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羊飼い 『教会の産み出す新しい価値』
ローマ人への手紙 12章3−8節
2005/4/3 説教者 濱和弘
賛美 : 21,218,145

私たちは、イエス・キリスト様が自分の救い主であると信じたときから、私たちはクリスチャンとなります。そして、クリスチャンとしての生き方が始まってまいります。私たちがクリスチャンとなり、クリスチャンとして生きるということは、極めて個人的なことです。例えば、国連の世界人権宣言においても、また日本国憲法においても認められている信仰の自由は認められていますが、これは、個人が何を信じるかと言うことに置いての自由を保証するものです。しかし、個人が信仰を持ち、信仰者として生きると行っても、人間は決して一人ではありません。また決して一人では生きることなどできません。人と人との関わり合いの中で生きていかなければならないのです。ですから、私たちがクリスチャンになったからといって、またクリスチャンであるからと言って、ただ神との関わり合いだけの中で生きていけばよいと言うことではありません。クリスチャンもまた、人との関わり合いの中、また社会との関わり合いの中で生きていかなければならないのです。

いえ、むしろクリスチャンは、積極的に社会と関わり合いながら生きていくべき存在だと言えます。というのも、イエス・キリスト様は、神を信じ、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じる人々を呼び集め教会をお造りになったからです。教会という言葉はギリシャ語ではεκλλησια(エクレーシア)と言いますが、これは呼び集められた会衆という意味になります。つまり神に呼び集められた人々の群れが教会というわけです。ですから、クリスチャンの一人一人は、信仰が個人的なものであるからと言って教会と関わり合いを持たないで良いと言うことではありません。もちろん、物理的な理由や、仕事や家族関係のために、目に見える教会に所属すると言うことが難しい事があります。ですから、具体的「どこどこ教会」の教会員であるといったことが、明確でない場合もないわけではありません。しかし、仮に止む得ない事情で、目に見える教会に属していなくても、世界中に存在しているクリスチャン全体との関わりを持っていなければなりません。というのも、この世界中に存在するクリスチャン全体は、目に見える組織や繋がりをもった目に見えない教会だからです

この教会はキリストを頭とするキリストの体であると言われています。エペソ人への手紙5章23節にはこう書かれています。「キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救い主である。」また同じエペソ人への手紙5章30節には、こうも書かれています。「わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。」新共同訳聖書は「わたしたちは、キリストの体の一部分です」と訳していますが、要は私たちクリスチャンは、キリストを頭とするキリストのからだなる教会に繋がっているというのです。このように、教会はキリストを頭にいただく、キリストの体です。ですから、この教会は、社会の中に積極的に関わっていかなければなりません。というのも、イエス・キリスト様ご自身が、世の中のただ中で生きられた神であられたからです。

今日の、この礼拝で私たちはイザヤ書57章15節を交読いたしました。そこにはこう記されています。「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる。わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者とともに住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたるものの心をいかす。」ここには、「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる。わたしは高く、聖なる所に住み」とあります。これは、本来、神というお方は、私たちの手の届くことのない高いところにおられ、決して罪人と交わることのない聖なる所におられるお方だということです。しかし、その神が、罪を悔い、心へりくだる者と共に住んでくださるのだと言うのです。このように、罪を悔い、心へりくだる者と共に住むために、神は、その父と子と聖霊の三位一体なる神の中にあられる子なる神であるイエス・キリスト様に人間の体を取らせて、この地上に送り出されたのです。ですから、イエス・キリスト様というお方が、まさに神がこの地上の社会で生きられ、神のみ業を行なわれたお方だと言えます。

教会は、人の体を取られ、社会のただ中で働かれたイエス・キリスト様が、天にお帰りになったその後に、そのイエス・キリスト様の体なのです。ですから教会は、そのキリストの体として、具体的にこの地上で、社会の中で神のみ業を行なっていかなければならないのです。私たちクリスチャンも、そのキリストの体なる教会に繋がっています。ですから、当然、私たちクリスチャンも社会との関わり合いの中で生きていかなければなりません。この、キリストの体なる教会として、私たちがどのように社会と関わり、どのように生きていくかについては、これから少しづつ、このローマ人への手紙を通して知って生きたいと思います。けれども、私たちがキリストの体なる教会として生きていく以上は、まず何よりも教会がキリストの体としてふさわしい者でなければなりません。ですから、今日は、このローマ人の手紙12章3節から8節までを通し、教会が教会らしくあるということはどういうことについて、皆さんと一緒に考えてみたいのです。

