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羊飼い 『救いの備え』
マルコによる福音書 1章2−8節
2005/8/14 説教者 濱和弘
賛美 251,176,206

さて、先週からマルコによる福音書の連続説教に入りました。そして、先週は1章1節の「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉から、特に、福音という言葉に着目し、マルコによる福音書の緒論的なことをお話させていただきました。それは、一言でいえば、イエス・キリスト様が私たちの人生の王となってくださるということでした。私たちの人生の王となってくださり、私たちの罪だけでなく、人生に起こってくるさまざまな問題や苦悩から救い出してくださる、そのようなお方が、私たちの王であり主人として現れたのだということが「福音」なのです。それはまさに、福音という言葉が、新約聖書のもともとの言葉であるギリシャ語ではευαγγελιονと言う「崇拝すべき支配者の誕生や即位を知らせる知らせ」という意味合い持つ言葉にふさわしい内容だと言えます。そして、その福音は、イエス・キリスト様によってもたらされたものであり、イエス・キリスト様のご生涯に深くかかわるものです。言いようによっては、イエス・キリスト様ご自身が福音といって良いのかもしれません。

キリストという言葉、ギリシャ語ではχριστοσといいますが、その意味は、皆さんもよくご存知の「救い主」という意味です。それは、このイエス・キリスト様というお方は、私たちを、私たちの罪と、その罪の結果、神から下される罪の裁きから救って下さるお方だからです。しかし、それだけではなく、私私たちを神の国の民として迎え入れてくださるおかたでもあるのです。もちろん、神の民として、私たちを神の国、すなわち天国に迎え入れてくださったということは、死んだら天国に行くことができるということだけではありません。確かに、天国とはこの世が終わりを迎え神の審判が下されるときるとき、これを終末といいますが、その終末に現れる将来的なものでもあります。ですから、この終末にあらわれる天国は、私たちが生きている間に、神の最後の審判が起こらない限り将来の出来事です。そういった意味からすれば、私たちが天国に迎えられるとは、確かに私たちが死んだ後の問題だといえます。しかし、それと同時に、今、私たちが生きている実際生活の中でも、私たちは神の国である天国の民として迎えられているのです。

それは、今の私たちが実際の生き方が、将来、天国に迎え入れられるかどうかという問題に深くかかわっているからです。つまり、将来の出来事である天国は、今、私たちが神を信じ、主イエス・キリスト様を救い主として信じて生きているかどうかということに、かかっているということです。このように、今の私たちの生き方が、やがてくる終末にあらわれる天国に、私たちが迎え入れられるかどうかということと深くかかわっているということは、この神の国である天国は、将来の問題であると同時に、今の問題でもあるということでもあります。つまり、将来やがてくる天国に迎え入れられるものは、今、すでに天国にむかえいれられているということです。今、その天国に迎えられているのですから、そのことは、実際の生活の中に現れ出てきます。その現れが、私たちが、生活の中で、悩み苦しむ様々な問題に、イエス・キリスト様は慰めや希望を与えてくださるということなのです。

私たちが抱える悩みや問題といったものは、経済的な問題であったり、病気であったり、子供のことや、人間関係といったものであったりと、実に様々です。中には、将来に対する漠然とした不安といったもので悩むこともあります。私たちが、そのような、様々な悩みや苦しみの中に置かれたときに、私たちは、決して失望する必要はありません。イエス・キリスト様は、私たちを慰め、励まし、希望の光を与えてくださいます。そして、そのような悩みや苦しみの中にあって、私たちを教え導いてくださるお方なのです。そういった意味からも、イエス・キリスト様というお方は、私たちの救い主であるといえます。そして、私たちの人生の歩みに、このイエス・キリスト様というお方が深くかかわってくださるからこそ、私たちは、今、神の民として天国に迎え入れられているといえるのです。ですから、神様を信じ、救い主イエス・キリスト様を信じて生きるということは、死んだとの天国を待ち望むという将来の備えであると同時に、今を生きる支えであり、慰めであり、力なのです。

