救おうとして、救い主を私たちの所に送って下さったのです。それは、私たちの罪を赦し、私たちの罪が引き起こす、様々な現実の問題の中で、私たちに慰めと平安、そして希望を与えるためでした。ユダヤ人と呼ばれる民族は、その神のお心を、自分たちの民族の歴史を通して、知らせるために、特別に選ばれた民だったのです。ところが、そのイスラエル人自身が、旧約聖書を通して神がお示しになっていた私たちの罪の救い主であるイエス・キリスト様を受け入れることなく拒み、かえって十字架に付けて殺してしまったのです。そのために、同じ聖書の神を信じる信仰に立ちながら、ユダヤ教とキリスト教は別々の歩みを始めなければなりませんでした。イエス・キリスト様を私たちの罪の救い主であり、神であると信じ受け入れるキリスト教とこのイエス・キリスト様を拒み受け入れることのないユダヤ教徒は、もはや同じ歩みは出来なくなったのです。
この現実の前に、今日のテキストとなったローマ人への手紙を書いたパウロという人は、激しく心を痛めています。それは、パウロは信仰的にはキリスト教徒ですが、民族的にはユダヤ人だったからです。本来は神から選ばれた選びの民であったのに、神がせっかく使わして下さった救い主キリストを拒み、殺してしまったこの現実の前で、神は自分の同胞であるイスラエルの民を捨ててしまったのではないか。そのような思いが、パウロを沈痛な思いにさせているのです。そのような沈痛な思いの中で、パウロは神の約束は決して無効にはならないと言うのです。確かに、イスラエル人という民族単位で考えるならば、イスラエルの民は救い主イエス・キリスト様を拒んだと言うことが出来ます。しかし、実際の神の選びというのは、神様の約束に基づくものなのです。そして、約束というものは、その約束をする方の意志にかかっています。ですから、単純にイスラエル人だから選ぶとか捨てるとか言ったものではなく、約束をして下さる神のお心がどうなのかが問われるのです。
パウロは、そのことの例証として、旧約聖書に書かれているイサクとイシュマエルという兄弟の例やヤコブとエサウという兄弟の例を挙げています。イサクとイシュマエルは、異母兄弟ではありましたが、同じアブラハムの子供でした。けれども、イサクは神から約束にもとづいて生まれた子供として、アブラハムの跡取りに選ばれるのです。このように、たとえイスラエル人であったとしても、神様の約束に基づかない限りは、本当の意味での神の選びの民ではないのです。また、同じように一例としてあげられているヤコブとエサウの兄弟もそうです。ヤコブとエサウは双子の兄弟で、エサウが兄でヤコブが弟でした。このヤコブとエサウが生きた時代では、長男がその家の跡取りとなるのが一般的な習わしだったようです。ですから、その時代の人間の常識や決まり事でいうならば、当然、兄のエサウが跡取りになるべきだと言えます。ところが、神がお選びになったのは弟のヤコブの方だったのです。しかも、その神の選びは、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウが生まれる前に定まっていたのです。
そういった意味では、イサクが何かをしたから、ヤコブが何かをしたのだから神様に選ばれたというわけではないのです。まさに善も悪もしない先に神の選びの計画があったのです。これが、私たち人間ならば、例えば、良い人を選び悪い人を選ばないと言ったような何らかの基準があります。今はまさに受験シーズンですが、入学試験ならば点数の良いものが選ばれ、点数の悪いものは選ばれません。ところが、神様の選びというのは、そのような私たちの物の見方や思いを超えたところにあるのです。ですから、神様の選びの理由は私たち人間の考えの及ばないところにあると言えます。実際、私自身、一体どうしてクリスチャンとなり牧師として立てられているのか、皆さんもわからないでしょうが、なによりも私自身がわからないのです。私が、クリスチャンとなるように選ばれたとしたら、いったい私のようなものがなぜと問いたいような気がします。私には神様に選んで頂くような理由など何一つないからです。ですから、結局私は「神様が、私をあわれんでくださったのだ」としか言いようがないのです。そして、それこそがパウロが、ここにおいて、まさにいわんとすることであり、先ほど申し上げたプロテスタント教会の3つの特徴の一つの「恵みのみ」ということなのです。
ところが、そうすると、別の切実な問題が生まれてきます。それでは、選ばれなかった者は、「なぜ選ばれなかったのか?」という問題です。神様の一方的な意志で、神の選びに預かれないとするならば、神の選びに預かれなかった人は、あまりにも不憫です。そんなわけでしょうか。パウロは、私の思いをくみ取るような言葉を、このローマ人への手紙9章19節に書き表しています。それはこういう言葉です。「そこで、あなたがたは言うであろう。『なぜ神は、ないも人を責められるのか、だれが、神の意図に逆らいえようか』この言葉は、「神の選びが神の一方的な意志によってなされるのならば、一体その神の一方的な意志で選ばれなかった人間は、神の意図に盛らない以上、どうして罪を問われ責められるのか。それはあまりにもひどすぎる」という、極めて当然の単純明快な問いを投げかけているのです。
一体なぜなのか。この誰の心にでもわき上がってくるような疑問、きっと、私の心にわき上がってきたように、皆さんの心にもわき上がってきただろう疑問に対して、パウロは、こう答えています。それは20節21節です。そこにはこうあります。「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造ったものに向って、『なぜ、わたしをこのように造ったのか』ということがあろうか。陶器を造るものは、同じ土くれから、一つのものを尊い器に、他を卑しい器に作り上げる権能がないであろうか。」ここで言われていることは、造られるものには、造るものの意図はわからないと言うことです。確かに、私自身、自分がなぜ、教会に導かれ、神を信じる者となったのかは、それが神の選びであるとするならば、どうして神が私を選んで下さったのか、私自身でもわからないことです。同じように、誰が選ばれる人であり、誰が選ばれない人なのかを、私たちにはわかりませんし、私たちが決めることではない。それは、自分自身に対してもそうです。誰も、自分は神の選びにあずかり、自分自身の罪深さを赦して頂き神の子としていただくことなど出来ないなどと決めつけては行けないのです。
