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羊飼い 『強い人と弱い人』
ローマ人への手紙 14章1−12節
2005/6/12 説教者 濱和弘
賛美 3,341,264

さて、このローマ人への手紙12章から始まって、13章にいたるまで、クリスチャンの生き方と言うことについて、主に教会と社会との関わり合いを中心に考えてきました。もちろん、教会というのは私たち一人一人によって構成されています。つまり、私たち一人一人が教会なのです。ですから、「教会と社会との関わり合い」ということは、すなわち、私たち一人一人と社会との関わり合いということでもあります。一人一人ということになりますと、そこにはそれぞれの事情があります。私たち一人一人が生まれ育った環境から、現在置かれている状況まで、千差万別です。この私たち三鷹キリスト教会を見ても、決して同じ人は一人としていないのです。

例えば、それは考え方やものの見方の違いといったものにも現われてきます。例えば、何年か前に壮年会で、創世記1章に書かれている天地創造の記述をどのように受け止めているかについて、自分の思っていることを率直に語り合ったことがありました。私たちの教会は、福音主義にたつキリスト教会です。ですから、聖書は誤りない神の言葉であるということを、受け入れ、それが前提となっています。このような聖書の言葉に対する態度を、一般には聖書新こつと言います。この聖書信仰という前提に立つならば、普通は、みんながみんな、創世記1章の記述を、全く聖書に書いてある通りであると受け止めているかのように思われます。しかし、実際に率直に話し合ってみると、一人一人が様々な受け止めかたを持っているのです。そしてそれは、極めて当然の事だと言えます。そして、それは良いことなのです。それは、まさに一人一人が育ってきた環境や状況といったものが違っているからです。その一人一人が異なる背景を背負い、真摯に聖書の言葉に向き合うからこそ、一人一人の受け止めかたが違ってくるだといえます。聖書を誤りない神の言葉だと信じ、聖書の言葉の前に、それぞれがそれぞれの背景を背負いながら真摯に聖書に向き合い、理解し受け止めていこうとするところにこそ、本当の意味での聖書信仰といったものがあるのだろうと思います。

むしろ、そのような聖書の言葉との取り組みなしに、牧師なり信仰の指導者の言葉をそのまま鵜呑みにするかのようにて、みんなが一律に同じ考え方や味方をしているとすれば、それは少し恐い感じがします。というのも、私が見てきたカルトと呼ばれる集団、例えばエホバの証人や統一協会といった集団の中には、そのような傾向が顕著に見られるからです。ですから、私たちの教会に、聖書の記述に対して受け止めかたの違いがあっても、それはおかしいことでも何でもないのです。むしろ、そのような違いは、教会の多様性と呼べるもので、教会が健全な教会であることの証だと言っても良いだろうと思います。ですから、私たち三鷹教会の中に様々な考え方やものの見方が存在していても、驚くことも、怪しむ必要もありません。逆にそのような多様なものの見方や考え方を持つ一人一人が、それを乗り越えて、同じイエス・キリスト様の十字架を見上げているのです。そして、同じ「イエスは主なり」という信仰告白に立ち、みんなで一緒に礼拝を捧げ、そして神の前に共に生きている所に、私たちの教会の健全性があると言っても過言ではないだろうと思います。このように、教会の中に様々な多様性があるということは、一口に私たちと社会との関わり合い方といったものについても様々な違いとなって現われると言うことです。

