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羊飼い 『レッテルを貼られない神』
ローマ人への手紙 11章1−7節
2005/2/20 説教者 濱和弘
賛美 : 155,302,264

つい先日、新しい2005年がと言う年が始まったと思いましたら、もう2月が終わろうとしています。本当に、時があっという間に過ぎていくような感じがしますが、今年から、この教会の壮年会の例会の学びは、新しいテキストを使うことになっています。その新らしいテキストに何を選ぶかということが、私にゆだねられました。そこで、何がいいか、いろいろ考えあぐねたのですが、精神科医であり、ルーテル学院の教授でもある工藤信夫さんの「信仰による人間疎外」という本にしようかと思っています。「信仰による人間疎外」という本のタイトルにも、どきっとさせられてしまいますが、要は、次のようなことを言おうとしているのです。「キリスト教の信仰は、本来は人の心に慰めや平安を与え、安らぎをもたらすものである。そして人を自由にするものだ。ところが、教会生活が、そのようなキリスト教の信仰の本来ある姿から逸脱して、逆に、人を様々な形でしばりつけ、疲れさせ、心を傷つけ、立ち上がることが出来ないようにさせている現実があるのではないか。どうしてそんなことになったのか。」このことについて、この信仰による人間疎外という本は、考えていくのです。

そんなわけでしょうか。私の持っているこの本には、工藤先生の直筆のサインが入っているのですが、そこには「信仰による自由を」という言葉が書き添えられています。まぁ、この本の内容については、壮年会で学んでまいりますので、ここでは詳しく申しあげることはましません。もし壮年会以外の方で、興味を持たれた方は、是非ご自分でお読み頂ければと思います。しかし、今日は、その本の冒頭のところに書かれあるエピソードを一つだけご紹介いたします。それは、著者である工藤信夫医師が、ある病院で働いていたときのことです。一人の患者さんが、この工藤医師の診察を受けられたそうです。工藤医師は、その患者さんの話を聞ききながら、自分の親しいカウンセラーが、この人の治療には適任だと思い、「A先生に連絡しておきますので、一度受診してみたらいかがですか」とそう聞いてみたそうです。すると、その患者さんは工藤医師に対して「先生、その方はクリスチャンなのですか」とそう尋ねたというのです。工藤医師は。この患者さんの「先生、その方はクリスチャンなのですか」と言う言葉に、何か安心させられないものを感じたと言います。それは、この「クリスチャンであるかないか」と言うことで人を容易にえり分け、その人の本来持っている価値をないがしろにする恐れを感じるからだというのです。

「あの医者はクリスチャンである」あるいは、「その医者はクリスチャンではない」ということで区別するということは、いわば、その人にレッテルを張ることです。工藤医師は、さきほどの患者さんの「その方は、クリスチャンですか」と言う問の背後に、クリスチャンの医師だから信頼できるという評価をし、クリスチャンの医師でないなら、余り信頼できないと思ってしまうものの見方が潜んでいる可能性を指摘して、それは決して正しいことではないと、そう言うのです。たしかに「レッテルを貼る」と言う言葉事態、良い意味に用いられることがありません。人を何かの範疇により分けてレッテルを貼り、それだけでその人の能力や人格、あるいは考え方といったものを含んだ存在の全てを一律的に判断してしまうことが良いことではないのは、皆さんも良くおわかりのことだろうと思います。私たちは、決して人にレッテルを貼って判断すべきでありません。また、人は、だれ一人として決してレッテルを貼られて見られるべきものではないのです。

今日のテキストとなったローマ人への手紙11章1節から6節までは、まさにそのことを神ご自身がお示しになっている箇所であると言えます。このローマ人への手紙11章1節から6節までに背景には、ユダヤ人達が旧約聖書に置いて約束されていた救い主キリストが来られたのに、その方を拒み、十字架に付けて殺してしまったという出来事があります。そればかりではありません。ユダヤ人達は、「そのイエス・キリスト様が十字架に付けられて死んだことこそが、私たちを、私たちの罪から救くうためのものであった」ということを、伝え歩くキリストの弟子達の伝道を邪魔し、迫害をするのです。そのような現実を目の当たりにして見せられますと、「もうユダヤ人達は神から捨てられてしまったのではないか」と思わざるを得ないような状況なのです。だからこそ、パウロはこのローマ人への手紙11章の1節で「神はその民、ユダヤ人を捨てたのであろうか」と自分自身に問いかけるのです。

