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羊飼い 『福音の豊かな広がり』
ローマ人への手紙 16章1−16節
2005/7/17 説教者 濱和弘
賛美 18,356,143

さて、ローマ人の手紙からの連続説教も、いよいよ最後の章の16章に入ってきました。その16章は、ローマ人への手紙の著者であるパウロから、ローマの教会の人々に対して、挨拶の言葉が述べられているところです。そんなわけで、今日の礼拝説教のテキストとして、司式の兄弟にお読み頂いた箇所には、多くの人々の名前を挙げて、感謝の言葉や「よろしく」といった挨拶の言葉が書きつづられているわけです。これらの、挨拶の言葉は、まさに挨拶そのものです。ですから、ここにある挨拶の言葉一つ一つの背後に、何か特別な意味があるとか、あるいはパウロの特別な意図があったというわけで張りません。ですから、この箇所から特別な解釈であるとか、釈義といったものが引き出せるわけではありません。けれども、ここに書かれた一人一人の名前を見ながら、その一人一人の持っている背景などについて考えていきますと、そこに主、イエス・キリスト様のもたらした、福音というものの「豊かな広がり」と言ったことを見ることができるように思うのです。

もとより、この主イエス・キリスト様のもたらした福音というものは、私たち罪人が、神の恵みによってその罪を赦され、神の子とされると言うことです。私たち一人一人は、豊かな個性を持っています。そして、心の優しさや人に対する思いやりといったものを持っています。そういった意味では、ここに集っている一人一人は本当に素晴らしい存在だと言うことが出来ます。それは、神様が私たち一人一人を神のかたちに似た存在と造って下さったからです。実際、旧約聖書の最初にある創世記1章31節には、「神が造ったすべての物を見られてところ、それは、はなはだ良かった。」と書かれています。この神が造られたすべて物の中には、私たち人間の存在も含まれており、また私たち一人一人も含まれています。そのような、神の創造という視点から見る限り、私たち一人一人は、神の最高傑作と言うことが出来ます。そして、実際の、その素晴らしさを、私たちの心の優しさやお互いに対する思いやりといったものの中に見出すことが出来るのです。

けれども、その神の創造された「はなはだ良い」と呼ばれる世界も、実際には、自然破壊や、戦争と言った様々な問題を持っています。そこには、人間と自然との間の調和や、人と人との間の調和といったものが壊れていってしまっている現実が突きつけられているのです。そういった意味では、神が創造された「はなはだ良い」と言われる世界が、もはや「はなはだ良い」と呼ばれるにふさわしくないものになってしまっていると言うことができます。そして、人と自然と人間に、また人と人との間に、きしみが生じているのです。たとえば、環境破壊といった問題の一つに、地球の温暖化というものがあります。私たちが排出する2酸化炭素等の温暖化ガスによって、地球がちょうど温室のようになり、異常気象屋、それに伴う、様々な災害等が起こることが考えられています。たとえば、今年も豪雨による水害が、いくつかの地域で起こっています。その雨の降り方など見ますと、日本はだんだんと熱帯地域の気候のようになっていってしまっているのではないだろうか十もwされるような気がして、これも地球温暖化の影響かと思ってしまいます。

この地球温暖化の何とか対処しようとして、1997年京都で国際会議が開かれ、京都議定書なるものが採択されました。これは、この国際会議に参加した各国が、それぞれ基準に基づいて自分の国の二酸化炭素の排出量を2008年から2012年を目標に減らそうという取り決めです。その京都議定書が今年の2月から効力を発することになりました。二酸化炭素の排出量を削減するということは、自分の国の経済活動を削減すると言うことにも繋がります。ですから、この京都議定書を受け入れた国は、それぞれが痛みを追うことになります。けれども地球規模の環境破壊をみんなで痛みを追いながら何とかしようと言うのです。ところが、世界第一位の二酸化炭素排出国のアメリカは、この京都議定書から脱退してしまいました。そこには、様々な理由がありますが、結局は政治的な理由によるものだといえます。もちろん、京都議定書に加わった国の中にも政治的な思惑で参加したと言われる国もあります。そういった意味では、この地球温暖化という残人類を巻込む地球的規模での危機の問題でも、国と国との間のエゴイズムが顔をのぞかせてしまうのです。

