『教会にしかできないこと』
ローマ人への手紙 15章14−33節
2005/7/10 説教者 濱和弘
賛美 19,109,398
さて、先週の礼拝において、このローマ人への手紙の書かれた目的といったことについて、お話し致しました。その時お話し致しましたことは、このローマ人へ手紙を書いた著者であるパウロは、「ローマいる一人一人の信仰をしっかりとした土台に建てあげて揺るぎのないものにしたいという願い」のもとに、このローマ人への手紙を書いたと言うことでした。信仰のしっかりした土台というものは、しっかりとした教理と、しっかりとした信仰経験や考え方と、クリスチャン一人一人を支えるしっかりとした教会が必要です。もとより、信仰は、個人的なものです。一人一人が神を信じ、イエス・キリスト様を信じるところに信仰は成り立ちます。その個人的なものである信仰に、しっかりした教会が必要とされるのは、如何に信仰が個人的なものであったとしても、一人一人の個人的信仰経験が、誤って受け止められたり、教理が誤って解釈されたりするときに、誤った信仰の理解や、誤った教え異端といったものになって行くからです。
ですから、一人一人の信仰経験が誤って受け止められたり、教理が誤って解釈されないように、教会という支えが必要なのです。けれども、そのクリスチャン一人一人をしっかり支える教会といったものも、これまたクリスチャン一人一人によって築きあげられていくものでもあります。ですから、しっかりとした信仰の土台煮立てあげられた信仰を持つクリスチャンとなっていき為にはしっかりとした教会が必要ですが、そのしっかりした教会といったものは、これまたしっかりとしたクリスチャンを必要としているのです。このように申し上げますと、なにやら鶏が先か卵が先かと行った議論のようになってきますが、すくなくとも、今日のキリスト教会は、はっきりとした始まりを持っています。それはイエス・キリスト様の直弟子である12使徒とその12使徒に繋がる、マルコやルカ、また、このローマ人の手紙を書いたパウロといった人たちです。このような人たちによって、初代の教会が建てあげられていったからです。そして、正しい教理やその理解の物差しとなる正典となる聖書が整えられていきました。ですから、イエス・キリスト様から聖書が正典として定められた4世紀までの教会の歴史は、キリスト教会にとって非常に重要な歴史であり、時代であると言えます。
そのような重要な時代の中で、このローマ人への手紙は、まさに、ローマに教会の一人一人がしっかりとした土台にたつクリスチャンとして、ローマの教会をしっかりとした教会に建てあげていくようにと書かれているのです。そして、ローマの人たちがしっかりとした教会を建てあげていったその先に、パウロはイスパニア、今日のスペインでの伝道を考えていたのです。それは、イスパニアで、自分の罪を認め悔い改める人を起すためです。そして、自分の罪を悔い改めて、神の独り子なる神である主イエス・キリスト様が、自分の罪を赦すために、私の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったと言うことを信じる人を起すためです。そうやって、神を信じ、主イエス・キリスト様を信じ罪から救われたクリスチャンをおこし、イスパニアのも教会をたてあげようとパウロは考えていました。
けれども、先ほど申しましたように、しっかりとした教会となるためには、個人の信仰経験を正しく受け止めさせ、教理を正しく教え導くしっかりとしたクリスチャンが必要です。けれども新しく産み出されていく教会には、一人一人をしっかり支える教会そのものであるクリスチャン自体が、ほとんどいないといった状況だといえます。そういった意味では、キリスト教の伝道は、決して個人といったレベルだけで出来ることではありません。個人というレベルで、神を信じるクリスチャン一人一人を産み出していくことは出来るかも知れませんが、しっかりとした教会を築き上げ、一人一人のクリスチャンを育てていくと言うことが、大変難しいことになるのです。今日、みなさんもご存知のように、お隣の国中国では、非常に多くの人々が、主イエス・キリスト様を信じクリスチャンになっています。そういった意味では、中国にリバイバルが起こっていると言っても良いのかも知れません。ところが、その中国には、一つの問題も起こっています。それは、様々な誤ったキリスト教、つまり「異端」といったものが起こってきていると言うことです。多くのクリスチャンが産み出されていく反面、多くの異端や、異端的な人たちも産み出されていくといったもんだいもうみだされている。
どうして、そのようなことが起こるのかというと、そこにしっかりとした信仰の指導者がいないからです。中国と言う国では、実質的な信仰の自由が認められていません。ですから、外国からの宣教師や牧師がそこに行って、長く滞在して伝道をすると言ったことができないのです。もちろん、お忍びのようにして行なわれる短期的な伝道や、教会訪問と言った事はなされています。けれども、そこに留まってしっかりとした土台にたつクリスチャンを育て、教会を気付くと行ったところまでは、十分に手が届いてない場合も少なくないのです。そのような状況の中で、せっかく信仰が伝えられイエス・キリスト様を信じ救われたとしても、信仰が、脱線したり、誤った方向に進んでいてしまうと行ったことがあるのです。そういった意味では、教会が存在しないところで伝道をし、教会を建てあげて行くには、既に建てあげられている教会が、新しく建てあげられていく教会の大切な基盤となっていかなければなりません。
