『ひとつに結ばれる』
ローマ人への手紙 15章1−13節
2005/7/3 説教者 濱和弘
賛美 20,145,392
さて、今日は、今司式の兄弟にお読み頂きましたローマ人への手紙15章1節から13節は、このローマ人の手紙のまとめとなるような部分であります。このローマ人の手紙の連続説教を始めましたのが2004年の4月18日でしたから、間で抜けた時を考えても、おおよそ一年かかって、なんとまとめの部分にたどり着いたことになります。その、最初の説教の時に、このローマ人の手紙が書かれた目的と言ったことについて、述べさせて頂きましたが、憶えておられるでしょうか。このローマ人の手紙を書いたのはパウロという人です。パウロは、この手紙を書くにあたって、11節〜12節において「わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分かでも分け与えて、力づけたいからである。それは、あなたがたと私とのお互いの信仰によって、共に励ましあうためにほかならない。」とそういっています。
前にもお話しましたが、パウロがあなたがたを「力づけたい」と言っているその力づけたいと言う言葉は、原語では堅くする、建てあげると言ったニュアンスを持つ言葉です。つまり、パウロがこのローマ人への手紙を書いた背後には、ローマいる一人一人の信仰をしっかりとした土台に建てあげて揺るぎのないものにしたいという願いがあったからだといえます。そのように信仰をしっかりとした土台の上に立てあげるために、パウロはキリスト教信仰の基礎を延々と語るのです。それは、「キリスト教の信仰はイエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったことを信じる信仰によって神の前に正しい者と認められるのだ。」ということでした。この「神の前に正しい者」ということを「義」あるいは「義人」といいます。そして、「イエス・キリスト様の十字架を信じる信仰による義」ということが、今も昔もキリスト教を根幹で支える根本的な重要教理なのです。
そのようなわけで、パウロは、この「イエス・キリスト様の十字架を信じる信仰による義」ということがどういうことかということを、詳細に論じているのです。それは、ローマにある教会のクリスチャン一人一人が正しい教理の上に、一人一人の信仰をしっかりと建てあげるためであったと言えます。この、正しい教理の上に自分自身の信仰を建てあげるということは、自分自身の信仰と言うことに於いても大切なことです。それは、自分自身がよって立つ信仰が、どこにあるかと言うことが明らかになるからです。同時に、それは教会にとっても大切なことだと言えます。というのも教会(αεκλλσια)は、一人一人のクリスチャンによって出来ているからです。ですから、一人一人が、何をどのように信じているかと言うことが、教会が教会として成り立っていくためには極めて大切なことなのです。もちろん、「一人一人が、何をどのように信じているか」ということが、みんな一律に同じように考え、同じように信じている言うことはありません。神様は、一人一人の個性や違いを大切にしておられる事は明らかです。天地の創造者なる神様が大切にしておられるからこそ、一人一人が違うのです。
そのように、一人一人の個性や違いがある以上、信仰というものに、個性や違いが起こってきてもおかしくありません。けれども、そのような個性や違いを認めつつも、教会は一つの教会として結びつけられていかなければならないのです。そのためには、様々な個性や考え方を持つクリスチャンを一つに結びつけるための根本的な教理といったものが大切になるのです。ですから、教理というものは、言い換えると「信仰における共通理解」といっても良いのかも知れません。ですから、私たちクリスチャンというものは、様々な信仰における個性や考え方の違いがあっても、どこかで「信仰における共通理解をもっている」ことが大切なのです。そしてそのような「信仰における共通理解」があってこそ、教会は、教会として一つになれるのです。そして、パウロがローマにある教会の一人一人にもとめた、その「共通理解」が、「私たちは、イエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったことを信じる信仰によって神の前に正しい者と認められるのだ。」ということなのです。
