『良き訪れの到来』
マルコによる福音書 1章1−8節
2005/8/7 説教者 濱和弘
賛美 16,239,358
さて、ローマ人への手紙の連続説教が終わり、今日の礼拝からマルコによる福音書から、聖書が私たちの教会に語りかける言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。そこで、今日はそのマルコによる福音書の最初の部分である1章1節から8節までです。そのマルコによる福音書の冒頭の言葉は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」となっています。この「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と言うような表現は、しばしば書物の始まりを示すものであったようです。ですから、マルコはこの「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書き記すことによって、これからイエス・キリスト様の福音について書き記しますよと、そう宣言しているのです。
このマルコが言う「イエス・キリストの福音」という言葉は、短い言葉ではありますが、実は解釈が分かれるところです。一つの考えは、「イエス・キリスト様によってもたらされた福音、あるいはイエス・キリスト様によって伝えられた福音」と理解すべきであると言います。しかし、別の考えではある「イエス・キリスト様についての福音」というように理解するべきであると言います。このどちら考え方も、ギリシャ語的には間違ってはいません。しかし、実際のところは、「イエス・キリスト様によってもたらされた福音」と「イエス・キリスト様についての福音」とを別のことと考えることは、無意味のように思われます。というのも、「イエス・キリスト様によってもたらされた福音」というものは、イエス・キリスト様の御生涯を通して、具体的には十字架と復活によってもたらされたものです。ですから、「イエス・キリスト様によってもたらされた福音」を語ることは、イエス・キリスト様の御生涯について語ることだからです。ですから、「イエス・キリスト様によってもたらされた福音」は「イエス・キリストさまに関する福音でもあるのです。」
この「福音」と言う言葉は、ギリシャ語ではευαγγελιονと言う言葉ですが、「よき知らせ」あるいは「よきおとずれ」という意味であることは、みなさんもよくご存知なのではないだろうかと思います。ですから、「イエス・キリスト様の福音」とは、「イエス・キリスト様によってもたらされた良き知らせ」なのです。この良き知らせと言う意味の、ευαγγελιονと言う言葉は、戦争の時に、戦場から戦いの結果を待っている町の人々に、「戦いに勝ったぞ」ということを告げ知らせる言葉だったと言われています。つまり、良き知らせとは勝利の報告であったと言うことです。そう言ったところから、イエス・キリスト様が、ご自身の十字架の死と復活によってもたらして下さった良き知らせとは、私たちの罪と、その罪に対する裁きとしての死に対する勝利であると言われる方がおられます。それは、確かにその通りであります。福音は、確かに、私たちの罪が赦され、私たちが犯した罪に対する神の裁きである死から救くわれるのだという、まさにキリスト教のメッセージの中心です。
しかし、マルコがこのマルコによる福音書の1章1節で「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」といっているのは、そのような「戦いに勝利したと言うこと知らせるよきおとずれ」以上のことを言おうとしているように思われます。と申しますのも、ギリシャ語のευαγγελιονと言う言葉がもつ「良きおとづれ、良き知らせ」といったことは、もう一つの意味があるからです。そのもう一つの意味は「崇拝すべき支配者の誕生や即位を知らせる知らせ」という意味です。イエス・キリスト様の生きておられた1世紀には、すでに皇帝や支配者を崇拝するといったことは、既に民衆の中には起こっていたようです。そのような中で、ευαγγελιονと言う言葉は、「崇拝すべき支配者の誕生や即位を知らせる知らせ」という、宗教的意味をもった使い方で用いられていたようなのです。ですから、そのような背景の中で、マルコは本当に崇拝すべきお方であり、まさに私たちの王であり、支配者であるイエス・キリスト様がお生まれになり、王として即位なされたのだと言うことを、人々に宣言するために、この福音者を書いたとも言えるのです。
いえ、むしろ、この「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と言う言葉は、そのような意味合いでとらえる方がよいように思われるのです。それは、このマルコによる福音者の持つ特徴からも言えることではないかと思われるからです。マルコによる福音書の特徴の一つは、イエス・キリスト様の受難に、非常に大きな関心をもって書かれていると言うことです。人によるとマルコの福音書全体の3分の1が、最後の一週間に割かれているといわれます。つまり、3年余りのイエス・キリスト様の生涯の内の、わずか1週間だけに3分の1の量の筆を費やしているのです。もちろん、その1週間に、十字架に架けられて死に復活するという、まさにイエス・キリスト様の生涯の頂点となるような出来事があったことは確かです。ですから、そこに力が入るのは当然と言えば当然のことです。しかし、マルコによる福音書を見ていくと、イエス・キリスト様の受難は、ただ最後の一週間だけのことではありません。例えば、マルコは、3章6節の時点で、すでにパリサイ派の人々やヘロデ党の人々が、イエス・キリスト様を殺そうと相談し始めたと書き記しています。