どうやら、パウロは、新しくイスパニアに伝道に行く際に、その新しくできるであろうイスパニヤの教会の基盤になって欲しいと考えていたのではないかと思われます。22節以降の言葉は、そのようなパウロの気持ちがくみ取ることが出来るような言葉です。ちょっと呼んでみます。「こういうわけで、わたしはあなたがた(つまりローマにある教会に)行くことをたびたび妨げられてきた。しかし、今ではこの地方ではもはや働く余地がなく、かつイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年熱望していたので、―その途中あなた方に会い、まず幾分でも私の願いがあなたがたによって満たされたたら、あなたがたに送られていくことを、望んでいる。」22節で「わたしは、あなたがたの所に行くことをたびたび妨げられてきた」といっていますが、パウロが「こういうわけで」というローマになかなか行くことが出来なかった理由は、それに先立つ16節から21節までを見ますと、おおよそ、次ぎのようなことです。
つまり、パウロは、エルサレムから始まって様々な、未伝の地、未だイエス・キリスト様の十字架による罪ゆるしという恵みの福音が、伝えられていない地に福音を伝え、教会を建てあげるために働いてきたのでローマに行くことが出来なかったというのです。しかし、その働きもようやく一段落ついたので、ようやくあなたがたローマにある教会のクリスチャンたちの所に行くことができるようなったというのです。そして、そのローマにおもむき、ローマにある教会をしっかりと整えてから、あなたがたに送られてイスパニア伝道に行きたいとそう言っているのです。この、あなたがたに送られてと言う言葉は、単に「行ってらっしゃい」と見送られると言うだけのことではないだろうと思われます。それは、24節に「その途中(イスパニア伝道に出かけていくその途中で)あなたがたに会い、まず幾分でも私の願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこに行くことを、望んでいる」というのですから、おそらくそこには、ローマにある教会の人たちからの支援を得て、イスパニア伝道に出かけたいというパウロの気持ちが表れているのだろうと思います。
ところが、パウロは、あなたがたに見送られてイスパニアに行こうと思っているが、今はエルサレムにいる人々の所に、マケドニヤとアカヤの人たちが、エルサレムにいる貧しい聖徒たちを支えるために捧げた献金を届けるために、エルサレムに向わなくてはならないといっています。それは、ローマにある教会に行きたいという気持ちを持っているが、今すぐにはいけないというパウロに事情を説明するものです。それは、確かに、パウロが今はローマに行けないと言うことの理由ですが、そこで語られている内容は、マケドニヤとアカヤのクリスチャンたちがエルサレムにいるクリスチャンたちを支えようとする、愛の捧げものがなされたということです。そして、そのマケドニヤとアカヤのクリスチャンがおこなった行為は、それは、教会が互いに支え合う存在であるということを示しています。教会は、キリストの体なる教会として一つに結ばれ、支え合っているのです。パウロは、マケドニヤやアカヤのクリスチャンたちは、まさにエルサレムにいるクリスチャンたちの中で、経済的に困窮している人たちを助けたいと願い、献金を募り、それをパウロに託しました。
このように、エルサレムのクリスチャンたちが経済的に困窮していたのは、当時のエルサレム地方に飢饉が起こっていたり、ユダヤ人たちからの激しい迫害があったために、主イエス・キリスト様を信じるクリスチャンの中の貧しい人たちが、随分と生活に困ってしまっていたと言ったことが会ったと考えられています。そのような、主イエス・キリスト様によって一つに結ばれた神の家族であり、仲間であるエルサレムのクリスチャンたちを、マケドニヤやアカヤのクリスチャンたちは、放っておけなかったのです。だかから、彼らはそれらの人々を援助したいと考えたのです。けれどの、パウロは、そのような援助とおして、ただ一方的にマケドニアやアカヤのクリちゃんが、エルサレムのクリスチャンを支えていると言うだけではない。とそう言うのです。かつては、エルサレムにいるクリスチャンたちによって、マケドニヤやアカヤのクリスチャンたちは、大きな霊的な贈り物を受けたのだというのです。それは、マケドニヤやアカヤのクリスチャンたちがクリスチャンであるのは、ユダヤ人たちの歴史と伝統の中で受け継がれてきた聖書の神と人との交わりの中で、イエス・キリスト様というお方によって結実したキリスト教に信仰によります。