この社会との関わり合いに多様性があるからこそ、ローマ人への手紙13章9節10節にあるように、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、その他にどんな戒めがあっても、結局は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』というこの言葉に帰す。愛は隣人に害を加えることはない。だから、愛は律法を勧説するものである」と言う言葉も光を放ってくるように思われます。つまり、私たちと社会との関わり合い多様性が、愛すると言うことで一つに結びあわされているからです。ちょうど、教会の中に様々なものの見方や考え方があったとしても、教会は「イエスは主なり」という告白を持って、また友に礼拝することによって一つに結びあわされているのと同じように、様々な関わり合いが、愛するという意志に置いて私たちを一つに結びあわせるのです。ところが、現実の教会では、なかなかそのようには行きません。というのも、私たちは、知らず知らずのうちに人の行ないに優劣を付けてしまうからです。そして、そこから信仰の強い人、信仰の弱い人、あるいは信仰の厚い人、信仰の薄い人といったふうに評価し区分してしまうことが、少なくないように思うのですが、どうでしょうか。

そのような、信仰の強い人、弱い人と言ったことの背後には、クリスチャンの行動に対する評価がともなっています。例えば、私たち日本の福音主義の教会では、お葬式の時にお焼香をするのかしないのかと言ったことや、お酒を飲むか飲まないかといったことで、信仰の強い、弱いを量ったりすることがあります。しかし、本当にそうなのかどうかは、疑問を残すところです。それは、同じ行動であったとしても、先ほども申しましたように、それに臨む個人個人は、その人の背景から、ものの考え方、あるいは正確といったもの一つ一つは千差万別だからです。そう言った違いを考慮しないで、その行動のみに目を向けて、あの人は信仰が強い人だ、あるいは信仰が弱い人だと評価するのは問題があるように思うのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。

今日、先ほど司式の兄弟にお読み頂きましたローマ人への手紙14章1節から12節は、まさにそのようなことを問題にしている箇所だと言えます。ここで問題になっているのは、特定の食べ物を食べることや特定の日を他の普通の日と比べて需要であると重んじることが信仰的に良いことか悪いことかということです。この特定の食べ物が何であるかについては、この箇所には書かれていませんが、2節に「(信仰の)弱い人は、野菜だけを食べる」とありますし、21節に「肉を食べず、酒を飲まず、その他の兄弟をつまづかせないのは、良いことである」と書かれてあることを考えますと、おそらくは肉を食べるかどうかと言ったことが問題になっていたのだろうと思います。実際、コリント人への第一の手紙10章23節〜31節に偶像に捧げられた肉を食べることが良いのか悪いのかと言う問題にふれられていますので、同じようなことがローマ教会の中でも問題になっていたのかもしれません。あるいは、ローマ教会は、ユダヤ人と異邦人が入り交じった教会ではなかったかと言う説もありますから、ひょっとしたらそれは血抜きをしていない肉を食べるか食べないかと言う問題であったかも知れません。

偶像に捧げられた肉を食べても良いかどうかが問題になるのかということについて、バークレーという人は、当時、偶像に捧げられた汚れた肉を食べることで、自分が汚れてしまう恐れがあったからではないかと指摘しています。また、偶像に捧げられた肉を食べることで、偶像礼拝に繋がるのではないかという恐れに繋がったのかもしれません。いずれにしても、そのような恐れから、偶像に捧げた肉を食べないように気を付けていた人たちがいたようです。ところが、町の市場で売られる肉の中には、偶像に捧げられた肉も混じっていたようです。そのような事情を考えますと、先ほどの12節にありますように、一切の肉を食べずに、「野菜だけを食べる」と言った人たちが教会にいたとしても不思議ではありません。また、ローマ教会の中にいたユダヤ人クリスチャンが、血抜きしていない肉を食べなかったと言うことも、十分に考え得られます。

