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羊飼い 『心に緊張をもって』
ローマ人への手紙 13章11−14節
2005/5/29 説教者 濱和弘
賛美 : 139,339,468

さて、私たちは、ローマ人の手紙の12章に入ってからは、クリスチャンとして生きると言うことはどういうことかについて学んできました。特に13章に入ってからは、この世の中、社会の中にあって「神の目に喜ばれる、正しい、良いことを行なうべきである」と言うことについて学んでまいりました。この「神の目に喜ばれる、正しい、良いこと」とは、隣人を愛する愛に支えられた行為です。また、罪を嫌い、罪を悔いる心を伴う行ないです。そして、このような心が私たちの神を愛する心の現われだと言えます。私たちが、隣人を愛し、隣人のために尽くそうと思い生きていくならば、そこには麗しい社会が生まれます。また罪を嫌い、罪を悔いる心があるならば、少なくとも社会は、清い正しい方向に向って行くに違いありません。借りに、過ちや間違ったことが行なわれても、罪を悔いる心は、深い反省と謝罪を生み、和解を産み出していきます。ですから、私たちが「神の目に喜ばれる、正しい、良いこと」を求めて生きるならば、そこには良い社会が生まれてくるはずです。

しかし、現実の世界は、決してそのようなものではありません。むしろ、人が人を虐げたり、奪い取ったりするような社会になってしまっています。そして、国と国とがいがみ合い相争っているのです。このような出来事が、現実の世界でまかり通っているのは、そこに人間の深い欲望があるからです。さきほど、司式の兄弟に読んだいただいた聖書の箇所には、「肉の欲をみたすことに心をむけてはならない。」とあるます。それは、金銭を愛したり、権力欲を満たすことを求めたり、情欲を愛したりといったことが、まさに人が人を虐げたり、奪い取ったりする原因となるからです。国と国とのいがみ合いや争いもまた、国家レベルで利権を相争うから起こるものです。ときおり、「キリスト教は戦争を押し進めてきたのではないか」といったことを言われる方がおられます。そして、例えば現代ならば、北アイルランドとイギリスとの間にある紛争などを挙げ、カトリックとプロテスタントの争いのような構造を描き出したりします。また、パレスチナ地方のイスラエルとアラブの紛争も、下手をするとイスラム教とユダヤ教の対立のように見られたり、中東問題などもイスラム教とキリスト教の対立のように捕らえる人もいます。

しかし、実際は宗教の違いがもとで戦争が産み出されることはほとんどありません。確かに、人間の歴史の中で、ドイツの三十年戦争のように、信仰というものが契機となったように思われる戦争もないわけではありません。しかし、その実体を見るとやはり、そこには様々な民族間の利害関係や権力闘争とがあったのです。ましてや、アイルランド紛争やパレスチナ紛争、アフガニスタンやイラクの戦争に代表されるような現代情勢は、宗教上の問題などではなく、まさに権力闘争といったものなのです。そのような中で、例えば、一部のイスラム原理主義の人たちが、「聖戦」といって、アフガニスタンや、イラクの戦争を、あたかも宗教的な意味を持つ戦争であるかのように見せています。しかし、間違ってはならないのは、イスラム教もまた平和を愛する宗教なのです。当然です。イスラム教もまた旧約聖書を信じ、聖書の神を唯一の神として崇め、信じているからです。そして、イエス・キリスト様に対しても、キリスト教の理解とは異なりますが、しかし、彼らもまた、イエス・キリスト様を偉大な、特別な存在として認めているのです。そのように、同じ聖書の神を崇めるキリスト教とイスラム教、はたまたユダヤ教の間に、大きな対立があるのは、そこに利権や利害、権利や権力といったものに対する人間の欲と、国家としての欲があるからです。