そしてそれは、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリヤの全土、そしてギリシャ、ローマへと伝えられていったものです。そういった意味では、マケドニヤやアカヤにいるクリスチャンたちは、かつてはエルサレムにいるクリスチャンたちから、大きな合いの贈り物を受け取ったと言えます。こうして、教会は霊的に支えまた献金などによって物質的に支え合いながら、一つのキリスト体としての愛の共同体を築きあげているのです。ですから、パウロが、今すぐにローマに行けない事情として書き記した理由が、パウロの意識したかしなかったか挾田かでありませんが、教会という共同体は支え合うべき存在なのだと言うことを示しています。そして、そのようにキリストの体なる教会が霊的に支え合い、物質的にも支え合っていくことは、まさに神に仕えることだというのです。27節の後半に「もし異邦人が彼らの例の賜物にあずかったとすれば、肉のものを持って、彼らに仕えるのは、当然である」と述べられています。この「仕えるのは」という言葉は、ギリシャ語では、レイトルゲー(ρειτλυνη)となっています。
このレイトルゲー(ρειτλυνη)と言う言葉は、神の民の奉仕としての礼拝という意味のレイトルギアと同じ言葉です。つまり、私たちが互いに支え合う愛の共同体を築きあげること事こそが、神を誉めた称え、仕えることで、それこそが神を礼拝する民の在り方だと言うのです。だからこそ、同じように、パウロは、未だ形づくられてはいませんが、これから出来るであろう、イスパニヤの教会のために、ローマにある教会のクリスチャンたちに援助して欲しいと願っているのです。イエス・キリスト様の福音を伝え、教会が教会としてしっかりしたものとなるためには、時間がかかります。誰かが短期的な伝道旅行にいって、主イエス・キリスト様の事を伝えて洗礼を授けたとしても、それだけで、伝道は終わるものではありません。その人が、しっかりとしたクリスチャンとして育ち、教会を教会として支える存在になって行くには、それなりに時間が必要なのです。ですから短期的な伝道旅行といったものではなく、そこに根を下ろすように、時間をかけて伝道と教育に携わる宣教師が必要になります。
パウロがイスパニヤに伝道に行こうと考えているとき、それは、ほんの数週間や数ヶ月滞在して伝道すると言ったものではなく、おそらくは何年間と言った単位で、しっかりとした教会を築き上げるところまでパウロは、イスパニアに留まって伝道しようとしていたのだろうと思います。だからこそ、ローマにある教会のクリスチャンたちにも、パウロを援助し支えることによって、パウロと一緒にイスパニア伝道に加わってくれることを願っているのです。パウロと一緒に、イスパニアの人々に霊的な援助をするものになって欲しいとそう願っているのです。伝道に出かけていったものを背後で支えることによって、支えるものも、同じ伝道の業に参加しているのだといった考え方は、パウロの他の手紙の中にも見いだせます。たとえば、ピリピ人への手紙1章4節、5節にはこうあります。「あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びを持って祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。」これは、口語訳ですが、新改訳では5節の部分が「あなたがたが最初の日から、今日まで福音を広めることにあずかって来たことを感謝します。」となっています。
ピリピの教会の人たちは、伝道をするために、直接あちらこちらに出向いていったわけではありません。パウロの伝道を背後にあって支え援助していたのですが、そのような支えや援助こそが、福音を広めること、つまり伝道の業なのだと、パウロは言うのです。ピリピの教会は、パウロが関わった教会の中では、最も自慢できる教会の一つでした。そのピリピの教会の人たちと同じような存在にローマの教会の人たちになって欲しいとパウロは、そう願っているのです。では、パウロのイスパニア伝道を支え支援するとして、具体的にどのようにして支援し支えていくのか。それは一つには、献金を持って支えると言うことでしょう。パウロが、マケドニヤやアカヤのクリスチャンたちが、霊的な贈り物を受けたのだから、今度は物質的な贈り物で支えることも当然だ。といったように、ローマのクリスチャンたちも霊的な贈り物をいただいているのです。だからこそ、献金をもって、パウロの伝道を支え、その物質的な援助を通して、主イエス・キリスト様の十字架による救いという霊的贈り物をイスパニアの人々に贈ってほしいとパウロは願っているのだろうと思います。
