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羊飼い 『教会を大切に』
ローマ人への手紙 16章17−20節
2005/7/24 説教者 濱和弘
賛美 3,202,355

さて、ただ今司式の兄弟に呼んで頂きました箇所は、ローマ人への手紙16章1節から16節までの長い挨拶に続いて語られた、パウロの警告の言葉です。その警告とは、教会に分裂を引き起こし、人々を信仰につまづかせるような人々に気を付けなさいと言うことです。教会と言うところには、様々な間問題が起こってきます。それは、教会というところは、多くの人々が集まっているからです。そもそも、教会というものそれ自体が、εκλησια、神に呼び集められた会衆だからです。社会の最小単位であり、最も親密で深い関係にあるのは家族です。その家族の中にあっても、様々な行き違いや問題が起こってこないと言うことはありません。互いに愛し合って結ばれた夫婦の間であったとしても、喧嘩することもあれば、意見が合わないと行ったこともあるのだろうと思うのですが、どうでしょうか。

ましてや、それが家庭環境や、育った環境が違ったものが寄り集まって、教会は築きあげられていくのです。ですから、そこには様々な問題が起こって参ります。それは、たとえば金銭トラブルであったり、男女間の問題であったりと実に様々です。けれどの、そのような問題が起こってきても、その問題が、教会を決定的に分裂させたり、あるいは、人々の信仰をつまづかせてしまうようなことに至ることは、極めてまれなことです。「ほとんどない」と言っても良いのかも知れません。仮に、そのような金銭トラブルを起したような人がいても、そのような金銭トラブルを起した人が教会を去っていくと言うことはあっても、教会自体が分裂してしまうと言ったことは、起こってきません。それは、男女間の問題であっても然りですし、その他の様々な問題であってもそうです。実際、私たちの教会も、過去にいくつかの問題に直面し、本当に悲しい思いをすることもありました。けれどの、教会は、依然として個々にしっかりと立ち続けています。そして、こうして礼拝をし、交わりを持ち、伝道をするという、教会の営みが続けられているのです。

もちろん、だからといって、教会が分裂してしまうようなことが全くないと言うわけではありません。キリスト教会の歴史の中には、教会そのものが分裂してしまうような、大きな出来事を幾つも経験してきているのです。たとえば、1054年には、聖霊なる神は、父なる神から発するのか、父なる神と子なる神から発するのかという、フィリオクウェ問題というものを通してカトリック教会と正教会、今日ギリシャ正教会とかロシア正教会と呼ばれているような教会ですが、それが二つに分かれてしまいました。さらには、1517年には、ルターによる宗教改革の動きがおこり、カトリック教会から分かれてプロテスタント教会が起こったのです。そして、私たちの教会は、このプロテスタントの流れの中にあります。このような教会の分裂は、確かに非常に大きなものでありました。けれども、カトリック教会や正教会、あるいはプロテスタントの諸教会に分かれは致しましたが、しかし、それは依然として一つの教会なのです。

目に見える制度や、礼拝の持ち方、考え方は違っていても、全世界に存在する個々の教会は、一つの教会として結びあわされているのです。というのも、これらの教会は、一つの信仰告白によって結びつけられているからです。信仰告白というものは、要は何を信じているかと言うことを、端的に言い表したものです。たとえば、新約聖書マタイによる福音書17章16節には、一番最初のキリスト教の信仰告白がでています。それはは、ペテロと言う人が言い表した「あなたは、生ける神の子キリストです。」というものです。イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様に従ってついてきていたお弟子たちに、人々は私のことを何といっているかとお尋ねになりました。するとお弟子たちは、口々に「ある人は、バプテスマのヨハネといっています。」とか「エレミヤあるいは預言者の一人であると言っています」と答えるのです。するとイエス・キリスト様は「それでは、あなたがたは、わたしを誰というか」とお尋ねになるのです。そのイエス・キリスト様の問いかけに答えて、ペテロという人が「「あなたは、生ける神の子キリストです。」と答えました。このペテロの言葉こそが、それまであったユダヤ教徒は、全く異なる、最もはじめのキリスト教としての信仰告白です。