けれども、その対立と抗争の中で、一部のイスラム原理主義の人たちは「聖戦」という言葉を掲げ、一部のキリスト教原理主義の人たちは「神の正義」といった宗教的名目を掲げるのです。それは、そう言った言葉を掲げて、自らを正当化するためと考えられます。自分たちを正当化し絶対化する為に、神の絶対的権威を持ち出しているのです。もちろん、いかに神の絶対的権威を持ち出したとしても、それは自らを絶対化していることに他なりません。そして、この自らを絶対化する自己絶対化と言ったことが問題なのです。先日、ある人が今ニーチェの「アンチクライスト」という本が、現代人に読みやすい形で翻訳され「キリスト教は邪教です。」という題で出版され、随分と売れていると教えてくれました。今時ニーチェとは、「ちょっと古いんではないかい」と思いましたが、この「キリスト教は邪教だ」「悪の根源だ」というニィ−チェもまた、実は自己という存在を徹底的に絶対化した一人です。そうした自己絶対化した視点で見るときに、キリスト教は邪教にもなりますし、悪の根源にもなります。というのも、ニーチェが言うとすることは、「人間の世界には苦悩があるが、それを乗り越えて自己を確立する者だけが価値があるのであって、誰かに頼ったり、支えられ泣ければならないような人間は、価値がないのだ」ということです。

ですから、そもそも人間の罪や弱さといったものを前提として、神により頼みながら生きることを教えるキリスト教など、ニーチェの目には邪教にしか映らないのです。しかし、人間の実際の姿は弱いものです。どんなに強いように思える人間でも、心のどこかに弱さを持っています。そして、それは決して自己の力では克服できません。克服できない以上、自分の弱さを認めることが出来なければ、自己を絶対化して、それを正当化するしかないのです。自分を絶対化し、自分を正当化するようになりますと、自分の中の肉の欲といったものも、肯定されます。そして、そのような自己を絶対化し正当化する個人が、その自分の肉の欲のままに生きるような社会に軋轢が生まれないはずはありません。それは、ただ人間のむき出しの自己中心が幅をきかし、その思いを実現するために、ぶつかり合いせめぎあっている社会です。そんな社会が住みやすいはずはありません。この人間の自分を絶対化し、正当化しようとする私たちの心こそが、人間の罪と言えるものなのです。

このローマ人の手紙の13章は、最初から、国家とクリスチャンという、信仰と社会の関係がテーマとなっています。つまり、社会の中でクリスチャンがどう生きるかと言うことです。そして、そこでクリスチャンに対して言われていることは、隣人を愛して生きると言うことであり、また、律法を全うするような道徳的な正しい生き方です。私たちは、神を信じ、イエス・キリストを自分の救い主と信じ救われたからこそ、その恵みに対する応答として、隣人を愛し、道徳的に正しい生き方をしようと願い思うのです。ニーチェは、このような隣人愛や道徳的正しさを求める生き方をおろかな生き方だと言います。またそのような生き方こそが人間をダメにするとも言います。けれども、そう言いたければ言わせておけばいいのです。というのも、そのように、隣人を愛し、道徳的に正しく生きる生き方は神が望まれている生き方だからです。そしてそのような生き方は、終末というこの世の終わりを意識した生き方でもあるのです。そして、この世の終わりと言うことを意識するところに、人間の弱さが暴露するのです。なぜなら、私たち人間は、自分たちの力では、「この世の終わり」と言った終末の出来事を克服することが出来ないからです。私たち人間も、この世の中に存在するものだからです。ニーチェの言う、「苦悩を乗り越えて生きていく」ということがけっしてできないものが、この「この世の終わりという、終末の出来事なのです。

ですから、そこには最早人間の力強さなどみじんも見られません。乗り越えられない出来事ものの前にただただ弱い人間の姿が暴露されるのみなのです。そして、そのような弱さを暴露されるものだからこそ、神に頼りすがり、神に頼らなければならないのです。その神が、隣人を愛し、道徳的に正しく生きる生き方を望まれておられるのです。だから、神野よりすがり、より頼むものは、その神が望まれている生き方を生きる者となっていくことが大切なのです。このように終末というこの世の終わりを意識した生き方ということを強調しますと、この世の終わりに神の裁きにあわないために、隣人を愛し、道徳的に正しい事をしなさいと言っている感じがします。しかし、そう言うことではありません。もし、教会が、「この世の終わりにある神の裁きにおいて裁かれないために隣人を愛し、道徳的に正しい生き方をしなさい」と言うならば、それは脅しです。そのような脅しの言葉は、けっして福音の言葉ではありません。