この、国と国との間のエゴイズムは、その国の一人一人のエゴイズムの集まったものです。ですから、私たちもまた、自己中心的なエゴイズムといったものを持っていると言えます。考えてみますと、確かに心の優しさや人に対する思いやりを持っている私たちであっても、家族の中や、友達との付き合いの中で、どこかで自己中心的な思いが顔をのぞかすことがあるように思うのですが、どうでしょうか。あるいは、自己中心的な主張を強く押し出さなくても、自分の思いが通らないイライラを感じたり、ストレスを感じてしまう事があるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。そういったことがあるとすれば、それが私たちの心の内にあるエゴイズムといったものが顔をのぞかせている瞬間だといえるようにおもうのですが、みなさんは、どう思われるでしょうか。私たちは、このエゴイズムというものにぶつかりますと、少なからず良い感情は起こってきません。それが、人のエゴイズムですと、その相手に対して決して余り良い気持ちがしません。また、それが自分自身の物であるとすると、自分自身に対して、自己嫌悪感や自分の嫌いなところといった感情になってきます。

このように、自己中心的な心、エゴイズムといったものは、人と人との関係や調和を損わせてしまうものですし、自分自身の調和といったものを損ねてしまうのです。この自己中心的な心、人間のエゴを聖書は罪の一つに数えます。いえ、数ある人間の罪の中の一つと言うよりは、むしろ、人間の罪の源、キリスト教用語では原罪と呼んでいます。本来は、そして、そのような原罪であり自己中心的な心が、私たちの心のどこかに潜んでいる限り、本来は神によって、神の像にまで似せられて造られ得た「はなはだ良かった」私たち一人一人も、神の前には罪人なのです。そのように神の罪人であり、それゆえに神に裁かれても仕方のない私たち一人一人のために、主イエス・キリスト様は十字架について死んでくださいました。それは、私たちの罪に対して下される神の裁きを、私たちに代わって受けて下さった身代わりの死です。ですから、このイエス・キリスト様が、私の罪の身代わりとなって死んでくださったと言うことを、心に信じて受け入れるものは、その罪が赦されるのです。もちろん、主イエス・キリスト様が、私たちの罪の身代わりとなって、最早十字架の上で死んでくださっているのですから、私たちが神の前に何か罪の償いをする必要はありません。また、浄財と言った罪の代償を支払う事も必要がないのです。

この罪を赦す福音は、私たち神との関係を修復するものでもあります。私たちの罪のゆえに、私たち神との間には、深い断絶がありました。それは神が一切罪と交わることの出来ない聖なる神だからです。けれども、主イエス・キリスト様が、私たちの罪を背負い、私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったことで、私たちと神との間にあった罪の問題は解決したのです。解決したからこそ、神は私たちを神の子として、神の国である天国に招き入れてくださるのです。このように、私たちの罪を赦す福音は、私たちを和解に導く福音でもあります。和解と言うことは、関係の回復です。主イエス・キリスト様のもたらした福音は、私たち一人一人と神との間の罪によって壊れてしまった関係を和解さ、修復して下さいました。このように、福音とは壊れてしまった関係、調和を損ねてしまっている関係を正し、修復してくれるものなのです。

ですから、私たちの心の中にある自己中心というものが、人と人との間の関係を損ねてしまうようなことがあっても、そこに主イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた福音がもたらされたならば、その壊れた関係は修復し、和解が起こります。また、そのような一人一人の自己中心的な心が集まって、国と国との関係を損ねていきますように、一人一人のこころに、福音の恵みが広がっていきますならば、国と国との関係が修復され和解に至るはずです。さらには、神が与えてくださった自然の中で生きる私たちが、まさにその自然との調和の中で生きていくことができるという、壮大な和解を産み出す大きな力を持ったものが、主イエス・キリスト様のもたらした福音というものなのです。いわば、福音とは、人と人を、国と国を、人と自然を結びつけ、つなぎ合わせる帯だといえます。

