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羊飼い 『信仰による人間の主体性』
ローマ人への手紙 10章14−21節
2005/2/13 説教者 濱和弘
賛美 : 2,339,316

毎年、この時期になりますと確定申告をしなければなりませんが、私の場合、PBAの仕事と、教会の仕事とのふたつがあり、それぞれ源泉徴収がどうこと、いろいろとややこしかったりします。幸い、私の大学時代の友人が税理士をしており、その友人が書類を書いたり、手続きをしてくれるので、本当に助かっています。友達って言うのはありがたいものだとつくづく思います。その税理士の友達を含めて、私には大学時代からのクリスチャンの友人が何人かいます。いすれも、私にとっては大切な友達であり、私の信仰に色んな意味で、良い影響を与えてくれました。その中の一人が、大学時代にこんな事を言っていました。彼が大学にはいるとき、彼の教会の牧師が、彼に「君が大学の4年間で学ばなくてはならないのは、君の人生の主権者が誰であるかと言うことだ」とそうアドバイスしてくれたと言うのです。

もちろん、「君の人生の主権者は誰であるかと言うこと」を学べ」とそう言うわけでありますから、この牧師が言わんとしたことは「君の人生の主権者は神である」と言いたかったであろう事は、容易に推測できます。と申しますのも、普通に考えれば、自分の人生の主権者は、言うまでもなく自分であると思われるからです。私たちは、自分の人生の人生を生きるのでありまして、自分の人生の主役は自分だからです。しかし、自分の人生の主役は自分であると言いましても、どんなに頑張っても、自分で自分の人生を決められないことがあります。今はまさに高校受験や大学受験の真最中です。この受験において、仮にどんなに自分が東京大学に行くと決め頑張ったとしても、東大がその人を合格者として選ばなければ、入学することが出来ません。そういった意味では、私たちは自分で自分の人生の全てを決めることが出来るわけではありません。誰かが、私たちの人生に介在して、私たちの意志を超えたところで、私たちの人生の一場面を決めてしまうと言うことがあるのです。そういった意味では、私たちは私たちの人生の主役ではあっても主権者ではないと言えます。

そのことが、信仰という局面で現われたのが、神の選びと言うことです。ヨハネによる福音書の15章16節には「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだのである。」とありますが、私たちが罪ゆるされ、クリスチャンとなったのは、神様が選んで下さったと言うことです。そして、私たちがこのローマ人への手紙9章以降から、ずっと学んでいたのは、この神の選びと言うことです。そこで学んだことは、神が私たちの罪を赦し、神の前に正しいものと認めて下さるのは、私たち何をしたかと言うことではなく、神のあわれみによる神の選びの業であると言うことです。ですから、この神の選びと言うことを考えることは、とりもなおさず神の主権と言うことを考えることでもあるのです。

ところが、この神の選びというものに関して、私たちが9章以下から見てきましたことは、神は私たちの意志を超えて選びの業を行使されるお方ではないということでした。つまり、神は私たちの人生の主権者であられるのですが、私たちの主体性といったものを、決して無視されるお方ではないと言うことなのです。だからこそ、ローマ人への手紙10章9節10節にありますように「すなわち、自分の口で、イエスを主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるならば、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とせられ、口で告白して救われるからである。」というのだろうと思うのです。それは、人が口で告白する、言葉で言い表わすと言うことは、その人が全責任を負って行なう、その人の主体的な行為からだからです。私たちは、自分の語った言葉に責任を負わなければなりません。例えばそれが、嘘やいつわりであったとしても、嘘や偽りを語ったと言うことに対して責任を負う必要があります。つまり、ただ心の中で密かに神を信じる、それはそれで尊いことです。そして、私たちが、心で神を信じるとき、私たちは神の選びの業のうちに置かれます。けれども、その神の選びに対して、言葉を持って信仰を告白して生きるところに、私たちの信仰の主体性が明らかにされるのです。

