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羊飼い 『思いが大切』
ローマ人への手紙 15章1−13節
2005/7/3 説教者 濱和弘
賛美 185,89,404

さて、今日の礼拝説教のテキストなる個所は、今、司式の兄弟に読んでいただきました、ローマ人への手紙14章12節から23節です。この個所は、「それゆえ、私たちは今後さばき合うことを止めよう」という言葉からはじまります。それゆえ、というのですから、その前に述べられたことを根拠にして、「今後、さばき合うことをやめよう」ということになります。そこで、その前に述べられたことは何かというと、それは先々週の礼拝説教でお話したローマ人の手紙14章1節から12節の内容です。その内容といったものは、概ね次のようなことだといえます。この手紙は、ローマ人への手紙というタイトルが付けられていますように、ローマにある教会に当てられたものです。このローマにある教会の中に、おそらく肉を食べる食べないと言ったことが、神を信じる信仰のあり方の中で、重用な問題となって、クリスチャン立ちの間で、互いに裁きあう状況があったようです。かりに、その肉を食べる食べないといったことが、ローマにある教会の問題でなかったとしても、少なくとも初代教会の中の一部で、そのようなことが問題視されていたことは、コリント人への手紙第一10章24節以降などから明らかです。

ですから、このローマ人への手紙が書かれたときに、肉を食べる食べないといった問題が、やがてローマの教会にも広がってきて互いに裁きあうような状況が起こりえるということは、十分に予測できることです。そんなわけで、すでに問題になっていた、あるいは、これから問題として起こってくるかもしれないのいずれであっても、とにかくこのローマ人への手紙の著者であるパウロは、そのような肉を食べる食べないといった問題で、裁きあわないようにと、そう教え諭すのです。それは、私たちクリスチャンにとって、問題なのは、肉を食べた食べてないといった行動の結果ではなく、その動機がどうであったかということだからです。そして、ここにおける動機の大切さは、それが「主のためであるかどうか」ということです。もちろん、私たちが、私たちの行動のひとつひとつを、いちいち「これは主のためであるかどうか」など、確かめながら行動しているわけではありません。また、そんなことをいちいちしなければならないとしたら、それはもう大変です。実際、行動の一つ一つを「主のためであるとかない」とか検証しながら生活することはできません。

けれども、ひとたび、自分の行動を省み、反省しなければならないようなときには、それが「主のためになされようとしていたのかどうか」が、私たちがもっとも大切にしなければならないことなのです。そして、このことがあって次に「それが本当に主のためになっていたかどうか」あるいは「良かったか悪かったか」という行動の結果が反省されなくてはなりません。たとえば、教会が伝道をして、10人の人が洗礼をうけたとします。一年で10人の洗礼者という結果は、すばらしい結果です。ても、その伝道が主のためではなく、ただ教会が大きくなることが目的となって、伝道がなされたならば、それは、動機においては、決してよいものであったとはいえないのです。ですから、少なくとも私たちは、ことの評価の際に、単に結果だけで判断するのではなくて、その根底にある、動機といったものに目を向けることが大切なのです。そして、そのように、私たちの行動が、「主のために」と思ってなされたことであるならば、たとえ行動の結果が芳しくなくても、私たちは、神に受け入れられます。そして、決して神から裁かれることがないのです。

というのは、「主のために」ということは、主を愛するという心のゆえだからです。愛する心が、自分のためではなく、相手のために行動させるのです。そして、それが主なる神に向けられる時に「主のために」という動機となります。この神を愛する心のゆえに、神は私たちを受け入れ、決して裁かれません。神も私たちを愛しておられうからです。神は愛するがゆえに、神自らが、そのひとり子なる主イエス・キリスト様を、私たちの罪の身代わりとして、十字架の上でしなえられたのです。このように、互いに愛し合い、相手のために何かしようとするところには決して、裁きといったことは起こらないのです。同じように、私たちは、たがいの行動の結果に目をとどめるのではなく、まず自分の心に目を向け、それを大切にするならば、互いに裁きあうといったことは、きっとなくなるだろうかと思います。それは、私たちが「相手を愛する思いから出ていることか」ということを問うということです。相手の心に相手に対する愛するならば、相手のためになることをしようとします。