実際、「陶器を造るものは、同じ土くれから、一つのものを尊い器に、他を卑しい器に作り上げる権能がないであろうか。」ということは、自分自身は決して神様の選びにあずかることが出来ないと思ったとしても、あるいは、人があの人が神様に選ばれることなどあり得ないといったとしても、そのような者であったとしても、神様は尊い器として造ることが出来ると言う可能性をも示しているのです。たとえば、それは25節の言葉の中にも見出すことが出来ます。そこには「私は、私の民でないものを、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。あなたがたは私の民ではないといったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、いわれるであろう。」とあります。神の民でなかったもでも神の民と呼ばれるようなものとなり、神に愛されなかった者でも愛される者になることが出来るのです。それは、大きな希望です。私たち自身が、自己中心で罪深いものであり、心に汚れや醜さがあって、とうてい神に愛されないような者であっても、神に愛され罪の裁きから救われるのです。そして、私たち人間の罪のゆえに引き起こされた様々な問題の中で苦しみ悲しんで生きるようなことがあっても、神の慰めや支えをいただくことが出来るのです。それは、確かに私たちが生きていく上での、大きな、そして素晴らしい希望になるのです。
けれども、そのような大きな希望が私たちの目の前にあるとしても、神に選ばれなかったら、その大きな希望も何にもなりません。しかも、それを手に入れたいと思っても、私たちが選ばれるか否かは、全て神様にかかっているのです。もし、神様に選ばれなかったとしたら、どんなに素晴らしい希望でも、絵に描いた餅になってしまいます。結局、どんなに自分自身は決して神様の選びにあずかることが出来ないと思ったとしても、あるいは、人があの人が神様に選ばれることなどあり得ないといったとしても、たとえそのようなものであったとしても、神様は尊い器として造ることが出来ると言う可能性を示されても、それは、「もし神様に選ばれなかったならば、それはあまりにも不憫だ」ということの答えにはなっていません。しかし、この難しい問に対する答えは、神自身の言葉の中に見いだせます。それは15節にある言葉です。「神はモーセに言われた。『わたしは自分をあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。」
「わたしは自分をあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」というのですから、神様の選びというのは、確かに神様の一方的な意志によるものです。けれども、その15節の言葉に引き続いて。17節にはこう言われるのです。「聖書はパロにこう言っている。『私があなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによって私の力をあらわし、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである』」パロというのは、エジプトの王のことであり、聖書の神に逆らい従おうとしない人でした。けれども、神はその神に逆らい従おうとしないパロの思いをそのまま、神のご計画の中でお用いになったのです。このことは、神の意思は私たちの心の思いを無視したものではないということを私たちに教えています。神は、決して私たちの思いや考えと言ったことを無視して事をなされるお方ではないのです。ですから、神は、自分の罪や罪深い心を赦して欲しい思う者の心を無視して、その人を選ばないということなどないのです。それは神が愛なるお方だからです。神は、愛なるお方だからこそ、自分の罪や罪深い心を赦して欲しい思う人をお選びになるのです。いえ、そのような心を持つ人は、必ず神に選ばれるのです。あわれみをもとめる心を知り、慈しみを求める心を知って、あわれみを与え慈しみを与えて下さる。だからこそ、「ただ恵みのみ」なのです。
ですから、みなさん。私たちは今、もう一度自分自身の心を顧みてみたいと思います。そして、あなたの心に、自己中心的な罪や心の汚れ、醜さといった聖書が罪と呼ぶものを、神に赦して頂き、神様のあわれみと慈しみをいただきたいと願うならば、あなたは神の民として選ばれることができます。またそのような思いで、神を信じキリストを救い主として信じたクリスチャンとなった人は、間違いなく神の選びの中にあるのです。それは、あなたと神様との間に結ばれた、あなたと神様の一対一の決して破られることのない神様の約束です。それは、神の言葉である聖書を土台として、聖書に記された、聖書によって立つ神の約束だからです。ですから、自分の自己中心的な罪や心の汚れ、醜さといった聖書が罪と呼ぶものを、神に赦して頂き、神様のあわれみと慈しみをいただきたいと願う心があるならば、私たちは神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰を神様に告白したいと思います。そうやって、私たちはキリスト教の歴史と伝統に繋がり、その源流であるイエス・キリスト様に繋がる者となるのです。
お祈りしましょう。