それは、ローマにある教会が、教会として一つに結ばれるために必要な「よって立つ土台でした。」このような、よって立つ土台がしっかりとあるならば、教会は、教会に起こってくる様々な問題に対処しながら、一つの結ばれた教会としての営みを続けていくことができるのです。たとえば、今日のテキストとなったローマ人の手紙15章1節から13節の冒頭の言葉は、「私たち強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」という言葉があります。この言葉は、私たち「強い者は」と書かれておりますように、ローマ人への手紙14章からの問題を受けてのことです。このローマ人への手紙14章からの問題とは、教会の中で、クリスチャンは肉を食べてもよいのか、食べてはいけないのかということです。このことで、教会が二つに分かれていたのです。ここで、パウロが自分自身を含めて、「私たち強い者は」というのは、肉を食べても良いと考えている人です。ですから、パウロは肉を食べることは、信仰上の問題ではないと考えていたと言えます。
しかし、ローマの教会には、肉を食べることに抵抗を感じていた人たちがいたのです。なぜ肉を食べることに抵抗があったのかについては、二つ考えられます。一つは、市場で売られた肉には、偶像に捧げられた肉が混ざっていることがあり、群像に捧げられた肉は、汚れたもので、それを食べると、食べた人間も汚れると言う考えを持った人が初代の教会の中にはいたと思われることです。このような、汚れたものを食べることによって食べた人間も汚れるといった考え方は、ユダヤ人の中に見られる考え方です。初代の教会には多くのユダヤ人クリスチャンがいたためです。この当時のユダヤ人クリスチャンは、もともとユダヤ教であり、そこからイエス・キリスト様を、自分の罪からの救い主であると信じて、クリスチャンになった人たちです。そして、ローマの教会にもある教会にもユダヤ人クリスチャン達がいたと考えられます。実際、ローマにはある教会は、ユダヤ人と異邦人が混在した教会だったのです。ですから、そのローマにいたユダヤ人クリスチャンたちが、偶像に捧げた肉を汚れたものとして食べなかったと言うことは十分にありうることです。
二つ目の理由も、ユダヤ人クリスチャンたちに関わることです、ユダヤ教もキリスト教と同じように旧約聖書を正典としています。その旧約聖書に、血抜きしていない肉を決して食べ手はならないと記されているところから、厳格なユダヤ人は、いまでも血抜きをしていない肉は食べません。当時のローマ市内においては、ユダヤ人は少数派です。ユダヤ人以外の人が圧倒的に多いのです。ですから、当然ローマ寺内で売られている肉は血抜きされていたとは考えられません。そんなわけで、長い間、血抜きをした肉を食べることをタブーとされていた、初代の教会にいたユダヤ人クリスチャン達が、肉を食べることを罪悪視したことは、十分に考えられます。いずれにしても、この肉を食べてもいいか、食べてはならないかといった問題は、本来は旧約聖書に基づいたユダヤ人たちの食物律法の問題なのです。けれども、その食物律法に関する問題が、ローマにある強化に於いて異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンとの間に起こっていたのです。
そのような中で、パウロは「強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきである。」というのです。パウロは、ローマ人の手紙7章で、イエス・キリスト様が私たちの罪の身がわりとなって十字架に架かって死んでくださったことを信じるものは、その罪が赦され、律法から解放されていると言っています。(時間が赦すようであれば、ローマ人への手紙7章1節〜6節を読む)このように、クリスチャンとなったものは、もはやユダヤ教の食物律法からも解放されているのです。ですから、それは、本来のキリスト教の在り方からすれば、正しい在り方であるとはいえません。そういった意味からも、パウロは、自分を含めて食物律法から解放されて自由に肉を食べる人を、強い人と読んだのかも知れません。そして、せっかく食物律法を含むユダヤ教の律法から解放されたのに、依然とそれを引きずっている人を、弱い人とよんだともいえます。また、実際にローマにある教会は、異邦人とユダヤ人の混合した教会であったとしても、ローマとい言うローマ帝国の中心的な都市にあるのです。ですから、ローマにある教会においても、圧倒的に異邦人が多く、そのようなユダヤ教の食物規定に捕らわれているユダヤ人クリスチャンは少数派の人たちだったと考えられます。
このように、数でも圧倒的な少数派だとすると、その発言は教会でも少数派の弱い立場にあったであろうことは、容易に想像がつくことです。そういった意味で、パウロは、肉を食べない人を弱い人、まさに教会の中での少数派と呼んだのかも知れません。このように、同じ「イエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったことを信じる信仰によって神の前に正しい者と認められるのだ。」という共通理解に立っていたとしても、ユダヤ教を背景にしたクリスチャンと、異邦人社会を背景にしたクリスチャンの間には、互いに対立を産み出すような違いが出てくるのです。そんなときに、パウロは「強い者が、弱いものをになってあげなさい」というのです。もちろん、どちらが正しいかと言えば、自由に肉を食べても大丈夫だという「強い人」と呼ばれている立場の人たちです。数の上でも、圧倒的に多数ですから、肉を食べない「弱い人」と呼ばれる少数派の人たちを「間違っている」ということもできます。
