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羊飼い 『神の栄光』
ローマ人への手紙 16章21−27節
2005/7/31 説教者 濱和弘
賛美 105,268,338

さて、1年4ヶ月近くにかかって学んで参りましたローマ人への手紙の手紙も、いよいよ今日が最後になりました。その最後の部分は、「私の同労者テモテおよび、同族のルキオ、ヤソン、ソシパテロから、あなたがたによろしく」というあいさつの言葉から始まっています。これは、本来は16章1節から16節までの、パウロがローマの教会の信徒の名をあげながら「よろしく」と言っている挨拶の言葉に続くものであろうとおもわれます。この16章1節から16節まで続くパウロの挨拶は、先々週の礼拝説教でもお話し致しましたように、ローマにある教会が、民族や人種を越え、また身分や職業をこえて、一つに結ばれていることを伺わせてくれるものでありました。そのような教会であるからこそ、16章の19節において「あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる」とパウロは、そう言っているのだろうと思います。

この16章19節でパウロが「あなたがたの従順」といっている、その「従順」が何に対する従順であるかは、よくわかりません。しかし、彼らが互い一つに結ばれているのは、民族主義や、職業による優越意識や劣等感といったものではなく、同じ神を信じ、キリストを信じる信仰によって結ばれていたからです。その信仰は、イエス・キリスト様に端を発するものです。ですから、ローマからは遠く離れたパレスチナの地から教え伝えられてきたものです。そういった意味では、ローマに人たちが神を信じ、キリストを信じる信仰にとって一つに結ばれることが出来たのは、彼らにイエス・キリスト様の福音を教え伝えた人たちの言葉に従順に忌諱したがったからだとも言えます。たしかに、従順さとは、人の教え語る言葉に素直に耳を傾け聞くことから始まります。そのような、人の語ることを素直に耳を傾けて聞く従順な心は、従順なだけに欺かれやすいものでもあります。

ひとたび、そのような従順さは、教会に誤った教えが入り込んでしまったならば、その誤った教えを素直に受け入れてしまったりします。実際、カルトと呼ばれるようなものに入っている人たちは、極めて素直でいい人が多いのも、そのようなことによるのかもしれません。また、そのような従順さを持つがゆえに、教会の人々を欺き、混乱に陥れようとする人が教会の中に入り込んだときには、疑うことなく、その人の言葉に耳を傾けてだまされ、欺かれてしまう危険性も決して少なくはないのです。このように、教会の人々を欺き混乱に陥れてしまうような人々が、そのようなことを行ってしまう背景には、名誉欲であったり、権力に対する欲望であったり、金銭に対する欲望であったりします。そのような中で、パウロはローマの教会の人たちが従順な信仰の心を持っているからこそ、ローマの教会の人たちが心配で仕方がなかったのだろうと思います。挨拶の言葉を述べる中で、いったん挨拶の言葉を中断して、わざわざ、警告の言葉を述べるのです。

そして、そのような警告の言葉を述べて、パウロはもう一度挨拶の言葉述べます。しかし今度は、パウロからではなく、パウロの動労者テモテやルキオやヤソン、またこの手紙を筆記しているテルテオなどからの「よろしく」と言う挨拶の言葉が述べられているのです。パウロは、いくつかの手紙を口述筆記で書いてきますが、このローマ人への手紙もテルテオがこの手紙を筆記していたようです。そういた意味では、パウロの伝道は、パウロひとりの働きではなく、パウロの周りにいた人たちの協力によって成り立っているのです。そういった意味では、23節にある「わたしと全教会との家主ガイオから、あなたがたによろしく。」と言われているガイオもまたパウロの伝道を支えてくれている一人だったと言えます。ともうしますのも、このガイオは、コリントでパウロを始め、コリントを訪ねるクリスチャンに宿泊所を提供していたようだからです。ですから、おそらくそういった意味で「私と全教会の家主ガイオから」と言われているのだろうと思います。