けれども、神はユダヤ民族ということで、その民を捨てられたわけではありません。事実、「神はその民をすてたのであろうか」と、そう問いかけるパウロ自信がユダヤ人なのです。パウロは、紛れもなくユダヤ人であり、ベニヤミン族の出身です。しかも、かつては外のユダヤ人と同様に、イエス・キリスト様の弟子達が、キリスト様を伝え伝道して歩くのが気に食わず、キリスト様の弟子を捕らえ牢獄に入れ留などの、激しい迫害をしていたのです。そのようなパウロでであったのに、今は、そのパウロ自身がイエス・キリスト様の救いの中に入れられキリストの弟子手をして、伝道して歩いている。この事を通しても、神は、ユダヤ人という民族に「ユダヤ人」というレッテルを貼って、全てを捨てられた訳ではないと言うことがわかるではないか」とパウロはそう言っているのです。まさに神は、人を民族や人種でレッテルを貼るのではなく、一人一人のことをちゃんと見て知っていてくださっています。そうやって一人一人のことをしっかりと見て知ってくださっているからこそ、民族や人種に関わらずに、一人一人を救いの恵みに選えらびになるのです。

だからこそ、ユダヤ人という民族が神の恵みを放棄したと思われるような状況の中であっても、神はそのユダヤ民族の中に、パウロのような人がいることをちゃんと見抜いておられるのです。そうやって、神が、たとえ人の目には民族全体が神に背を向けたと思われるような状況の中であっても、ちゃんとその中の一人一人に、丁寧に目を向け、その心の中までも見て下さって、救いの恵みに導いて下さっておられるのです。パウロは、自分自身の経験として、そのことを痛感していたのだろうと思います。しかし、単に自分の経験だからパウロは確信を持って、そう言ったのではありません。そのことは、歴史の中に刻み込まれた事実がパウロの経験を裏付けているからです。その歴史の中に刻み込まれた事実の例証として、パウロは旧約聖書の中に記されているエリヤの物語を紹介するのです。

この旧約聖書というものは、極めて民族的宗教的色彩が強い記述になっています。それはユダヤ人はユダヤ民族であるがゆえに、神の選びの恵みの中にあるといった一種の選民意識によって綴られていると受け取られても仕方がないような記述が見られます。その民俗宗教的色彩の中にありますから、逆にユダヤ民族が罪を犯し、神に背を向けたと思われるような状況におちいりますと、諸外国がユダヤの国に攻め込んできて、民族全体が苦難にあうという神の裁きを受けるのです。そのような旧約聖書の記述の中にあって、パウロが引き合いに出した列王記上19章のエリヤの物語は、まさに、レッテルを貼ることのない神の姿を、私たちに見せてくれます。

この列王記上の19章は、北イスラエル王国のアハブ王の時に、アハブ王の妻イゼベルという人によって、バアルという偶像が北イスラエル王国に持ち込まれた、そんな時代の背景の中にある話が記されています。列王記18章4節にはイゼベルが、イスラエルの神、つまりは聖書が伝えるまことの神に仕える主の預言者を断ち滅ぼしたと書かれていますから、どうやらこのイゼベルは、まことの神を信じるものを、激しく迫害したようです。そのような中で、エリヤという預言者は、たった一人で、イスラエルの神こそまことの神であると言うことを人々に示します。そして、北イスラエルの入り込んだ偶像礼拝を排除し、イスラエルの民を正しい神を信じる信仰に立ち返らせようとするのです。この、エリヤの試みは、いったんは成功したかのようにおもわれました。しかし、イゼベルは、人の信じる神バアルが全く無力な偶像にしか過ぎないことを明らかにしたエリヤを憎み、殺そうとします。