しかしパウロは、そうではなく「弱い者たちをになうべきだ」というのです。この「になう」と言う言葉は、注解書によれば、もともとは十字架を負うとか重荷を負うといった言葉だそうです。つまり、パウロが「強い者は、強くない者(すなわち弱い者たち)の弱さをになうべきである」というのは、「肉を食べない」と言ったふうに、未だにユダヤ的な食物律法に捕らわれている人たちに対して、「あなた達は間違っている」と一線を引いて、自分たちの考えや在り方を押しつけるのではなく、共に考え、共に悩みながら、歩んでいかなければならないと言うのです。自分の主義主張を貫き通して、相手を屈服させれば、屈服させた方は気持ちが良いのかも知れません。そして、そのようなことが、キリスト教会の中ではときおり見られるのも事実です。「聖書にはこう書いてある」といって、聖書の言葉を指しだして、「あなたは間違っている」と相手の非をただそうとするようなことが、確かにあるのです。あるいは、牧師、あるいは教職者の権威といったもので、相手の言葉を押さえ込んでしまうようなこともないとは言えません。牧師、あるいは教職者と言った存在は、教会の中では、人数的には少なくともいわば「強い者」の立場になります。
そして、ですから牧師や教職者の言葉は、否応なしに信徒の方の考えや意見を乗り越えてしまうことがあるのです。いえ、その牧師や教職者の中でも、神学校の先輩後輩といった関係や何やで、微妙な力関係などが存在しますし、信徒の方どおしの中でも、そのようなことがないわけではありません。そのような、権威や力関係によって、相手を自分の考えや主張に従わせても、それは決して、相手の為になるとは限りません。もちろん、そうなる場合もあるでしょうが、しかし往々にして、そのような場合は、相手の心を固く閉ざしてしまうことも多いのです。私たち夫婦は、仲が良いと自負していますし、実際あまり夫婦げんかはしないない方です。しかし、それでもたまには夫婦げんかをすることもあります。夫婦げんかと言っても、取っ組み合ったりお皿が飛ぶといったことではなく、ほとんど口げんかであり、議論です。自分で言うのもなんですが、わたしはどちらかというと、議論に強い方です。ですから口論は私の土俵だといえます。そんなわけで、家内と口げんかをし、口論になると、最終的には家内が黙り込まざる得なくなります。そういった意味では、私が勝って、家内が屈服するのです。
けれども、私が勝ったからといって、即、仲直り出来るわけでもありません。むしろ、家内の内には、より鬱憤としたものが貯まっていって、事態はより深刻になってしまう方が少なくないのです。同じように、表面的には自分の意見や主張が通ったように見えても、実は相手の信仰も、教会も建てあげられていかないといったことが、少なからずあるのです。それが、如何に正論であってもです。相手の信仰を建てあげ、教会を建てあげていくということは、ただ相手の非を示し、正論を示して、その正論に従って生きなさいと、相手に押しつけていくことによってではできません。相手と共に悩み、苦しみ、考えるこという、共に歩むことなしには出来ないことなのです。これは、単に信仰を建てあげ、教会を建てあげると言うことだけに留まりません。夫婦関係や、親子関係、あるいは友人関係と言った広い社会の在り方にもいえることです。人の徳をたて、本当の意味で相手の益となるためには、共に悩み、苦しみ、考えるといったことが必要なのです。
そのためには、相手の立場に立たなければなりません。相手の立場になって、相手の苦しみや悩みを理解しない限り、共に考え、共に悩むと行ったことなどできません。そして、まさにそのような生き方をされたのが、イエス・キリスト様だといえます。父なる神の独り子なる神であるイエス・キリスト様は、当時のユダヤ人社会において、「罪人だ、罪の女だ、取税人だ」とそしられている人々と、共に生きられ、そのそしりを、一緒に受けられました。そこには、当時の社会のもつ歪みや悩み、貧しさや病気の苦しみがありました。イエス・キリストというお方は、そういった悩みや苦しみを共に生きるために人となって、この地上に下ってこられた神なのです。それだけではありません。そのそしっている人を含めて、そのような社会の歪みや悩み、苦しみと言ったことの根源にある私たちの罪をも一緒に背負ってくださったのです。ですから、私たちクリスチャンは、また教会は、そのイエス・キリスト様に倣う者とならなければなりません。
