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羊飼い 『神の子の決意』
マルコによる福音書 1章9−13節
2005/8/21 説教者 濱和弘
賛美 155,175,259

さて、今朝は、マルコによる福音書1章9節〜13節までを、司式の兄弟にお読みいただきました。このマルコによる福音書1章9節〜13節までのうち、9節から11節までは、イエス・キリスト様が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた記事が書かれています。また、12節13節は、いわゆる荒野の誘惑という、イエス・キリスト様が洗礼を受けられた後に、40日の間に渡って荒野で断食をして過ごされ、そしてサタン、日本語では通常悪魔と訳されますが、そのサタンの試みに合われたと言う出来事について記されています。私は、この聖書の二つの記事が書かれているところから「神の子の決意」というタイトルで、説教を致したいと思っています。それは、神の一人子であるイエス・キリスト様にとって、バプテスマのヨハネから洗礼を受けると言ったことや、荒野でサタンの試みに合うといったことは、尋常なことではないからです。尋常なことではないからこそ、私は、そこに、神の一人子であられるイエス・キリスト様のなみなみならない決意を見るのです。

それでは、いったいどうして、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた事が尋常ならぬ出来事であり、荒野でサタンの試みに合うことが、尋常ならぬ出来事であったのか。それは、一言で申し上げるとするならば、イエス・キリスト様が、神の一人子であり神であると言うことと決別して、人として生きるということを示す出来事であったと言えるからです。そんなわけで、今朝は、特に前半部分のイエス・キリスト様の洗礼の出来事から、神の子イエス・キリスト様の決意とは何であったのかについて考えてみたいと思っています。先週のお話し致しましたように、教会でも、洗礼つまりバプテスマを授けますが、この洗礼はバプテスマのヨハネが、ユダヤの全土、またエルサレムの全住民に授けていた者とは異なります。

私たちの教会をはじめとして、多くの教会では洗礼準備会というものを持ちます。私も牧師になって10数名の方に立ち会ってまいりましたが、そのつど、7、8回に渡って洗礼準備会を致してきました。その時に、教会で授ける洗礼の意味と言うことについてお話しさせて頂いておりますが、一つに洗礼とは、罪人であった古き人に死に、新しくイエス・キリスト様にある永遠の命に生きるものと生まれ変わったと言うことを意味しています。旧講壇の所には洗礼槽がありますが、私たちの教会では、だいたいは、その洗礼槽に水を張り、その水の中にザパっと全身を沈める全浸礼という形洗礼を行います。そもそも、洗礼と言う言葉のもととなる言葉であるβαπτιζωと言う言葉は、沈めると言った意味を持つ言葉です。どうして水にザパっと全身を沈めるかというと、全身を水に沈めるそのことで、私たちが、罪人としての古き人が死んだのだと言うことを示しているのです。そして今度は、その沈んだ状態から、ガパっと身を起すことは、死んだ者が、新しい命に生まれ変わったと言うことを表わしています。つまり、水に沈め、そこから起きあがることによって、死と復活を意味しているのです。

もちろん、私たちが、水にザパっと沈められたときに、本当に死んでしまうわけではありません。もちろん、沈めっぱなしにしておいたならば死んでしまいますが、当然、洗礼を授ける牧師は、そんなことはしません。ですから、ガバっと水から起されたと言っても、本当に一度死んで生き返ったわけでもありません。ですから、洗礼が、死んだ者が、新しい命に生まれ変わったと言うことを表わしているということは、神様の内にある霊的な出来事であると言えます。あえて霊的な出来事という表現をいたしましたのは、洗礼という者が、単なる象徴ではないからです。象徴とは、ある出来事を別のもので言い表すことです。しかし、洗礼は、罪人である私たちが死んで、新しく永遠の命に生きるということを、別のもので言い表したものではありません。洗礼の時に、本当に私たちの古き罪人としての命に死に、新しく神の与える永遠の命を持って復活したのです。というのも、洗礼は神の約束の宣言だからです。神の約束の宣言ですから、それは神の言葉だと言えます。神が洗礼という一連の行為に置いて、私たちに約束の言葉をお語りになっているのです。

