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羊飼い 『良い事を行うために』
ローマ人への手紙 13章8−10節
2005/5/1 説教者 濱和弘
賛美 : 317,308,394

さて、私たちは先々週の礼拝で、ローマ人への手紙の13章1節から7節の言葉に耳を傾けました。このローマ人への手紙13章1節から7節には、私たちが、上に立つ権威といったものに対して、どのような態度で臨むかと言うことが書かれてありました。そこで語られている、上に立つ権威というものは、国家権力や王といった、いわゆる支配者や指導者といわれるような人たちであると考えられます。そして、そのような、支配者や指導者層に従いなさいとそう言うのです。けれども、そのように「従いなさいと」というは背景には、支配者や指導者と言った人たちは、悪いことをする人を懲らしめ、良いことする人を守り、賞賛するからだという理解がありました。ですから、このローマ人13章1節から7節で、私たちクリスチャンに、「上に立つ権威に従いなさい」とそう命じる言葉は、私たちに「良いことを行ないなさい」と言う言葉に置き換えて考えても、良いだろうと思われます。また、そこには、「支配者や指導者と言った人たちは、悪いことをする人を懲らしめ、良いことする人を守り、賞賛する」という理解があります。ですから、国の支配者は指導者、また教会の指導的立場にある人たちも、当然、国家や教会が良いことをする、良いことが行なわれることに心を配ると言ったことが、当然のように求められるのです。

もちろん、ここで言う良いこととは、単に国家の利益や教会の利益といったことではありません。それは、神の目にかなう良いことと言うことになります。それでは、いったい神の目にかなう良いこととは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。おそらく、「神の目にかなう良いこととは何か?」と問われますと、皆さん、様々なことを思い浮かべられるのではないでしょうか。「神の目にかなう良いこと」というのですから、ある方は、敬虔な祈りや礼拝を捧げるとか、伝道をするといった宗教的な活動を思い浮かべた方もおられるかも知れませんね。また、そういった信仰的活動やではなく、何か慈善活動を思い浮かべられた方もおられるかもしれません。あるいは平和運動を思い浮かべられた方もおられるのではないだろうかとおもうのですがどうでしょうか?そういった意味では、私たちクリスチャンは、信仰の世界だけではなく、広く社会の中で生き、活動していると言っても良いだろうと思います。そして、このローマ人への手紙13章1節から7節は、その信仰の世界という問題に留まらない広い社会生活の中での「神の目にかなうよいこと」が述べられているのです。

というのも、この箇所でいう、上に立つ権威というのは、ローマ帝国を意識したものだからです。ですから、この、「神の目にかなう良いこと」をしなさいということ示唆する聖書の箇所は、単に信仰の世界の中での良いことだけではなく、広く社会の中でも行なわれる良いことであるということが出来ます。つまり、私たちクリスチャンは、『教会の中の仲間、兄弟姉妹という人たちだけではなく、他の人たちに対しても「良いことを」してあげなさい。』ということです。それは信仰生活あるいは宗教的活動における良いことだけではなく、社会的な活動に置いても「神の目にかなう良いこと」をしなさい、いえしなければならないと言うことでもあります。それは、私たちクリスチャンの一人一人や教会は、決して社会と無関係に生きていませんから、ある意味当然のことだと言えます。一人一人のクリスチャンも教会も、教会以外の人と深い繋がりと関わりの中で生き、宗教的活動以外の活動にも深く関わっているのです。

たとえばお仕事をしているでは、経済活動に関わっていますよね。今年は、私たちの教会の多くの人がPTAの会長さんや役員などに選ばれて、学校活動、教育活動に携われます。また学生や、子供達も学校で学び、友達と遊ぶと言った事を通して、人とふれあい世の中と深く関わっているのですよね。ですから、私たちは、世の中の人のため、「神の目にかなう良いことをする」と言うことが大切です。そして、その神の目にかなう良いことを、具体的にどうすればいいかを指し示しているのが、先ほど司式者に読んでいただきました、ローマ人への手紙13章8節から10節の部分であろうと思います。そこで言われていることは、人を愛することの大切さです。8節には「互いに愛し合うことの他には、何人も借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。」とあります。また10節には、「愛は隣り人に害を加えることはない。だから愛は律法を完成するものである。」ともあります。律法というのは、たとえば、先ほど交読いたしましたモーセの十戒に代表されるような、「神の民が神の前に如何に生きていくか」と言ったことを示す指針であり、行動、行為の基準です。そしてこの行動基準は、私たちが人を愛するならば全て全うされるというのです。

