『揺るぎない決意』
マルコによる福音書 1章9−13節
2005/8/28 説教者 濱和弘
賛美 20,344,205
さて、先週は、同じマルコの福音書1章9節から13節までから、前半の11節までのイエス・キリスト様が洗礼を受けられたということに着目して、説教をお取り次ぎ致しました。そこで、お話し致しましたことは、イエス・キリスト様が、バプテストのヨハネから罪の悔い改めの洗礼を受けられたと言うことは、神の子が、罪を悔い、罪から離れたいと願う人間と一つに結び合わされて下さったと言うことです。いうなれば、神の子であるイエス・キリスト様は、罪を悔い、罪から離れたいと願う人間の仲間となり、また友達となって一緒に歩んで下さる決意を示して下さったと言うことです。その延長線上には、私たちの罪を赦すために十字架の上で、私たちの身代わりとなって神の裁きを受けられたイエス・キリスト様のお姿があります。イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様と一つに結びあわされた人々すべてを代表して、十字架の上で神の裁きを受けられたのです。ですから、罪を悔い、罪から離れたいと願うにおいてイエス・キリスト様に結びつけられてものに対する神の裁きは、すべて終わっているのです。ですから、今日、この礼拝に集われているお一人お一人も、自分の罪を悔い、罪から離れた生き方をしたいと願うならば、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主と信じることによって、その罪が赦され、救われるのです。
もとより、この人を罪と、罪の裁きから救い出すということは、イエス・キリスト様が背負った使命でありました。父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神が、罪人である私たち人間を救いたいという思いを背負って、神の子は人となられたのです。イエス・キリスト様が、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったときに、「これは、私の愛する子、私の心にかなう者である」という言葉が、あったとマルコは記しています。またそのときに聖霊が鳩のように下ったとも書いてあります。そこには、まぎれもなく父なる神と子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神が、私たちに対して救いの道を開いておられるその意志を、明確に読みとることが出来ます。その第一歩を踏み出したイエス・キリストが味われたのが、荒野でサタン(悪魔)から試みを受けられると言う出来事でした。マルコによる福音書を見ますと、そこには、「それからすぐに、御霊がイエスを、荒野に追いやった。イエスは40日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあった。」とそのように書いてあります。
ところが、マタイによる福音書4章1節2節やルカによる福音書4章1節2節を見ますと、イエス・キリスト様はこの荒野での40日間のあいだ、断食をしていた事がわかります。断食というのは、皆さんもご存じのように、食べ物を断つということですが、断食の仕方というものは、いくつかあります。たとえば、朝食だけを食べないと言った形の断食もありますし、一日中、一切食べ物を口にしないといった断食のやり方もあります。もちろん、食物を一切取らないと言っても、水やお茶といった水分は取るのですが、とにかく食物は何も口にしないのです。おそらくこのとき、イエス・キリスト様がなされた断食というのは、一切食事をしないと言ったものではなかっただろうかと思われます。私も、今までに、一切食事をしないといった形の断食を、何度かしたことがありますが、1日とか、3日とか、一番長いときで一週間強ぐらいのものでした。一週間と言いますと、ずいぶん大変なように思われますが、本当につらいのは最初の三日間ぐらいでした、それを超えると、その後は少し楽になります。そして一週間を超えると、また厳しい空腹感に襲われるのです。そうやって、苦しい時期と比較的楽な時期とを周期的に繰り返すのですが、それにしても40日間というのは、決して楽ではない、大変なことだったろうと思います。その大変なことを、イエス・キリスト様はなさったのです。
言うまでもないことですが、断食は何日間すると言った長さが問題ではなく、また断食それ自体が目的でもありません。断食をするのは、祈りに集中するとか、節に祈り求めたい課題に直面したときに、自らを厳しい状況に追い込んで、その課題に真剣に向き合い、取り組むためです。ともすると、断食をするというと、なにやら信仰深い態度や、熱心な信仰のように思われてしまいがちです。しかし断食は、いわば、一つの方法にしかすぎません。ですから、断食をすることで、かえって空腹感が気になって祈りに集中出来なくなったり、自分が取り組む課外より空腹感の克服の方が中心になってしまうならば、断食をする意味がなくなります。そんなわけで、わたしも皆さんに必ずしも断食を勧める訳ではありません。もちろん、断食と言った方法によって、祈りに集中し問題や課題に真剣に向き合あえるのであるならば、断食をすることは良いことです。しかし、もしそうでないのなら、むしろ、自分自身に合った「祈りに集中するため方法」や、「問題に真剣に向き合い取り組む方法」を考えるべきだといえます。問題は、方法ではなく、取り組むべき課題だからです。
