三鷹教会のロゴ メッセージ

羊飼い 『キリスト者として生きる』
ローマ人への手紙 12章1−2節
2005/3/13 説教者 濱和弘
賛美 : 2,175,349

さて、3月も半ばになりましたが、そろそろ卒業式の時機になってきました。娘の学校でも先日卒業式がありましたが、学校を卒業するというのは、いわゆる一つの転機です。それまで、自分が慣れ親しんでいた環境から、また新しい生活環境の中に巣立っていくその転機に卒業という出来事があると言えます。私たちが神を信じクリスチャンとなるということは、まさに人生の転機的な出来事であると言うことができます。それは、今までとは違った全く新しい生き方の中に踏み出していくことだからです。新しい生き方の中に足を踏み出していくという以上、そこには実際の生活を伴っています。クリスチャンになると言うことは、私たちの実際の生活に何らかの変化をもたらすものなのです。

たとえば、今日、皆さんは礼拝に出席なさっておられますが、クリスチャンホームに生まれてお母さんのお腹の中にいるときから教会に来ていると言う人でなければ、日曜日に教会の礼拝に出席するようになったということは、それまでの生活にはなかったことです。また、食事の時に神様にお祈りしてから食事をするとか、聖書を読むとか献金をささげる言ったことなども、従来の生活にはなかった生活の変化だと言えるでしょう。そういった意味では、本当にささやかなことであったとしても、神を信じクリスチャンとなることによって、実際の生活の中に変化といったものが生まれてきます。それは、キリスト教の信仰というものが、何か頭の中での観念的なものであるとか、あるいは哲学的な教えといったものではないからです。もちろん、キリスト教の信仰にも、神学といった頭で信仰を考える部分もなくてはならない極めて大切なことです。

しかし、キリスト教の信仰は、単に神学と言った部分で完結するものではありません。それは、私たちの信じる神というお方が、私たちに生きる力を与えて下さる方だからです。神は、私たちひとりひとり、つまりは皆さんに生きる力を与え、生きる目標を与え、そしてその人生を導いて下さるのです。ですから、どうでしょうか、皆さんが神を信じクリスチャンとなったときから、皆さんの生活の中に何らかの変化があったのではないかと思うのですが、どうでしょうか?あるいは、何が変わったか良くわからないという方もおられるかも知れませんが、でもじっくりと考えてみると、どこかにそれまでとは違う、新しい変化というものがあるはずです。ここには、クリスチャンホームで生まれたときから教会に来ていて、キリスト教的な生活をしているので、とくに何かが変わったと言うことはないと思われるかたもいらっしゃるかも知れませんね。でも、考えてみれば、クリスチャンホームに生まれたので、生まれたときから教会に通っており、キリスト教的な生活に慣れ親しんでいうこと自体、それは世の中の人の実際生活とは、全く違った生活をしているということです。いわば、生まれたときから実際生活が変えられた中にあったのであり、それは神を信じる親のもとに生まれたという神様の特別な選びの恵みにあったと言うことができます。

しかし、いずれにしても、神を信じる信仰を持ちクリスチャンになると言うことは、それは単に観念上の問題ではなく、実際生活に反映されていくものなのです。そう言うわけでしょうか、私たちが礼拝でずっと取り上げている新約聖書ローマ人への手紙においては、1章から11章までは、キリスト教の信仰と言うことに対して、その理屈といいますか、キリスト教の信仰とは何かと言ったことについて考え、理論立てて説明している内容になっています。それは、私たちが神を信じ、罪ゆるされてクリスチャンになるということは、どういうことなのかということを教えてくれているのですが、この12章からは、その神を信じ罪ゆるされてクリスチャンになったものが、どのように生きるのかと言うことについて書かれていると言えます。そういったわけで、12章の1節では「、兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。」と書かれているのです。ですからそれは、どう生きるかということに対するお勧めなのです。