ところが、この言葉はわかりやすいようでわかりにくい側面をもっています。というのは、律法に示されたものは行動、行為の基準ですが、愛するというのは心の感情だからです。私たちは、通常は行為と感情は一致するように思いますが、必ずしもそうではない場合があります。例えば、最近は幼児虐待といった社会問題があります。小さな子供が虐待されると言ったことを耳にすると、本当に胸が痛むのは、私だけではなく皆さんも同じ事だろうと思いますがどうでしょうか。ところが、私は、その幼児虐待のニュースなどを聞きながら、ふと、一歩間違うと自分の行為も幼児虐待になりかねない要素があったのではないかと思うことがあります。皆さんもご存知のように、私はかなり厳しい親です。教会学校の子供達にも厳しいほうかも知れません。昔で言うなら雷親父と言ったところかも知れませんね。そんなわけで、子供を引っぱたくこともありますし、かなり厳しい言葉で叱ることもあります。けれども、そんなときに、私は子供を虐待しているといった認識を持ったことはありません。

というのも、そのようなときに、私は子供が憎たらしいとか嫌いと言った悪い感情を持ったことがないからです。むしろ、自分の子供も教会学校の子供も、本当にかわいいと思います。かわいいと思うからこそ、悪いと思うことは叱りもしますし、場合によっては引っぱたいてでも非を聡そうとするのです。卑近な譬えかも知れませんが、私が倣ってきた柔道や剣道には「可愛がる」という言葉があります。「おい、ちょっとあの先生に可愛がってもらってこい。」とか、よその先生に自分の弟子を「可愛がってやって下さい。」とお願いする時の言い方です。この場合の「可愛がる」とは、きつい稽古をつけてやって下さいと言う意味です。もちろん、ただきついだけのしごきのような稽古と言う意味ではなく、きつくても、その人の実になり上達するための稽古をすると言うことです。どんなにきつく、辛いことをさせていても「育てたい、うまくしてやりたい」と思ってつける稽古は、相手のことを思う「可愛がる」事なのだという気持ちがそこにあるのです。同じように、親が子供に対して厳しく叱り、口うるさく言っても、そこに子供を育てる愛情があれば、それは行為だけを見て、幼児虐待とは言い切れない側面があるのです。

もちろん、だからといって、それが行き過ぎてしまうならば、それはやはり問題です。ですから、当然のことながら、自制も必要です。しかし、私たちの行為それ自体だけを見て、それは良いことであり、悪いことであるといった判断は付かないのです。そういった意味では、まさに社会に対して、また私たちを取り巻く人々に対して「神の目にかなった良いことをする」と言うときに問われるのは、その行為そのものにあるのではなく、その行動の背後にある動機が何であるかと言うことが問われるのです。そういった意味では、まさにローマ人の手紙3章8節から10節がまさに語っているように、神の目にかなう、私たちの行動、行為の倫理性というのは、その行為そのものではなく、その背後にある私たちの思いが何であるかが問われるのです。そういった意味では、神は私たちの外側を見るのではなく、むしろ私たちの心の中を見て下さるお方なのです。私たちの外側に出てくる行為や行ないが、どんなに不完全で不十分でも、私たちの心の中に相手に対する愛があるならば、神はそれを「良いもの」として受け入れて下さるだろうと思います。

