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羊飼い イースター記念礼拝
『永遠に伴う神』
使徒行伝 1章−11節
2005/3/27 説教者 濱和弘
賛美 : 20,123,127

今日は、イースター復活祭です。イエス・キリスト様は、私たちの行なった罪や醜い心、あるいは汚れた心といった私たちの内面の罪を救うために十字架について死なれました。罪を救うために十字架について死なれたというのは、私たちの罪に対してくだされる神の裁きの身代わりになって神の裁きから救って下さったということもできます。このように私たちの罪、それは行為として行なった罪や、私たちの醜い心、あるいは汚れた心といった内面の罪を、神がお裁きになるのは、神は罪にたいしてお怒りになられる方だからです。神は、罪を激しく厭とみ、お嫌いになり、そして怒られるのです。ですから、誰一人として罪を持ったままで神の前に出て行くことはできません。しかし、神は罪を嫌い、罪に対しては激しく怒られるお方なのですが、しかし私たち人間に対しては、深い愛と慈しみを持っておられるのです。

私たちの国には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。「いい言葉だな」と思います。確かに、人間の犯した罪は決して許し難いような側面があります。それは、人間の罪の赦しがたい側面を認めつつ、しかし、その人間の本質にある、人間の素晴らしい側面をしっかりと捕らえているからです。神が、罪を激しく厭とみお嫌いなりながらも、私たち人間を深く愛し、慈しまれるのは、まさしく私たち人間が実に素晴らしい存在だからなのです。それもそのはずです、創世記1章27節には、神は私たち人間を神のかたちに似せて造られたと書かれています。この聖書の言葉によるならば、私たち人間は、神よって神に似た実に素晴らしいものとして造られているのです。いうならば、私たち人間の本質は素晴らしいものだといえます。けれども、そのような私たちの間に、また心に、深く罪が入り込んでしまったのです。だからこそ、神は、その私たちの中に入る込んだ罪から、私たちを救い出して下さったのです。それが、イエス・キリスト様に私たちの罪を全て背負わせ、私たちの罪の身代わりとして、私たちが受けなければならない裁きを、すべて身におって死なせるという、あの十字架の出来事だったのです。

ですから、もし私たちの内に罪が赦されずに残っているならば、私たちは神の前に立つことも近づくことも出来ません。しかし、私たちが、神の一人子なる神イエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったと信じるならば、私たちの罪は、全て神の前に赦されるのです。罪が赦されると言うことは、罪がなくなると言うことです。それは過去の犯した罪と言うだけでなく、今現在の罪も、将来の罪の全てをふくんで、私たちの内から、罪がなくなってしまうのです。そして、罪がなくなるからこそ、私たちは神の前に立ち、神に近づくことが出来るのです。しかし、私たちの罪が、過去に犯した罪だけでなく、現在の罪も、将来の罪の全てを含んでなくなってしまうといいましても、私たちが罪を犯さなくなると言うことではありません。実際、クリスチャンといえども、罪を犯すこともあるし、相変わらす人を憎んだり、傲慢になったりと、私たちの心の醜さや汚れといったことは、顔を出してきます。そのようなことがあるからこそ、過去の罪だけではなく、将来の罪の全てをふくんで赦されるのです。ですから、イエス・キリスト様を信じる者は、繰り返し繰り返し罪を犯すのですが、その度ごとに十字架を見上げ、繰り返し繰り返し罪が赦されるのです。

このように、その度事に十字架を見上げると言うことは、そこに罪を厭う心があることは明らかです。罪を激しく厭う心があるからこそ、十字架を見上げるのです。この罪を激しく厭う心というものは、まさに神の心そのものであり、私たちの心が神の御心と重なり合うようになったことの紛れもない証だといえます。だからこそ、依然と同じように、私たちが罪を犯すことがあったり、心の内側に高慢や嫉妬といった醜い罪の心が顔を出してきたとしても、もはや罪が私たちを支配するのではありません。そのような私たちの罪の意識が、イエス・キリスト様が十字架でもたらした罪の赦しという恵みを求めさせます。そして、その罪の赦しは、神が私たちに与えたいと願っておられる恵みなのです。ですから、イエス・キリスト様に自分の罪の赦しを求める者の心には、もはや、神の恵みが私たちを支配しているのです。このように、私たちの心と神の心が重なりあい、神の恵みが支配していることを、私たちは神の国と言います。もちろん、神の国というのは、将来の天国ということもできます。まぜなら、天国ではまさに神様が恵みを持って御支配しておられる所だからです。そこには神のお心が反映されています。