ですから、マルコによる福音書において描かれるイエス・キリスト様の御生涯は、絶えずパリサイ派やヘロデ党の人たちが命をつけねらわれるような中にあるのです。そんなわけで、マルコによる福音書は、長い序章をともなったイエス・キリスト様の受難物語であるなど言われたりしています。マルコが、このようにイエス・キリスト様の受難に目を留め、深い関心を持って福音書を書いたのは、一節に、実際に苦しみや試練にあっているクリスチャンたちを励ますためではなかったろうかと言われています。確かに、マルコの福音書が書かれた年代は、諸説がありますが、大体、紀元50年ごろから60年代半ばの間ぐらいだろうと言われています。だとすると、ちょうど、皇帝ネロの時代と重なります。ですから、マルコがこの福音書を書いた頃のクリスチャンたちの中に、ローマでのネロの迫害や、各地方でのユダヤ人からの迫害を受けていた事になります。ウィリアム・バークレーという人は、マルコによる福音書は、人間としてのイエス・キリスト様の姿を、他の福音書に見られないほどに描き出していると言っています。その人間として、イエス・キリスト様は、私たちと同じような苦難や苦しみを味われたのです。
そのイエス・キリスト様の受難の苦しみを、思い起こさせながら、迫害の中で苦しみや試練を経験しているクリスチャン達に、メッセージを込めて、このマルコによる福音書は書かれているのだというのです。その込められたメッセージというのが、「私たちの主も、この世では、あなたがたと同じような試練にあわれたのだ。そしてその試練を耐え忍ばれた。だから、あなた達も頑張るんだよ」というものです。そのように考えると、マルコが1章の1節で、自分がこれから記す福音書に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という表題を付けた後に、2節、預言者イザヤの書に書かれているものとして、次のような言葉を記していることが、実にきわだってきます。そこには、こう記されています。「見よ、わたしは使いをあなたのさきに使わし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」
この言葉の内、「見よ、わたしは使いをあなたのさきに使わし、あなたの道を整えさせるであろう。」という言葉は、実際にはイザヤ書に書かれているのではなくマラキ書の3章1節に記されているものです。それが、後半部分の「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」という、イザヤ書40章3節からの引用の言葉と一つにされて、預言者イザヤの書に書いてあるように、と言われているのです。このように書かれているのは、マルコが勘違いをしたとか、間違っていたというわけではないようです。どうやらその当時、旧約聖書に書かれているものの中で、イエス・キリスト様の預言と思われるものを集めた「証言集(テスティモニア)」というものがあり、そこから引用したためだろうと言われています。いずれにしても、マルコは、イエス・キリスト様の福音について語るにあたって、まずイザヤ書の引用から始めるのです。
イザヤ書は預言者イザヤによって書かれた書物です。イザヤは南ユダ王国で活動をした預言者です。彼は、同じイスラエル民族である北イスラエル王国が、神に背を向けて歩んでいる中で、アッシリア帝国に滅ぼされ、支配されていくのを、まのあたりに見ました。そして、北イスラエルだけでなく、南ユダ王国も神に背を向け、神に対して罪を犯すならば、やがて他民族によって滅ぼされ支配されるということを預言するのです。このイザヤの預言は現実となり、南ユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされ、民はバビロンの国へ奴隷として無理矢理連れて行かれました。まさに、イスラエルの民族はバビロン帝国の王の支配されたのです。しかし、イザヤの預言は、そのような国が滅び、他民族から支配されるといったことで終わったわけではありませんでした。やがて、そのバビロン帝国の支配の中で、苦しみや試練に会っているような状況から解放されるという、救いと回復の預言も語られたのです。そして、その救いと回復の預言が、まさにこのマルコが引用したイザヤ書40章3節から始まるのです。そういった意味でも、マルコが、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」といって書き始めた内容は、あなたがたを支配し、苦しめているものから、救い出し解放して下さるお方が、あなたがたの王となられるためにお生まれになったのですよ。そのかたこそ、イエス・キリスト様なのです。と言うことなのです。