「主のために」と思って行動するように、「あなたのために」と思って行動するのです。そのように、私たちが、「あなたのために」と思って行動するならば、相手につまずくとなるようなことをしようとはしません。もちろん、どんなに「相手のために」と思って行動しても、必ずしもそれがうまくいくとは限りません。時には、相手から疎まれたり、うるさがられたりすることもあるだろうと思います。特に、相手をいさめたり、相手にとって決して、好ましいと思われないよう名ことであるならなおさらです。今、私の家庭は二人の受験生がいますが、事あるごとに勉強しろといいます。口が酸っぱくなるほどいいます。きっと娘たちは、「うるさいなぁ」と思っていることでしょうね。でも思われてもいいのです。今は、どんなに嫌がっても、うるさがられてもお尻をたたいて発破をかけることが、「相手のため」だと思うからです。しかし、それが、本当に自分のためではなく、ただひたすら相手のためにと思ってのことであるならば、それはかならず通じるものだと思いますし、そう信じたい。いえ信じなければならないのです。

なぜなら、ただひたすら相手のことを思う愛は、神から出ているからです。相手のために自らを投げ出してまで与える愛は、愛の本質であり、根源である神から発しているのです。だからこそ、この神の愛に起源をもつ、相手を思う行動というものは、人と人との間に、裁きをもたらすのではなく、和解を生み出し、たおやかな人間関係を作り出していくはずです。私たちは、そのことを信じて、本当に心から、私たちの周りの人々のために生きるものになりたいと思います。この教会に集っている一人一人のために「何かをしてあげたい」そういう思いをもって、クリスチャン生活を過ごしたいと思うのです。また、私たち一人一人によって築きあげられている、この三鷹キリスト教会も、「地域社会の人々のために、また日本や世界の人のために何かをしてあげたい」と思って、行動したいと思うのです。そういった意味で、私は、この教会のみなさんのことを、誇りに思うことができます。皆さんは、決して自分の協会が大きくなる目的のためでなく、福音がなかなか届けられない地方の方々のためにと、私を放送伝道の働きに送り出して下さっています。

自分たちの牧師の働きの半分を、ほかの地域のためにささげてくださっているのです。また、先日は新潟で被災した方のための復興支援コンサートにも、大きな支援をしてくださいました。さまざまな場面で、自分のためではなく。相手のために、まだ見ぬ誰かのために生きている、それは本当に紙の民の生き方なのです。この、相手のために生きるということの模範が、イエス・キリスト様の十字架の死です。まさに自分自身の命をも投げ出して、私たちを愛し私たちのために生きてくださったのが、イエス・キリスト様という子なる神なのです。ですから、私たちは、この私たちの模範であるイエス・キリスト様の十字架を見上げながら思いながら生きていくことが大切なのです。ところが、現実には、人と人とが、お互いにさばき合って生きているような現実があります。それは今の時代の現実だけでなく、2000年前の初代教会の現実でもあったのです。2000年もの間、それが変わらすにあるということは、私たちを互いに裁き合わせるようなものが、そこにあるのです。ですから、それは私たち人間が持っている、ひとつの特質、あるいは本質といっていいのかもしれません。

そこで、裁きあうということについて、少し考えてみたいと思うのですが、私たちが人を裁くときは、必ず相手の悪いあるいは劣っているところを裁きます。裏を返せば、私たちは、自分が正しいと思っているときや、相手より自分のほうが優れていると感じているときに、私たちは、人を裁くのです。この、良い悪い、優れている、劣っているといったことを思い感じるためには、良い悪いといったことの判断の基準となるものが必要です。これができればよい、これができなければ悪い、あるいはこれをすればよい、これができなければ悪いといったといった行動や行いによる判断の基準がなければ、誰も良し悪しや優劣など決められないのです。このような、判断基準を決め、ことの良し悪しや優劣を決めることは、律法主義につながっていきます。私たちの間に、このような律法主義的なものの見方が置かれますと、私たちは、そのことの良し悪しを定める基準に基づいて、相手を裁き始めるのです。