だからこそ、このペテロの信仰告白を聞いたイエス・キリスト様は、このペテロの信仰告白という岩の上にキリスト教会を立てようとそう言われたのです。このように、キリスト教会というものは、信仰告白の上に立てあげられていくものです。このペテロの信仰告白は、確かに、ペテロと言う一人の人の口を通して言い表されたものでした。しかし、それはイエス・キリスト様に従っていたお弟子たちの信仰告白でもあったのです。この、ペテロを通して言い表された信仰告白は、パウロの時代には「イエスは主なり」という言葉で、言い表されるようになりました。そしてさらには、使徒信条、ニケヤ・カルケドン信条といった、より形式の整った信仰告白になっていったのです。ですから、どんなにカトリック、正教会、そしてプロテスタントの諸教会と分かれていても、使徒信条やニケヤ・カルケドン信条といった信仰告白の上に、建てあげられている教会は、一つに結びあわされた教会なのです。そして、私たちも、この信仰告白の上に立っています。だからこそ、毎週行われる礼拝において、信仰告白として使徒信条をみなさんで、声を合わせて唱和するのです。

もちろん、このような使徒信条は単なるお題目ではありません。そこには、私たちが何を信じているか具体的な信仰の内容があります。だからこそ、信仰告白なのです。パウロが、このローマ人への手紙16章17節において、「さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教えにそむいて分裂を引き起こし、つまづきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。」といっているのは、この信仰告白とは、全く違った考え方を持ち込んでくるような人々に警戒しなさいと言うことなのです。つまりそれは、イエス・キリストを「私たちの主」ですと信じて生きる生き方とは違う生き方であり、「あなたは、生ける神の子キリストです。」という信仰に生きることとは、異なるからです。実は、パウロがこのローマ人への手紙で、延々と書きつづってきたことは、「イエスは主なり」という信仰告白とは、具体的にどういう事なのか、また、「あなたは、生ける神の子キリストです。」と言う信仰告白の言葉は、いったいどういう事であるかということを教えているものであったと言っても良いだろうと思います。

たとえば、「あなたは、生ける神の子キリストです。」と言う信仰告白の言葉は、「イエス様」と言うお方が、キリストであると言うことを言い表したものです。また、イエス様というお方は、生ける神の子であると言うことを信じるという告白でもあります。キリストというのは、名前でも何でもなく、救い主であるということです。イエス様と言うお方は、私たちを救って下さるお方であるということを信じ告白するのが「イエス様は、キリストです。」という言葉なのです。では、いったい何から救って下さる救い主かというと、私たちの罪と、その罪の裁きから救って下さったんだということです。人を妬んだり、憎んだりする私たちの醜い罪の心。自己中心的なものの見方や考え方、あるいは欲望と言ったもののために、人をだましたり心を傷つけてしまったりすることのある私たちの罪。そんな罪の心や、罪を持っている私たちは、神という聖く正しいお方に、裁かれても仕方がないものであるかも知れません。けれども、その私たちの罪が赦され、神の裁きから救ってくださるお方がイエス・キリスト様なのです。

では、どうやって、救って下さったのか。それは、イエス・キリスト様ご自身が、私たちの身代わりとなって十字架に架かって死んでくださったことによってでした。イエス・キリスト様が、私たちの罪を、ご自身のみに背負って、私たちに代わって神の裁きを受けて、十字架に架けられて死なれることに救ってくださったのです。「私たちが、何かをしたからではなく、イエス・キリスト様が私たちに代わって、死んで下ったからこそ、私たちは、私たちの罪から救われたのだ。」ということを、パウロは丁寧に示しているのです。「私たちが、何かをしたのではない」ということは、「私たちの行ないによって、私たちが罪から救われるわけではない」と言うことです。そして、「イエス・キリスト様が、私たちに代わって死んでくださったのだ」ということは、イエス・キリスト様のただ憐れみと恵みによってのみ私たちは救われるのだということでもあります。それ以外には、私たちが、罪から救われることは出来ないのです。考えてみますと、具体的な罪の行ないは、強い意志があれば、何とか押さえつけることが出来ます。人をだましたり、物を盗んだりといったことは、私たちの意志が、実際に罪の有為を犯させることを押しとどめます。