神の約束は、必ず事実となり出来事となります。旧約聖書は、ほとんどがヘブル語でかかれていますが、ヘブル語で言葉を意味するダーバールと言う言葉は、出来事という意味でもあります。それは、語られた言葉は、必ず出来事となるという考え方からから来ています。もちろん、それが人間の言葉ならば、言ったことが現実の出来事にならないと言ったことはあり得ることです。ですからこのダーバールと言う言葉が人間の言葉を基準に考えているならば、決して言葉は出来事にはなりません。しかし、神が語られた言葉は、必ず出来事になるのです。そういった意味では、まさに神は、有言実行のお方なのです。実際、聖書の最も始めである創世記の冒頭には、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」と記されています。そのあとも「神は、また言われた『水に間におおぞらがあって水と水を分けよ』。そのようになった。」とあります。そのように、神の語られた言葉は、一つ一つ出来事になっていったのです。

この創世記の出来事のように、神の語られたことは、必ず出来事となって実現すると言うのが、聖書の言うところであり、まさにそのような考え方の上に、ヘブル語のダーバールと言う言葉があるのです。この有言実行の神様が、洗礼という行動によって示された神の言葉を持って、私たちが、「古き罪人としての命に死に、新しく神の与える永遠の命を持って復活する」という約束を宣言された以上、それは必ず現実になるからです。ですから、今は洗礼を受けたからといった、即座に実際に死んで復活するということではありませんが、その神の約束は必ず現実になるのです。だからこそ、洗礼は、私たちが、罪人としての古き人が死に、その死んだ者が、イエス・キリスト様にある新しい命に生まれ変わったと言うことを表わしていると言えるのです。そして、洗礼の持つもう一つの意味が、私たちが神の子であるイエス・キリスト様と一つに結ばれるということを意味しています。初代教会以来、洗礼は教会の入会式という意味もありました。洗礼を受けることで教会に迎え入れられたのです。

もちろん、人が救われるのは洗礼を受けたからではありません。自分の罪を認め、神を信じ、イエス・キリスト様が自分の罪の身代わりとなって十字架の上で神の裁きを受けて死んでくださった事を信じることで救われます。つまり、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じる信仰によって救われるのです。この救いの恵みにあずかったからこそ、私たちは洗礼を受けるのです。同時に、この信仰は、信仰告白として神と人と似言い表されるべきものです。ですから、洗礼とは、私たち人間にとっては、かっみに対する信仰告白の言葉でもあるのです。教会とは、この信仰告白によって結びつけられた神の民です。例えば、私たちは日本ホーリネス教団の信仰告白によって結びつけられた民であると言えます。もちろん、そのホーリネス教団もまた、古代から受け継がれてきた、ニケヤ・カルケドン信条や使徒信条を通して、すべての教会に結びつけられています。教会はキリストの体です。それは、私たち三鷹キリスト教会が、キリストの体としてこの三鷹の地にあって、また横浜や大宮で伝道をし、イエス・キリスト様ならこうなされたであろうと言うことを実際に行うキリストの体であるということです。

しかし、キリストの体は、何も三鷹の地にだけに縛られているわけではありません。私たちの神は全世界の神です。ですから、全世界にある教会のすべてはキリストの体なのです。このキリストの体なる教会に私たちが迎え入れられ、イエス・キリスト様と一つに結びあわされたと言うことが、洗礼と言うことが指し示すもう一つの意味なのです。ですから、イエス・キリスト様を信じ受け入れたものは、洗礼を受けるべきです。それは受けても受けなくても良いと言ったものではないのです。ところが、ヨハネによるバプテスマは、罪の悔い改めるためのバプテスマです。それは、自分たちの罪を洗い清めるといった意味合いのものです。日本流に言えばみそぎと言った感じです。だとすれば、本来はイエス・キリスト様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受ける必要などなかったはずです。実際、マタイによる福音書3章13節から16節までを見ますと、バプテスマのヨハネは、彼からバプテスマを受けようとしてやってこられたイエス・キリスト様に対して、次のようにいって、バプテスマを受けることを思いとどまらせようとしています。

