『神の深い配慮と知恵』
ローマ人への手紙 11章7−36節
2005/3/6 説教者 濱和弘
賛美 : 218,341,112
さて、ただ今お読みただきました箇所は、このローマ人への手紙の9章、10章、11章と続く、イスラエル人に関する救いが一体どうなっているのかと言う問題に対する結論のような部分だと言えます。パウロが、このイスラエルの救い、つまり「イスラエルの人々の罪が赦され、神の民として神の国に迎え入れられのか」と言う問題を、わざわざ持ち出してきたのは、それなりの理由があるからです。一つは、パウロ自身がイスラエル人と同じ民族であるという、同胞に対するパウロの深い愛情があっただろうと考えられます。しかし、それだけではなく、そこには神の選びと言う問題があると言ってもいいだろうと思います。というのも、イスラエル人と言う民族は、神に選ばれた民族だったからです。イスラエル人は、特別に神に選ばれ、神に愛された民族であると言うことができます。
神はイスラエル人という民族の歴史を通して、神は私たち人間がどのような存在であるかをお示しなられました。そして、人間に対して、神がどんなに深く愛し、いつくしんでおられるかということを、イスラエル民族を通してお示しになっておられるのです。このイスラエル民族の歴史が、旧約聖書となって今日の私たちの手元にあります。ですから、旧約聖書には、イスラエル民族の歴史を通して、神の目からみた人間の姿が描かれていると言えます。また同時に、神が人間を愛し、慈しむがゆえに、人間に対してどのように関わろうとしておられるかという、神のお心が、イスラエル民族が歩んできた歴史の中に示されているのです。ですから、そういった意味では、イスラエル人という民族は、神に選ばれた民でありましたが、それは私たち、人類全体を代表する為の選びであったといえます。だからこそ、このイスラエル人の歴史を通して、神の目から見た人間の姿が描かれ、神がいかに人間を愛し慈しまれているかが記されている旧約聖書は、今日の私たちにとって、神の言葉であると言えるのです。
この旧約聖書に記されたイスラエル人の歴史は、実に神に背を向け、神にそむいて歩いた歴史だと言えます。神に選ばれ、神に愛され、神から「宝の民」だと言われたのにもかかわらず、当のイスラエル人達は、聖書の神に背を向け、自分が思うままに偶像の神を選び、聖書の神にそむいて歩むのです。そういった意味では、旧約聖書に記された人間の姿とは、神の事を意識せずに自分の思うままに、勝手気ままに生きる、そんな姿だと言えます。このように人が神のことを意識せず、勝手気ままに生きるならば、そこには様々な問題が起こってくるのは緋を見るより明らかです。実際、私たちに生活を見てもそうです。一人一人のわがままが顔を出すところには、いろいろな軋轢や摩擦が産み出されてくるのではないでしょうか?例えばそれは、家族と言ったより身近な、親しい関係であっても言えることだと思うのですが、どうでしょうか?
そして、それが地域や民族や国家と言った具合に広がっていくと、近隣問題や民族紛争、そして戦争と問題がどんどんと広がっていく、まさしく、そんな私たちの身近にあるような姿が、イスラエル人の歴史として旧約聖書の中に記されているのです。ですから、旧約聖書のイスラエル人の歴史には、暴虐や不正や、あるいは私たち人間の中にあるどろどろとした思いや人間関係といったありとあらえるものが、ありのままに記されているのです。そのような、イスラエルの民に対して、イスラエルの民が外敵によって責められ、時には支配されると言った事を通して、神の裁きというものをお示しになります。そして、そのような神の裁きを通して、イスラエルの民が悔い改め、神を呼び求めるならば、神は何度でも救いの手を差し伸べられるのです。そうやって、神はイスラエルの民を深く愛し慈しんでおられることをお示しになってきたのです。そして、このイスラエルの民が、私たち人類を代表するものとして選ばれたのであるとするならば、神は、私たちをも、愛し慈しんでおられるのだと言うことができます。そして、確かに、神は私たちを愛し慈しんでおられるのです。
そして、愛し慈しんでおられるからこそ、神の独り子であり、神であられるイエス・キリスト様が十字架に架かって死なれたのです。まさに、イエス・キリスト様の死が、私たちの身代わりとして私たちの罪の全てを負って神の裁きを受けられたものだったのです。けれども、イスラエル人は、そのイエス・キリスト様すら拒み受け入れませんでした。そんな状況の中で、神の選びの民であるイスラエル人は神に捨てられたのではないかと思われても仕方がない中にあったのです。この神の選びの民イスラエル人が捨てられると言うことは、単にイスラエル人という、一民族だけの問題に止まりません。なぜなら、イスラエル民族の選びは、私たち人類を代表しての選びだったからです。そのイスラエル人が神の選びからはずされて捨てられてしまうとするならば、私たちも、いつ神の選びからはずされ、神に捨てられてしまうかも知れないからです。だからこそパウロは、このローマ人への手紙9章10章11章で、神の選びと言う問題を取り上げなければならなかったのです。神はどのようにして、どのような人をお選びになられるのか?そして、その神の選びは、これから先どうなっていくのか?
