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羊飼い 『神の立てた権威』
ローマ人への手紙 13章1−7節
2005/4/17 説教者 濱和弘
賛美 : 19,247,397

先週の月曜日、火曜日と冷え込み、また雨も降ってしまったせいもあり、桜の花もあっという間に散ってしまいました。しかし、多くの学校の入学式は、6日、7日、8日に終わっていますので、今年の新入生は、満開の桜の下を通って入学式に出席できたのだろうと思います。私たちの教会では、三浦衣よ子さんと横浜の高木隆太君が、それぞれ中学校と小学校に入学致しました。新しい学校に入学するということは、新しい社会の中に身を置くと言うことです。それまでとは全く違った環境の中での生活が始まるのです。その環境がどんなところかというのは、非常に重要なことです。「孟母三遷」という言葉があります。この言葉は、中国の故事に由来していますが、有名な「孟子」のお母さんは、息子の孟子の教育のために良い環境を求めて3回も引っ越しをしたというのです。それほどまでに、人がどのような環境、あるいは社会に属しているかと言うことは、その人の生き方に大きく関わってくるのだと言うことだろうと思います。人が好むと好まざるとに関わらず、社会や環境は、私たちの生き方に影響を与えたり、干渉してきたりします。

それは、良いこともありますし、悪いこともあります。私の、娘が高校に入学したときに、私はその入学式に出席致しました。そのときに、いい高校に入ったなとそう思いました。それは、入学式の国家斉唱の際に、起立をもとめられるのですが、校長先生が、生徒に向って、「『日の丸』や『君が代』に賛同できない人がいたら、着席したままでいいですよ。」と言っていたからです。ご存知のように、現在の東京都の姿勢は、個人の意見や、考え方に拘わらず国旗掲揚と、国家斉唱として「日の丸」と「君が代」とを強要してきます。それが愛国心の現われだと言うからです。しかし、「日の丸」にしても「君が代」にしても、以前、賛否が存在しています。そもそも、「君が代」と「日の丸」のみが愛国心の現われではないはずです。私などは、国旗も国歌も否定しませんが、「君が代」や「日の丸」でなければ、もっとみんなが素直に、また謙虚に国旗にも国歌にも向きあえるのになぁと、そう思います。しかし、まうぁ、そこには、様々な思いや考えがあるわけです。

もちろん、「日の丸」や「君が代」に特別な思いを持たれ方の思いや考え方も尊重されなければなりません。しかし、そうでないと思う人、たとえそれが少数派であったとしても、そのような少数派の方の思いや考えも尊重されなければならないのです。そういった意味で、先ほどの娘の校長の校長先生が、生徒達に「『日の丸』や『君が代』に賛同できない人がいたら、着席したままでいいですよ。」と言った言葉に、子供たちの自主性や考えを尊重しようとする教育姿勢が感じられて、いい環境の学校に入ったなとそう思ったわけです。ところが、先ほどの申しましたように、東京都の姿勢は、「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱を強要するものであります。そんなわけでしょうか、先ほどの校長先生は、翌年はもう娘の学校にはいらっしゃいませんでした。もちろん、先ほどのこととは何の関係もない、定例の人事異動であったかもしれません。しかし、いずれにしても、東京都は、「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱に参加しない教員は、職務命令違反として処罰しているのです。

ここに、一人の個人の信条や考え方と国、国家との関係といった問題が現われています。そして、それはキリストな体なる教会として、教会と国家との関係もまた問われる問題なのです。実際、多くのクリスチャン教師が、実際の教育現場で日の丸と君が代の問題を通し、悩み、あるいは窮地に立たされたりしてもいます。それは、「日の丸」「君が代」背後には、第2次世界大戦中の国家神道の問題や、国の右傾化に対する憂慮等々の問題があるからです。そのような中で、現実に主にある兄弟姉妹がそのような問題に直面しているように、教会と国家ということは、キリストの体なる教会にとっても、向き合わなければならない問題の一つなのです。さて、そこで、今朝テキストとして取り上げましたローマ人の手紙13章1節から7節は、まさに、その教会と国との関係が取り上げられている箇所だといえます。そして、その冒頭1節に書かれていることは、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたからである。」とあります。