「わたし(バプテスマのヨハネ)こそ、あなた(イエス・キリスト様)からバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになられるのですか。」バプテスマのヨハネが、ユダヤの全土とエルサレムの全住民に、悔い改めのバプテスマをさずけていたのは、彼が、「らくだの毛衣を身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた」と言うほど、徹底した禁欲生活をしていたからです。ユダヤの全土とエルサレムの全住民にまさって、罪に対して身を厳しく律しているバプテスマのヨハネが、人々の罪を糾弾し、悔い改めのバプテスマを受けるようにと語ったからこそ、人々は彼の言葉を聞いて悔い改めのバプテスマを受けたのです。もし、バプテスマのヨハネの生活が、ユダヤの全土とエルサレムの全住民よりも自堕落なものであったとしたならば、誰も彼の言葉に耳を傾け名立ったのではないかと思うのですが、皆さんは、どう思われるでしょうか。

そのバプテスマのヨハネをもってでさえ、イエス・キリスト様の前では、「わたし(バプテスマのヨハネ)こそ、あなた(イエス・キリスト様)からバプテスマを受けるはずですのに、」と言い、「わたしはかがんでイエス・キリスト様のくつのひもを解く値打ちもない」とそう言うのです。それは、イエス・キリスト様が罪とは全く無縁な存在だったからです。いかにバプテスマのヨハネが、徹底した禁欲生活をしていたといっても、罪とは無縁な存在ではありません。罪とは無縁ではないからこそ、徹底した禁欲生活をしなければならなかったのです。そんなバプテスマのヨハネだからこそ、「わたしはあなたからバプテスマを受けるはずですのに」と、そう言うのです。けれども、イエス・キリスト様は、思いとどまらせようとするバプテスマのヨハネに対して、あえて彼からバプテスマをお受けになられました。罪とは無縁の神の子が、悔い改めのバプテスマを受けられたのです。

なぜ、罪とは無縁のイエス・キリスト様が、あえてバプテスマのヨハネから、罪人が受ける罪の赦しのための悔い改めのバプテスマをお受けになったのかに関しては、一般的には、イエス・キリスト様が、罪人と同じ立場に立たれた、つまり私たち罪人と一つになられたということをお示しになるためであったと言われます。さきほど、教会で授ける洗礼、つまり教会で授けるバプテスマは、私たちがイエス・キリスト様と一つに結ばれることだといいました。しかし、イエス・キリスト様は、その教会の洗礼とは逆に、神の子が私たち罪人と一つに結びあわされるために、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのです。ですから、イエス・キリスト様が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたと言うことは、神の子が罪人と結ばれ共に歩んでくださるという決意を宣言したことであったと言うことも出来るのです。つまり、イエス・キリスト様は私たち罪人の仲間となり、友となってくださったのです。

もちろん、いかにイエス・キリスト様は私たち罪人の仲間となり、友となってくださったとしても、イエス・キリスト様は私たちと一緒に罪を犯すような生き方を友にされたわけではありません。バプテスマのヨハネが授けていたバプテスマは、罪のゆるしのための悔い改めのバプテスマです。ですから、バプテスマのヨハネの所に、この「罪のゆるしのための悔い改めのバプテスマ」を受けに来ていた人たちは、自分の罪を認め、罪から離れて、神を信じて生きて行きたいと思っている人たちです。イエス・キリスト様が友となり仲間となって下さったお方は、自分の罪を悔い、罪から離れたいと願宇ような人たちなのです。けっして罪を犯すことを悔やむことなく平気でいられるものや、自分の罪を認めず、自分は罪人でも何でもないと言っていられるような傲慢なものとは、共に歩むことは出来ないのです。もちろん、イエス・キリスト様が、人間としてこの世にお生まれになり、飼い葉桶に寝かされたときから、イエス・キリスト様は、私たち人間と一つになってくださいました。飼い葉桶に寝かされるほど、みじめな誕生をしたお方は、貧困や病と言った人間の苦しみを共におわれたのです。ですから、イエス・キリスト様の御生涯は、貧しい者、病める者、悲しむの者の友となり、慰め、励まし、癒されたのです。