神が、私たちに隣人を愛し、道徳的な正しさをもとめるのは、私たちがすでにこの世の終わりに訪れる神の裁きから救われているからです。神は、私たちを愛し、イエス・キリスト様を私たちの罪の身代わりとして十字架に架けて死なせたのです。そうやって神は、私たちに罪の赦しという恵みを与えてくださったのです。ですから、その恵みに対する応答として、隣人を愛し道徳的に正しく生きる者となるのです。その意味では、先ほど司式の兄弟に読んで頂きました聖書の箇所は、私たちに、その罪の赦しという神の恵みを、単なる観念的な問題ではなく、より具体的に思い起こすことを私たちに勧めています。というのも、11節でこう言っているからです。「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まなければならない。すなわち、あなたがたの眠りから覚めるべき時が、すでに来ている。なぜなら今は、私たちの救いが、始めに信じたときよりも、もっと近づいているからである。」

このローマ人への手紙を書いたパウロを初めてする初代教会の人たちは、それこそ、自分が生きているときに、主イエス・キリスト様が再び来られて、この世を裁くと考えていたようです。後には、イエス・キリスト様を信じクリスチャンになったものも死んでいくと現実の中で、必ずしも自分たちが生きている間に、主イエス・キリスト様が再び来られるわけではないと言うことがわかってきます。しかし、それでもそう遠いことのようには思ってなかったようです。ですから、彼らの生き方には、世の終わりは近いという緊張感がありました。その緊張感は、この11節からも伝わってきます。パウロが「あなたがたは時を知っているからだ」というその時は、私たち人間にとっては「神の裁きの時」という「のっぴきならない『時』」です。その人間にとって「のっぴきならない『時』」が、もはや時間的に近づいているのだとパウロは言うのです。まさに「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでに来ている。」というのです。この人間にとって神の裁きという「のっぴきならない『時』」は、私たちクリスチャンにとっては、決して恐れるべき時でないことは、明らかです。なぜなら、この人間にとって「のっぴきならない『時』」は、私たちクリスチャンにとっては「神の裁きの時」ではなく、むしろ「救いの時」、「恵みの時」だからです。

「救いの時」とは、私たちの罪が赦されるときです。しかし、この罪の赦しは、私たちが主イエス・キリスト様を信じたときに、すでに私たちに宣告されています。ですから、この世の終わりという「のっぴきならない『時』」は、私たちクリスチャンには、すでに訪れているのです。だからこそ、現実の社会が、どんなに暗く、罪や不正が横行し、隣人を愛する愛が冷えているようなものであっても、私たちは、主イエス・キリスト様の十字架の死によって、罪赦されていると言う現実を、繰り返し繰り返し実感し、思い起こしながら生きていよう」と、そう勧めるのです。パウロは、12節では、「夜はふけ、日が近づいている。」と言っていますが、夜明け前が、一番世が深く、暗いときです。まさに真っ暗なのです。けれども、その真っ暗さは、夜が明け、日が差し込んでくる前兆です。だからこそ、夜明けを期待しながら、日が差し込んでくるのを心して待っていようというのです。パウロは「夜はふけ、日が近づいている。それだから私たちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」とそう言っています。この光の武具が何であるかは、定かではありませんが、パウロは、聖書の別の箇所で、こう言っています。それはエペソ人への手紙の6章13節から18節です。そこにはこう書いてあります。