あなたがたは、いま様々な試練にあっているかも知れない。でも、あなたがたの王としてお生まれになって下さったイエス・キリスト様というお方は、あなたがたの苦しみや悲しみに同情できないお方ではありません。なぜなら、神の子であり、神の子であるが故に神であられるイエス・キリスト様は、人となって私たちと同じ苦しみを味われた方だからです。その方が、あなたがたの王となられるためにお生まれになった。そのευαγγελιον(福音)が個々に示されているから希望を持って頑張りましょう。マルコが「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書き記した中には、そのような思いが込められていると考えても良いだろうと思います。福音は、私たちを、苦しみや試練を与えてくれるものから、私たちを救い出してくれるお方である、イエス・キリスト様が私たちの王となって下ること、また王となって下さっていることの宣言でもあるのです。この、イエス・キリスト様が私たちの王となって下さっているならば、私たちは、苦しみや試練の中にあっても希望が持てます。実際、私たちは、いつの時代にも何かしらの悩みや苦しみや試練を経験するようのおもうのですが、どうでしょうか。
私たちが生きている今の時代においても、そうだろうと思います。実際の、本当に大変な思いをしなければならないことや悩まなくてはならないものが多くあります。お金のこと、健康のこと、人間関係のこと、仕事のこと。私たちの周りには、私たちを悩ませ、苦しめることは、山と有るのです。このようなことが、ひとたび起こりますと、それは私たちの心を縛り付け、私たちの心を支配して、いつも私たちの心に、悩みと心配と、苦しさを与え続けます。けれどの、そのような中で、キリストは私たちを悩みや苦しみ、試練のから救い解放して下さる私たちの王なるお方なって私たちを慰め、励まし、支えて下さるのです。そして、私たちの人生を導いで下さる下のです。確かに、ευαγγελιον(福音)はイエス・キリスト様が、ご自身の十字架の死と復活によってもたらして下さった私たちの罪と、その罪に対する裁きとしての死に対する勝利を私たちに告げ知らせてくれるものです。
しかし、イエス・キリスト様と言うお方は、そのように私たちに罪に赦しを与えて下さる救い主と言うことだけに留まるのではありません。私たちが生きていく、その人生の歩みに中で起こる様々な出来事に慰めと励ましを与え、導いて下さる王なるお方であると言うことを告げ知らせるものなのです。私たちの教会は、設立以来、このイエス・キリスト様を主であると告白してきました。そしてこの「イエスは主なり」という告白は、初代教会から続く、教会の信仰告白です。初代教会の時代に、「主」と呼ばれるは、ローマ皇帝でありました、「カエサルは主なり」という告白は、ローマ帝国に住むローマ市民から、その植民地に住む人すべてに求められたことでした。けれどの、初代教会のクリスチャンたちは、私の本当の王であり支配者は、イエス・キリスト様であるとそう告白してきたのです。たとえ、その体は、ローマ帝国の支配の下に置かれていたとしても、心けっして、支配されることはなく、王なるイエス・キリスト様の支配の下に置かれていたのです。その、私たちの心の王であるイエス・キリスト様は、私たちを決して力と権威で支配される方ではありません。赦しと慰め、そして励ましで支配して下さるお方なのです。
そう言ったわけからだと思いますが、マルコによる福音書は、神の国と言うことが、神学的思想として述べられていると言われます。そして、その神の国とは、神の愛と恵みによって支配されるところなのです。今日、教会は、この神の国の地上での現われであると言われます。聖書のみ言葉が語られ、洗礼と聖餐という、聖礼典が行われる教会という場所においては、罪の赦しが宣言され、慰めと励ましとが語られるからです。もし、教会から罪の赦しの宣言がなくなれば、それはもはや教会ではなくなります。またそこに集うみなさんお一人お一人叱咤、激励する言葉だけが語られるのであれば、それもまた教会の在り方として、道を誤っていると言っても良いだろうと思います。私たち三鷹キリスト教会は、イエス・キリスト様を、私たちの心の王としてお迎えして、このお方を仰ぎ見て歩んでいくもの群れです。ですから、いままでもそうであったように、これからも、あなたの罪が宣言され、慰めと励ましが語られる教会でありたいと思います。
私たちは、一週間の歩みの中で、罪を犯したり、神を悲しませるような事があっただろうと思います。また、さまざまな苦しみや試みの中で、心が打ちひしがれるようなことがあっただろうと思います。けれども、その犯した罪や過ちにたいして、神の赦しは宣言されているのです。そして、私たちの苦しみや悩みにイエス・キリスト様は耳を傾けて下さり、私たちを慰め導いて下さっているのです。それこそが、マルコかこの福音書で語った「神の子イエス・キリストの福音」である良きしらが、私たちの教会にもちゃんと届いているという証なのです。
お祈りしましょう。