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羊飼い 母の日合同礼拝
『命を与えてくださる神様』
創世記 2章1−8節
2005/5/8 説教者 濱和弘
賛美 : 19,「愛をください」,474

今日は、合同礼拝です。もちろん、いつもの礼拝でも、子供達も大人と一緒の礼拝に出ていますから、合同礼拝と言っても、いつもと同じように思うかもしれません。けれども、いつも、教会学校のみんな、大人の礼拝に出ていても、お話しが難しかったり、わからなかったりするので、席に着いていても、お絵かきをしたり、折り紙をおったりしますよね。時には、それでも我慢でいなくなって、台所の方に言ってお話しをしていたりすることもあります。確かに、大人の礼拝の話は、教会学校のみんなには、難しいことも一杯あるので、それも仕方がないかなって思います。むしろ、お絵かきや折り紙をしながらでも、みんなが大人の礼拝に一緒にでていることは、すごいことだなっておもいます。神様もそれを本当に喜んでおられると思いますよ。でもね、今日は合同礼拝ですから、大人の人に話すような難しい話だけではなく、みんなにもわかるようなお話しをします。また出来るだけ普段の大人の礼拝よりも、短くお話しします。そして、今日は教会学校もありませんから、今日は、席を立って台所に行ったりしないで、またお絵かきや折り紙をしないで、ちゃんとお話しを聞いていましょう。

さて、今日は母の日ですね。母の日は、お母さんに「ありがとう」って感謝をする日です。でも、どうしてお母さんに「ありがとう」って感謝をするのでしょうか。<子供への問い>そうだね、みんなが挙げてくれたような****、****、といったことも、お母さんに感謝しなければならないことですね。でも、もう一つ忘れてはならないお母さんに感謝しなければならないことがあります。それは、お母さんが君たちを産んでくれたことです。お母さんが、君たちみんなを産んでくれたからこそ、みんなはこうして今ここにいるんですね。つまりね、お母さんがみんなを産んでくれたってことは、お母さんが、みんなに命をくれたって事なんだよ。みんな、命って大切だよね。テレビゲームや漫画の主人公の孫悟空なんか、死んでも命が一杯あったりしますが、でも、本当は命はたった一つです。ですから、それは私たちにとって、一番大切なものだといえます。

お母さんは、みんなを産むことで、その一番大切なものを、みんなに与えてくれたんだね。それもね、おかあさんは、とっても大変な思いをして、みんなを産んでくれたんだよ。あまりに大変なので、昔はね、赤ちゃんを産むときに、お母さんが死んでしまうようなこともありました。今では、立派な病院が出来たり、お医者さんも一杯勉強して、そんなことはあまりなくなりましたが、それでも、とっても痛いんだよ。お母さんが赤ちゃんを産むときにどれくらい痛いか?ある人が、その痛さを、こんなふうに言っていました。それはね「小指を電車がひいていったくらい痛いんだ。」っていうんです。小指って一番小さな指だよね。でも、その小さな小指だって、電車にひかれたら、飛び上がるくらい痛いよ。きっと机の角の頭ぶつけたのよりも何千倍もいたいと思います。それくらい、大変な思いをしてでも、お母さんはみんなのことを産んでくれたんだ。だから、みんなはお母さんから命をもらったんだ。みんなは、そのことを、ちゃんと「ありがとう」って感謝してるかな?

命を与えてくれた人は、私たちの一番大切なものをくれた人です。だから、命を与えてくれた人には感謝をしなければいけません。なのに、みんなは、命を与えてくれたお母さんに「ありがとう」って言うんじゃなくて、「ママのバカ」とか「うるさいなー」といってお母さんの言うことを聞かなかったり、文句ばっかり言ったりしてませんか。もしそうだとしたら、それは良くないことです。本当は、命を与えてくれたお母さんに「ありがとう」って感謝の気持ちを忘れては行けないんですね。そしてお母さんのことを大切にしなければなりません。母の日というのは、命をくれたお母さんに「ありがとう」って言う日です。そして、命を与えてくれた人を大切にしますってことを約束する日なんだよ。みんな約束できるかな。みんなは、お母さんから命をもらいました。そのお母さんは、おばあちゃんから命を与えてもらいました。そのおばあちゃんは、ひいおばあちゃんから、そのひいおばちゃんは、って、ずーといくと、さっき司式のおじちゃんが読んでくれた旧約聖書の創世記って所にたどり着きます。

