『愛が決め手』
ローマ人への手紙 12章9−21節
2005/4/10 説教者 濱和弘
賛美 : 2,309,401
さて、私たちは先週の礼拝において、教会は「キリストを頭にするキリストの体である」ということを学びました。教会がキリストの体であるというとき、教会はこの現実の社会の中で、具体的に存在し、活動すべき存在であることを意味しています。それは、礼拝や信仰教育、あるいは伝道といった宗教的活動もあるでしょう。またそれだけではありません。教会は教会の中に向かって、また教会の外の社会に対して、様々な愛の行為を行なうべき所です。また、悪や不正に対して、神の義を示し、キリストにある生き方を示していく預言者的存在でもあります。ローマ人への手紙12章6節から8節には、「預言や奉仕、」「教え勧めること、あるいは指導すること」「また慈善や施し」といった事々が挙げられていますが、これらは、まさに、このキリストの体なる教会の行なうべき事々を指し示しているということが出来るのです。
たとえば、教え勧めることといったことは、教会の礼拝の中で行なわれているといえます。そういった意味では礼拝は、神を伏し拝み、神に奉仕する場であると同時に、信仰の鍛錬の場でもあります。また施しや慈善といったことは、まさに愛の行為として教会が負うべきことの一面として現れることだと言うことも出来るだろうと思います。また、教会は、この世の中にあって不正や不法に対して神の義、正しさということを示していかなければなりません。こういった一連の教会の活動は、仮にイエス・キリスト様が肉体をもってこの世の中におられたならば、「きっとこうなされたであろう」と思われることを行なわなければなりません。キリストの体なる教会ということはそういうことなのです。もちろん、私たち一人一人は決して、完全な存在ではありません。過ちを犯しますし、失敗もします。たとえば、施しや慈善ということにおいても、いつでも、どんなときでも相手を思いやって、相手に尽くしてあげられるかというと、必ずしもそうではない場合もあります。
私自身を振り返ってみてもそうです。教会に住んでおりますと、様々な人の訪問や電話を受けます。その中には、田舎に帰るお金がないとか食べるものがないのでなどの様々な理由でお金を貸して欲しいとか、あるいは教会に一晩の宿を求めてくる人などがいます。私も、最初のころは、それこそ、求められるお金を渡したりしていました。しかし何度も何度もだまされたり、また今の社会情勢の中で、知らない人を一晩泊めるということにも不安を感じるなか、結局、今は、そのような求めがあっても、お断りしています。そんなとき、お断りをした後、本当にそれで良かったのかと自責の念にとらわれるのです。もちろん、お金を求められてもお金ではなく、それこそお弁当を作ってあげるとか、切符を買ってあげるといった形で対処したりします。それでも、やはりそれは、決して完全な対処の方法だとは言えないのだろうと思います。けれども、不完全であっても、それが現状の私に出来る精一杯のことなのです。
また、教会がいつも正しく不正や不法がないかといえば、これまた絶対にそうだとは言えません。先日も、ある教会の牧師が、教会で少女に暴行をしたという容疑で、警察に逮捕されるといったことがありました。この事件の内容はだんだんと明らかになってきていますが、それは、決してあってはならないことです。けれども、それが起こったと以上、それはしっかりと受け止めなければなりません。他にも、アメリカのカトリック教会においては、教職者による幼児の性的虐待が問題となったことなどもありました。そのように、教会もまた誤りを犯し失敗するのです。けれども、教会はそのような過ちを犯し、失敗したならば、それを反省し、罪を悔い改めて、厳正に処することが求められなければなりません。
しかし、教会がキリストの体であるならば、たとえ不完全であり、十分ではないにしても、本来あるべき姿に向かって歩んでいかなければなりません。また誤りや失敗を繰り返したとしても、教会はそのたび事に自らを反省し、悔い改め、やはり本来あるべき姿に向かって歩んでいかなければならないのです。そうやって、教会はイエス・キリスト様ならこう歩まれたであろうと思われる、歩みの後を歩もうと、努力しなければならないのです。それは、自分達がしたいことをする、好ましいこととは異なる場合もあります。けれども、教会が、キリストを頭にいただくキリストの体であるとするならば、教会は、頭であるイエス・キリスト様の意志や思いを、現実の社会の中で具体的な行動として行なうべき所なのです。先週の礼拝においても確認させていただきましたが、このキリストの体なる教会は、そこに招かれ、繋ぎ合わされた一人一人のクリスチャンによって築きあげられています。具体的に言うなれば、今日、この教会の礼拝に集っておられる皆さんお一人お一人によって、この三鷹キリスト教会というキリストの体は作られているのです。