そこで、このローマ人の手紙12章3節から8節までを見てまいりますと、まず3節から5節で、こう言われています。新共同訳の方が少しばかり分かり易く訳しておりようなので、そちらで読みます。「わたしに与えられた恵みのよって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大評価してはなりません。むしろ、各自に分け与えてくださった信仰の度合いよって、慎み深く評価すべきです。というのも、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分がみな同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。」ここで、言われていることは、教会にはいろんな人がいるということです。当然です。そもそも教会は、神に呼び集められた人々の群れεκλλησια(エクレーシア)ですから、いろんな人がいるのが当たり前なのです。

そこには、いろんな能力を持った人が集まっています。音楽や美術の才能に長けた人や、コンピュータの事に詳しい人もいます。話上手で人との交渉が上手な人や、経理や事務の能力に長けた人など様々です。お掃除上手な人や、料理の上手な人、もてなし上手な方もいらっしゃいます。また、決して表面にはでなくても、背後でじっと祈って下さっている方もいて下さる。そう言った一人一人が用いられて、教会は成り立ていると言えます。考えてみますと、教会ほど、いろんな人が集まっている社会集団はありません。年齢や性別、あるいは趣味や職業を超えて、子供からお年寄りまで多くの人が、ただイエス・キリスト様を信じる信仰によって結ばれ集っているのです。このように、いろんな人が集まっていますと、それぞれがお互いを比べ始めます。もとより、人間は誰かと比べて初めて自分がどんなぞんざいかと言うことを確認する傾向があります。あの人よりも背が高いとか低いとか、あの人よりも出来ると出来ないとか、誰かを量りとして、自分の存在を確認するのです。そうやって、人と比べて自分のこと高く評価したり卑下したりしてしまったりするのが、わたしたち人間の常ではないかと思うのですが、どうでしょうか?

そして、そのような傾向や価値観はまちがいなく教会の中にも入り込んできます。教会の中に入り込んできて、わたしたちの信仰を、時には高慢なものにしてしまったり、あるいは、自分は教会に役立たないものであるとか、ダメなクリスチャンだと思わせてしまうのです。こういう話がありました。ある教会で、一人の信徒の方が牧師に、新任の若い牧師にこう言ったそうです。「教会の他の人は、伝道や教会を良くするため何もしないけれど、黙って教会のために頑張って来ました。それを私は誰も認めてくれません。でもいいんです。誰も認めてくれなくても、一生懸命やろうと思っています。」「黙って教会のために頑張って来た。」「誰も認めてくれなくても、一生懸命やろうと思ってる。」それは、とても尊いことです。けれども、その若い牧師は、何か心に引っかかるものを感じたそうです。その心のひっかかりは「教会の他の人は、伝道や教会を良くするため何もしないけれど」ということばにありました。確かにその人は、熱心に教会の事をしておられたようです。しかし、だからといって本当に「教会の他の人は、何もしていない」と言いきれるのだろうか?

その若い牧師の心には、そのことがひっかかりとなっていたというのです。私は、その話を聞きながら、その信徒の方がなさっている奉仕や考え方が、結局の所その方の心を高慢なものにしてしまったように思えて仕方がありませんでした。そう思うと、「黙って教会のために頑張って来た。」「誰も認めてくれなくても、一生懸命やろうと思ってる。」という、とても尊いことのように思える言葉にも、どこか傲慢な響きが感じられるようにさえ思ってしまいます。結局、そのようなことになってしまったのは、自分は一生懸命やっていると思うとき、その自分の在り方ややっていることで、他の人を量って評価してしまったからにほかなりません。他の人と自分のやっていること、態度を見ると、他の人は何もやっていないように思えるのです。そして、自分だけが一生懸命やっているように思えてしまう、そんな思いに陥ってしまったのかも知れません。それは、何もその信徒の方だけのことではありません。牧師の世界にだって入り込んできています。あの牧師は、全然伝道していない、全然勉強していない、説教の研鑽をしていない。ときおり、そんな批判を耳にすることがあります。