そこには、なんて書いてあるかというと、2章7節ってところにこう書いてあるんだ。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」ここに書いてあることは、「人間を作ってくださったのは神様で、人間に命を与えて下さったのは神様です。」ってことです。もちろん、人間だけではありません。この旧約聖書の創世記には、世界にある全てのものを神様が作って下さったと言うことが、書かれています。でもね、この旧約聖書の創世記には、神様が魚や動物を造られたってお話しの中で、人間にだけ、特別に書かれていることが3つあるんだ。3つだよ、3つ。わかるかな。ひとつは創世記の1章26節と言うところにあります。そこにはこう書いてあります。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」ここには、人間は神様に、似せて造られたってことが書かれています。神様に似せて造られたってことは、神様のことを思い、神様にお祈りしたり、神様の言葉を聞いてお答えするようなものとして造られたと言うことです。

そして、残りの2つは、さっき読んだ創世記2章の7節にあります。そこをもう一度読みますが、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」ここには、「人間は土のちりから造られた。」って書かれています。創世記の他のお魚や動物や鳥、花や木などをみても、何から造られたなんて、何にも書いていないんだよね。なのに、人間だけが、土のちりから造られた。って書いてあるんだ。不思議だね。それともう一つ、「命の息が鼻から吹き入れられた」ってこと、つまり人間に命が与えられたってことです。もちろん、人間だけではありません。お魚や、動物、鳥や草や花といったすべての生き物を神様がお造りになったのですから、すべての生き物は、神様から命を与えられています。なのに、人間だけわざわざ、神様が命を与えて下さったんだってことが書かれているんです。おもしろいよね。一体どうしてなんだろうか。でもね、残念なことの、聖書はその答えが書いてないんですね。だから、どうしてだかは、自分で考えなければなりません。

そこでちょっと考えてみました。そこでわかったことは、人間は、神様のことを考え、お祈りし、神様にお答えするものとして造られたってことです。人間はちゃんと神様のことを考え、神様にお祈りできるように、造られています。また、聖書を読んで、神様が聖書を通して私たちにお話しして下さっていることをちゃんと理解することもできます。だから、神様に感謝することも、神様を誉め称えて賛美することも出来ますよね。そんな風に神様のことを感謝することができるように造られているんだから、人間は、神様が何よりも大切な命を人間に与えて下さっていることを感謝しなければなりません。今日、みんなは、母の日というのは、自分に命を与えてくれたお母さんに、心から「ありがとう」って感謝する日だということを聞きました。それと同じように、私たちひとり、ひとりが生き物のすべてに命を与えて下さった神様に心から「ありがとう」と感謝する心を忘れないようにしなければなりません。そして、神様のことを大切にすることがだいじなんですね。

聖書に「主なる神は命の息をその鼻に吹き入れられた。」という言葉が書かれてあるおかげで、私たちの命は、元々は神様が与えて下さったんだということを、私たちがちゃんと知って覚えておくことができます。ですから、みんなも、お母さんに「ありがとう」と感謝するのと同じように、命を与えて下さっている神様に、心から感謝し、神様を大切にしなければなりませんね。この私たちに命を与えて下さった神様に感謝し、神様を大切にすると言うことは、子供達だけでありません。大人なの人も心に留めておいて欲しい事ですね。でも、ときどき、私たちは神様に感謝することを忘れてしまって、不満や文句ばかり言ってしまうことがあります。もちろん、神様に不満や文句を言っては行けないと言うことではありません。大人だって子供達だって、文句を言いたいことは一杯あります。たとえばね、みんなは命をくれたお母さんに感謝をしていても、そのお母さんに不満や文句をいったり、わがままを言ったりすることがあるよね。そんな不満や不満を、お母さんはちゃんと聞いてくれる時もあるだろうし、聞いてくれないで怒り出すこともあるだろうと思います。特に「わがまま」を言っているときなんかは聞いてくれないよね。でも、とにかく、みんなはお母さんに不満や文句、そして「わがまま」を言います。

でも、知らないおじさんやよその人に、お母さんに言うように、不満や文句を言ったりするかい。時々はすることがあるかもしれないけど、普通は、そんなことはしないよね。どうして、よその知らない人には不平や文句をいえないけど、お母さんだからいえるんだよね。おなじように、神様にその不平や不満をお祈りしても良いだろうと思います。それは、神様が、私たちのお父さんだからです。だから、神様は、きっと私たちがお祈りする、不平や不満にじっと耳をかたむけて聞いて下さるだろうと思います。そして、時には、不満や文句をいう私たちの声に、ちゃんと答えてくれることあります。でも、聞いていても、答えてくれないこともある。神様が、みんながお祈りをしたことにちゃんと答えくれたら、嬉しいよね。嬉しいから「神様、感謝します。」って言うことが出来ます。でも、聞いてもらえなかったらどうかな?「神様、感謝します」ってなかなか言うことが出来ないよね。そして、もっともっと不満や文句が大きく風船みたいにふくれてしまっちゃわないかな。そして最後には、風船がパンって割れてしまうように、不満や文句が爆発して「もう神様なんか信じても何にもならない」なんて言って、神様を信じることをやめようと思うこともあるかも知れません。