このように、私たちの信仰に私たちの主体性といったものがちゃんと守られているからこそ、私たちは、神を私たちの人生の主権者としつつも、自分が自分の人生の主役として生きていくことが出来るのです。以前、ある有名な俳優さんが、依頼された映画の主役を途中で降ろされたというような話を聞きました。聞くところによりますと、その俳優さんは、その人なりの演出理念と言いますか、考え方といったものがあって、撮影現場で色々と摩擦を起し、特にこれまた高名な監督と意見が合わず、そのため、結果として降板せざる得なくなったと言うことだそうです。映画の撮影現場の責任者は映画監督であり、作品に関する主権者は監督にあります。ですから、実際に演じるのは役者さんですが、その演技も、監督の演出の意図をくみ取って演じられなければ、決してその演技に対してOKはでないのです。同じように、私たちの人生に置いて、私たちが主役であり、私たちの主体性がちゃんと守られているとしても、それは私たちの人生の主権者である神の言葉に耳を傾け、また神のご意志がどこにあるかと言うことに心を向けていなければならないのです。

そのことは、私たちの罪と、その裁きに対する救いと言うことの中に、顕著に表れてきます。ローマ人への手紙10章11節から13節にはこう書かれています。「聖書は『全て彼を信じる者は、失望に終わることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊に恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われるからである。」ここで言われていることは、イエス・キリスト様を、自分の主であると信じ告白し、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として、イエス・キリスト様に罪の赦しを求めるならば、罪が赦され、罪の裁きから救われると言うことです。それは、イエス・キリスト様が、子なる神として父なる神、聖霊なる神からなる三位一体なる神が、共に持つ一つの御心を具体的に実現させたことによります。つまり、三位一体なる神の持つ、私たち人間を愛し、罪の結果である永遠の滅びから救おうとする思いを、イエス・キリスト様は、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって死なれることで、罪の救いを成し遂げられたのです。

しかし、このイエス・キリスト様の十字架の死は、その出来事をどう理解するかによって、全く意味が違っています。実際、聖書神学という分野におきまして、もっとも近代主義的なものの見方をする学者などの中には、イエス・キリスト様の十字架の死は、当時の社会制度に反逆した反逆者の死として捕らえる人がいます。また、イエス・キリスト様を単なる革命家として捕らえ、その革命的行動の結末として十字架に付けられたと考えた人もいたりするのです。当然ですが、そこにはイエス・キリスト様の十字架の死に対して、私たちの罪の赦しと言った意味を全く見出してはいません。まさに、私たちの罪の救い主としてのイエス・キリスト様と言うお方の存在を信じることが出来ないのです。それは、聖書に書いてあることが、ことごとく信じられないからです。神が処女を介して人となられ、病人をいやしたり、荒らしを言葉一つで沈めたり、水をぶどう酒に換えたり、5つのパンで5千人の人々のお腹を満たしたなどという奇跡など、近代理性では、到底信じられないからです。そして、何よりも、イエス・キリスト様が十字架に付けられて死んだ後、私たちの罪の赦しを完全に成し遂げ、罪の裁きである死に勝利なさった証として、3日後に死人の内からよみがえったなどと言うことが信じられないからです。

信じられない存在、信じられない方に助けを求めて、その名を呼び求めようことなど、ありようはずがありません。ましてや、イエス・キリスト様の十字架の死が、神のご意志であるなどと考えられないことです。だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様の十字架の死が、どのような意味を持っているかを伝えなければなりません。あの十字架の上で、苦しみながらむごたらしく死んだ、みじめな死が、実は、私たちの罪を赦す為の、神の愛の故であり、十字架の上で死なれたお方こそが、私たちの罪の救い主であり、私たちの人生の主権者であることを、人々に語らなければならないのです。私たちが、語らなければ、誰もイエス・キリスト様を自分の罪の救い主として、呼び求めるといった、十字架に表わされた神の愛とご意志に、私たちが主体的にお答えすることなど出来ないからです。まさに、信仰は聞くことよるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。ということだろうと思います。もちろん、私たちが、どんなに十字架に秘められた神の愛と、お心を語ったとしても、すべての人がそれを信じるとは限りません。語られた言葉を信じるか否かは、その人の主体的な決断にかかっているからです。