そのように、パウロの伝道は、多くの人によって支えられていたのです。そして、ルキオやヤソン、ソシパテロと言った人も、またエラストやクワルトと言った人もパウロの伝道を支え協力していた人たちなのだろうと思います。そう言った人たちの手助けをえながら、パウロは、教会を一つに結びつけ、教会を教会として建てあげる信仰とは何かを示しながら、その同じ信仰にたつものとして、ローマにある教会を訪れたいと言う思いを、このローマ人への手紙をとおして書きつづっているのです。その手紙が、書き終えられた最後に、パウロは、神を誉め称える頌栄の言葉を書き述べます。私たちの教会の礼拝も、最後は頌栄として、「父・御子・御霊の」を賛美しますが、その歌詞は「父・御子・御霊の大御神に、ときわに絶えせずみ栄えあれ」と言うものです。つまり、頌栄とは、神に栄光があることを願い、すべての栄光は神にあることを告白し、言い表すことです。そのように、すべての栄光が神に帰されることを、パウロは、このローマ人の手紙の最後の最後で、切に願っているのです。

ここで、そのパウロのる頌栄の言葉に入る前に、24節の「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように、アァメン」という言葉に触れておく必要があると思います。この24節は口語訳聖書では括弧の中に入れられているだろうと思います。新共同訳聖書や新改訳聖書、本文のあとに、注意書きとして書かれていますし、文語訳聖書においては、省略されています。どうして、そのようなことになっているかと申しますと、この24節が、聖書の重要な写本である、シナイ写本やバチカン写本、アレキザンドリア写本と言ったものにないからです。ご存知のように、聖書の元々の原本は残っていません。しかし、多くの人が聖書の元本から書き写した写本というものを残しました。それは、誰かが書き写した写本を、また他の誰かが書き写すと言ったようにして、今日、多くの写本が残っています。もちろんその多くは、今日の聖書のような完成品ではなく、部分部分が残っていると言う状態ですが、しかし、それでも歴史上類を見ないほどの写本が、残されています。

写本というのは、個人が書き写すと言うものも、全くないとは言い切れませんが、しかし、その多くは専門家たちが一斉に書き写したものです。つまり、一人が元となる聖書を読み上げ、それを複数の写字生と呼ばれる専門家が書き写すのです。ですから、自分のペースにあわせてさぎょうするわけではありません。体調が悪いときもあれば、気分の乗らないときもあるでしょう。そんなわけで、書き損じたり、間違えたりする事もあります。それは書き間違いであったり、読み違いであったりします。中には、よっぽど退屈だったのか、落書きまで残っている写本もあります。そのような間違いが、単なる文字の誤字、脱字ぐらいならさほど大きな問題にはなりませんが、勘違いや、自分の思い違いで、書き加えたり、一文を削ったりする場合もあります。また、読み手が読み違えたと思い、勝手に訂正してしまうようなこともあります。あるいは、文中に自分の解釈や理解などを書き入れたりといったことも考えられます。そんなことが長い写本の歴史を積み上げていく中で、それぞれの写本の間に微妙な違いを産み出しました。

これをそのような、さまざまな違いを検討し、決められた学問的手順にもとづいて、今日の新約聖書の元となる校訂本というのが定められます。それがネストレ・アーラント版という校訂本なのですが、さまざまな学問的成果が出てまいりますと版を改め、多分最新のもの27版になると思います。この校訂本に採用されなかった写本の読みを、異なる読みと書いて異読といいます。このローマ人の手紙16章24節も、その異読の部分でありまして、先ほど申しましたような主要な写本には、この24節の部分は書かれていないのです。ひょっとしたら、20節の後半に「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように」と同じ文言がありますから、誰か写字生が勘違いをして、20節の後半を23節の後に持ってきてしまったのかも知れません。いずれにしても、そんなわけで、この24節はもともとはなかったものではないかと思われます。話が少し横道にそれましたが、そのようなわけで、パウロは、ローマ人への手紙で、伝いたい内容を書き終え、挨拶を書き終えた後に、神に栄光が帰されるようにと祈るのです。

その祈りの言葉は、次のようなものです。「願わくは、私の福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることができる方、すなわち、唯一の知恵の神にイエス・キリストにより、栄光が永遠にあるように。アァメン」私は、この祈りの言葉を何度も読んでみたのですが、いったい何が言いたいのか良くわからない感じがします。と申しますのも、この祈りは一つの長い一文になっているからです。私は、ラジオでメッセージする際に、アナウンサーを始め何人かの方の校正が入ります。その際、特にアナウンサーの人に言われるのは、一つの文章を短くして下さいと言うことです。長い文章は、結局何が言いたいのかわからないと言うのです。特に、「修飾語や形容詞が一つの文章の中にたくさん出てくると、非常わかりにくくなるので、その場合は、いくつかの短い文章に分けて下さい」と言われるのです。