けれどの、心の問題は、話は別です。具体的な行動は、押さえることは出来ても、妬みや嫉妬や欲望と言った心の思いは、私たちの努力や頑張りではどうしようもありません。また、どうしようもないものだからこそ、実際の行為に至らないように押さえなければならないのですが、行為は押しとどめられても、思いはわき上がってくるのです。犯してしまった罪は、取り返しがつかないものです。わき上がってくる思いも取り返しがつきません。取り返しがつかない以上、最早私たちになすすべなどないではないですか。ただ、あとは裁きを待つしかないのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、私たちに代わって裁きを受けて下さったのです。裁かれるしかないからこそ、私たちに代わって裁きを受けて下さったのです。そして、裁きが終わったからこそ、赦され、神に受け入れられるのです。もちろん、イエス・キリスト様が、十字架の上で私たちの罪の裁きを受けて下さり、私たちは神に受け入れられているのだから、安心して罪を犯そうという考えは、間違っています。それは、むしろ神を冒涜するようなものだと言えます。

実際、このローマ人の手紙をよんでおりますと、そのような考えを持っていた人たちがいたらしいことを伺わせるところがあります。たとえば、3章の8節には、「むしろ善を来たらせるために、私たちは悪をしようではないか」(私たちがそういっていると、ある人はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。」と書かれています。これは、私たちが悪いことをするとき、そこには、罪の恵みがあるのだから、悪いことをしてもかまわないと言ったようなことを言う人がいたことを伺わせる部分です。こういった考え方を無律法主義というのですが、そう言った人は、神に裁かれのだとパウロはそう言いうのです。そんなわけでしょうか、今日のテクストの16章19節の後半では、「しかし、わたしの願うところは、あなたがたは善にはさとく、悪にはうとくあってほしいことである。」と書かれています。そういった意味では、このパウロが、「あなたがたが学んだ教えにそむいて分裂を引き起こし、つまづきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい」と言っている人とは、「むしろ善を来たらせるために、私たちは悪をしようではないか」と言っている、無律法主義の人であったともいえます。

しかし、このローマ人の手紙の全体の論調から判断しますと、「あなたがたが学んだ教えにそむいて分裂を引き起こし、つまづきを与える人々」とは、おそらくは、自分の行ないを通して、神に受け入れられるといった主張をする人たちのことであったと思われます。具体的には、ユダヤ主義的キリスト教と呼ばれるグループの人たちではなかったかと思われます。このユダヤ主義的キリスト教というのは、ユダヤ人として守るべき律法を守ったあとで、イエス・キリストを様を信じるならば救われると考えた人たちです。つまり、安息日を厳格に守る安息日律法、また食べて良いものと良くない物を厳密に分けてそれを守る食物律法、そして割礼と言ったことを守ったうえで、イエス・キリスト様を信じるならば、罪が赦されて救われるのだと考えた人たちです。割礼というのは、男の子がうまれると、8日目にその性器の包皮の一部分を切除することです。本来は衛生上の問題から起こったことだと思われますが、ユダヤ教では重要な律法であり、それがユダヤ人である証となる意味のある印でした。しかし、パウロがこのローマ人への手紙で主張してきたことは、イエス・キリスト様を信じてクリスチャンはユダヤ的な律法から解放されていると言うことです。そして、神の前に何かをする事によって、救われるのではないということです。