先ほど、最も近代主義的理性に信頼を置いている聖書神学者の中には、イエス・キリスト様を、単なる革命家であるとか、時代の社会体制に対する反逆者であると言ったとらえ方をする人たちがいるといいました。それらの方々の著作等を読みますと、確かにしっかりとした学問的方法論にたち、イエス・キリスト様がどのようなお方かを、推論しています。そして、そのような聖書からのイエス・キリスト様と言うお方の読みとり方は、それなりに魅力があるものです。たしかに、彼らの示すイエス・キリスト様は、社会や政治の中で抑圧された私たちに、力を与えてくれます。けれども、決して私たちの心の内側にある、深い罪の意識や、自分自身の醜さや心の汚れと言った存在の根底に関わるような罪を救うお方ではないのです。ですから、私たちが、私たちを罪から救うお方として呼び求め、私たちの人生の主権者として寄りすがるお方を、彼らの語るイエス・キリスト様の中に見出すことが出来ないのです。

もちろん、彼らは聖書神学者ですから、イエス・キリスト様の十字架の死は、神の愛の故であり、神が私たちの罪を赦す為のものあったという、いわゆる伝統的なキリスト教の理解を知らないわけではありません。ですから、彼らは知ってはいるけれども、彼らの心はそれを受け入れることが出来なかったと言うことが出来るだろうと思います。もっとも、それら近代主義的理性に信頼を置く聖書神学者達の為に申しますが、彼らの多くは、そのような歴史上の人物としてのイエス・キリスト様と、教会が2000年の歴史の中で伝えてきた、神の御子であり救い主である信仰上のイエス・キリスト様を区別します。そして、その信仰上のイエス・キリスト様を通して、私たちの罪の赦しという宗教的意味を捉えている人々も少なくはありません。ですから、私たちは、近代主義的理性にもとづく神学的立場を取るからと言って、それらの方々を、単純にクリスチャンという範疇から排斥し、排除してはならないだろうと思います。

しかし、いずれにしても、このような近代的理性に対する絶大な信頼のもとにあるならば、私たちが、罪の救い主イエス・キリスト様とその福音を伝えたとしても、それをそのまま信じ受け入れる事ができないと言うことは、一つの現象としてあり得るのです。それは、まさに、今日のテキストのローマ人の手紙10章16節に「しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている」といわれるような状況の今日的な現れだと言うことが出来るだろうと思います。このように、イエス・キリスト様の十字架の意味、つまりは福音の内容をそのまま信じ受け入れることが出来ないということは、なにも近代理性に絶大な信頼を置くと言ったことだけによるのではありません。ローマ人の手紙を書いたパウロが、旧約聖書イザヤ書53章1節にある「主をだれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」という言葉を引用しながら、福音を聞き知りながらも、それを受け入れないでいると指摘した人たちは、当時の古代ローマ帝国時代のイスラエル人に対してです。

彼らは古代ローマ時代に生きていた人たちですから、近代主義的理性とは縁のない人たちです。その古代ローマ時代のイスラエル人であったとしても、イエス・キリスト様の福音の内容を伝えられ知ってはいても信じ受け入れられなかったのです。この、当時のイスラエル人達が、イエス・キリスト様によって明らかにされた神様のご意志に対して、彼らがそれを受け止めることの出来なかった理由が何であったかと言うことについて、松木祐三先生は、それはイスラエル人のねたみからだと言っています。それは19節にある「わたしはあなたがたに、国民でないものに対してねたみを起させ、無知な国民に対して怒りをいだかせるであろう」と言う申命記32章21節の言葉に立ってのことです。この申命記32章21節の言葉は、イスラエルの民が、エジプトで奴隷となっていたのを、神が助け出された出エジプトの出来事の後に、イスラエルの民が、その神の恩を忘れて、外の神々を信じ仕えるようになったことに対して、モーセを通して語られた神の言葉です。

そのモーセの言葉に重なり合うようにして、イエス・キリスト様を通して示された福音、それを受け入れ信じた者が、神の民の交わりの中で罪ゆるされた喜びを受け止めている姿を見て、イスラエルの人たちの心に、ねたみが起こったがゆえに、素直に福音が信じられなかったと言うのです。確かに、当時のイスラエルの人々の中に、多くの人たちがイエス・キリスト様によってもたらされた福音を信じて救われていくのを見てねたみがあったと言うことを、新約聖書使徒行伝の13章13節から45節や17章1節から5節は伝えています。このような、イスラエル人のねたみの背後には、自分たちは神から選ばれ、律法を託された民であるというプライドもあっただろうと思います。なのに、多くの異邦人は、その律法やイスラエル人の伝統を無視するかのようにして、イエス・キリスト様の十字架の死が、自分の罪の為の身代わりの死であると信じ、罪ゆるされ救われたと喜んでいる。その姿に、彼らはねたみを感じ、ねたむがゆえに素直に信じられなかったと言うのです。