悲しいことですけれど、実際に、そういって教会に来なくなった人や、神様を信じなくなった人が、何人もいます。でもね、そんなときに、みんなには、神様によって「土のちりからつくられたものなんだ。」ってことを、思い出して欲しいんです。土のちりから造られたっていうのは、人間も他の動物も同じです。実際にね、人間も他の動物も死んでしまったと、そのままにしておいたら、みんな土に帰ってしまいます。ですから、人間も他の動物も神様から造られたということでは、みんな同じなんです。だけど、人間は、さっき言ったみたいに、神様が、神様のかたちに似せて造ってくださって、海の魚と、空の鳥と、家畜と地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせてくださった。だから、人間は、この地球で一番偉いんだ、みたいに思ってしまって、神様だって「自分の言う通りにしてくれないんだったら、もう信じてあげない」て思ったりしてしまいます。でもね、人間が一番偉いんじゃないんです。一番偉いんだっておもっていても、人間も他の動物と同じように、神様から造られたものですね。だから、どんなに神様に不満や文句を言ってもかまいませんが、「神様が、私のお願いを聞いてくれないんならば、もう神様なんて信じない。教会なんていかない。」なんてことは、してはいけません。人間は、神様に命令して、自分の願い事をかなえせることが出来るようなものではないんですね。どのことを、みんなには、そのことをちゃんと覚えておいて欲しいんですね。

さて、最後に一言だけ、大人の方にお話ししたいと思います。今、子供達にお話ししたことは、そのまま、大人の私たちにも、問いかけられる内容です。特に、私たちは現代という時代に入り、人間の理性が産み出す多くの恩恵にあずかってきました。また科学がもたらす、様々な成果が、私たちを大きく発展させ、進歩させてきました。このような近代主義に中で、すべての問題は、人間の理性と科学によって解決されるかのように言われた事もありました。そして、宗教や、神を信じると言ったことなどは、もはや時代錯誤の迷信のようにすら、思われることさえも起こってきました。けれども、そのような発展と進歩、そして反映の中で、私たち人間の持つ問題や矛盾はますます深まっているのも事実です。経済格差と貧困の問題。差別や侵略と支配は、半世紀以上前に社会の論理ではなく、現代に社会の論理でもあります。そして、その矛盾や問題の多くは、人間の開くことのない欲望や、欲求といった私たちの自己中心的な罪によって引き起こされていると言っても良いだろうと思います。私たち人間は、心の中に、愛の心に満ちた素晴らしい側面と、自己中心的な心に支配された醜い部分の両面を持ち合わせています。

そういった私たちの矛盾が、世の中の矛盾にそのまま反映されていると言っても過言ではないのかも知れません。だからこそ、私たちは、神によって土のちりから造られ、神によって命を与えられた存在であるという聖書の言葉を真剣に考えなければならないように思います。私たちは、土のちりから造られ、神によって命を与えられたものである。というこの聖書の言葉は、神の前に、私たちが謙虚になることを求めています。私たち人間は、確かに神によって神のかたちに造られた特別な存在です。その精神性や理性の力は、他の動物を凌駕しています。しかし、同時にこの地上にあるすべての生き物と同じような成分を持つ肉体を持ち、同じように神によってその命が与えられたものでもあるのです。ですから、私たちが、真摯な思いで「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」と言う言葉の中に生きるならば、私たちは、人種や民族を超え、また自然との関係の中でも、共に生きていく道を見いだせていけるだろうと思います。私たちは、決して誰かを、そして自然を支配するような存在ではないのです。

もちろん、私たち人間の可能性と能力は、まだまだ発展途上です。科学は、もっともっと私たちを幸せにしてくれるでしょう。しかし、その人間の理性と科学の力だけに頼っているだけでは、私たち人間の間に存在する問題は決して解決しません。問題が、解決しないだけではなく。更に新しい難問が私たちに突きつけられてくるように思えて仕方がないのです。そんなわけでしょうか、最近では近人間の理性と科学の力に頼っている代主義的な考え方に対する疑問やそれを乗り越え用という様々な試みが起こっています。そう言った中で、私たちは、私たちに命を与えたも給うた神の「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」と言う言葉の前に立ち、神の前に謙虚になって生きていきたいと思うのです。

お祈りしましょう。