この相手に対する愛とは、相手を思う心です。相手のことを心から心配し、相手の為に生きる気持ちです。ですから、愛というものは自分がどうしたいからということではなく、相手のためになることを思う気持ちがなければなりません。しかし、この事に対して、教会も反省しなければならないことが全くないと言うことわけではありません。時には教会の行動も相手を思う心から出ていないことがあります。もうずっと昔の事になりますが、こんな話を聞きました。それはある人が言っていた言葉なのですが、「子供に伝道していてもだめだ。大人に伝道しなければならない」とそう言うのです。その方の教会は開拓中の教会で、まだ自立できていない教会でした。ですから自立するためには経済力のない子供に伝道していてはダメだ、経済力のある大人に伝道しなければならない、と言うのです。このような言葉を聞くと、みなさんは、おそらく「エッー」と思われるでしょう。なぜなら、伝道は教会の為に成されるのではないことをみなさんがよくご存知だからです。伝道は、私たちの周りにいる人が、神の愛に触れ、罪の赦しという神の恵みの中で喜びに満たされるためになされるものだからです。

当然、伝道する者の自己満足や自己実現のためでもありません。ただ相手に為になされるものだということを、みなさんは本当による理解して下さっている。それは、私たちの教会が横浜で集会行なっているという事の中に、顕著に表れています。私たちの教会が、横浜で集会を始めたときに、そこから私たちの教会に人がやってきて、教会が大きくなると言ったことは期待しませんでした。ただ、そこにいる人たちに、主イエス・キリスト様の罪の赦しの福音を伝え、神の恵みを知らせたいと願ってのことでした。ただそれだけだったのです。けれども、時として、伝道という教会が、社会に関わる関わり合いの方の一局面においても、「教会に自立のためには、子供に伝道してもダメだ。大人に伝道しなければ」といったことを考えることがあるのです。もちろん、それは極めて極端な例だと言えます。けれども、一歩間違えると、伝道が一人一人が、主イエス・キリスト様にある救いの喜びに満たされるために成されるのではなく、教会が大きくなること、多くの人が集まること、といった自己目的にために成されてしまう危険性にさらされているように思うのですが、どうでしょうか?

もし、そうであるとするならば、私たちはその危険性を忘れてはならないのです。伝道という、最も神の目にかなう良いことと思われる事であったとしても、その背後にどのよう動機があるかが問われるのです。ましてや、普段のごく普通の生活の中での人と関わり合いの中においてはなおさらです。私たちは、人との関わり合いの中で、自分の心に、相手のことを思い、相手のことを心から心配し、相手の為に生きる気持ち、愛があるかどうかを探り求めなければなりません。もし、私たちの行動の背後に、相手に対する愛が欠けていたとしたならば、私たちは、その愛を私たちの心に満たさなければなりません。そしてそれは、私たちが求めるならば、必ず満たされるものです。なぜなら、相手のことを思い、相手のために生きる気持ちは、父なる神が、また神の御子である子なる神イエス・キリスト様が、そして聖霊なる神が、私たちに対して抱いておられる気持ちだからです。

この父と子と聖霊なる三位一体なる神は、あなたのことを思い、あなたの罪が神の前に赦される為に身代わりとなってイエス・キリスト様を十字架に架けて死なせたのです。ですから、イエス・キリスト様はあなたの為に生きられたと言うく事が出来ます。それほどまでに、あなたを愛されたのです。その神の愛の中に、私たちが身を置くならば、神の愛が私たちの中にあふれてきます。神の愛で私たちの心は満たされるのです。もちろん、そのような神の愛に満たされ、その愛の中で社会や私たちの周りの人に関わりを持ったとして、また持とうとしても、それは決して十分なものとは言えないかもしれません。どんなに相手のことを思い、心から心配する愛があっても、現実には自分の生活もあるからです。自分の生活の中で、当然のことですが、出来ることも出来ないことも出てきます。そこには、一人一人の力や環境といったものがあり、出来ないこともあってしかるべきなのです。だからこそ、何をした、何が出来たといった行動や行為が問題ではなく、その背後にあるあなたの愛を大切なものとして神は見ておられるのです。