実は、この事を、今日のテキストであるローマ人の手紙16章1節から16節は証しているように思われるのです。このローマ人への手紙16章1節から2節は、パウロがしたためたこの手紙をローマの教会に届けに行くフィベという女性を紹介する為のものです。パウロは、自分自身はまだ訪れたことの内、ローマの教会にたいして、その手紙を託したフィベという女性を紹介し、彼女は、パウロを始め多くの人々を支え助けてきた人だから、主イエス・キリスト様にあって、ねんごろに迎えて欲しいと頼んでいるのです。このように、まずパウロ自身が、ローマの教会ケンクレヤ教会の女性執事フィベを結びつけつなぎ合わせようとしています。もちろんそれはケンクレヤの教会とローマの教会を結びつけるものになることはいうまでもありません。そして、ほとんど知らないローマ教会のメンバーの中にあって、それでもそこにいる何名かの友人や知人、あるいは名前を伝え聞いている人ひとりひとりの名前を、あげながら「よろしく」と挨拶を述べているのです。

その上で、15節、16節で「また彼らと一緒にいるすべての聖徒たち(つまりローマ教会のメンバーみんなに)よろしくと言ってほしい。<中略>キリストのすべての教会から、あなたがたによろしく」といって、ローマの教会と世界中の教会を結びつけるのです。そうやって、キリストの体なる教会は一つであり、民族を超え、国境を越え一つに結びあわすことができるのだと言うことを示しているのです。この16節に述べられている「キリストのすべての教会から、あなたがたによろしく」挨拶の前に記されている一人一人の名前は、まさにクリスチャンは民族を超え、国境を越え、和解し一つに結びあわされることが出来るのだと言うことを証明するような人々です。3節にあるプリスキラとアクラというのはパウロと一緒にコリントと言う町で一緒に伝道をしたことのある夫婦です。もともとはローマにいたようですがクラウディオという皇帝の時代にローマから追放されたのですが、この皇帝クラウディオが死んだ後、ローマに帰っていたようです。プリスキラとアクラと言いますが、プリスキラが妻で、アクラが夫です。

先週、今度行なわれる岩渕まことと由美子さんのコンサートのチラシを発送しましたが、その時に夫婦連名にする際は、大体がご主人の方を、先に書きました。第一、ご主人という呼び方自体、男性と女性の関係で男性優位の社会であったことを示していますが、今でも、そう言った名残が、私たち日本の社会には見られます。もちろん、そういった男女差は乗り越えられなければなりません。けれども、この当時のローマでは、名残と言ったものではなくまさに、男性優位の社会が真っ盛りの時なのです。その最中で、奥さんのプリスキラの名前を先に書き、プリスキラとアクラとパウロは、そう書いているのです。どこの教会でもそうだろうと思いますし、私たちの教会もそうですが、だいたい教会といった存在は、婦人たちの活躍で支えられているものです。きっとこのプリスキラとアクラもそうだったのではないのでしょうかね。パウロには、きっとプリスキラの働きが印象的に残っていたのだろうと思います。けれどの、たとえそうであっても、教会内も男性優位の社会であるならば、やはり気を使ってアクラとプリスキラとしただろうと思われますし、実際、妻の名から書くと言うことは珍しいことでした。

けれども、その珍しい事をすることが教会では出来たのです。それは、教会の中では、既に男女の差別とか言った問題は、乗り越えられていってたという事なのだろうと思います。また、ここの名前を知りしている人は、たとえば、ヘルメスとかヘルマスと言った名前はギリシャの神の名前ですから、ギリシャ人である可能性が高い人物です。またマリヤやアレオロニコ、ユニアスなどはユダヤ人ですし、ペルシスという名前はペルシャの女性という意味ですので、おそらくはペルシャ人だったでしょう。また、ウルバノという名前は、ローマ名でありローマ人であろうと思われます。あるいはルポスという人は、あのイエス・キリスト様の十字架を担いだクレテ人シモンの子ではないかと考えられている人です。それで、主にあって選ばれたと書かれているのではないかともいわれるのですが、だとするとクレテ人です。このように、様々な民族をこえた人々がローマ教会には集まっていたのです。