しかし、同じ意味で、私たちの心が神と重なり合い、私たちを神様の恵みが覆っているところであるならば、そこにも神の国があると言えます。ですから、神の国は、私たちの将来の希望と言うだけではなく、今の私たちに、神が与えてくださる生きる力なのです。今日のテキストとなった使徒行伝をみますと、その神の国ということをイエス・キリスト様は、十字架の上で死に復活なさった後、四十日間にわたって弟子たちに教えられたといいます。それはまさに、イエス・キリスト様が天に昇られた後に、残された弟子立ちが、この世にあっても神の国を生きる者となるための備えであったといってもいいかもしれません。それは、弟子たちが生きていく、その歩みが決して平坦な、楽な道ではなかったからです。そこには、様々な困難や苦難、また失敗や罪への誘惑といったものが数多くあります。それは、今の世の中と何の変わりもありません。ですから、私たちが生きていくと言うことは、けっして楽なことばかりではないのです。悲しいことや、苦しいことが一杯あります。ですから、なおさら私たちには神様の恵みが必要です。悲しいことや苦しいことが一杯の人生の歩みを乗り越え生きて行くに為には、なによりも慰めや支えといったものが必要なのです。そして神は、その慰めや支えを与えて下さいます。神は私たちのことを思い、私たちを慈しみ憐れむ心をもった御方だからです。

そういった意味でも、私たちの人生は、神のお心と重なり合っていなければなりません。それは私たちを慈しみ憐れまれる神の心と恵みに私たちの心が重なり合うことです。この神の私たちを慈しみ憐れむ心に私たちの心が響きあってこそ、私たちは慰められ励まさるのです。ですから、私たちに様々な困難や苦難、また失敗や罪への誘惑といったものが数多くある以上、何よりも私たちの心が、神の恵みによって支配されていなければなりません。現実の目に見える現象における苦しいことや悲しいことを乗り越えていく力は心にあるからです。そして、この心の力は慰められ慈しまれることによって初めて与えられるからです。だからこそ、私たちは、神のお心と私たちの心を重ね合わせなければなりません。それは、単に私たちの罪の赦しをもたらすと言うことに留まらず、私たちの人生を支えてくれるからです。

しかし、この慰めや慈しみ、あるいは励ましといったものは、まさに心の力であり、心が感じるものです。ですから、目に見える何かによって表わされるものではありません。それは心が受け取るべきものなのです。ですから、どんなに教えられても、説明されて頭では納得は出来ても、だからといって、本当に心が実感するものではありません。そういった意味からいうならば、イエス・キリスト様が復活後40日間にわたって、神の恵みが支配する神の国について教えられたとしても、最後は弟子立ちが心でそれを受けとめられるようにならなければなりません。神が、私たちを慰め慈しんで下さっているということを、心が受け止めてこそ、初めて神の私たちを慈しみ憐れまれる心と私たちの心が重なり合ったと言うことができるのです。だからこそ、聖霊なる神が、私たち一人一人の心に住み、私たちの心に働きかけて下さることが大切になってくるのです。それは、聖霊なる神が、私たちの心に神の心と言うことを実感させるからです。

みなさんも、きっと今までにも何度となく、神の慰めをいただき、神に支えられてきた経験がおありだろうと思います。皆さんだけではない、この三鷹の教会も何度も神の慰めと導きの中で、様々な問題を乗り越えてきました。それこそ、教会が分裂してしまうような危機や困難がなかったわけではありません。けれども、その度事に、講壇から語られる説教に支えられ、また聖書の言葉に励まされながら乗り越えてきたのです。そして、私たちは、それこそ、それは神の支えであり、慰めであり、導きであったと受け止めています。けれども、例えば、講壇から語られる言葉は説教者という人間を通して語られます。これはまぎれもない事実ですし、説教者自身は一人の人間に過ぎません。それは聖書の言葉であっても同じです。なぜなら、聖書の言葉もまた、例えばパウロとかヨハネとかイザヤといったおそらくは40人以上の人が書いた文書であると言えば言えるからです。

もちろん、聖書の言葉は、誤りのない神言葉です。例え人の言葉や人格介して書き記されたとしても、その背後にあってその人を導き、ご自分の意志や思いを正しく伝えられた神がおられます。ですから聖書は間違いなく神の言葉であると言えますし、教会は、断固としてその主張を曲げてはなりません。また説教の言葉も、その誤りのない神の言葉に立脚しているからこそ、神の言葉の解き明かしとしての権威があると言えます。けれども、受け取り方によっては、それは人間の言葉あると言う受け取り方も出来るのです。なのに、私たちは、そのような説教の言葉、聖書の言葉を通して私たちの心は、確かに神の慰めや励ましを感じ取っています。それは、紛れもなく信仰の事実です。そしてそれは、単に信仰の事実や宗教的事実という信仰の世界だけのことではなく、現実の私たちの生活を支える神から私たちに与えられる慰めであり、慈しみであり励ましなのです。