近年の聖書神学の研究で、イエス・キリスト様の時代のユダヤ人達の間では、従来の教会で言われているような厳格な律法主義ではなく、安息日規定と食物律法だけが、厳格さを持って問われていたのではないかと言われています。この食物規定の中に、血の混じった肉を食べてはならないという規定があり、今日でも厳格なユダヤ人はこの規定を守っています。この血を抜いた肉というのは、実に徹底していて、決められた方法にのっとって徹底的に血を抜き去り、肉に一切動物の血が残らないようにします。このような血抜きした肉を、コーシェルとよぶのですが、当然日本の肉屋さんで手に入れることは出来ません。ただ、東京の青山にあるユダヤ教の会堂と神戸にあるユダヤ教の会堂でだけ手に入れることが出来ます。同じように、この当時のローマの市場で、このコーシェルを買うことが出来たとは考えにくい状況です。もちろん、ユダヤ人の所に行けば手に入ったかも知れませんが、当時は、すでにクリスチャン達ははユダヤ教徒の迫害をうけていました。ですから、そこから購入することも難しい状況であったことは、容易に推測できます。そう言った関係から、一切の肉を食べずに、「野菜だけを食べる」と言った人たちが教会にいたのかもしれません。

しかし、いずれにしても、このような特定の食べ物を食べることをタブー視することは、キリスト教の考え方に沿ったものではありません。というのも、イエス・キリスト様ご自身が、マタイによる福音書15章17節から20節で、こう言っているからです。「口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出ていくものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない。」ですから、何を食べるか、食べないかと言ったことは、その人の信仰にとって問題ではないのです。ですから、偶像に捧げられた肉を食べたからといって、偶像礼拝に関わりを持ったとか悪霊に関わりをもって汚されると言ったオカルティックな恐れを持つ必要はありません。

また、律法的な食物規定に縛られて、血の混じった肉を避けるといった必要もないのです。クリスチャンはイエス・キリスト様によってもたらされた恵みの中に生きています。ですから、オカルティックな恐れからも、律法の規定によって定められたタブーからも解放された自由な存在なのです。ですから、そのような恐れに縛られ、タブーに縛られた生き方といったものは、本来のキリスト教的な生き方からすれば、それは間違っていると言えます。あるいは、イエス・キリスト様の福音がもたらした自由に対する理解が浅いと言っても良いのかも知れません。けれども、いかにそれが間違っているからと言って、また福音がもたらすクリスチャンの自由に対する理解が浅いからと言ってパウロは「食べる者は食べない者を軽んじてはならない」とそう言うのです。それと同時に「食べない者も食べる者をさばいてはならない」とそういうのです。

考えてみますと、偶像に捧げられた肉であるか、あるいは血抜きをしていない肉であるか定かではありませんが、いずれにしてもそれをあえて食べないという生き方は、自らを自らによって律しながら生きています。そのように、自らの生き方をきちんと律しながら生きている者にとっては、福音が私たちに自由を与えてくれていると言っている姿は、この世と妥協して生きている生き方に見えたのかも知れません。いうまでもないことですが、如何にイエス・キリスト様の福音が、私をオカルティックなものに対する恐れや、あるいは律法から解放し自由にしてくれたからと言って、勝手気ままな放縦を赦しているというわけではありません。そこには、はやりクリスチャンとしての生き方に対する倫理規範といったものがないわけではありません。ですから、何を食べるか食べないかと言って問題に限らす、イエス・キリスト様によって自由にされたからと言って自分の勝手気ままに生きていくとするならば、それもまた、クリスチャンの自由と言うことを間違って受け止めていると言うことになります。

しかし、だからといって、その行動だけを見て「『この世と妥協した不敬虔な者、不真面目なクリスチャンだ』とさばいてはならない」と、パウロはこの箇所でそういうのです。そして、そのように「福音がもたらすクリスチャンの自由に対して誤った理解をしているか、また理解の浅い者を軽んじめるな」と言い、また、その行動が一見、「この世と妥協した不敬虔な者、不真面目な態度に見える者たちをさばくな」というのは、彼らが、神によって受け入れられているからです。そして、仮に間違った理解や理解の浅さがっても、神はクリスチャンをクリスチャンとしてしっかりと立つことが出来るように、成長させてくださるお方だからです。神は、私たちの誤りや失敗をすべて受け止め、神のご計画の中で正しい信仰へ、またクリスチャンとしての正しい在り方へと導いて下さるのです。このように、神が私たちを成功させて下さり、正しい在り方へと導いて下さるのは、表面上に現われた私たち行動における誤りや失敗の背後に、神を信じる信仰に対する真摯な姿勢があるからです。