エリヤは、彼を殺そうとするイゼベルの強い意志を知り逃げ出します。その逃亡生活の途中で、エリヤは失望の中で神様に向ってこう言うのです。それは、ちょっと聞くとエリヤの神様に対する口のようにも聞こえる言葉です。「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者達を殺したからです。ただ私だけが残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています。」エリヤは「イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者達を殺したからです。ただ私だけが残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています。」と言っています。「イスラエルの人々は、あなたの契約を捨てました。そして、残されたものはただ私だけです。イスラエルの人々は、そのただ一人のこされた私をも殺そうとしています」というのですから、エリヤの目には、イスラエルの人々がみんな、神に背を向けてしまったと思われるような状況がそこにあったと言えます。

ところが、エリヤにはイスラエル民族の全てが神にそむき、神に背を向けてしまったと思われるような状況の中にあっても、神はなお、「わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。みなバアルにひざをかがめず、それに口づけしないものである。」とそう言われるのです。イスラエルの民族全体が、バアルという偶像の神にひざをかがめ、伏し拝むような状況の中に、神が七千人の者を、なおも神を信じる民として残しておられるといっても、その七千人の人たちが誰であるかは、エリヤの知るよしではりません。もし知っていたら、エリヤも失望して、神様に対して、口とも聞こえるような言葉は、言わなかったでしょう。彼は、本当に自分以外に、もうまことの神を信じている者はいないとそう思っていたのです。エリヤが、七千人も残されている人々に気付かなかったのは、イゼベルによって激しい弾圧と迫害が行なわれている中でしたので、残された七千人の人たちも、おおっぴらに聖書に記されたまことの神を信じると言い表し、礼拝するようなことは出来なかったのでしょう。

表向きは、じっと静かにイゼベルやアハブに従っているようにしていても、心には聖書の神を信じる心を失わずにもっている、そうやって身を潜めるようにして聖書の神を信じている人たちがいたのだと、そう考えられます。だからこそ、エリヤの目には、イスラエル民族の全てが、神に背を向け、神にそむいたように写ったのです。けれども、たとえエリヤの目にはそのように写っていた状況のなかにおいても、神はその中の一人一人をちゃんと見ていて下さったのです。もし、われわれがエリヤが見たユダヤ人の姿を同じようにみたら、どうでしょうか。あなたは、どう思われるでしょうか?おそらくは、エリヤと同じように、「もうユダヤ人達はダメだ。彼らは、みな神を捨ててしまって偶像礼拝に走ってしまった。」とレッテルを貼ってしまうところではないかと思うのですが、どうでしょうか?けれども、そのようなユダヤ人の中にも、7000人の人が、じっと身を潜めてイスラエルの主なる神を信じていたのです。

この当時のイスラエルの人口がどれくらいであったかについてはわかりませんが、歴代誌下の17章を見ますと、ほぼ同時代のお隣の国「南ユダ王国」では、王直属の兵隊が120万に近くいたことが記されています。南ユダ王国は、イスラエルの12部族のなかの二部族によって出来ている国です。そして、残りの10部族がエリヤのいた北イスラエル王国を造ったのです。ですから、わずか2部族で造られた南ユダ王国の王直属の兵士120万人もいたというのですから、残りの10部族で構成された当時の北イスラエルの人口の中で、7000人というのは、決して多くはない、貴重な存在ではなかっただろうと推測されます。その少ない7000人であっても、神は、外の多くに民と一緒に裁くようなことをしないのです。そこに、一人一人を大切にする神の恵みがあると言えます。エリヤが、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者達を殺したからです。ただ私だけが残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています。」と失望の言葉を漏らすような、絶望的な中にあっても、神は決してあきらめておられるのではないのです。

神の目には、まだ残されている貴重な7000人の人の姿が映っているのです。この出来事が、パウロに、パウロが生きた時代、その時代においても、ユダヤ人の中にも、神の救いの恵みに、選ばれている者がいることを確信させるのです。パウロが生きていた時代のユダヤ人たちは、イエス・キリスト様を十字架に架けろと声を挙げた人たちです。またイエス・キリスト様の弟子達を迫害し、パウロの伝道を妨害したような人たちです。表面的には、神から捨てられてしまっても仕方がないと思えるような状況なのです。けれども、そのような人たちであっても、神はそう簡単にあきらめはしないのです。もう絶望的だと思われる状況の中にあっても、ほんのわずかな光が見いだせるならば、神は絶対にあきらめることはなさらないで、そのわずかな光を追求なさるのです。