ですから、私たちは、私たちの行為それ自体はどんなに不完全で不十分でも、人を愛する愛だけは、心に満たしていたいと思います。そうすれば、どんなに行ないが不完全でも、愛がそれを「神の目に良し」とかなう、完全なものにしてくれるのです。ですから、私たちは人を愛する者にして頂きたいと思います。そして、私たちが、父なる神、子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神が私たちに示して下さった三位一体なる神の十字架の愛を見上げながら生きていくならば、私たちは、必ず隣人を愛する者となることができるのです。それは神の愛が、神を信じる私たちを神の子として、新しく生まれさせるものだからです。ですから、私たちが、イエス・キリスト様を私に罪の救い主として信じ生きるならば、私たちは、必ず、あなたの隣人を愛する者に変えられていくのです。神が、私たちの心の内を見て下さり、そこに、隣人への愛があるならば、私たちの行動や行為がどんなに不十分で足らないものであっても、それを「神の目には良し」として下さると言うことは、本当にありがたいことです。大きな恵みと言っても良いだろうと思います。

しかし、現実はそれだけでは片づかないこともあります。例えば、心の中に愛さえあれば何でもいいのかと問われれば、確かに愛さえあれば何でもいいと割り切って言えない感じもします。いえ、絶対に割り切っては行けないのです。そこには、何らかの行為や行動の基準となる規範が必要です。今日のテキストとなったローマ人への手紙13章9節には「姦淫するな、盗むな、むさぼるな」という行為に対する規範が述べられています。確かに、聖書の言うように愛があれば隣人に害を加える事はないでしょう。しかし隣人を愛するがゆえに、盗みと言ったことなどは、起こりうることです。たとえば、貧しさの中で食べるものにも窮するような状況の中では、家族や仲間のために盗みをはたらくと言ったことは、あり得ることです。もちろん、その行為の背後には家族や仲間、隣人を思う気持ちが背景にあります。けれども、如何にその背後に愛があったとしても、やはり盗むと言うことは良くないことだと言えます。如何に愛があっても、行動としての盗むと言う行為は、認められるものではない過ちです。それは、別の第三者に迷惑をかけてしまう行為であることは間違いがないからです。

ですから、如何に愛という動機に基づき、止むを得ない状況の中にあったとしても、それが、第三者にとっては、人として認めることの出来ない行為である事もあるのです。そんなわけで、キリスト教の神学の一分野であるキリスト教倫理学という学問の中では、異なる二つの考え方が対峙しています。一つはどんな状況かにあろうとは愛という動機で判断すべきであるという「状況倫理」という考え方です。そしてもう一つはと、人間の愛という動機は、人間の行動の原則ではあるが、人間の行為には、何が善であり何が悪であるかを示す、「規範」が必要であると言う「規範倫理」という考え方です。この「状況倫理」と「規範倫理」の二つの考え方が対峙し、そのどちらが正しい考え方なのかについては、結論が出ていません。いえ結論など出せないのが現実なのです。

確かに、今日のテキストとなったローマ人の手紙13章8節から10節を見るならば、そこには動機としての愛を見、それによって人の行為を「良いものとして」受け止めて下さる神の恵みが示されています。ですから、このローマ人の手紙13章8節から10節を見るならば、聖書は「状況倫理」的な見方を支持していると言うことができます。しかしだからといって、イエス・キリスト様も、またこのローマ人への手紙を書いたパウロも、私たちクリスチャンの行動に「規範倫理」的なものがあると言うことを否定してはいません。イエス・キリスト様は、「わたしが来た律法という規範を廃止するために来たのではなく、律法を完成するためにきたのである」と言っていますし。またパウロは、このローマ人への手紙13章で、「愛が律法を全うするのだ」と言うのです。このようなイエス・キリスト様もパウロの言葉も、律法という「規範倫理」を否定していません。そして、そのような規範性があるからこそ、私たちの心には良心といったものがあるのです。

結局、そう言った意味では、イエス・キリスト様やパウロのどちらもが言っていることの根底には、律法という「規範」としての倫理的な考え方が根底にあるのです。けれども、如何に、私たちがその規範を守り、正しく生きようとしても、私たちは決して正しくは生きる事が出来ず、完全なことは出来るものではないのです。だからこそ、イエス・キリスト様が私たちの至らなさを完全なもとして下さるのです。また、私たちが隣人を愛する思いで隣人に接するならば、その行為がどんなに不十分で足らないものであったとしても、その動機としての愛のゆえに神が喜んでくださるのです。このように、私たちが隣人を愛する思いで隣人に接する行為は、その愛の行為のゆえに、積極的なプラスの行為、正の行為と言うことができます。