また、アペレというのは、奴隷の名前であり、ナルキソの家の者というのは、おそらくナルキソという人のところで働く召使いか奴隷だと思われます。このナルキソというひとは、タキトゥスという人の記した書物などでは、極めて評判の悪い人で売春宿などももっていたようですので、そう言うところで働かされていた人が来ていたのかも知れません。一方では、アプリアトや先ほどのウルバノと言った名前は、皇帝の家の者に多い名前です。実際ローマ皇帝にもウルバノ、ウルバノ2世などと言った人がいますので、皇帝の血族が来ていたことも考えられます。もっとも、家の者という言い方の中には、奴隷や召使いもふくまれますが、たとえそうだったとしても、先ほどのナルキソの家の者とは、大違いです。また、アリストプロの家の者とありますが、アリストプロは、生まれたばかりのイエス・キリスト様を殺そうとしたヘロデ大王の孫に当るものだと思われますので、アリストプロの関係者もいたと思われます。

そういった意味では、まさに、ユダヤ人にとっては大嫌いなヘロデ一族の関係者が、そのような嫌悪感と対立をこえて、ユダヤ人と共に教会の中にいるのです。支配階級のローマ人とユダヤ人、奴隷と自由人が差別や偏見を乗り越えて、一つの神の民として結ばれているのです、そのように、人々が民族を超え、立場や置かれている状況を越えて、主イエス・キリスト様に一つにあって結びあわされているところが教会です。そしてそれは、とりもなおさず、主イエス・キリスト様の福音は、どのような民族や立場、職業を越え、また対立を越えて私たちを一つに結びあわせるのです。このように、様々な違いや、偏見、対立を乗り越えて一つになるためには、私たちが、イエス・キリスト様の福音に活きることが大切です。

先日、家内がある牧師の集まりで、在り方が、今の若い人に日本が韓国でしてきたことを、ちゃんと教えなければならないと言っていたという話をしていました。いわゆる歴史観の問題です。確かに日本は韓国を併合しました。そのことを植民地支配というならば、確かに日本は宗主国として韓国を併合し、実際に朝鮮半島を実行支配致しましたから、植民地支配と言っても良いのかも知れません。しかし、実態としては、当時の西欧諸国の植民地支配とは違い、韓国の方にも選挙権を与え、同じように学校を造り通わせ、そこに国立大学までも作ったといった例のないものでした。要は日本国民としたのです。このような背景があるからこそ、国会議員、閣僚のなにがしかと言った方が「日本も良いことをした」と言った発言をしたわけです。これは、一つの歴史上に起こった事情をどう見るかの歴史観の問題であることは、韓国や中国の方の言われるとおりです。しかし、韓国の歴史観、中国の歴史観が必ず客観的に正しいとは言えませんし、先ほどの、なにがしかという国会議員の歴史観が客観的に正しいかどうかも問題です。

というのも、それは韓国という民族主義の中で築かれた歴史観であり、中国、日本という民族主義、国家主義の中で築かれた歴史観です。それがつきあわされたところには、和解も調和のある関係なども生まれてきません。実際、クリスチャンであったとしても、日本人という意識で、最近の中国の反日デモなどをみますと、決して快く思うことはできないのではないだろうかと思うのです。しかし、本来、私たちクリスチャンの国籍は天にあるものです。そういった意味では、民族主義や国家主義と言ったものを乗り越えて、歴史の出来事をみて、客観的に評価できるはずの存在がクリスチャンなのです。それは、私が日本人であり、大和民族である以上に、天国人であるからです。そして、この天国人としての自分自身の意識が、私たち一人一人を民族主義や偏見などを乗り越えて、教会に集う一人一人は、互いに結び会わされ、和解し修復された存在になっていくことが出来る存在なのです。それは、私たちが、民族や立場、職業などを越えて広がる、豊かな福音の広がりの中で生きているからです。そのことを、憶えて、みんなで仲良くでき教会をこれからも大切にしていきたいと思いますし、それこそ、民族を超え、国境を越え、教派を越えて、多くの教会と結びあわされ仲良くしていく教会でありたいと思います。

お祈りしましょう。