もちろん、私はまだ洗礼を受けていないので、この三鷹キリスト教会の会員になっていないという方もおられるかもしれませんね。特に、教会学校の皆さんはそう思うかもしれません。けれども、こうやって三鷹キリスト教会に来ているということは、神様が皆さんを三鷹キリスト教会というキリストの体に招いておられるのです。神様が、私たちをキリストの体に招いておられるのは、私たちがキリストの体なる教会として、この世の中にあって、具体的にイエス・キリスト様が「こうしたい」と思っておられることをするためです。そのために、教会は大人だけでなく教会学校に集っている子供たち必要としています。みんな力が必要なのです。教会は、決して大人だけのものでもなければ、子供だけのものでもありません。みんながイエス・キリスト様から必要にされているのです。みんなが力を出し合いながら、お互いの欠けを負い合い、支え合わなければ、教会なキリストの体なる教会としての働きは出来ないのです。それは、一人一人が、多くの弱さを持ち、欠点を持っているからです。そして、それと同じぐらい、同じ一人一人が多くの良さとすばらしさを持っているからです。だからこそ、教会には、教会に呼び集められた一人一人の存在が必要なのです。
しかし、礼拝や信仰教育、あるいは伝道をおこない、また様々な愛の行為や悪や不正に対して、神の義を示し、キリストにある生き方を示していくためには、個人の能力と言うことだけが求められているのではありません。もし、個人の能力だけが求められているとするならば、教会に呼び集められた一人一人は、単に道具にしかすぎません。そうすると、教会はキリストの体ではなく、単なるロボットのような機械にしかすぎなくなってしまいます。体とロボットの違いは心があるかどうかです。教会が、キリストの体であって、キリストのロボットではないのは、教会がキリストの愛に突き動かされて、行動しているからなのです。だからこそ、神様は、教会に才能や能力のある人材といった基準で神の民を呼び集められたわけではないのです。もちろん、教会には様々な才能や能力がある人がたくさん居ます。そして、その才能や能力は、教会で多く用いられています。けれども、それらの人々が教会に呼び集められたのは、その能力や才能が神様の目にとまったからではありません。
私たちが教会に呼び集められたのは、神様が、私たち一人一人を愛されたからです。一人一人を心から愛されたからこそ、教会に呼び集められたのです。その神の愛につき動かせられて、初めてキリストの体なる教会は、初めてこの世の中でイエス・キリスト様の意志や思いを具体的な行動として表していくことが出来るのです。ですから、教会においては愛ということに偽りがあってはなりません。この愛において偽りがないと言うことは、一つに私たちが神を愛する愛に偽りがあってはならないということです。私たちが神を愛すると言うこと、それは神が私たちを愛してくださっていると言うことを信じ信頼することでもあります。神は、私たちが犯した罪や身勝手な自己中心な心が生み出す醜さや汚れといったものから、私たちを救おうとしてくださっています。神は、罪や悪をそのまま見過ごすことが出来ないからです。ですから、私たちの内に、罪や、身勝手な自己中心な心があるならば、私たちは決して神に受け入れられることはありません。ただ、神の怒りと裁きを受けなければならないようなものなのです、
けれども、神は、そんな私たちを愛してくださっている。愛してくださっているからこそ、独り子なる神イエス・キリスト様を私たちの身代わりとして、十字架の上で死なせたのです。それは、イエス・キリスト様が、私たちの上に下される神の裁きを、私たちに変って受けてくださるためでした。そうやって、神は、私たち罪に対して下される神に裁きから私たちを救ってくだろうとしておられるのです。その神のお心に答えて、イエス・キリストが自分を罪から救ってくださるために十字架にかかって死んでくださったと信じる時、私たちは神を愛する者となるのです。神を愛するとき、神が罪を憎み嫌われているのですから、私たちも罪を憎み退け、善に親しみ結ぶ者とならなければなりません。
そうはいっても、現実の私たちの姿は、相変わらず罪を犯してしまったり、自己中心でわがままな生活が改まっていないことも決して少なくないだろうと思います。けれども、私たちが神を愛する者になったならば、私たちは自分の罪をそのままにしておくことは出来ないはずです。そこには、神を信じるが故に起こる、犯した罪、自己中心的な思いや醜い汚れた思いに対する深い反省があるのではないでしょうか。あるいは、自分の行動が罪ではないかという、不安を感じたり、恐れを感じたりすることがあるだろうと思います。それは、あなたが神を愛する者だからです。神を愛するからこそ、自分の罪を憂うのです。そこには偽りのない神の愛があるのです。もちろん、罪を生かしていいと言うことではありません。しかし、仮に罪を犯したとしても、また自分は罪を犯したかもしれないと不安になったとしても、自分の罪を憂い、恐れを感じるとき、私たちは神を愛しているのです。そして、私たちが神を愛するとき、私たちもまた神から愛されているのです。