たとえば、それが信仰の世界のことであるならば、毎日きちんと聖書を読みお祈りをするといった行為や行動が、よいクリスチャンで、そうでないとだめなクリスチャンであるかのように、とられているとするようなことがあれば、それは、もはや律法主義的な物の見方が入ってきているといっていいのかもしれません。もちろん、聖書を読むことや、お祈りすることは大切です。それはクリスチャンにとって呼吸をしたり、食事をしたりするようなものです。ですから、お祈りすることや、聖書を読むといったことは、クリスチャンとしての命を健全に保つために大切にしなければならないことにちがいありません。しかし、それらは、クリスチャンの命を保つために大切なものではあっても、信仰の良し悪し計る基準ではないのです。ましてや、このローマ人の手紙14章で、問題となっている肉を食べるか食べないかといった問題が。その人の信仰の良し悪しを計る秤などになろうものではないのです。パウロが言っているように。そんなことは、どちらもが「主のために」という思いの中でなされるのであれば、どちらも尊いのです。なのに、そのようなことをひとつの基準にして互いがさばき合わなければならないとしたら、それは実に悲しい出来事だといえます。けれどの、それを遠い昔のこととしてみて入られないような気がします。

それは、決して他人事ではないのです。私が以前牧会していた教会には、他教派から、ホーリネス教会に移ってこられた方がおられました。その方は、私に率直に「私はホーリネス教会が嫌いだ」とそういって下さいました。ホーリネス教会の牧師に向かって、余りにも率直に「ホーリネス教会が嫌いだ」とおっしゃられて、ちょっと面くらいましたが、その方の「嫌いだ」という理由には、耳を傾けるべきものがありました。その方のおっしゃるには、ホーリネス教会の牧師は、すぐに他の教派を裁くというのです。しかも、その裁く理由が「やれ、他の教派の教会は伝導しない。酒やタバコをたしなむ」などといったことをあげて、その点ホーリネスは」といわれるというのです。その方は。それがとっても嫌だったというのです。もちろん、ホーリネス教会の牧師がみんなそうだというわけではないことは、皆さんもお分かりのことだろうと思います。しかし、ホーリネス教会が、倫理的な面での厳しさを強調してきたグループであるといったことも、また真実です。

そのような、倫理的厳しさというのは、神の前に聖い存在として正しく生きたいという思いから出ていることですから、それは決して悪いことではありません。むしろ、実にすばらしい、尊いことだと思います。けれども、それがいかにすばらしく、尊いことであっても、それをもって他の教派や教会をさばくようになってしまうならば、それは律法主義的と言われても仕方のないことです。ましてや、同じホーリネス教会内で、あれはよいクリスチャンだ、悪いクリスチャンだと言うようなことになってしまったなら、一体何のために聖さなのだろうかと思わずにはいられません。この神の前に聖い存在となるということ、それは聖化あるいは聖めと呼ばれる出来事です。この聖化という出来事は、罪人である私たちが神様の恵みによって、罪ゆるされだけでなく、さらに聖い存在とされると言うことです。しかし、神の前に聖い存在として、神の前に正しく生きたいという思いから出てくる行動が、なにかしらの行動基準となって、それができていればよいクリスチャン、できていなければ悪いクリスチャンといったふうにされてしまったらどうでしょうか。

クリスチャンにとって、教会の中であなたはだめ良くないクリスチャンですと言われたら立つ瀬がありません。それこそ、教会の中に身の置き場がなくなってしまいます。ですから、よいクリスチャンと認められようと頑張らざるを得ません。そして、実際によいクリスチャンとなるために、一生懸命に頑張りながら信仰生活を送ると行ったことも起こってきます。マタイによる福音書11章28節には「すべて重荷を負って苦労している人は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」といわれたのに、別のキリストの重荷を背負い込んで、苦しんでしまうようなことになってしまうのです。イエス・キリスト様は、「私のくびきは追いやすく、私の荷は軽い」と言われたのに、私たちが負っているくびきは決して負いやすいくびきではなく、その荷も軽くもなかったりするとしたら、それはどういうことなのでしょうか。