先ほど司式の方からお読みただいた聖書の個所は、その救い主キリストであられるお方がこられる前に、その道備え、つまり準備をする存在が現れるという、旧約聖書の預言と、その預言が現実となったことを告げている部分です。その旧約聖書の預言というのが、2節、3節に記されているイザヤ書の言葉、実際にはマラキ書とイザヤ書の言葉が結び合わされたものですが、それが成就し、まさにイエス・キリスト様の道備えとなった人が、バプテスマのヨハネだとマルコは言うのです。このバプテテスマのヨハネという人の素性については、ルカによる福音書の1章に詳しく出ていますが、イエス・キリスト様とは親類関係でした。それは、イエス・キリスト様の母マリヤと、バプテスマのヨハネの母エリサベツとが親類だったからです。そして、このバプテスマのヨハネの誕生の際にも、処女マリやが聖霊によって身ごもったように、不思議なことが起こりました。

バプテスマのヨハネの母エリサベツは、長いこと子供が与えられず、夫のザカリヤともども年もとって、もう子供も望めないようになっていました。ザカリヤは妻子として神殿で祭司の務めとして香を炊いているときに、ガブリエルという神のみ使い、つまり天使が現れ、エリサベツが子供を産むと預言します。そして、その生まれてくる子供が、あとから生まれてくるイエス・キリスト様の道備えの役割を果たすのだということを告げるのです。そのときの言葉が、ルカによる福音書1章14節から17節に書かれています。それは、このような言葉でした。「彼は、主のみ前に大いなる者になり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいるときからすでに聖霊に満たされており、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神、主に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力とをもって、み前のに先だって行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いをもたせ、整えられた民を、主に備えるであろう。」ザカリヤは長いこと、子供が与えらずにいたのですから、このような天使ガブリエルの言葉はうれしい言葉でであっただろうと思います。反面、もう年老いた自分たち夫婦に子供が生まれるなどとは、とても信じられなかったようです。

今の時代の私たちにとって、聖書は信じられないようなことがいっぱい書いてあります。イエス・キリスト様の処女降誕や、復活、そしてさまざまな奇跡など、本当に起こったのだろうかと思わされるような出来事がいっぱいあります。それは、必ずしも、私たちが現代という科学が発達した時代に生きているからだというわけではないようです。イエス・キリスト様の時代でも、年老いた夫婦に子供が生まれるなどとは考えられない出来事だったようです。ましてや、その子供が、神からあたえられた特別な使命を持って生まれてくるなど、とうてい考え及ばないことでした。そんなわけで、ザカリヤは「どうして、そんなことを知ることができるでしょうか。私も、妻ももう年寄りですのに」と、天使ガブリエルにそういうのです。ザカリヤの言葉を受けて、天使は、自分が語った言葉が真実である証拠として、子供が生まれるまで、ザカリヤの口がきけなくなるとと言います。そして、実際そのとおりになったのです。

このようなことごとを経て、バプテスマのヨハネは生まれてきました。そのヨハネが、生まれる前から神に与えられていた使命というのが、人々が神の子イエス・キリスト様を、自分の救い主として、また私たちの人生の王であり主人として迎え入れるたの備えをすることでした。そして、その備えとして、彼がしたことが、人々に自分の罪を告白させ、悔い改めのためのバプテスマを授けるということでした。バプテスマとは洗礼のことです。私たちの教会でも、あの旧講壇のところに洗礼槽がありますように洗礼を授けます。今年も、すでに私どもの献吾と藤塚家の巧君、この夏のキャンプから帰ってきてクリスマスに洗礼を受けたいといっています。しかし、私たちの教会に限らず、世界中のすべての教会でなされる洗礼は、バプテスマのヨハネの授けた洗礼とは、少しばかり違っています。と申しますのも、教会の授ける洗礼は、私たちが、主イエス・キリスト様を信じ、罪が赦されイエス・キリスト様と一つに結び合わされたことを示すものだからです。しかし、バプテスマのヨハネが授けた洗礼は、私たちが、神の前に自分の犯した罪を悔い改め、罪から身を洗い清めるためのものでした。