どうして、そのようなことがおこるのか。そこには、聖書の言葉を通し、また説教の言葉を通して神の慰めや励ましを受け取らせてくださるお方が働いているからです。聖書の言葉を通して、また説教の言葉を通して、そこから切々と語りかける神の慈しみの言葉を、慰めの言葉を、平安を与える言葉を、私たちの心に届けてくれる聖霊なる神がおられるのです。そして、その聖霊なる神の働きによって、私たちの心に届けられた神の言葉は、確かに私たちの心を揺さぶります。私たちの心に慰めや励ましを与えるのです。私たちはその経験を私たちが神の言葉であると理解し、そう受け止めます。私たちがそうすることが出来るのは長い教会の伝統の中でそう教えられ私たちがそのように教えられてきたからです。もし、教えられていなければ、それを決して神が私たちに語りかけて下さった言葉であるとは思いもしなかったでしょう。聞かされ、教えられていなければ、それは不思議な経験として受け止められるしかないものなのかもかもしれません。あるいは、せいぜい聖書には良いことが書いてあるぐらいで終わることなのかも知れません。

しかし、そうでない。神は私たちの苦しみや悲しみや悩みに打ちひしがれる心に、ご自分の心を重ね合わせ下さっているのです。そうやって、心を重ね合わせたところから、神は私たちに慰めを語り、慈しみと平安を与える言葉を語りかけて下さっているのです。教会は、長い伝統の中で、そのことを教え続けてきました。聖書は誤りない神の言葉であり、私たちに語りかけてくる神の言葉であることを伝えてきたのです。そうやって、教え語り告げられていたからこそ、聖書の言葉や説教の言葉で心をゆり動かされるときに、そこに語りかけて下さる神の存在を感じ取ることが出来るのです。イエス・キリスト様は十字架に架かられ復活なさった後、40日間、たびたび弟子たちの所に現われて、神の国のことを教えられました。こうして、教えられていたからこそ、彼らは彼ら人生の歩みの中に様々な困難や試練がおそってきても、それを乗り越え生きていくことが出来たのです。それは、その困難や試練の中にあっても、神の恵みの中で彼らが生かされていることを実感できたからだろうと思います。

彼らは。彼らの人生を守り、導いている神の存在を実感できたのです。イエス・キリスト様が復活なさ、40日間もわたってたびたび弟子たちに現われ神の国のことをお教えられたということから始まる使徒行伝は、まさに弟子達が困難や試練の中で伝道していったその足跡が記されています。しかし、その困難や試練の中で起こった様々な出来事を、弟子たちは神のみ業として行け取っています。それは、彼らの人生が、神の恵みの導かれているということを知っていたからです。ですから、様々な出来事、その中には不思議な出来事も数多くありましたが、それらが神の恵みの中に起こったことだと理解し認めることが出来たのです。もとより、イエス・キリスト様の復活の出来事は、私たちの罪の赦しが完全に成し遂げられ、私たちが、もはや罪の支配にあるのではなく、神の恵みの内に置かれたことの証です。またイエス・キリスト様が、まさに神であると言うことの証でもあります。けれども、その復活の出来事を成し遂げた後も、40日間、たびたび弟子たちの所に現われて、神の国のことを教えられたがゆえに、彼らは、この世にあって試練を受け苦難にあっても、いつも私たちのそばに寄り添い、私たちに慈しみと憐れんで下さる神の存在を身近に感じていたのです。

だからこそ、彼らは、様々な困難や試練の中にあっても、聖霊なる神に励まされ力づけられ、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地の果てまで、キリストの証人として、イエス・キリスト様を伝えていくことが出来たのです。もちろん、弟子たちが神の国の恵みの中で支えられ、生きる力をいただきながら、歩んだように、私たちもまた、神の恵の中で生きることができます。イエス・キリスト様を自分の罪の救い主であると信じ、自分の罪を神に赦して頂きたいと思うものは、全てイエス・キリスト様の弟子であり、神と心を重ね合わせるものだからです。ですから、私たちは、今、神の国の恵みの中で生きているのです。そのこと知って、皆さん、私たちは、私たちの歩みの一つ一つを振り返ってみたいと思うのです。そこには様々な試練や困難な出来事が合っただろうと思います。しかし、その時に起こった様々な出来事の一つ一つの背後に、私たちを慰め励ます神様の配慮と私たちを思う神のお心があるのです

その神のお心に、私たちの心を重ね合わせていくならば、私たちは必ず神が与える慰めや慈しみ、そして平安といったものを手に入れていくことが出来るだろうと思います。それは聖霊なる神が、それらを私たちの心に届けて下さろうとしているからです。そのためには、私たち神の言葉である聖書の言葉に親しんでいなければなりません。また教会の礼拝に集い、礼拝で語られる聖書の言葉の解き明しである説教の言葉に耳を傾けることが大切になります。それは、聖書の言葉や説教の言葉を通して、神は私たちに語りかけ、いつも神が私たちに伴っておら得ることを、私たちの心に感じ取らせるからです。そして、心が、神がいつでも、どんなときでも私たちと伴って下さっているということを感じ取ることが出来るならば、私たちの人生には、神の国が訪れています。そして、神の恵みが私たちの人生に溢れ、導いていってくれるのです。でうから、この神を信頼し、この神におゆだねして歩むものでありたいと思いますね。

お祈りしましょう。