このような、国家とか王であるような存在は、神がお立てになった権威であるから、それに従うべきであるという態度は、ペテロ第一の手紙2章13節から17節までにも見られるものです。そういった意味では、このローマ人への手紙の13章1節に見られる態度は、教会と国家の関わり合い方の基本的態度だと言うことができるかも知れません。しかし、この13章1節の言葉を、機械的に先ほどの「日の丸」「君が代」問題に当てはめたとしたならば、すべての人は、国旗掲揚として「日の丸」を掲げ、「君が代」を唱うべきであることを、聖書は指し示していると言うことになります。本当にそうなのでしょうか。もっと、極端に考えれば、日本という国が、かってのキリシタン禁令のように、キリスト教を禁止すれば、私たちは国家の命ずるままに信仰を放棄すべきであるということにもなってしまいます。聖書はそんなことを言っているのでしょうか。

私たちが、聖書を読むときに気をつけなければならないことがあります。それは、聖書の言葉は、それが書かれた時代の歴史的背景や、文化的背景、あるいは科学的状況などを背負って書かれているということです。そして、そのような背景を背負って書かれた文書、あるいは語られた言葉は、当然、それを読む読者や聴衆を意識して書かれ、語られています。たとえば、このローマ人への手紙は、大体、紀元50年代の後半に書かれただろうと言われます。そして、想定されている読者はローマにいるクリスチャン達です。ですから、ここで語られていることは、その当時のローマ帝国の状況下でのことです。当時のローマ帝国は、まだローマ帝国による公然とした禁止されていたわけではありません。ユダヤ教の人々からは嫌われ、迫害されることはしばしばありましたが、しかし、ローマ帝国からは、むしろキリスト教は公認宗教であるユダヤ教の一派と見なされ、保護されていたのです。そのような、教会と国家との関係の中で、このローマ人への手紙13章は書かれていると言うことを忘れてはなりません。ですから、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたからである。」というパウロの言葉は、国家がキリスト教の信仰を禁止するなどといった状況を考慮してのものではないと言えます。

実際、このローマ人への手紙が書かれたおおよそ10年後ぐらいには、ローマで有名な皇帝ネロの迫害が起こり、そののち、紀元100年頃までには、クリスチャンが公に信仰を告白すると死刑に価する罪になると言った、厳しい迫害の時代を迎え、それはその後200年近くも続くのです。けれども、その間にあっても、クリスチャン達は、決して信仰を放棄したわけでもありませんし、伝道を止めたわけでもありません。たとえ、上に立つ権威である国家が、キリスト教の信仰を放棄するように命じても、決してそれにはしたがわな方のです。ですから、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたからである。」と聖書が言っているのは、国家や王と言った支配者に盲目的に従うことや、迎合的に従うと言ったことを言っているのではありません。たとえ国家であろうと、いかなる権威を持つ者であろうと、信仰の根幹に拘わるような問題に対して従えないこともあるのです。また、直接的な信仰の問題に関わらなくても、国家や王といった存在が誤りを犯した悪を行なうこともないわけではありません。

そう言うときにも、私たちは、決して迎合する事はできませんし、するべきではありません。では、一体教会は、どのようにして国家とか王と言ったものに向き合っていけばいいのでしょうか。確かに、ローマ人への手紙13章が、教会と国家との間に軋轢にない時代に書かれたものです。だからといって、皆さんが、聖書通読をするときに、もうこのローマ人への手紙の13章1節から7節までは飛ばして読んでも言いとは、私には思えないのですがどうでしょか。では、一体何が学べるのか。このローマ人への手紙の13章で、パウロが「上に立つ権威に従い、背かないでいなさい」とそうローマのクリスチャンに命じているその根拠は、「支配者達は善い事を行なう者には益を与えてくれ、悪い事を行なう者には、怒りを持って報いるからだ」というのです。つまり、パウロの権威に従えという言葉は、善いことを行ないなさいと言う言葉に置き換えることができるのです。

