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羊飼い 『無力の中にある恵み』
ローマ人への手紙 9章30節−10章13節
2005/2/6 説教者 濱和弘
賛美 : 139,191,282

さて、今日のテキストの箇所は、同じローマ人への手紙9章1節からの一貫したテーマの中にあります。それは、神の選びの民であったイスラエルの民が、神のお遣わしになった救い主イエス・キリスト様を拒んでしまったという現実の前にあるパウロの深い心の悲しみと嘆きに基づいています。そのようなパウロの深い悲しみと嘆きの中から、私たちは先々週の礼拝において、次のようなことを学びました。それは、神が人を救いにお選びなる時に、神は、私たちの心を決して無視して人をお選びにはならないと言うことです。ですから、神が人を選ばれるとき、神は、イスラエル民族という枠組みによってオートマチック(自動的)にお選びになるのではなく、神に憐れみを求める心、慈しみを求める心を持つ者を、神はお選びになるのだと言うことです。いわば、「神は、神の恵みを求めるものに恵みを与えたもうお方である」と言えます。この「神は恵みを求めるものに恵みを与えたもうお方である」と言うことを、裏返して言いますと、「神は、神の恵みを求めようとしないものには、恵みをお与えにならない。」と言うことになります。もっとも、正確に言うならば、「恵みをお与えになることが出来ない。」と言った方が良いのかも知れません。

なぜなら、恵みを求めようとしないものに対しては、いくら神が恵みを与えようと差し出しても、相手がそれを必要としていない以上、その恵み受け取ってはもらえないからです。事実、救い主イエス・キリスト様は、まずイスラエルの民のところにこられ、そこから宣教の業を始められたのです。しかし、イスラエルの民は、そのイエス・キリスト様を拒み、イエス・キリスト様が語られた恵みの言葉つまり福音に耳を傾けようとしなかったのです。それにしても、一体どうして、彼らはイエス・キリスト様の恵みの言葉に耳を傾けようとしなかったのでしょうか。その理由が、まさに今日のテキストにあるローマ人への手紙9章30節から33節の部分に言い表されているように思います。そこには、こう書かれています。「では、わたしたちはなんと言おうか、義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らはつまづきの石につまずいたのである。」

義というのは、正しいということです。イスラエルの民は、決して義を追い求めなかったわけではありません。ローマ人の手紙10章2節でローマ人の手紙の著者であるパウロが「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが」と言っているように、イスラエルの民もまた、神の前に正しいものであると認められることを追い求めていたのです。しかし、イスラエルの民が、神の前に正しいものであると認められることを求める、その求め方には問題がありました。9章32節に「しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。」とありますように、彼らは、旧約聖書に記されている律法を行なうことで神の前に正しいものであると認められようとしていたというのです。それは結局、彼らが求めていたのは、神の正しさではなく、自分の正しさだったということです。だからこそ、パウロはローマ人の手紙10章3節で「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと務め、神の義に従わなかったからである。」とそう言うのです。

この聖書の言葉は、「自分の義を立てること」と「神の義を与えられること」とは同じではないことを私たちに教えています。パウロが「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと務め、神の義に従わなかった」とそう言うますが、それは、つまりはイスラエルの民が熱心だったのは、自分の行いが神の前に正しいものであること、つまりは自分の義を神に認められることをひたすら追い求めていたのだということです。自分の正しさを神に認められる生き方、それは実質的には自分の正しさを神に主張し認めさせる生き方です。このような生き方が求めるものは、過ちを犯さず正しいことを行なう意志の強さであり、頑張れる力です。自分の強い意志と、頑張れる力の結果である「自分の義」が「神の義」になるからです。「自分の義」に「神の義」が従っているといっても良いかも知れません。そういった意味では、行いによって自分の義を神に認めさせようとする生き方は、確かに「神の義」に対して熱心ではあっても、あくまでも、「神の義」に対しての主人は、認めさせる自分なのです。

それに対して、「神の義を与えられる」と言うことは、決して自分の正しさを主張することではありません。それは、神が正しいものであると認めてくれることを期待し、待ち望む生き方だといえます。ただ、神がお前は正しい、それで良いよと言って下さることを待ち望むのです。当然、このような生き方は過ちを犯さず正しい事を行なう意志の強さであるとか、頑張れる力といったものを求めはしません。自分の行いがどのようなものであるかに関係なく、ただ求めるのは「お前を正しいものだと認めてあげよう」という、言葉であり心なのです。そして、このとき、ただ「お前を正しいものだと認めてあげよう」いう言葉を期待し待ち望む者にとって、「神の義」に対する主人は、正しいと認めてくれる神にあるのです。私は、このことを思うとき、マタイによる福音書の20章1節ら16節に書かれている、イエス・キリスト様が語られたぶどう園の主人の譬え話を思い出します。ぶどう園で働く労働者を一日1デナリで雇った、あのぶどう園の主人の話です。

皆さんも、よくご存知かとは思いますが、おおよそのあらましをたどってみますと、次のようなものなろうかと思います。ある時、ひとりのぶどう園の主人が、ぶどうの収穫のために、労働者を雇いに、朝早く町に出かけていきました。町には、その日の一日の仕事を求めて集まっている人であふれていました。主人は、その中の良く働きそうな男たちに声をかけて「一日1デナリで働かないか」と声をかけました。1デナリというのは、2000年前のイスラエルの労働者が働く、一日分の給料としては十分なものでした。当然、彼らは、喜んでその仕事を引き受け、一生懸命、主人のぶどう園で働きました。そうこうしていると、主人は、お昼頃になって、別の人を「相当の賃金を払うから」と言って雇って来ました。更に3時頃、最後には夕方近くになっても、主人は人を雇ってきたのです。やがて、日もとっぷりと暮れ、ぶどう園で働いていた男達に給料を払う時間になってきました。雇い主である主人は、夕方近くに雇った男から順番に、1デナリづつ給料を支払ってやったのです。すると、朝早くから働いていた男から、「一日中一生懸命働いた私と、ほんの数時間働いた者とが同じ給料なんて不公平だ。」と不満が爆発してしまったというのです。