1節から4節までの間で、おそらくは偶像に捧げられた肉か血抜きをしていない肉を食べる食べないと言った問題から、5節に入って、問題は特定な日を他の日よりも重要な日であるとして重んじるべきであるかどうかという問題に変わってきます。ここでいわれる「特別な日」といったものが、何であるかは定かではありません。もし、先ほどの食べるべきか、食べないべきかと言う問題が、律法にある食物規定に基づく血抜きをした肉を対象にした者であるとするならば、この「特別な日」というのは、金曜日の夕方から土曜日の夕方までのいわゆる安息日のことかも知れません。もしそうならば、5節にある「この日がかの日よりも大事だと考える人がいた」というのは、やはりここでも律法の安息日規定に従って、土曜日の安息日を特別な日として、この日に礼拝を捧げなければならない主張する人がいたと言うことになります。ですから、ここにおいて問題になったのは、律法にある安息規定に従って礼拝を守るかどうかと言う問題であり、従わなければ律法違反としてなると言うことです。

しかし、今日、私たちは、土曜の安息日に礼拝を守っているわけではなく、週の初めの日曜日を主の日として礼拝を捧げています。そういった意味では私たちは、いわゆる安息日規定といった律法からは解放されています。けれども、だからといって、礼拝に出ても出なくて良いとも考えていません。私たち教会は、「聖日厳守」と言ったことを、とても大切に考えている教会です。だとすれば、私たちも「この日をかの日より大事であると考える」者たちだと言うことになります。実は、この事を考えることが、このローマ人への手紙14章1節から12節を理解する大きな助けになるように思うのです。私たちが、日曜日に行なわれる礼拝を、大切にするのは、それが律法だからではありません。それは律法ではありませんから、仮にこの日曜礼拝を休んだからと言って決して神から罰せられるわけではありません。

では、なぜ日曜日を主日、あるいは聖日として礼拝を守り、聖日厳守として大切にするのでしょうか。それは、私たちが神を大切に思い、神のために生きる者だからです。礼拝は決してクリスチャンに科せられた義務ではありません。もし、私たちが聖日の礼拝を定められた義務として守ることを求めているのであるならば、それは確かに律法主義的な在り方であると言われても仕方のないことだと思います。それなのに、私たちが日曜日の礼拝を大切にするのは、主なる神に感謝し、主のために礼拝を守るのです。そもそも礼拝という言葉は、レイトルギア、つまり神の民の奉仕と言うことです。私たちの一人一人が、私たちの罪を赦して下さった神の恵みによって神の民として礼拝の場に集まってくるのです。それは神の恵みに対する応答であって、決して義務として守られるべきものではありません。むしろそれは、私たちが神のために生きる生き方の現われでなければなりません。

そして、礼拝が神のために生きる生き方の現われであるからこそ、様々な考え方やものの見方の違いがあっても、その違いが共に主なる神のために生きるものとしての確信にたつ違いであるならば、私たちは一つの結ばれ一つの礼拝に集うことが出来るのです。14章の1節の言葉は、「信仰の弱いものを受け入れなさい。」となっています。これは渋々受け入れなさいと言うことではありません。喜んで受け入れる、歓迎すると言うことです。私たちは、考え方の違いやものの見方の違いがあっても、そのような理解の違い、ものの見方の違いの根底に、主なる神様をしっかりと見据えているならば私たちはその違いを超えて一つになることが出来ます。また、その違いが主のために生きる者として捕らえた視点から生まれた違いであるならば、それは主なる神に受け入れ止めていただけるであろうと思うのです。そして、そのように、私たちの視点が神に向いている限り、私たちの信仰は神によって立たせられ、成長させられていくのです。

お祈りしましょう。