もとより、パウロが、このローマ人の手紙13章で上に立つ権威に従えとそう言うのは、単に、その当時のローマ帝国が、キリスト教を保護してくれる政策を採っていた背景もないとはいえません。しかし、それ以上に、例えば国家という権威は、本来は良い事をするものは保護し、悪い事をする者を罰するものとして神がお立てになっているものだからこそ、従えと言うのです。ですから、権威に従いなさいということは、具体的には、その国家なら国家という社会の中で、クリスチャンは善い、正しい事をして生きる者なのだということなのです。ここに、クリスチャンの倫理性の根拠があります。クリスチャンは、何かに盲目的に従って生きるとのでもなければ、規則に従うと言うことでもありません。ただそれが、自分にとって、あるいは人にとって善い事だからするのです。同じように、悪い事をしないのも、それが悪いことだからですそれは、何も、クリスチャンだけのことではありません。人であるならば誰でも同じです。誰であっても、正しい事、善い事をするには理由は入りません。それが善い事だから、正しい事だからするのです。そういった意味では、クリスチャンの倫理性は、人としての倫理性なのです。

それも、当然でしょう。私たち一人一人は、みんな神から造られた尊い神の作品なのですから。クリスチャンであろうとなかろうと、神の目には、私たちは神の創造の業の最高傑作であり、大切な一人一人なのです。ですから、全ての人に、人としての倫理性、道徳性と言ったものが与えられているのです。けれども、実際の世の中は、必ずしも、この人としての倫理性が守られているかといえば、必ずしもそうだとは言えません。どの時代にも、犯罪や争い、虐げや不正といったものが存在しなかった時代はありません。そのような犯罪や争い、虐げや不正と言ったことから、私たちを守り、私たちが正しい善いことができるようにと、国家といったような、現実の社会で機能する権威といったものが立てられているのです。私たちが、正しい事、善い事をする限り私たちは、何も恐れる必要はありません。しかし、悪や不正、を行った時には、国家や法といったものは、恐れの対象になります。このような権威は、悪や不正を働く者に、具体的な社会的制裁を加えるからです。そうやって悪や不正から私たちを守り、私たちが正しく生きるようにと導く存在なのです。

そのように、神は私たちが正しく生きていくことができるようにと導いておられます。そのために、国家といった私たちの上に立つ権威が立てられているのです。だからこそ、私たちは、税金を納めると言ったことによって、それを支えていくのです。このように、国家のような、上に立つ権威が立てられているのは、神が私たち一人一人を愛し、大切に思っているからです。私たち一人一人を愛し大切に思いっているからこそ、私たちが生きていく時に、悪から守られるようにと、国家や法と言った権威を、この世の中にお託しになったのです。ですから、国家や法といったものは、本来は私たちが社会の中で守られ、正しく善い事をして生きていくことができるように導く為のものであると言えます。しかし、それらが、いつも正しく機能すると行ったわけではありません。先ほどの「日の丸」「君が代」に対する東京都の姿勢のようなこともあるのです。時として上に立つ権威が、本来守るべきものを虐げると行ったこと少なくはなくはありません。また国家が不正を犯すと言ったこともあるのです。

そういった意味では、私たちは国家や法といったものが、その本来、神がお立てになり、それを存続させておられる、神の目的、その意図の通りに、私たちを守り、正しく導く存在として機能しているか見守りっていなければなりません。その背後に、貧しいものや虐げられたもの、悲しむものに目を向けて下さっている神の愛が見られるかどうかを、注意深く見守っていなければならないのです。そしてもし、神の意図に反して、正しいことを行なうことを阻害したり、悪いことを行なうならば、いかに、それが上に立つ権威であったとしても、それに従ってはなりません。むしろ、教会はそれに反して、正しいことを、善いことを、それがよいことだからという理由だけで、全うなければなりません。それが教会に課せられた預言者的使命だからです。しかし、本来は良い事をするものは保護し、悪い事をする者を罰するという上に立つ権威に課せられた神の意図を全うしている限り、国家や法というものは、私たちにとって従うべき良いものなのです。