もし、この私たちの内に神を愛する愛がなければ、私たちは熱心でうむことなく、霊に燃え神に仕えることなど出来ません。そして、神に仕えることが出来ない者に、神を礼拝することなど出来ようはずなどないのです。礼拝は、神に仕える神の民に奉仕(レイトルギア)だからです。そして、礼拝が神に対する奉仕であり、神に仕えることである以上、そこに愛がなければ、もはや奉仕は奉仕ではなく、義務になってしまいます。それは、もはや礼拝することでも、神に仕えることでもありません。しかし、私たちが偽りのない愛で神を愛するならば、私たちは十分に神を礼拝する資格を持つ礼拝者となります。そして、私たちは神の愛に包まれるのです。この神の愛に包まれるならば、どんな困難や試練があっても恐れることはありません。そこには神が与える希望があります。それがどんな困難や患難であったとしても、クリスチャンには天国の希望が残されているのです。だからこそ、その望みの中で、患難に耐え、神に祈りを捧げることが出来るのです。
また、教会においては、人と人とが互いに愛し合うと言うことが大切です。神が、私を愛してくださったように、教会に津出っておられる一人一人を愛しておられるのです。そして、一人一人を大切な価値ある者として受け入れ、呼び集めておられます。神は、あなたの能力や才能ではなく、あなたという存在を高価で尊いと言ってくださったのと、同じ思いで、今、あなたの周りにいる一人一人を高価で尊いと言っておられるのです。そうやって、私たち一人一人を価値ある存在として教会に呼び集め、神の家族としてくださっています。ですから、そうやって教会に呼び集められた私たちは、まず何を持っても、自分が価値のない存在などと思ってはなりません。仮に自分ではそう思っても、神はそう思ってはおられないのです。同様に、教会に集っている者は、子供であって大人であっても、誰一人価値のない存在の人はいません。神がそのように思っている人などはいないのです。
ですから、私たちは互いに愛し合い、尊敬しあう者となりたいと思います。互いに愛し合い尊敬しあうならば、お互いに助け合い支え合うことが出来ますし、教会の中には平和があります。もちろん、教会といえども意見の食い違いや議論もあります。時にはそれが、激しいやりとりになることもあるかもしれません。けれども、私たち一人一人が、私たちを愛してくださる神の愛に包まれ、私たち一人一人を尊いといってくださる神に心を向けているならば、そこには平和があります。互いに尊びあうならば、どちらかが高ぶることもなく、低められることもありません。どちらか一方が高められ、どちらか一方が低められることがないところには、決して支配など起こりません。教会には支配される者と支配するものといった構造は存在しないのです。それは教職者と信徒の関係においてもそうです。そして、人と人との間に支配関係が存在しないところに、初めて愛は住み、平和は生まれるのです。このように、教会が神を愛する偽りのない愛に満たされ、教会に集う一人一人が愛し合う群れとなって初めて、教会は教会の外に向かって、真実をもって神の愛を語る事が出来ます。また、愛を実践する者となり、すべての人と平和に過ごす存在となるのです。
すべての人と平和に過ごすことを望むときに、悪や不正に対して、憤り、正義を求めることはあっても報復や復讐を求める心の必要ありません。報復が復讐は平和にふさわしくないからです。仮に、悪や不正が横行していても、悪や不正に対しては神ご自身が、それをお裁きになるのです。もちろん、神は悪や不正をただ黙って見過ごすお方ではありません。それはきちんとさばかれます。けれども、その裁きをなされるお方は、イエス・キリスト様を十字架につけられたのです。イエス・キリスト様の私たちの罪を背負わせ、身代わりとして死なせたのです。このように、神は、裁きよりもは、むしろ愛によって人々を包もうとしています。だからこそ、私たちは、教会の中に、あるいは教会の外に向って、愛のもとづく生き方をしていくのです。ですから、たとえ敵であっても、私たちは報復するのではなく、相手が飢えているのであれば、彼に食わせ、飲ませるのです。それが愛に置いてなされる行為ならば、そこに和解が起こり、平和が生まれてくるはずです。
もちろん、どんなに私たちが、敵対する者に対して、愛を持って望んだとしても、そこに憎しみが消えず、敵対心が消えない事もあるでしょう。その時であって、私たちが復讐をすべきではないのです。結局、教会がキリストの体なる教会として、この世の中で生き、活動していく決め手は愛にあります。教会が、そして私たちクリスチャンが、この世の中にあって、この世の中の不正や悪に対して、それを指摘し変えていくことができるとすれば、それは、愛によってのみです。人の心の本質を変えることの出来るものは、愛だけなのです。この愛を教会が内に宿す、それはキリストの愛が私たちを取り囲み、私たちに迫っていることを、私たちが、心に受け止め、信じるときです。私たちが、キリストの愛によって一つの結ばれ、キリストの体なる教会とき、教会はこの世の中で、キリストの体として生きる教会となることが出来るのです。
お祈りしましょう。