そこで、「神の憐れみによってあなた方に勧める」とは、元々のギリシャ語をみますと「神の憐れみをと言う理由のゆえにあなたがたにお願いする。」とか「神の憐れみを受けるという恵みを通ってきたあなた方にお願いする」といったニュアンスであります。つまり、「神は、あなたがたの神に憐れみをもとめ、神を呼び求める声に耳を傾けて下さり、あなたがたを神の子、神の民として選んで下さった。そうやって神の選びの中で、イエス・キリスト様は十字架の死は、自分の犯した罪や、醜い心、汚い心を赦すために、私に変わって身代わりなって神の裁きを受けて下さったものなのだと信じる者として下さったのだ。そうやって、神は私たちの罪を赦してくださり、私たちに神の愛とあわれみをお示しになった。『そう言うわけだから』、神を信じ。イエス・キリスト様を自分を罪から救う救い主と信じ救われたみなさん、このように神を信じる生き方を生きて欲しい」とそう願って、12章以下が書きつづられていくのです。その神を信じる生き方の冒頭にあることが、1節にある「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげなさい」ということと、2節の「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられなさい」ということなのです。

同じ1節において、この「あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげる」ということ、それは「あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」と言われています。礼拝と言うことについては、昨年来、私たちの合同例会の時に、学びました。その時に学んだことは、礼拝とは、「神に対する、神の民の奉仕である。」という側面を持っているということでした。ですから、神を信じて生きる生き方が「あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」とするならば、それは、私たちが「神に仕えて生きる者となる」と言うことでもあります。神仏を信じて生き方が変わるということは、何もキリスト教だけではなく、キリスト教以外の宗教でもいうことです。しかし、キリスト教に置いて、実際の生活が変わるのは、自分のための生き方ではなく、神のために生きるようになると言うのです。だからこそ、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげなさい」と聖書はそう言うのです。それは、自分自身の全存在を神の前に差し出し、神のために生きると言うことです。

このローマ人への手紙を書いた著者はパウロという人です。このパウロは、ユダヤ人であり、ユダヤ教の高名な学者ガマリエルのもとで学んだ人でした。ですから、「あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげなさい。」と言うとき、そこには、自分たちの罪の赦しのために、毎年、犠牲のささげものとして動物が殺されていたことが念頭にあっただろうと思われます。この動物を犠牲として神にささげると言うことは、自分自身のためになされる行為でした。そのような自分自身のために、動物をささげる行為と比較しながら、あなたがたは自分自身のために動物を犠牲にするのではなく、あなた方自身が神のために生きるようにしなさいと言うのです。それは、私たちが、もはや自分自身のために犠牲をささげる必要がなくなったからです。ですから、私たちは、もはや自分自身のことを心配して、何とか自分自身のためにと、自分の身代わりに動物を犠牲としてささげなくてもかまいません。神の御子であるイエス・キリスト様が、私たちのために犠牲を払って十字架の上で死んでくださったからです。それほどまでに、神は、また神のひとり子イエス・キリスト様は、私たちのことを心配し、心を配ってくださっている。愛してくださっているのです。

このように、神が私たちのことを心配してくださっているからこそ、私たちは自分自身のことを心配する必要などないのです。そして、そのような神の愛と恵みの中で、クリスチャンとなったのだからこそ、神の愛と恵みに答えた生き方に変えられていくのです。いうなれば、神のために生きる生き方とは、神の恵みを感謝し、神の恵みを喜び誉めたたえる生き方だと言えます。だからこそ、クリスチャンとしていかにして生きるのかと言う問題が取り上げられるとき、第一に礼拝の問題が問われているのです。それは、私たちが、神の愛と恵みに答えるとき、それは神を信じ伏し拝むという礼拝という行為になって現われてくるからです。そして、この神を礼拝することこそが、まさに「神に仕え神に奉仕する礼拝的な生き方」と言うことなのです。この「神に仕え神に奉仕する礼拝的な生き方」は、単に形式的儀礼的行為をささげると言うことでありません。聖書は「霊的な礼拝」であると、そう言います。

この霊的という言葉は、人間の理性を超えた何やら宗教的なものをさすのではありません。この霊的と言う言葉の持つニュアンスは、むしろ合理的、つまりは理屈にかなった、あるいはわたしたち人間が考えて十分理解でき納得できるようなものを指しています。ですから、「神に仕え神に奉仕する礼拝的な生き方」というものは、私たちに、やみくもに神のために必死になって頑張るという生き方を決して求めたりはしないのです。そうではなくて、霊的な礼拝とは、今の私たちが、今のありのままの姿で出来る理にかなったことをして、神にお仕えし、神に奉仕するということなのです。それは、理にかなったものですから、私たちに決して無理を強いるものではありません。もし、今のあなたが、何もすることが出来ないとするならば、出来ないままでもいい。何もしなくてもただ、神を信じ、神のことを思い生きるだけで、それは「あなたの礼拝的な生き方なのです。」