私たちは、これまでに神がお選びになる人は、神に憐れみを求め、神に罪の赦しを求める者は誰であっても神はお選びになると言うことを学んできました。またその神の選びは、神の主権の元で、神の恵みによってなされると言うことも知ってきました。考えてみますと、恵みによってというのですから、神に憐れみや助け、神からの罪の赦しが必要のないという人を、神はあえてお選びになることはありません。恵みとは押しつけではないからです。けれども、神を必要としている人、神の憐れみを求める人には、神の愛は惜しみなく与えられるのです。そして、そこには、神によって罪が赦され、神の国に神の民として迎え入れられるという、神の選びの出来事が起こるのです。ですから、一見、神に捨てられ、神の選びという特権を奪われてしまったと思われるイスラエル人であっても、必ずしもみんながみんな捨てられたわけではありません。イスラエル人でも、神を必要とし、神に憐れみを求めるものは、全て神の選びの中で、罪ゆるされて神の民となれるのです。
いえ、それだけではありません。一見イスラエル人が神の民として、神から見捨てられたと思われる状況ですら、実は、神がイスラエルの民の歴史を通して、神の私たち人間に対する神の愛を表わす行為なのだと、パウロは言うのです。つまり、イスラエルの民が、神の独り子であるイエス・キリスト様を拒み受け入れないと言う、背きによって、聖書の神は、もはやイスラエルという一民族の神ではなくなったのです。そして、一民族の神でなくなったがゆえに、神の選びは、全世界の全ての民のなかにいる神を必要とし、神の憐れみを求める人たちへ広がっていったのだとそうパウロは言っている。そういった意味では、イスラエル人は、神に見捨てられたと思われるような状況にあっても、神の選びの民としての使命を果たしていたのだと言っても良いのかも知れません。
イエス・キリスト様の十字架とその死と言う出来事は、イスラエル人の民族の歴史の中に起こりました。そのイスラエルの民の歴史の中に起こった神の御業を、イスラエルの民は拒み受け入れようとしなかったのです。それは、まさにイスラエルの民の神に対する背信だといえます。しかし、神は、このイスラエルの民の背信を通して、神が人類の全てを愛し、その罪を赦そうとしておられるという、神の深い愛と慈しみの心を明らかにされたのです。このように、イスラエルの民は、神に対する背信とも思われるような行為を通しても、神の人々に対する神のみ旨を表わすという、神の救いの歴史の一端を担っているとも言えます。しかし、いずれにいたしましても、確かにイエス・キリスト様の時代のイスラエル人、特にパリサイ派やサドカイ派と言う宗教的指導者層は、神の一人子であるイエス・キリスト様を拒み、神に背を向けました。それは彼らの意志であり決断です。ですから、彼らは、イエス・キリスト様を必要としなかったのです。
神の一人子である子なる神イエス・キリスト様を必要しないということは、神を必要としないと言うことでもあります。神を必要としないところに、神の恵みはおよびません。ですから、彼らには神の恵みによってもたらされる神の選びは及ばないと言えます。それは、イスラエルの民を神の選びの民として、「宝の民」とまで呼ばれた神にとっては、苦く心の痛む悲しい出来事かも知れません。それは、神の救いの歴史にとってはマイナスの出来事のように思われます。けれども、そのようなマイナスとも思えるイスラエル人の姿を通して、神は、イスラエル人だけではない、全世界の全ての民を愛しておられる神の愛を明らかにされたのです。そうやって、みなさん、神は私たちを神の選びに導き入れて下さったのです。私たちの家族を神の選びに招いておられるのです。ここに、深い神の配慮と知恵があります。
神はイスラエル人の背信を、ただ背信というマイナスの出来事で終わらせなかったのです。そのマイナスの出来事を用いて、神を信じる民をユダヤ教という一民俗宗教の枠組みから、キリスト教という、すべての人に慰めと希望を与える世界宗教という大きな枠組みにしてくださったのです。ここに、私たちに対する神の深い配慮と愛があります。神は、あなたを愛しておられるのです。ですから、もはや、聖書の神は、ユダヤ一民族の神ではなく、私の神であり、ここに集っている皆さんの神でもあられるのです。そう考えますと、イエス・キリスト様の時代のイスラエル人の背信も、私たちが神に背く罪人であったとしても、神は、その人間を愛し慈しんでおられる事を示すために選ばれた、神の選びの民としての歩みに延長線上にあると言えます。
ですから、神の選びの民としての根幹にある使命は決して失われてしまったわけではないのです。確かにイエス・キリスト様の時代のイスラエル人の背信は、神の救いの歴史の中では、苦く心の痛む悲しい出来事かも知れません。けれども、神がそのような、神にとっての苦く心の痛む悲しい出来事もお用いになりながら、神の人を愛する愛と救いに業が全世界に広がっていく道を整えてくださったのです。そうやって、全ての民に神の選び開かれていったのです。ですから、そうやって、神の選びに招き入れられた者は、神のイスラエルの民を選んだ選びに繋がっているといえます。まさに、もともと全人類を代表して選ばれたイスラエルという元木に、全世界の民がつなぎ合わされるのです。このことは、イスラエルの民が、神の選びの民として捨てられたわけではないと言う事を意味しています。もちろん、不幸にも、イエス・キリスト様の時代のイスラエル人の、パリサイ派やサドカイ派を中心とした人々たちが、キリスト様を拒むと言うことはありました。