そこで、このパウロの長い祈りを、いくつかの文章に分けて整理してみますと、要はパウロは、次のように言っているように思われます。「神は、私たちを、永遠の神の命令に従い信仰の従順に導こうとしておられます。」「この信仰の従順に導き至らせるために、神はもろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって力づけて下さいます。」「この奥義とは、長い間、その真意が理解されないでいた旧約聖書の預言の書の真意です。」「その預言書に秘められていた真意が、イエス・キリスト様がもたらし、パウロが異邦人やローマ教会の人々に伝えた福音によって、があきらかになりました。」「それが、救い主イエス・キリスト様と言うお方なのです。」「このイエス・キリスト様を信じる信仰が、私たちは励まし近づけて、神を信じる信仰の従順差へ私たちを導くのです。」「これは神の知恵です。」「ですから、その深い知恵によって私たちを力づけて下さるお方に栄光が永遠にありますように。」つまりそれは、私たちがイエス・キリスト様を信じるときに、私たちは神にお従いしながら生きることが出来るものになることができるのだということでもあります。そしてそのように、私たちが神にお従いしながら生きるならば、そのような生涯は、神の栄光をあらわすことになるのだと言うことでもあります。

つまり、私たちクリスチャンの神に従って生きる生き方、歩み方が神の栄光を表わすということなのだというのです。先日、PBAが主催となって「聖書を学ぶつどい」というものが平塚で行われ、私もその集いに出席していました。そのとき、一人の方が、突然私に「私が生きる意味は、いったい何なのですか。」と尋ねてきました。いきなり「私の生きる意味はなんですか」と言われても、正直、返答に困ってしまいます。それは、「人間は何のために生きるのか」という問でもあります。いったい私たちは何のために生きているのでしょうか。これは、私たち人間の存在にかかわる根元的な問いです。ましてや私は、私に「私が生きる意味は、いったい何なのですか。」と尋ねてこられた方とは、初対面でした。ですから、その人の背景や、どのような状況にあるのかも、全く知らないのです。ですから、具体的なことは何も言うことはできません。そんなわけで、私は一般的なこととして、ウェストミンスター大教理問答に出ている「人間のおもな(究極的な)、最高の目的は、何であるか。」という質問とその答えからお話しを致しました。

この、ウェストミンスター大教理問答は、1648年に改革派教会が採択したもので、いくつかの質問をあげ、それに回答する形で、キリスト教の信仰について信徒の方を教えるための、いわばQandAのようなものです。改革派教会は、私たちウェスレアン・アルミニアンのホーリネス教会とは、ちょっとばかり神学的な立場は違います。しかし、同じキリストを信じる信仰に立っていますから、学ぶところも多くあります。ですから、このウェストミンスター大教理問答からも、学ぶことは多くあるのですが、そのウェストミンスター大教理問答の一番最初の質問が、「人間のおもな(究極的な)、最高の目的は、何であるか。」という質問なのです。そして、この私たち人間の存在にかかわる根元的な問いに対して、「それは、神の栄光をあらわし(1)、永遠に神を全く喜ぶことである(2)。」<注記1) ロマ11:36、Tコリント10:31 2) 詩73:24-28、ヨハネ17:21-23>とそう答えるのです。

私は、このウェストミンスター大教理問答の問と答えを引用しながら、「あなたの生きる意味は、あなたが神の栄光を表わしながら生きることだと思いますよ。」とそうお答えしました。もちろん、そう答えながら、その答えが、その人のかゆいところに手が届いていないだろうという感じはぬぐえませんでした。 というのも、「あなたの生きる意味は、あなたが神の栄光を表わしながら生きることだと思いますよ。」といいつつも、では神の栄光を表わしながら生きると言うことはどういう事かを、具体的に示していないからです。もし、あなたが、私に「意味はいったい何なのでしょう」と問いかけた人だとしたら、「それは、神の栄光を表わしながら生きることだ」といわれても、決して満足出来ないだろうと思います。そして、「神の栄光を表せと言われても、それじゃ、いったいどうやって神の栄光を表わせばいいのでしょうか。」と問いたくなるのではないでしょうか。いや私ならきっと、そう問いつめていくだろうと思います。