たとえば、とても神を喜び、神を賛美できないような状況にあっても、無理に神を崇めようとする必要はありません。実際、あるんじゃないですか。神様を誉め称える気持ちや、神様を賛美しようにも、とても賛美する気になれない、出てくるのは不満と文句だけことなんてことは、信仰生活を送っていれば、それなりに必ずあるものですよね。そんなときは、ちょっと乱暴な言い方かも知れませんが、お祈りの中で、神様に不満や文句をそのままぶつければいいのです。それが、「あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげる。」ということなのです。なぜなら、「あなたがたのからだを、生きた聖なる供え物としてささげる」と言うとき、それは単に肉体的なからだのことではなく、私の全人格と全存在を神の前に差し出すと言うことだからです。全人格と全存在を神の前に差し出すのですから、そこには感情や意志や私たちの心の思いが含まれています。その感情や、意志や心の思いが不満や、文句、憤りを抱えているのに、取り繕うように感謝をささげ、賛美をするならば、それは全人格と全存在を持って神の前に立つと言うことにはなりません。

第一、心が不満を感じていたり、憤りや文句を言いたい思いの中で、神を誉め称え、賛美し感謝しようにも、心が納得していなければ、それは私たちにとって霊的な礼拝とはなりません。先ほども申しましたように、霊的な礼拝とは、私たちが十分に理解でき納得できる理屈を持った合理的なものだからです。むしろ、私たちは良いときも、悪いときも自分のありのままの姿で、神に向きあることが大切なのです。私たちが、自分自身のありのままの姿で神の前に立ち、神に向き合うことが、実は神様が喜ばれることなのです。まさに、どんなときにも私たちが神の前に立ち、神に目をむけ神と向き合って生きると言うことが、まさに私たちがクリスチャンとして生きるというと言うことなのです。しかし「私たちが神の前に立ち、神に目をむけ神と向き合って生きる」といっても、確かに言葉としてはわかるような感じもしますが、それでは具体的にどうすることが神の前に立ち、神に目を向けて生きると言うことになるのか、と問われますと、ちょっと考えてしまうような感じがしないわけでもありません。

一体「神の前に立ち、神に目をむけ神と向き合って生きる」というのはどういう生き方なのか。平たく言うならば、神を意識して生きる。神が人となられたイエス・キリスト様のことを考えながら生きると言うことです。私たちが、普段の生活の中で神を意識し、イエス・キリスト様のことを思いながら生きているならば、私たちの生活は必ず変わってきます。神を意識し、イエス・キリスト様のことを思うということは、私たちの心の内面の変化だからです。心の内面の変化は、必ず外側の生活を変えていくものです。だからこそ、神の恵みの選びの中で、神の愛に触れ神を信じて生きる者となったものは、この世の価値観やものの尺度で考えるのではなく、まず、神はその事をどう思うか、イエス・キリスト様なら、一体どうなされるだろうかと言うことを考えるのです。そう言ったことを一切考えることなしに、この世の中の価値観やものの尺度だけで考えるならば、それはもはや、この世の中と一体化した生き方や考え方であり、そこに神が入る込む余地はありません。神のはいる込む余地がないところに、神の愛や恵みは届かないのです。

だからこそ、私たちは、この世と妥協する事はできないのです。この世の価値観やものの尺度によってではなく、神様はどのように考えておられるのか、イエス・キリスト様ならどのよう思われるのか、それを深く心に留め意識しなければなりません。そのような心を持つことが、神を信じる者の生き方なのです。私たちの心に、神を意識、イエス・キリスト様を思う心があるならば、私たちの心には、神様の居場所があります。そして、私たちの心に神は住んでくださるのです。もちろん、私たちクリスチャンが、神様はどのように考えておられるのか、イエス・キリスト様ならどのよう思われるのかを深く心に留め意識したとしても、それが必ずしも一致するとは限りません。たとえ、神様ならこう思われるだろう、きっとイエス・キリスト様ならば、こうなさったであろうと思ったとしても、自分の心がそのことを受け入れられるかどうかは別の問題です。今日のテキストの言葉でいうならば、「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知った」としても、かならずしも、その神のみ旨に従えるとは限らないのです。