しかし、先週も申しましたように、その一見神に捨てられたと思われるようなイスラエルの民の中にも、神に憐れみを求め、救いを求める心を持つ者はいるのです。そして、そのような神の憐れみを求め、救いを求める心があるならば、彼らも必ず、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じ、神に罪ゆるされた神の選びの民となることができるのです。それは、クリスチャンが、イエス・キリスト様を信じ、罪ゆるされて神の民とされた喜びの中で、生き生きと生きている姿を通して、彼らの心がゆり動かされるからだとパウロは言うのです。そのように、神は神の憐れみを求め、神を呼び求める人々を決して見捨てずに見離さないのです。イスラエルの民の背信という出来事を通して、神の救いの出来事は全ての民に及びました。そして、その全ての民の中に神の救いの御業が広がっていくことで、こんどは、「神に捨てられてしまった」と思われるようなイスラエルの民が、もう一度、神の憐れみを求め、神を呼び求める神の民の中に選ばれ招き入れるというのです。
人が「彼らは神に捨てられてしまった」と思うものでも、決してあきらめない。それほどまでに、神に憐れみをもとめ、神を必要として神を呼び求める者に、恵みをもたらす神の深い配慮と知恵は、すべてを包み、すべての人に注がれているのです。ですから、神を必要とし、イエス・キリスト様を必要とする人々にとって、神の選びは決して変わることのなどありません。私たちが神を求め、イエス・キリスト様を必要とする限り、神の選びは決した変わることなどないのです。このような、神の深い配慮と知恵によって、私たちが神の罪の赦しを頂き、神の国に神の民として迎えられる恵みに選ばれているという事実を知った、パウロは、こう言っています。「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰すのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン」このパウロの言葉は、神を誉め称え、賛美する言葉です。きっとパウロは、自分の生涯を振り返りながら、自分は何と神の深い配慮と知恵の中で、自分は神の選びの恵みに預かっているのだろうか思うと、神を誉め称えざるを得なかったのではないかと、そう思えしかたがありません。
それは、私の生涯を振り返ってみても、私の人生においてマイナスだと、できれば消し去りたい、取り去りたいと思うような出来事を用いて、神は私を神の選びき、数々の恵みの出来事に導いて下さったからです。本来だったならば、人生に置いて消し去りたいようなマイナスの出来事は辛い思い出でしかありまあせん。けれども、その辛く悲しい思い出の中になるだけのことを通して、神は、私に対して神の選びの中にあること、また神の選びの中に置かれているがゆえに知る様々な恵みに導いて下さったのです。そうすると、本来はただ、辛く悲しいだけの出来事が、決して辛く悲しいだけの出来事には終わらないのです。そこには神様が与えて下さった恵みという感謝な出来事も思い出されてくるのです。
皆さんも、よくご存知の星野富弘さんと言う方がおられます。星野富弘さんは、体育の教師であったのに、クラブ活動中の事故で、全身不随になってしまいました。それは、本当に悲しむべき事故であり辛い出来事でした。この、星野富弘さんを支えた聖書の言葉の一つは、詩篇119編17節にある「苦しみにあったことは、私に良いことです。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」というものであると聞いています。事故で全身が動かなくなると言うことは、本当に辛い経験です。けれども、その経験を通して、星野富弘さんは神を知り、神の選びのという恵みの中を生きるようになったのです。そのときに、その辛い経験を通して、星野富弘さんは自分の心の醜さを知り、その醜い心に自分を赦して下さる神の愛、イエス・キリスト様の愛を知ったのです。そして、神様の恵みによって神の民となる喜びの中で生きるようになったのです。星野さんの事故という辛い経験は、辛さだけ思い出だけではなく、神様の優しさと愛に出会うという思い出が加えられたのです。
それは、神に憐れみを求め、神を必要として呼び求める者には、人生におけるマイナスの出来事であっても、そのことを通して恵みを与え、辛い思い出だけには終わらせない、神の深い配慮と知恵がそこにあるからです。そのように、イスラエル人の歴史に置いて、イエス・キリスト様を拒み、十字架につけたという出来事は、大きなマイナスの出来事です。このマイナスの出来事ゆえに、イエス・キリスト様の十字架の出来事以降、今日に至るまでの二千年間の彼らの歴史は艱難辛苦の歴史でした。けれども、この艱難辛苦の歴史は、行いによるのではない「神の恵みによる救い」を全世界の人にもたらすための歴史でした。そして神は、この艱難辛苦の歴史を通して、神は彼らも、この「神の恵みによる救い」に招き導いていかれるのです。ここに、神の深い知恵と配慮があります。そして、神は、今日も、神の深い配慮と知恵によって導かれる人生に、私たちを選び招いておられます。ですから、この神の招きの中を歩き、パウロのように神を誉め称えながら生きる人生の歩みをしっかりと歩んで行きたいと思います。
お祈りしましょう。