このローマの人の手紙に記されている、肉を食べてもいいのか、あるいは食べてはならないのかと言う問題は、異邦人社会を背景にして育ったクリスチャンと、ユダヤ人社会を背景にしてそだったクリスチャンとによって引き起こされた、当時のキリスト教社会の歪みです。同じ、「私たちは、イエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったことを信じる信仰によって神の前に正しい者と認められるのだ。」という、信仰の「共通理解」の上に立つ教会社会の中でも、このような歪みは生まれてくるのです。このような歪みは、現代の教会の中にだってないとはいえません。もうじき、愛修会がありますが、一昨年の愛執会の時に、婦人会の方と、「お葬式の時にどうするか」とか、「地域のお祭りの時に求められる寄付をどうするか」等といったことについて少し、話し合いをしました。もちろん、わたしも牧師の端くれですから、どうするかと聞かれたら「こうすべきだ」という答えを出すことはできます。しかし、実際は、そのような答えを出されても、その問題で悩み苦しんでいる人の悩みや苦しみを解決するものではないのです。
ですから、その時の話し合いも「正しい答えは何か」ということよりも、そこにはどんな悩みや苦しみがあるかを分かち合うような形で進めていったように記憶しています。そうやって、互いにある悩みや苦しみを共有し、共に悩み、苦しみ考えながら私たちは一つに結ばれていくのです。そのように互いに、悩みや苦しみを共有し、共に悩み、苦しみ考えながら歩んでいくならば、私たちは、教会という社会の中で生きていくことが出来ます。教会という社会が、ただ「あなたは間違っている」「正しい答えはこうです。」と示し、正しい生き方だけを求めていくだけの社会ならば、私たちは生きていくことなどは到底出来ないのではと思います。仮に、教会という社会に身を置いていたとしても、自分の悩みや苦しみや考えといったものを、ぐっと胸に押し殺して、提示された「正しい答え」に従って生きていかなければなりません。当然、そのような生き方に「喜び」といったものなどは生まれてきません。喜びのないとことには、希望もありませんし、のぞみもありません。まさに、その人が生きるすべがないのです。
けれども、教会という社会が、「正しい答え」を押しつけてくるのではなく、仮に「正しい答え」を持っていたとしても、その答えの前で、悩み苦しむ者と共に悩み苦しみ、そして考える社会であったならば、人は慰められ、励まされ、生きる希望を持つことが出来ます。また平安に満たされます。そこには、イエス・キリスト様の生き方があるからです。イエス・キリスト様の生き方があるところには、罪の赦しがあり、神の恵みがあります。すべてを赦し、すべてを包み込む神の愛がそこにあるのです。この神の愛ゆえに、神は私たちを忍耐を見守ってくださっています。神は忍耐の神なのです。罪人である私たちが、イエス・キリスト様のもたらした罪の赦し恵みを受け取るために、じっと忍耐して待って折られる神なのです。その忍耐の神は、私たちがどんなに、正解に至らなくても、私たちが、共に悩み、苦しみ考えている限り、神は私たちのことを、じっと忍耐して見ていてくださるからです。そして、そのように、悩み苦しみ考えたあげくに、教会が一つになって間違えた答えを出したとしても、この忍耐の神は、そのような教会を、忍耐を持って受け入れてくれるのです。
教会が、キリストの教会として一つになるためには、「イエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったことを信じる信仰によって神の前に正しい者と認められるのだ。」という共通理解に立つことが大切です。同時に、教会がキリストの教会として一つであり続けるためには。教会はそこに集う私たち一人一人が、全く異なる個性や違う考え方を持ちながらも、共に悩み、共に苦しみ、共に考えることが大切なのです。教会が、私たちが、そのように歩んでいくならば、教会には希望が生まれ、望みがあり、喜びが産み出されます。なぜなら、私たちは、困難や苦しみの中にあっても、一人ではないからです。それは、ただ単に神様が共におられるということの霊的な意味に於いて、ひとりではないということではありません。もちろん、そう言った霊的な意味も正しい事ですが、もっと具体的に、教会という兄弟姉妹の交わりを通して、私たちは一人ではないのです。どんな苦しみや悩みの中にあっても、私たちがひとりぽっちにされない限り、そこには希望が生まれ、望みが与えられ、喜びを見出すことが出来ます。そして、そのような営みをする教会こそが、神の栄光を表わす教会なのです。
お祈りしましょう。