時には、喜んで従えることもあるかも知れません。また、嫌々ながらも、「これは神のみ旨なのだから」と自分の心に言い聞かせながらそれに従うこともあるでしょう。あるいは、どんなに神のみ旨であるとわかっていても、どうしても従えないということもあるのではないでしょうか。いえ、それが私たちの信仰生活の現実の姿なのかも知れません。言うまでもないことですが、私たちがいつでも、「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知り」それに喜んでお従い出来れば、それは素晴らしいことです。むしろ、みなさん、それは私たちの目指すところであるといえましょう。けれども、たとえ私たちが喜んでお従い出来なくて、嫌々したがっていたとしても、あるいは、従うことが出来ないで自分の思いに従っていたとしても、私たちが、神を意識しイエス・キリスト様のことを考えているのであるならば、私たちの心には、神が住んで下さっているのです。そして、仮に私たちが、「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知って」も、喜んでそれに従えない自分の現実に気が付くことが出来たならば、そこが、私たちのクリスチャンとしての大切な転機となるチャンスなのです。

嫌々従っている自分、喜んで従えない自分のありのままの姿を神の前に差し出し、「これが私なのです」と神に向き合うところから、私たちの信仰は大きく前進するのです。なぜなら、私たちが「これが私なのです。」と自分のありのままの姿をさらけ出して神に向き合い、自分を神の前に差し出すとき、私たちは完全に神に属するものとなるからです。私たちホーリネス教団が強調し、私たちの教会が強調してきたことに、「聖め・聖化」ということがありますが、この「聖め」ということは、自分のありのままの姿をさらけ出して神に向き合うところから始まると言ってもいいのかも知れません。「聖め」は、まさにクリスチャン生活の転機的な出来事です。しかしそれは、その日を境にして、なにやら聖人君主のような生活が始まるというわけではありません。「聖め」は行いの変化ではありません。私たちが、ありのままの姿で神と向き合い、自分のありのままの姿を神に差し出すという、私たちの心の在り方の変化なのです。そして、そのような心の内面的変化が、結果として外的な私たちの実際生活という実に繋がって行くのです。神に属する者は、神の御手の中で、まさに神の子という尊い器に造られていくからです。

もし仮に、私たちは、外側から自分たちの生活を無理矢理クリスチャンらしい生活に変えていこうとするならば、私たちの信仰生活は、けっして喜ばしいものにはなりません。そこには無理があるからです。そして、無理が積み重なっていくならば、私たちの信仰自体が破綻してしまいます。けれども、私たちの心の内側が変わっていくならば、けっして無理することなく私たちは変わることが出来るのです。神の子とされた私たちが、神の子らしくなるのです。私たちが神の子らしくなると言うことは、私たちがイエス・キリスト様に似たものになると言うことです。もちろん、私たちはイエス・キリスト様と全く同じになることは出来ません。ですから、それは、イエス・キリスト様に倣う者になることであるといてもいいかも知れません。イエス・キリスト様に倣う者となる。それは、私たちの生き方の中にイエス・キリスト様の生き方が反映することだと言えます。それは、あなたという一人の個性や生き方のなかで、あなたがあなたらしさを発揮しながらも、神の子らしくなるのです。

ですから、私たちはイエス・キリスト様のことを知らなければなりません。イエス・キリスト様の御生涯には「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるか」が表わされているからです。だからこそ、私たちは聖書を読むのです。また、礼拝で語られる説教の言葉に耳を傾けるのです。私たちは、聖書の言葉、説教の言葉によって、より深くイエス・キリスト様を知り、イエス・キリスト様を通して明らかにされている「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるか」を知るのです。それは、聖書は、イエス・キリスト様について証するものであり、礼拝の説教は、その聖書の言葉を解き明かすことによって、私たちの教会のただ中におられるイエス・キリスト様を、みなさん、あなたの心に明らかにするものだからです。私たちが、ありのままの姿で神様に向き合い、神様を意識し、まさに神と一つである子なる神イエス・キリスト様を思いながら生きていくならば、私たちは変わることが出来ます。心の内側から変わり、私たちの実際生活が変わります。それは、私たちが神の聖さにあずかりながら、神の子らしく変えられていく、まさにこの世にあってキリストに倣う生き方を学ぶ、聖なる者となる歩みなのです。

お祈りしましょう。