そう言った点からすると、このユダヤ主義的キリスト教は、最早キリスト教徒は呼べないまさに異端的な人たちなのです。けれどの、この異端的な存在であるユダヤ主義的キリスト教は、もっとも教会に入りやすいものであると言えます。というのも、このユダヤ主義的キリスト教は、安息日律法や食物を守り、また割礼という具体的な目に見える印というものは、人の評価に繋がるからです。つまり認められると言うことです。あなたは、間違いなくユダヤ人であると認められて、だからイエス・キリスト様の救いに預かれるのだと言うことです。イエス・キリスト様は、子なる神イエス・キリスト様は、ユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人としてその生涯を、おくられました。そしてキリスト教の母胎がユダヤ教であったことも紛れもない事実です。ですから、あなたは、ユダヤ人として認められなければ、キリストの弟子とはなれないといわれると、なるほどそうかなと思ってしまいそうな気がします。おまけに、そこに認められる具体的な基準としての、なすべき行ないがきちんと示されているのです。それは、あなたはこれだけのことをしたから認めてあげると言う基準であると同時に、わたしはこれだけやったから、当然認められるという基準でもあります。

つまり、自分自身の行ないや技を持って、相手に自分を認めさせることが出来るものなのです。自分が何をしたかによって、評価され認められたいという心の欲求は、誰にでもあるものです。それがあるからこそ、私たちは頑張ることも、努力することも出来ます。そして、それは、素晴らしいものです。けれども、事、私たちの罪の赦しという問題においては、私たちが何をしたかということは、何の意味もなさないことです。犯した罪は、他のことによって贖うことなど出来ないのです。もし、私たちの教会が、あなたは教会の働きにこれだけ貢献したら、あなたの罪は救われますよと言いだしたならば、私たちは、もはやキリスト教の信仰告白に建った教会ではなくなります。なにがしかの浄罪としての献金をするならば、洗礼を授けましょう等と言うようになったらならば、三鷹キリスト教会の看板からキリストの文字を削らなければなりません。それは、救い主であるキリストを必要としない教会だからです。そしてキリスト教徒は袂を分かたなければなりません。もちろん、私たちは、そのようなことを望んでいるわけではありません。またそのようなことは決してあってはならないことです。

けれどの、私たちの心の中には、いつも、自分は評価されたい、認められたいという心の欲求がありますから、何かをして認められようとしてしまいがちです。しかし、それは結局、何かをすることで、自分の存在を示そう認めさせようとすることでもあるのです。そのように、自分が何をしたかで、相手に自分を認めさせようとするときに、その行ないや業は、自分のためのものです。それはまさに、17節にあるように「主なるキリストに仕えるのではなく、自分の原に仕え、そして甘美と美辞を持って純朴な人々の心を欺く」事だと言えます。それは、まさに「イエスは主なり」という信仰告白ではなく、「私が主です」と言う信仰告白に生きている生き方にすぎません。けれども、イエス・キリスト様は、あなたがあれをしたから認めよう。これをしたから評価しようというお方ではありません。子なる神イエス・キリスト様がそのようなお方である以上、この子なる神と一つであられる父なる神もまた聖霊なる神も、私たちに対して、そのような評価はなされないのです。

この父と子と聖霊なる三位一体なるかみは、ただイエス・キリスト様が、私の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったと信じる信仰をもって生きるものを、「あなたは、私の目に高価で尊い」と認め受け入れてくださるのです。私たちは、この事を心に留めて生きていきたいと思います。そして私が認められるために何かをしようとする生き方ではなく、私が神から認められ受け入れられていくから、出来ることをしていこうという生き方を生きたいと思うのです。それこそが、まさに教会がよって立つ信仰告白に生きる生き方だといえますし、私たちの教会が、私たちの主イエス・キリスト様の恵みと共に着る教会であることの証であるといえます。そして、それこそが三鷹キリスト教会という看板を掲げている所以でもあるからなんですね。ですから、今日の私たちも、神の恵みよりも人の行ないに目を向け、それを重んじてしまうような在り方には、気を付けたいと思います。パウロが、このローマ人の手紙の最後で、呼びかけた警告の言葉に、耳を傾け続け敵対と思います。

お祈りしましょう。