それは本当にイエス・キリスト様のくびきであり、荷なのでしょうか?そしてそのくびきと荷を背負い込みきれなくなり、頑張れなくなってしまうと、ダメなクリスチャンと見られ、教会に身の置き場がなくなってしまうとすれば、それは正しいことなのでしょうか?聖化(聖め)ということを語るときに、私たちホーリネス教団は、ガラテヤ人の手紙2章 節を聖書テキストとして語られることが多かったように思います。そしてそこには、確かに聖化(聖め)ということの本質が言い表されていると思います。そこには、こう書いてあります。「わたしはキリストとともに十字架につけられた。もはや私が生きているのではない。キリストが私のうちで生きているのだ。」キリストが私のうちで生きているということは、私たちが生きる目標、模範がそこにあるということです。つまり、私たちは、キリストが歩まれたような生き方を生きていくということです。具体的には、イエス・キリスト様ならどうしただろう、こうしただろうといった生き方をすることです。

そのように考えるとき、イエス・キリスト様ならきっと罪から身を遠ざけただろうと思われますから、私たちが罪から身を遠ざける倫理性は、確かに聖化といったことの一側面であることは間違いがありません。それは、自分がただ神の前に正しく生きたいという、自分自身に向けられたときに現れる聖化の側面です。しかし、イエス・キリスト様が自分以外の人たちにどのように接しられたかというと、どんな罪人であっても、やさしい愛のまなざしを向け、罪の赦しを語り、慰め、癒し、慈しんだのです。そして、その結果、すべての罪人のために、私たちの罪のすべてを背負って、私たちに下される神の裁きを受けるために十字架の上で死なれたのです。それは、私たちのことを思い、ご自分の命を投げ出すまでの、完全な愛の行為でした。つまり、聖化(聖め)ということは、人に向かうときには、相手に対する完全な愛という動機が問われるのです。それは、自分のことを考えるのではなく、ただひたすら相手のことを考えるということです。

この、ただ相手のことを思って動機における愛が、完全であることが聖化(聖め)ということの本質なのです。この動機における愛の完全がある時に、教会の中においても、世の中に於いても、私たちは、人をさばくと言うことは起こりません。神が赦し、受け入れた人たちを、「あれはダメだ。いいクリスチャンじゃない」などと裁くこともないでしょう。また、神が節に受け入れたいと願っている人たちを、「あの人はダメだ、救われない」と断罪することもないはずです。このローマ人への手紙14章に見られた肉を食べる食べないといった行動問題にされたことの背景には、私たちの律法主義的な性質がります。それは本質と言っても良いかも知れません。この律法主義的な性質が、罪の赦しであるとか、罪の性質からの聖めといった神の恵みを見失わせてしまうことがあるのです。17節には、神の国は飲食ではなく、義と平和と聖霊における喜びである。とあります。聖書に於いて、神の国とは、神の恵みが支配しているところです。恵みとは、神が私たちを愛して下さり、私たちの罪を価なしに赦して下さった神の愛です。私たちの価を求めないだけではない、私たち代わって、神ご自身が御子なる神イエス・キリスト様をあたえてくださったではありませんか。

そのような神の恵みの支配する神の国の民である私たちは、また教会は、何をしたかという行動によって人を見るのではなく、心の内側にある動機に目を向けなければなりません。そして、その動機とは愛すると言う動機です。そして、私たちの行動に背後に、「主のために」という神に対する愛があるならば、「相手のために」という隣人に対する愛があるとするならば、私たちは、確かに、神の民として聖い存在なのです。たとえ、結果が芳しくなくても、私たちは神に喜ばれる存在として受け入れられているのです。また、もし、そのような動機として愛が、十分ではなく、自分自身の心に自己中心的なところがあったとしても、私たちは決して悲観することはありません。なぜなら、そのような自己中心的なものをも、神は愛し赦し続けてくれるまさに愛と恵みが、私たちを取り囲んでいるからです。そして、その神の愛と恵みが、私たちを、私たちの模範であるイエス・キリスト様に似たものになるようにと、一歩一歩導きながら成長させて下さるからです。ですから、その神を信じ、イエス・キリスト様の十字架による救いを見上げて生きていけばよいのです。私たちは、そのような神の恵みの支配の中を生きています。ですから、私たちは、決して、単純に行ないや行動で、自らを、また人を判断するのではなく、いつも心の奥底にある動機に目を向け注意を払っていきたいと思います。

お祈りしましょう。