もちろん、それが私自身に向けられたものであるならば、本当にそうだと反省しなければならないところです。けれども、他の人たちに向けられるとき、私は本当にそうだろうかと考え込むときがあるのです。私自身、たいした伝道の成果を残せているわけでもありませんし、説教にしても、例えば、ラジオでの3分メッセージでも、ほとんど書き直しをしなければならなくなるようなことがままあるものです。それは、私の礼拝説教を聞いておられる皆さんが、一番良くわかっておられることだろうと思います。けれども、その成果が残せない中で、書き直しをしなければならないような説教であっても、そこで悩み・苦しみながら取り組んでいるのもまた事実なのです。同じように、他の牧師も、信徒の方も、一人一人が教会の奉仕や働きに取り組んでいるのだろうと思うのです。それを、第3者の目から見て、本当に、良くやっているとか、何もやっていないと言って良いものなのだろうか。

こんなことがありました。私が所属していたある教会で、教会のトラクトを配りに行ったときのことです。トラクトを持って教会を出かけようとした私に、一人に老婦人が、「申し訳ないね。私は年寄りになって、何の役にも立たなくなって。申し訳ない。」とそう言うのです。確かに、その老婦人が教会のために何かをしているかというと、具体的な行動として何かが出来ているわけではありません。何が出来ているのか、何をしているのかと言うことだけを問えば、確かにその人は教会の役に立っていないと言うことが出来るかも知れません。けれども皆さん、違うのです。違うのです。聖書には、こう記されています。3節の後半です。「思うべき限度を超えておもいあがることなく、むしろ神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。」この「思うべき限度を超えておもいあがることなく」は、新共同訳聖書がうまく訳しているように、自分を過大評価しないでいなさいということだと言えます。

誰でも、自分の持っている力以上の事はできません。その自分の力を過大評価するような場面があるとするならば、それは、他の人と比べて「自分が力ある者だ」、「能力がある者だ」と思うところから始まります。そして、そのように他の人と比べるときに何を比べるかというと、していることや残した成果や結果を通して比べていることが多いいのです。なぜなら、それが一般的な社会集団の評価の仕方だからです。けれども、神によって呼び集められた神の民の群れである教会εκκλησιαは、決して他人と比較して自分を評価するような社会ではありません。また、そうであってはならないのです。先ほどの老婦人は、確かに若い人のように何かをすることが出来ないかも知れません。また、たとえ若い人であっても、教会学校の教師を出来る人もいれば出来ない人もいる。あるいは、多く捧げることの出来る人もいれば出来ない人もいる。けれども、そのような中で、誰一人として、人と比べて評価されることなどないのが教会なのです。教会という群れの中に置いては、その人が教会にとって何か価値があることをするか、役立つことをするかどうかが問われるのではありません。一人一人の存在が大切なのです。

その一人一人が、神のためにと思ってすることの中に、価値を生み出していく、それが教会です。いえ、教会に集う一人一人が神に向き合って生きるところに価値が生み出されていくのが、教会と言うところなのです。だからこそ、教会の様々な働きや奉仕の一つ一つを、それぞれが真摯に神に向き合って、自分の出来ることをしていくならば、そこには素晴らしい価値が生まれてくるのです。価値あるものが溢れているところ、それは宝箱です。キリストの体なる教会は、そういった一人一人が、自分のできることを精一杯行なうならば、まさにこの世に輝く宝石のような存在になります。それは、教会に集っている一人一人が出来る精一杯のことを一つに結びあわせて輝く教会という新しい価値を生み出していくからです。決して、一人の個人の能力や成果が問題ではないのです。一人一人の神に対する真摯な思いが結びあわされてこそ、その教会はキリストの体らしい教会となるのです。

そのような教会がというこの地上にある社会のただ中で生きていくとき、教会はこの地上に舞いおりた神なるキリストの体なる教会としてこの社会の中に新しい価値を与えることが出来るのです。それは、私たち一人一人が、何ができるかが問われるのではなく、神の前に存在し、神の前に生きているということが尊いとされる、この世の中とは全く異なる価値観を証し、告げ知らせていくからです。それこそが、誰かと比較され、くらべられるのでなく、私が存在している、それだけで神の前には尊いことだとされるキリストがもたらした、教会の産み出す新しい価値観なのです。

お祈りしましょう。