また、祈りによってパウロの伝道を支えるといったことも、大切な支援であろうと思いますし、パウロもそう考えていただろうと思います。30節以降にはパウロが、ローマの教会の人々に祈りの支援を求める言葉が書かれています。具体的には、パウロが今行なっている、献金をエルサレムの教会に届けると行った働きが、守られ無事に行なわれるようにと言うことに対する祈りの以来です。しかし、パウロは、この献金をきちんと届けると言った働きもまた、神に対する大切な奉仕だと考えていました。当然です。マケドニヤやアカヤの人たちが、献金をもってエルサレムにいる困窮したクリスチャンを助け支えようとする行為自体が、礼拝にも通じるような、神に対する神の民の奉仕レイトルゲー(ρειτλυνη)なのですから、その献金を届けるパウロの働きもまた、神に対する奉仕なのです。このように、神に対する奉仕が全うされるようにパウロは祈りを求めています。そして、パウロにとっては、伝道することもまた神への奉仕なのです。もちろん、伝道は、自分のためでもなく、神のためでもなく、第一に福音を伝ようとしている、その人のためにあることです。
しかし、私たちがイエス・キリスト様のことを伝えたい、神の愛を伝えたいと思う相手は、誰よりも神が愛しておられる人たちなのです。ですから、その人たちに伝道すると言うことは、何を持っても、相手のことを思ってなされるべきものですが、結果として、神のためになるこういであり、神への奉仕といえるのです。そんなわけでしょうか、パウロは15章16節で、こう言っています。「このように恵みを受けたのは、私が異邦人のためにキリスト・イエスに仕えるものとなり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。」このように、パウロは、神と異邦人との間に立って、その両者をとりなす役割をしていると言っています。もちろん、人と神との間をとりなすお方はイエス・キリスト様しかおられません。ですから、パウロが直接、異邦人と神との間をとりなすと言うわけではありません。パウロも、「キリスト・イエスに仕える者となり、神の福音の為に祭司の役を勤め」といっているように、人々を、神と人々のとりなしてである主イエス・キリスト様の所にお連れすることによって、つまり伝道の業を通して、神に仕えているのだと言っているのです。
このように、パウロにとっては、伝道も神の民の奉仕レイトルゲー(ρειτλυνη)なのです。ですから、その奉仕が完全に達成されるためには、やはり祈りを必要としているのです。その祈りが答えられ、神の民の奉仕が全うされるところには、大きな喜びが起こります。その喜びは、直接その奉仕に携わったものだけではなく、祈り支えたものにも分かち合われ喜ばれ、祈った人たちを支え励まします。祈りは答えられるという事実が、祈った人自身を慰め励ますのです。このように、パウロは、自分自身がイスパニアに伝道すると言う願いとそれに伴う苦難やよろこびと言ったものをローマにある教会の人々とともに共有したいと願っていました。それは、パウロにとってはローマにある教会も、キリストにあってキリストの体なる教会であり、主にある神の家族だったからです。同じキリストの体に繋がっている一人一人だからこそ、様々な形でその働きに伴う、苦しみや喜びを分かち合えるのです。
今日、日本の教会も日本の社会同様、高齢化が進んでいます。年は否応なしにとっていくものです。そして、年を重ねる事に、今まで出来ていたことも出来なくなります。たとえば、トラクト配布やチラシ配、あるいは教会学校でのご奉仕と言ったことでも、だんだんと出来なくなっていきます。それは、年齢だけのことではありません。病気のために出来ないといったこともあります。お仕事のためにできないと行ったこともあるのです。けれども、直接のそのような奉仕に加わることが出来なくても、献金をささげることや、お祈りすることで、そのような伝道の働きに、また教会の働きに、みなさんは、共に加わっているのです。この事に関しては、私は、この三鷹教会を本当に誇りに思っています。三鷹教会のみなさんは、本当によくささげてくださるお一人お一人です。また、祈ってくださるお一人お一人です。そうやって、みなさんは教会の働きに、加わってくださっています。
祈ること、ささげることで、みなさんは福音の広がりに共にあずかっておられるのですから、パウロが、17節で、「だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである」と胸を張っているように、胸を張って頂きたいとそう思います。それは、単にこの三鷹キリスト教会の働きだけではありません。私たち三鷹キリスト教会も、自分たちの教会の伝道だけではない、日本中の、また世界の中にある教会の伝道の広がりに参加しています。私たちの教会では、毎年、ペンテコステの時に、宣教予約献金をし、それに基づいて、月定献金や集会献金以外にも毎月献金してくださっています。その献金は、エノプレ先生や木下先生、新谷先生や小林献先生の海外宣教のために用いられますし、PBAやFEBC、全国家庭文書伝道教会などを通して、日本の様々な所への伝道のために用いられています。そうやって、みなさんは教会のみならず、日本国内の様々な伝道に加わり、世界中の宣教に加わっているのです。そしてそれは、まさにパウロがローマにある教会に求めた事なのです。でうから、みなさん。私たちはこれからも、喜んで捧げ、祈るものでありたいと思います。そうやって、共に三鷹キリスト教会の働きに加わり、また全世界を包むキリストの体なる教会に働きに加わっていきたいと思います。
お祈りしましょう。