私と家内とは、一昨日「マザー・テレサ」という映画を見に来ました。みなさんもご存知のマザー・テレサの生涯を映画化したものです。マザー・テレサの生き方は、まさに貧しいものの中のもっとも貧しい人と共に生き、病める人、悲しむ人と一緒に歩む生き方でした。私の知り合いは、そのようなマザー・テレサの生き方をヒューマニズムだと言いましたが、それは間違っています。彼女の生き方は、イエス・キリスト様のこの地上での御生涯のその足跡をたどって生きる生き方だと言えます。そして、貧しい者、病める者、悲しむの者の友となられたイエス・キリスト様にお仕えする生き方だったのです。ですから、プロテスタント・カソリックという立場の違いを超えて、私たちはマザー・テレサの生き方の延長線上に、私たちと一つに結びあわされてた人となられた神のお姿を見ることができます。しかし、同時に、その人間の世界に救う物質と魂の貧困の中で、貧しい者、病む者そして悲しみ、苦しむ者と共に生き、慰め、励まし、癒されたイエス・キリスト様であっても、私たちの罪に対して無関心で、自分の罪に無関心で罪から離れたいと思わない者や自分には罪がないと言うような人たちとは、決して一つには、なられなかったのです。

もし、仮に本当に自分には一切の罪や汚れがないと言う人がおられ、本当にそうであるならば、確かにその人とイエス・キリスト様は何の関係もありません。その人は、堂々と神様の前に進み出ることが出来ます。しかし、私たちの中にたった一つでも罪があるならば、また、心の中によぎる醜さや汚れた思いがあるならば、その人は完全な聖さを持たれる神の前には、立つことが出来ません。完全な純白の布は、一点の染みや汚れ受け付けないからです。けれどの、そのような私たちの罪や心の醜さや汚れ、これらすべてを聖書は罪と呼ぶのですが、その罪を悔い、そのような罪から離れたいという思いが、あなたの内あるならば、イエス・キリスト様は、あなたに無関心ではいられないのです。そして、あなた友となり、仲間となってあなたと一緒に歩んで行こうとそうおっしゃっておられる。そのキリストの固い決意が、このバプテスマのヨハネから洗礼を受けるという出来事の中に見出すことが確かに出来ると、私は、そう思うのです。

そして、その固い決意の延長線上に、イエス・キリスト様の十字架の死という出来事があるのです。イエス・キリスト様は、そのように自分の罪を悔い、罪から離れたいと思うものために、十字架の上で罪の赦しを成し遂げてくださったのです。私たちは、本当に弱い存在です。罪を犯さないようにと思っても、完全に罪から離れきることが出来ないものです。怒りや憎しみではなく愛に満たされたいと思っても、やっぱり人を憎んだり、妬んだりするような者です。汚れた思いではなく、清い心を持ちたいと思っても、やっぱり汚れた思いが心をよぎってしまうような者です。けれどの、そんな私たちの罪に対して下される神の裁きを、すべて身におってイエス・キリスト様は十字架の上で死なれたのです。私たちと一つに結ばれたお方が、十字架の上で、私たちに対して下される神の裁きを受けて下さったのです。

イエス・キリスト様が、私たちに対して下される神の裁きを受けて下さった以上、もはや私たちの罪に対する神の裁きは、イエス・キリスト様の十字架の上で終わりました。ですから、神を信じ、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主と信じる者の罪は、すべて赦されているのです。この罪の赦しという恵みは、罪を悔いる者と一つになられる決意を示されたイエス・キリスト様のバプテスマの出来事から始まっています。だからこそ、私たちは、私たちの罪と心の醜さや汚れを語らなければなりません。そして、その罪を悔い改めることの大切さを語らなければならないのです。先程のマザー・テレサの生き方は、クリスチャンの大切な生き方の一つです。その生き方の延長線上には、飼い葉桶に寝かされておられるイエス・キリスト様のお姿があります。ですから、教会は、彼女の生き方に見習うべきであります。同時に、教会は十字架の上に磔られたイエス・キリスト様を見据えた生き方をしなければなりません。それは、イエス・キリスト様のもたらした罪の赦しを語り続けるところの、伝道に生き、罪ゆるされたことを心から喜んで生きる教会の生き方なのです。

お祈りしましょう。