「神の栄光を表わすこと」とはいったいどういう事なのか。今日のテキストの箇所にある、パウロの頌栄の言葉は、その答えに通じるようなことを言っているように思います。つまり。私たちが神に信じる信仰に従順に生きるときに、私たちの生涯は、神の栄光を表わすものとなってくるのだということです。なぜなら、神を信じる信仰に従順であると言うことは、イエス・キリスト様の語られた言葉や生き方に倣うと言うことでもあるからです。イエス・キリスト様に倣うということは、イエス・キリスト様をお手本として生きると言うことです。私たちがイエス・キリスト様をお手本にして生るならば、私たちは、決して罪を犯すことや汚れに身を染めることはないはずです。なぜなら、イエス・キリスト様は聖なる神そのものだからです。そして、そのように私たちが聖い生き方に導かれていくときに、私たちの生き方の中心におられる神ご自身の素晴らしさが証されるのです。

もちろん、今の時代に生きてはおられません。また、私たちの生きている今の時代の日本は、イエス・キリスト様の生きていた時代とは全く状況が異なります。なのに、私たちが倣うべきお方である、イエス・キリスト様はこの地上にはおられないのです。けれども、私たちには聖書が与えられています。また聖霊なる神が私たちに与えられています。私たちホーリネス教団のルーツ的な存在であるジョン・ウェスレーという人は、「聖書は地図であり、聖霊はガイドである」といいました。それは、聖書が、私たち今の時代の日本で、私たちが神に従って生きて行くにはどうすればいいのかと言うことを示してくれる地図だからです。そして、聖霊なる神がガイドとなって、個々の状況の中で、地図である聖書を用いて、どうすればいいかを導いて下さるのです。ですから、私たちの具体的な生活の中で、どうイエス・キリスト様に倣って生きていけばいいのかということが問われるときには、祈りの中で神に導きを求めつつ、聖書の言葉に耳を傾けなければなりません。

そして、祈りの中で聖書の言葉を通して教え導かれたことに、従順であるときに、それは神の栄光を表わす生き方となるのです。もちろん、私たち人間は過ちの多いものです。ですから聖書の言葉に耳を傾け、神の言葉に聞き従って生きようとしても、どうしても自分のわがままや自我が出てくることがあります。また、神の言葉に従って生きていると思っていても、それは単に自分の欲望や思い、あるいは考えに従っていると言うことも少なくありません。そのために、人に迷惑をかけてしまうということだってあるでしょう。あるいは、具体的な罪の行為に至ってしまうということだって、あるかもしれません。そう言うときは、もはや神の栄光を表わすどころではありません。しかし、今日のテキストにあるパウロの「神に栄光があるように」という祈りは、「イエス・キリスト様によってもたらされ、パウロによって異邦人やローマの教会に伝えられた福音によって、信仰の従順に至らせるのだ」とそういうのです。

イエス・キリスト様によってもたらされ、パウロによって異邦人やローマの教会に伝えられた福音とは、何かというと、イエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりとなって十字架について死んで下さったと言うことです。そして、自分の罪を悔い改めて、そのことを信じるときに、私たちの罪が赦されるのです。たしかに、私たちには、自分の欲望や思いあるいは考えに従って人に迷惑をかけてしまい、神の栄光を表わすどころか、むしろ泥を塗ってしまうようなときがあるかもしれません。けれども、そのような間違いや過ちに気づいたならば私たちは、そのことを神と人の前に悔い改め、赦しを求めるのです。また、自分のなそうとしていることが、神の栄光に傷を付けるような、罪や汚れに至るものであるならば、即座にその思いを悔い改めなければなりません。私たちが自分の過ちや罪を神と人の前に悔い改めるときに、神はその罪を必ず赦して下さいます。また、そのように罪を悔い改め、赦しを求める姿そのものが、神の栄光を表わす姿となるのです。

以前、「親分はイエス様」という映画がありました。この映画は、昔やくざだった人が、今は牧師となって伝道しているその実在の人物の生涯を映画にしたものです。この映画が撮影されているときに、映画の主演を務めたのが渡瀬恒彦という俳優さんです。その渡瀬さんが、実際の主人公のやくざの時に写真と現在の写真をみると、これほど変われるのだろうかというほど変わっているのに驚きを感じるというような事を言っているのを聞きました。それは、まさに人が罪を心から悔い、神に赦しを求め、そして神に従って生きようとする事が、如何に大きな結果となって人に驚きを与え、神の栄光を表わすかと言うことの一つの証だろうと思います。私たちも、パウロがこのローマ人の手紙の最後で、全ての栄光が神に帰され事を願ったように、神に栄光を帰されることを願うものとなりたいと思います。そして、願うだけではなく、自分の罪を悔い改め、神に従って生きることで神の栄光を表わすものとなりたいと思うのです。

お祈りしましょう。