どうやら、イエス・キリスト様の生きていた時代に、エッセネ派と呼ばれるグループがいたようです。このエッセネ派という人たちは、長い間、その存在は知られていましたが、どのような生活をし、どのような考えをもっていたかは、定かではありませんでした。しかし、今世紀にはいって、クムランという洞穴で、有名な死海文書が発見され、また遺跡が発見されました。それによって、だんだんとその実態がわかってくるようになってきたのです。その中に、彼らは、一日に何回か、自分の罪の洗い清めのために、水に身を浸して、罪を洗い清める沐浴を行っていたらしいということがわかってきました。実際、そのための場所も見つかっています。そのようなことから、バプテスマのヨハネも、このエッセネ派に身をおいていたか、あるいはその影響を強く受けたのではないかと言う説もあるのです。実際にヨハネがエッセネ派に属していたかどうかは定かではありません。しかし、そういわれるほどに、バプテスマのヨハネは、強く、自分の罪を悔い改め、自分の犯した罪から身を洗い清めるために、バプテスマを受けるようにと説いて歩いたのです。

この、罪を悔い改め、自分の犯した罪を洗い清めることを求める、ヨハネの言葉に多くの人が応じたようです。実際、マタイのよる福音書3章6節7節には、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が、ヨハネのところに出て行き、その中には、当時の宗教的指導者であり正しい人たちであるパリサイ派の人たちや、サドカイ派の人たちも含まれていたことが書かれています。このようなことを、見ても、バプテスマのヨハネの説いた罪の悔い改めのメッセージは、多くの人の心を刺し貫いたようです。

私が、牧師をしていて、本当に難しいなと思うことは、一人一人をきちんと悔い改めに導くことです。と申しますのは、悔い改めに導くということは、その人の罪を指摘し、自覚させるということなしには行えません。ところが、その人の罪を指摘し、自覚させるということほど、私を躊躇させるものはないのです。というのも、それは、一歩間違えれば相手を責める言葉や非難する言葉になりかねないからです。おまけに、大体教会にお見えになる方は、罪人と呼ぶには、あまりにも善良で、良い方が多いのです。これが、傷害事件や、盗み、詐欺などの具体的な犯罪や、不倫や不道徳なことをしている人になら、あなたは、「罪を犯していますから、神様の前に悔い改めなければなりません」と言い易いものです。しかし、皆さん方をはじめ、ほとんどの人は善良で良い人たちなのです。もちろん、それらの人たちにまったく罪がないというわけではありません。小さな嘘や、些細な言葉や振る舞いの棘といったものが、私たちの中にまったくないわけではないのです。

もちろん、それはどんなに小さいと思えても、罪は罪です。それに如何に小さな嘘であり、些細な言葉や振る舞いの棘であっても、相手にとっては、時には一生の心の傷となるような深いダメージを与えるものであったり、その人の人格を傷つけるものであったりすることもあるのです。もし、そのようなことになるとしたら、それは相手にとっては、もはや小さな嘘、些細な言葉の棘ではなくなるのです。そういった意味では、私もどれだけ失敗を重ねてきたかと、思わされるものですが、みなさんは、どうでしょうか。人に致命傷になるような重い傷を負わせるのは、なにも日本刀や柳包丁といったものだけではまりません。ちいさな小刀やカッターナイフであっても、場合によっては、相手に重症を負わせることもあるのです。もちろん、日本刀や柳包丁など持って学校や会社にでも行こうものなら、それこそ先生や上司、あるいは周囲の人に咎められます。けれどの、カッターナイフなどをもっていても、だれも注意や咎めなどしません。

同じように、私たちのうちにある小さな罪を、自分の罪として指摘し自覚させるといったことは、ある意味では、本当に難しいことだといえます。また、そのような、私たちの生活の中のことだけでなく、私たちが、神に背を向けて生きているという宗教的な罪を、きちんと指摘し、悔い改めに導くといったことは、もっと難しいことです。それは、何か私たちの実生活に結びつかない、観念的なもののように思えるからです。けれども、この神に背を向けて生きるという宗教的な罪が、実は実際生活上の罪や、不道徳といったことは、この神に背を向けるといった宗教的な罪に根ざしているのです。つまり、人が神を意識し、神に目を向けて生きているならば、人は、そうそう罪を犯すものではないということです。もちろん、変わらず、先ほどももうしましたような、小さな嘘や、些細な言葉や振る舞いの棘といったものは、完全に取り去ることができないかもしれません。けれども、神に目を向け、神様を見上げているならば私たちは、そのような過ちも自覚し認めることができるのです。そして、神様と人とに赦しを求めるようになります。