結局、私たちは近代主義的な理性に対する信頼によってであろうと、ねたみであろうと、それは、自分自身自信の尊厳を過度に強調する、言うなれば、その人の持つ誇りと言っても良いだろうと思います。もちろん、私たち人間のもつ尊厳性は、もともと神が人間を神の像として造られたものですから、私たちは、それを大切に思わなければなりません。また私たちの誇りといったものも、私たちがいきていく上で、決して失ってはならないものです。しかし、そのような大切な尊厳性や、誇りであったとしても、それは神の前にあって砕かれなければならないものでもあります。私たちは、神の前では一人の罪人に過ぎないからです。そのことを忘れて、自分自身自信の尊厳を過度に強調し、自らを誇るならば、私たちが私たちは神様のご意志がどこにあるかと言うことに真摯に心を向け、神の言葉に耳を傾けて聞こうとしない限り、私たちは決して、神を信頼し、神を呼び求めることは出来ないのです。それはまさに、自分の行いの正しさを神に認めさせようとする、あのイスラエル人の中に見られた、行いによる義と同じ性質を持ったものなのです。

そういった意味では、私たちの信仰の主体性といったものは、神の言葉を聞き、それに応答すると言った事の中で発揮されるべきものだと言うことが出来ます。というのも、神のご意志というものは、私たちを決して不幸にするものでもなければ、私たちの人生に苦しみと悲しみを満たすものではないからです。なぜなら、神は私たちを愛しておられるからです。そして神が私たちを愛しておられる以上、神の意志は私たちが不幸になることや、私たちが悩み苦しむことを望んでおられないことは自明の理です。もちろん、それは私たちの人生に苦難や悲しい出来事が全く訪れなくなると言うことではありません。私たちが生きている現実の生活には、私たち人間の様々な罪や醜さ、自己中心といったものが満ちあふれています。ですから、そのような現実の社会の中で生きている以上、私たちは、人間の罪が引き起こす悲しみや問題、あるいは人間の自己中心や心の醜さといったものが引き起こす様々な出来事に巻込まれ、悩み、そして苦しみます。時には悲しみの淵に追いやられることもあります。そのような悩みや苦しみ、悲しみの中にあっても、神は私たちの顔に笑顔を取り戻すことが出来るようにと、私たちの心に、聖書の言葉を通して語りかけ、導いて下さっているのです。

そして、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じ、また自分の人生の主であるとして信じ、イエス・キリスト様の名を呼び求めるならば、私たちの人生に豊かな恵みを与えて下さるのです。父なる神、子なる神イエス・キリスト様、聖霊なる神である三位一体の神は、そのために十字架の死という苦しみを共に味わって下さるほどに、私たちを愛して下さっています。そして、その愛は真実で徹底したものです。このローマ人への手紙を記したパウロが、今日のテキストの10章18節以降で、イスラエルの民が、イエス・キリスト様を通して伝えられた福音の言葉に対して耳を傾けず聞き入れなかったことを、旧約聖書を引用しながら述べています。しかしながら、その最後は、驚くべき神の言葉で締めくくられています。21節です。そこにはこう記されています。「そしてイスラエルについては、『わたしは服従せず反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた』といっていた。」

神に対して、その恩を忘れ反抗するものに対しても神は手を差し伸べ続けておられると言うのです。そうやって手を差し伸べるように働きかけ、私たちが神に答え応答するのを待ち続けておられる、それほどまでに神の愛は真実で徹底しているのです。このように、神は徹底した愛で私たちを愛し、福音の言葉を語りかけ続けておられるのですから、私たちもまた、人々にこのイエス・キリスト様のもたらした十字架の救いという福音を述べ伝えていくものでありたいと思います。また、人に述べ伝えていくだけではなく、私たち自信も、このような真実で徹底的な神の愛に、お答えしていきたいとそう思います。この神の愛にお答えするということ、それは私たちが、神の愛を信じて、神のご意志がどこにあるかに心を向け、神の言葉に聴き従おうとする生き方なのです。

お祈りしましょう。