それに対して、私たちが愛の行為をおこなう為に、誤った手段をもちいてしまう、先ほどの貧しい中での盗みと言ったような例は、消極的なマイナスの行為、負の行為です。ですからそこには如何に動機としての愛があったとしても、そこに確かに「規範」を伴う人として、あるいはクリスチャンとしてのあるべき生き方も問われているのです。その人として、クリスチャンとしてあるべき生き方において過ちを犯したとき、また過ちを犯さざるを得ないようなとき、私たちは一体どうすればいいのでしょうか?その問題を解く鍵も、このローマ人の手紙13章8節から10節にあるように思われます。それは私たちの心の中にある動機としての愛を見られる神という事です。この「私たちの心の中にある動機としての愛を見られる」ということは、まさしく神私たちの心の奥底を知って下さると言うことです。私たちの行為がどんなに不十分で欠けたものであっても、その積極的なプラスの行為の背後にある愛の心を知って下さる神は、私たちの消極的なマイナスの行為に伴う私たちの心も知って下さるお方です。

この「私たちの消極的なマイナスの行為に伴う私たちの心」とは、いったい何なのか?それは、私たちの過ちや罪を悔いる私たちの心です。私たちの心の中にある愛の心を見て下さる神は、私たちの心の中にある、罪や過ちを悔いる心もまた見て下さるのです。そして、イエス・キリスト様の十字架に示された神の愛によって、私たちの心に人を愛する愛で一杯に満たして下さる神は、同じ十字架に示された愛で、過ちや罪を悔いる私たちの心に、神の赦しを与えて下さるのです。結局、私たちが、現実の今の社会の中で、私たちを取り巻く人々と関わり合いながら生きていく中で、「神の目にかなう良いことを行なう」ためには、私たちを愛し、私たちの罪を赦すために十字架に架かって死んでくださったイエス・キリスト様の十字架の愛を見上げて生きることが大切なことなのです。私たちの心の中にイエス・キリスト様の十字架に示された神の愛に満たされるとき、私たちは、神と人とに喜ばれる者となっていくことが出来るのだろうと思います。それは、私たちが互いに愛し合い、許し合うものとなるからです。

コロサイ人の手紙3章14節には、「愛は全てを結ぶ帯である」という言葉がありますが、私たちが、神と人とに喜ばれる者となる時、それは、「愛は全てを結ぶ帯である」というコロサイ人の手紙3章14節にある言葉が、愛し合い許し合う私たちの中に実現するのです。みなさんも、気が付いておられるように、このコロサイ人の手紙3章14節の「愛は全てを結ぶ帯である」というコロサイ人の手紙3章14節の言葉という言葉は、この会堂の入り口に掲げられています。そして、私たちは、この「愛は全てを結ぶ帯である」というコロサイ人の手紙3章14節の言葉のもとを通って、私たちが住む社会の中に帰っていきます。しかし、それはただ単に帰っていくのではありません。私たちが住む社会に派遣されていくのです。私たちの住む社会は、矛盾だらけです。その矛盾のゆえに、私たちは罪を犯さざるを得ないような状況に置かれることがあります。そして、その矛盾は、私たち人間の罪が産み出した矛盾だと言えます。また私たち自身も、多くの弱さを持ち、罪や過ちを犯しやすいものです。

またどんなに人を愛し、隣人を愛そうとしても、現実の社会生活の中では、それが十分な事が出来ないことの方が圧倒的に多いのも事実です。そのような中に、私たちは派遣されていくのです。だからこそ、私たちには神の赦しと愛が必要です。そして、その神の赦しと愛は、イエス・キリスト様の十字架の上に豊に満ちあふれているのです。ですから「愛は全てを結ぶ帯である」というコロサイ人の手紙の言葉のもとを通って、社会に派遣されていく私たちは、イエス・キリスト様の十字架をいつも見上げて歩んでいきたいと思います。そうすることによって、私たちは「神の目にかなう良いこと」を行なうことが出来るものとなっていくのです。

お祈りしましょう。