そもそも、悔い改めるという言葉はギリシャ語ではメタノイアというのですが、この悔い改めるとは、ぐるりと方向を変えるということです。ですから、それまでは、神を意識せず、むしろ神に背を向けて生きていたような生き方から、ぐるりと代えて神の方を見るということが悔い改めということなのです。しかし、この、私にとって大変難しいと思われるようなことを、実に大胆にバプテスマのヨハネはやってのけています。先ほどのマタイによる福音書3章7節の後半から12節までに、悔い改めを迫るバプテスマのヨハネの言葉が記されていますが、それは実に辛らつで、厳しい言葉です。とくに、神に選ばれた民であるといった選民意識をもったイスラエルの人々や、その中でも特にプライドの高いパリサイ派やサドカイ派の人たちにとっては、ヨハネの言葉は、本当に彼らのプライドを傷つけるものであっただろうということは、容易に想像できます。普通は、人のプライドを傷つけるようなことを言う人の言葉に、我々は耳を貸さないような気がするのですがどうでしょうか。

けれども、このバプテスマのヨハネの言葉を聞いて、人々は、確かに自分は罪を犯していると、そう認め、だから神に目を向けて生きていこうとそう思ったのです。だから、彼らはバプテスマのヨハネから洗礼を受けるために、彼のもとにやってきたのです。どうして、そのような厳しい辛らつな言葉を、彼らが受け入れたのでしょうか。これは、先ほどのマタイによる福音書に、またマルコによる福音書にも書かれていることですが、バプテスマのヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食べていたと書かれています。このような、ヨハネの風体や食べ物がかかれているというのは、よっぽど変わった風体や生活であったということもあるでしょうが、同時にそれは、ヨハネが、本当に自分に対して厳しく生き、また徹底した清貧の中での禁欲生活をしていたということ意味しています。つまり、ヨハネ自身が、神に目を向け、厳しく自分自身を律しながら生きていたからこそ、ヨハネの語る言葉には説得力があり、人の心を揺り動かすだけの力があったのです。いうなれば、ヨハネの言葉には、ヨハネ自身の、しっかりとした証が伴っていたと言えます。

つまり、バプテスマのヨハネは自らの言葉通りに生きた人であり、自分自身の言葉を、自分自身で生きた有言実行の人であったといえます。そういう面から見ると、証となる生き方ということは、本当に大切なものだと言うことができます。どんなに私たちが、イエス・キリスト様を信じる信仰のすばらしさを語っても、私たちが、本当にそれを喜んで着なければ、その言葉には説得力も力もありません。また、神様の愛のすばらしさを語ったとしても、実際の教会の交わりが互いに愛し合うことのない者であったならば、決して神の愛は伝わらないのです。ですから、私たち一人一人が、また私たちの教会が、自分自身の生活の場で、また教会を取り巻く地域に対して証ある存在となっていなければならないということが出来るように思うのです。

しかし、それにしても、バプテスマのヨハネのように徹底した禁欲生活が誰にでも送れるというわけではありません。またヨハネ自身ですら、神様の前に悔い改め、神様に向き合って生きたとしても、人間の罪深さは、それではどうしようもないことを見抜いていたように思われます。私達人間の罪深さは、本当に根深いものなのです。私は、昨日までPBAのサマーキャンプにスタッフとして参加しており、2日目の夜の集会の司会をいたしました。その晩のメッセージは、羽鳥明先生のメッセージでした。私は、皆さんもご存じのように、牧師を先生と呼ぶことについては、自分がそう呼ばれるのも、また人をそう呼ぶのもあまり好きではありません。それは、牧師というものは、神様の前にあっては単なる職制上の違いに過ぎず、一個人としては、信徒の皆さんと何も変わりがない同じ罪人の一人に過ぎないからです。しかし、それでも、本当に先生と呼ぶにふさわしい尊敬できる先輩がおられる事も間違いのないことです。それは、私にとっての恩師である、加藤亨先生然りであり、小林和夫先生、松木祐三先生然りです。同じように、羽鳥明先生も、私にとって先生としか呼べない存在のお一人だといえます。