だからこそパウロは、同じローマ人への手紙11章13節14節でこう言うのです。「そこで私は、あなたがた異邦人に言う。私は自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの努めを光栄とし、どうにかして私の骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。」この言葉には、もはや自分の同胞のであるユダヤ人は、「神から捨てられてしまった民」とレッテルを貼られてしまっても仕方がないと思われるような状況の中にあっても、決してその同胞の救いをあきらめていないパウロの姿が、垣間見えます。それは、神がたとえわずかなものでも、決して見のがさず、また、そのわずかなものを決してあきらめないからです。恵みの神はあきらめない神なのです。神がそのように「あきらめない神」であり、私たちの信仰の先輩であるパウロもまた、決してあきらめないで、わずかなものでも追求しようとしているのですから、私たちもまた、そのわずかな光を追求していかなければなりません。決してあきらめてはならないのです。

たとえばそれは、日本という状況に対しても言えることでしょう。日本という国は、伝道が非常に困難な国だと言われていますし、事実その通りです。キリスト教の禁令が説かれて、もはや130年近くなります。それ以後日本のキリスト教の伝道が再開されたのですが、伝道が開始されて100年たっても、人口の1%以下しかクリスチャンがいない国は、世界中では日本とタイぐらいのものだそうです。あのイスラム教の国であるイラクでさえ12%の人がクリスチャンだと言われるのです。それほど日本の伝道が非常に困難な中であっても、私たちは、神を信じて救われる一人を追い求めていかなければなりません。神は私たち日本人を「神に捨てられた民」というレッテルを決して貼られることはないのです。また、それは私たちが宣教の地としている三鷹という地に着いても同じです。

私が聖書学院に入って知ったのですが、この実は、この三鷹の地も伝道が非常に難しいところだと言われていたそうです。それこそ、この三鷹と神奈川県の座間は、一生懸命伝道しても、なかなか実をなさない難しい地だと言うことで、三鷹と座間をさして「座間あ三鷹」というレッテルを貼られていたと聞きます。だからといって、私たちの先輩達が決してあきらめたわけではありません。三鷹の地にあっても、加藤亨先生が心血を注いで伝道し、教会を形成し、このように三鷹キリスト教会という立派な教会を築きあげてきたではないですか。ですから、その教会を受け継ぐ私たちも、神に習い先人にならって、決してあきらめてはならないのですそして、それは一人の個人に対しても言えることです。私たちは、「あの人はもうダメだ。」「あの人には、どれだけ神様のことを伝えてもだめだろう」などというレッテルを貼ってはなりません。私たちの目には、無理だ、難しいと思える状況でも、その人の中に、ほんのわずかでも光明がみいだせるならば、恵みの神は決してあきらめず見捨てないのです。

だから、私たちの方が勝手にあきらめてしまっては行けないのです。神は絶望の中にも光を見出し、光を与えて下さる恵みの神なのです。ですから、私たちは「絶望」と言うレッテルを貼るのはもう止めにしましょう。「もうだめだ」というレッテルを貼るのも止めにしましょう。それは、なにも伝道と言うことだけに限ることではありません。私たちの信仰生活の全てにおいて、私たちに対して「ダメなクリスチャン」「ダメな伝道者」というレッテルを決して貼られないのです。そしてどんなときにも、私たちの中に光を見出して下さるお方なのです。

最後に申命記31章6節の言葉をお読みして、今朝の礼拝説教を閉じたいと思います。申命記31章6節「あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共にいかれるからだ。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう。」これは、ユダヤの民がエジプトを出て、ヨルダン川を渡って新しい地カナンへ入っていこうとするときに、ユダヤの民の指導者である、モーセがユダヤの民に向って語った言葉です。彼らがこれから向っていく地では、困難に出くわし、絶望とおもわれるような状況に、何度も出くわすだろう、けれども恐れることもなく、おののくこともない。絶望的と思われる状況の中に陥っても主は、あなたに「神に見捨てられた者」というレッテルを貼ることはないのです。主は決してあなたを見放し、見捨てて、あなたを離れることはないとそうおっしゃっておられます。その神が、私たちの教会の中心にいて下さるのです。

お祈りしましょう。