「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、たって真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てをつけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことが出来るであろう。また救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神の言葉をとりなさい。絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのための目を覚ましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」ここに書かれている内容の一つ一つを細かく説明することはしませんが、要は、神を信じまたイエス・キリスト様を信じる信仰にしっかりと立ち、罪赦されたという恵みにしっかりと立って歩むと言うことだろうと思います。そしてどんなときにも神によりたのみながら生きることが大切だと言うのです。それは、まさに悪しき日にあたってです。罪や不正が横行し、隣人を愛する愛が冷えているような、あたり一面が真っ暗闇のような中にあって、そのようにしなさいとそう言うのです。暗闇は、すべてを覆ってしまい、私たち自身も包み込んでしまいます。

この暗闇に包まれてしまうと、何にも見えなくなります。ですから、そのような暗闇に包まれてしまいますと、私たちは、ついつい自分の本質がでてしまいます。昼間の明るさの中ですと、誰かに見られていると思うと、身を正し、襟を正すのですが、誰も見ていないところでは、気がゆるんで、地が出てしまいます。そして、私たち人間の本質に深く染みこんでいるのが罪と言った性質です。それが、誰も見ていないと思われる暗闇では、ついつい顔を出してくるのです。けれども、誰も知らないと思っていても、暗闇はそれを知っています。人間が暗闇に包まれたときに何をするかをちゃんと知っているのです。この暗闇の主こそ、サタンとか、悪魔と呼ばれる存在です。そもそも、サタンと言う言葉は、訴える者という意味です。私たちが暗闇で犯す、あらゆる罪や不正を訴え、「この人を裁け」とそう訴え出るのです。だからこそ、私たちは暗闇に巻込まれず、まさに昼ひなたを歩くように行きようとそう言うのです。

もちろん、そうは言いつつも、暗闇に迷い込むことや、暗闇に巻込まれてしまうこともあります。そして、そのように私たちが暗闇に包まれてしまうとき、私たちを訴える者は、私たちの心にある良心に訴え出ます。「あなたは、罪を犯した。あなたはもう神の子と呼ばれるにふさわしいものではない。あなたはもはや神に愛されるものではない。」とそう私たちの良心に訴えでます。しかし、そのようなときこそ、私たちは、自分の犯した罪を悔い、私たちの罪を赦す神の救いのみわざという恵みを心に思い起こすのです。この世の終わりの、すべてのことが清算されるときに、私たちの罪という負債が、全部イエス・キリスト様によって赦されているという、その事実を、今、繰り返し、繰り返し思い起こすのです。そうすれば、暗闇にも光が差してきます。そうやって、私たちは、主イエス・キリスト様の恵みの中で生きているのです。

今の時代は、ますます暗闇が深くなっているような時代です。現実の日本社会の闇は、ますます深く暗くなっていっているような時代ではありませんか。罪や不正がますます横行し、道徳は乱れ、隣人を愛する愛がさらに冷えているようなそんな時代です。そういった意味では、13節に記されているような宴楽や泥酔、淫乱と好色、争いと妬みが幅をきかせている時代です。だからこそ、私たちは、そのような時代だからこそ、主イエス・キリスト様が再び来られたその時に、神の御前に生きるように身を正し、襟を正して生きていこうと、聖書はそう勧めるのです。もちろん、それは、私たちに神の裁きと言う、恐怖をちらつかせながらのことではありません。むしろ、この世の終わりに全うされる神の赦しという恵みがあるがゆえに、神なるイエス・キリスト様の見前を生きるのです。ですから、そのような生き方を愚かという人がいれば、それは言わしておけばいいのです。それがたとえ、ニーチエのような、哲学者でもです。

私たちが、神の御前に身を正し、襟を正して、隣人愛に生き、道徳的に正しくていくのは、人の目に自分たちの生き様がどのように映っているかを気にしてのものであってはなりません。誰がどのように評価しようとしまいとそれほどうでもいいことです。ただ、人を愛し、人を生かそうとする神を意識しながら、終末というこの世の終わりを、今、ここで実感しながら生きるのです。そしてそれは、決して気のゆるんだ生き方ではなく、神の恵みを心に感じ、その恵みにお答えしながら生きるという、緊張感をもった生き方なのです。

お祈りしましょう。