それにしても神がこのような、上に立つ権威と言った存在をお立てになったのは、本来は、正しいことを正しい事だから行なう、悪いことは悪いことだから行なわないと言う、人としての倫理性が損われてからです。だからこそ私たちが悪から守られるようにと、国家や法というものを定めなければならなかったと言えます。私たちが、本来持ち合わせている倫理性がただしく発揮されていれば、国家とか法と言ったものを持たなくても、正しく生きられたはずです。それなのに、あえて神がそれをお立てになったのは、私たちが、必ずしも人としての倫理性をもって正しく生きられないからです。ですから、このような国家や法といったものの存在は、神が、私たちを愛し守ろうとしておられるという事の証であると同時に、私たちの内に、正しい事を行なうことができないで悪いことを行なってしまう罪があると言うことの証でもあるのです。つまり、私たちの倫理性といったものの中に自己中心的な思いや欲望といった罪が入り込んでいるのです。国家や法と言ったものは、それら私たちの罪を、表面上は規制し抑制します。けれども、罪は、私たちの心の中で働くものです。

というのも、人間の倫理性というものは、人間の良心といった心に頼かかっているからです。そして、この心と言ったものには、国家や法と言ったもので規制をすることはできません。ここには、国家や法と言った上に立つ権威の手は及ばないのです。たとえば、以前お話ししたことのある死刑の是非にしても、死刑が、凶悪犯罪の完全な抑止力として機能していると意見もありますが、統計上は必ずしもそうではないようです。死刑があろうとなかろうと、凶悪犯の発生率はそれほど変わらないと言うのです。これは、国家や法がなし得ることでは、人を罰する事はできても、心を変えるまでの問題には至らないと言うことを示しています。そのように、この現実の社会で実際に機能する権威も、社会の中では機能し、人を従わせることができても、人の心の中にまでは、その手が及ばないのです。

しかし、私たちの上に立つ権威をお立てになり、私たちを守ろうして下さるほどに私たちを愛して下さっている神は、その手及ばないところを見落としておられる方ではありません。神の私たちに対する愛は完全なのです。その神の完全な愛が、イエス・キリスト様を十字架につけて死なせたのです。決してこの世の権威ではどうすることもできなかった私たちの心の中に宿る罪を、イエス・キリスト様の十字架の死によって解決して下さったのです。社会の中で悪から、私たちを守って下さるために、上に立つ権威をお立てになった神は、私たちの心に宿る罪から救って下さいました。イエス・キリスト様を私たちの罪の身代わりとして十字架で死なせることで、私たちの罪を贖うことで、私たちを救って下さったのです。ですから、教会はイエス・キリスト様の十字架を語り続けていかなければなりません。イエス・キリスト様が十字架の上に磔られ死なれたのは、私たちの罪を赦し、神の前で、義しいものとするためでした。だからこそ、教会はイエス・キリスト様の十字架に示された神の愛を語り続けていかなければならないのです。

今日、ここに集っている私たち一人一人は、その神の愛で愛されている一人一人です。私たち一人一人は、世界中の他の人たちと同じように、神の尊い最高傑作として造られた神に愛された一人一人です。 ですから、決して人より劣ったものでもなく、またダメなものでもありません。ただ神に愛され、神の前に、善いこと正しいことを行なうものとして、ここに呼び集められたのです。もちろん、私たちには弱さがいっぱいあります。過ちがたくさんあります。ですから、善いことをしようと思ってもできなかったり、かえって悪いことをすることだってあるだろうと思います。けれども、そんな時は、イエス・キリスト様が私の罪の為に死んでくださったことを、心に思いだし、神を信じ、キリストを信じて生きていきたいと思います。そうすれば、私たちは神の赦しの愛の中を生きるものとなります。貧しいものや虐げられたもの、悲しむものに目を向けて下さっている神の愛をこの世に示しながら生きる者となることができるのです。

お祈りしましょう。