このぶどう園の主人は、何時間働いたとか、どれだけ働いたという実績に基づいて給料を支払っているわけではありません。ただ自分が「こうしてあげたい」という気持ちに基づいて支払っているのです。また、昼過ぎに雇われた者も、「相当の賃金を払うから」とだけ言われて雇われていますから、ただいくら賃金をくれるかは、雇い主である主人の気持ちただ一つです。少しでも、主人があわれみをかけ、多く与えてくれることを期待して待つだけです。ましてや、夕方、雇われた男は、ほとんど働いていないわけですから、ただ雇い主のあわれみのみを期待するほかないのは言うまでもありません。しかし、そのように期待して待つ心に対して、雇い主は一日の生活に必要な額の1デナリを与えてやるのです。その姿は、まさに神の義が与えられることを待ち望む者に対して「神がお前を正しいと認めてあげよう」といって神の義を得させようとする神の姿に重なり合います。ただ、いくら給料をくれるのかは雇い主の心一つだとして、待ち望むものにとって、事の決定権は雇い主の側にあるのです。

それに対して、私の目には、朝から一日中働いたのに、少ししかは足らなかったものと同じ扱いだったと不満を述べた人たちは、自分の義を認めさせようとする人たちの姿に重なり合います。このマタイによる福音書20章にある譬え話を見ますと、朝から一日中働いた人たちは、夕方から働いたものや、昼から働いたものが1デナリをもらうのを見て、自分はもっと多くもらえるだろうと思ったと書いてあります。確かに、朝から雇われた人たちと雇い主の間には一日1デナリの約束が交わされています。しかし、自分たちは朝から一日中働いたのだから、その実績から言って、当然、夕方働いた男より多くもらえるのは当然だと思い主張するとすれば、雇い主にあるのではなく雇われた方が、給料の決定権を主張していることになります。それは、まさに自分の義を立てようとする生き方なのです。そのようなイスラエルの民の中にあった自分の正しさを神に主張し認めさせる生き方を支えているのは、自分が行なってきたことの実績とそれに対する自信だといえます。もし、自信がなければ、相手に有無を言わせず認めさせるまで頑張るしかないのです。

そのような頑張りが伴うものだけに、実績のないものに対しては、「だれが天に昇るであろうか」とそう思ってしまう気持ちになるのは、止む得ないことかも知れません。実際、イエス・キリスト様の時代のイスラエルの民の典型的存在であり模範的な存在であったパリサイ人と呼ばれる人たちは、自分たちのように律法を守れない人たちを「地の民」と呼び、蔑んで見ていたのです。そのようなパリサイ派の人たちにとっては、イエス・キリスト様がお示しになった、あのぶどう園の主人に譬えられるような神の姿や、あわれみによって与えられる神の義など、受け入れられるものではありません。結局、このぶどう園の主人に譬えられる神の姿や、あわれみによって与えられる神の義といったものは、神の愛に基づくものです。そういった意味では、パリサイ人を、模範とするイスラエルの民が、神の愛を語り、神の愛に生きたイエス・キリスト様を受け入れられなかったのは、当然の事なのかも知れません。

もちろん、この神の愛だけが強調されて、誰でも彼でも、神の義が与えられると言うことはできません。それは、まさに「だれが底知れぬ所にくだるであろうか」というようなものです。ときおり、神が愛の神ならば、すべての人を救えばいいとそう言われる方がおられます。私も、そうであったらいいなぁと思います。それは、神の裁きという出来事を考えますと、本当にそうであって欲しいと思います。確かに神は愛なるお方です。しかし、その愛なるお方は、同時に義なる正しいお方であり、聖なるお方でもあります。この神の正しさと聖さのゆえに、神は罪は裁かなければなりません。だからこそ、イエス・キリスト様に私たちの罪の全てを背負わせ、十字架に付けて死なせたのです。それは、私たちの罪の身代わりとなって、神の裁きを私たちの代わりに受けられたからです。ですから、このイエス・キリスト様というお方を抜きにして、救いと言うことは語れないのでありますし、このイエス・キリスト様というお方を抜きにして、神の愛も語れないのです。

「神が愛の神ならば、すべての人を救えばいい」とそう言われる方のことばも、「そうであったらいいなぁと」思う私の心も、本当にそうだと思います。そして、そのような思いの根拠は神の愛にあるのです。そしてその神の愛は、イエス・キリスト様というお方を通して私たちに示され表わされているのです。皆さん、私たちは、自分は自分の救いに対しては何の力をも持ち得ない無力なものです。私たちを罪から救い、神の義を私たちに与えてくれる救いの出来事は、その自分の無力さを知って、神のあわれみと慈しみを待ち望む心に対して、与えられる恵みなのです。そして、その恵みの出来事は、イエス・キリスト様と言うお方と、そのイエス・キリスト様の十字架の出来事として、すでに私たちに与えられています。ですから、私たちは、このお方信じ、このお方が十字架の上で死なれ、復活なさったと言う出来事の中に、神のあわれみを見出し、それに寄りすがっていくことが大切なのです。そのように、私たちが、イエス・キリスト様を通して示された神の愛のうちに生きるならば、神はどのような中にあっても、希望を与え、失望に終わらせることはないのです。

お祈りしましょう。