その羽鳥先生は、亡くなられた本田弘慈先生と並んで、戦後の日本に福音派の伝道を導いた指導者の双璧です。そういた意味では、私たち伝道者が見習うべき存在だといえます。実際、今回の羽鳥先生のメッセージも、実に力強く、心に届くメッセージでした。そのメッセージの中で、羽鳥先生はご自分がクリスチャンになった後の、ご自分のご経験を語っておられました。それは、クリスチャンになりいっぱしの奉仕もするようになり、周りからは、一人前の立派なクリスチャンと見られるようになったころのお話です。羽鳥先生は、周りからは立派なクリスチャンであると見られているのに、自分自身の内側では、どうしても罪の誘惑に打ち勝つことが出来ずに苦しんでおられたと言うのです。それこそ、戦後の福音派の伝道を導いて来られた羽鳥明先生を持ってしても、罪の誘惑に打ち勝つことが出来ないほど、私たちの内に宿る罪は、私たちの手に負えない力を持って、私たちを支配しているのです。だからこそ、バプテスマのヨハネも、ラクダの皮衣を着、イナゴと野密を食べていたと言われるほどの清貧をもった禁欲生活をしながら、自分の内に宿る罪と戦いつづけられなかったのです。

そんなわけで彼は、私より力のある方が、後からおいでになる。私はかがんで、その靴のひもを解く値打ちもない。私は水でバプテスマを授けたが、この方は聖霊によってバプテスマを授ける」と、そう言うのです。確かに、バプテスマのヨハネは、人々に自分が罪人であると言うことを自覚させました。そして、人々の心を神様に向けさせたのです。それは、とても大きな功績です。私たちの信仰は、自分の罪を認め、自分自身が罪人であることを認めるところから始まるからです。しかし、それだけで私たちの罪の問題が解決するわけではありません。先ほどの羽鳥先生ではありませんが、自分の力や頑張りでは、私たちを支配する罪に打ち勝ち、解放されることは出来ないのです。けれども、私のあとに来るイエス・キリスト様というお方は、私たちの罪を徹底的に赦し、私たちの根底から洗い清めてくださるのだと、そうヨハネはそう言うのです。

それは、完全な罪の赦しであり救いです。私たちが、自分の力や頑張るのではなく、イエス・キリスト様が私たちの罪を、今も完全赦し続けてくださっているのです。だからこそ、完全な罪の赦しであり、完全な救いなのです。私たちの教会は、このバプテスマのヨハネが語った聖霊のバプテスマを、私たちが完全に罪から洗い清められるということと結びつけて理解してきました。教会でよく言う「きよめ」と言うことです。そして、そのような理解は正しいものであると、私もそう思っています。それは、この「きよめ」というものが、神様の恵みによって私たちが、完全に神の許しの中にあり、私たちのすべてが神様によって受け入れられていると言うことの自覚的経験だからです。私たち一人一人は、本当に弱い存在です。罪に支配され、惑わされ誘惑される罪深い存在です。けれども、イエス・キリスト様は、そんな私たちの弱さや罪深さを知った上で、私たちを愛し受け入れて下さったのです。そして、そんな私たちのために身代わりとなって、十字架の上で、私たちの罪に対して下される神様の裁きを受けて下さったのです。

ですから神様の裁きは、イエス・キリスト様の十字架の死によって終わっています。このことを、信じ受け入れるならば、私たちの罪は、神様の前に完全に赦されています。神様の裁きはすでに終わっているからです。ラクダの皮衣を着、イナゴと野密を食べて暮らしていたバプテスマのヨハネが語る言葉は、私たちが罪人であることを教え自覚させます。また同時に、私たちは罪に決して打ち勝てない弱い存在であることを教えてくれています。だからこそ、私たちは、ヨハネのあとに来て、私たちの罪を過去においても、また現在において完全に赦すイエス・キリスト様を信じて生きていくことが大切なのです。それは、イエス・キリスト様は、私たちの弱さを知り、至らなさを知った上で、私たちのすべてを愛し受け入れて下さっているからなのです。

お祈りしましょう。