ですから、イエス・キリスト様が断食なさったことについても、断食なさったと言うこと以上に、断食しなければならなかった目的が何かが大切です。ところが、このマルコによる福音書には、イエス・キリスト様が断食をなされた目的はおろか、40日間も断食したと言うことすら書かれていません。これは、マルコによる福音書の著者であるマルコが、着目し伝えたのは、断食という行為以上に、イエス・キリスト様がサタンに試みに遭われ、それに打ち勝たれたと言うことなのです。そのように考えると、イエス・キリスト様が、荒野であえて40日間も断食したその目的は、断食と言う行為を通してサタン(悪魔)から試みを受けられる事であった言うことが出来るように思われます。実際、マタイによる福音書をみますと、「イエスは御霊によって、荒野に導かれた。悪魔(つまりサタン)に試みられるためであった。」とさえ書かれているのです。
もちろん、聖書を書いた聖書記者の背後には、聖霊なる神様がおられます。ですから、そういった意味からも、イエス・キリスト様が断食をなされた一番の目的は、むしと断食の後にサタンから試みに遭われると言うことにあったと言うことが出来るだろうと考えてもよろしいだろうと思うのです。つまり、このサタンの試みに遭うといったことこそが、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエスキリスト様にとって意味あることだったということです。先程申し上げましたように、イエス・キリスト様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けるということは、父なる神、聖霊なる神の御思いにかなうことでした。だからこそ、イエス・キリスト様が洗礼を受けられたときに、聖霊が鳩のように下ってこられたのですし、天から「あなたは私の愛する子、私の心にかなうものである」という父なる神の声があったのです。ですから、そのイエス・キリスト様の洗礼の後にサタンから誘惑を受けられてということは、荒野で罪人である私たち人間を救いたいという思いと思いを一つにした子なる神が、救い主キリストとして歩み出す、その第一歩として、サタンから試みに遭われると言うことが、重要な意味を持っていたと言えるだろうと思うのです。
と申しますのも、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられるということは、先週から申しておりますように、神の子が、罪を悔い、罪から離れたいと願う人間と一つに結び合わされて下さったと言うことです。しかし、いかにおとめマリヤより生まれ、人としての肉体をもち、さらには、その意志においても、私たち人間と一つに結びあわされる決断をしたとは行っても、イエス・キリスト様は子なる神であられることに違いはありません。その神の子が、サタンから試みに遭われたのです。新約聖書の福音書を見てまいりますと、イエス・キリスト様は、様々な場面で、悪霊と言ったものを、神の子の権威で命令し、追い払うことの出来るかたであることがわかります。たとえば、マタイによる福音書8章28節以降には、このような記事が出ています。「それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきて、イエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、誰もその辺の道を通ることが出来ないほどであった。
すると突然、彼らは叫んで言った。『神の子よ、あなたは私どもの何の係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか』。さて、そこからはるかに離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、『もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわしてください』。そこで、イエスが『行け』と言われると、彼らは出ていって、豚の中に入り込んだ。すると、その群れ全体が、掛けから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。」これは、有名なレギオンと呼ばれる多くに悪霊をイエス・キリスト様が追い払われた記事ですが、この時、悪霊たちは、イエス・キリスト様が神の子であることに恐れを示しています。また、マルコによる福音書の3章14節15節などを見ますと、イエス・キリスト様は12使徒と呼ばれる弟子たちに「悪例を追い出す権威」を持たせたとさえかかれています。このように、イエス・キリスト様は悪霊をも追い出す権威を持っておられるのです。それ以外にも、風や嵐を静めると言った、大自然をも支配するような権威や、病気を治す力や権威と言った者をイエス・キリスト様が持っておられたことを記しています。そしてそれは、神の子としての、つまりはイエス・キリスト様が神であられるがゆえの権威なのです。
ところが、この荒野でのイエス・キリスト様は、まさにサタンから試みに遭われておられるのです。神としての権威をお用いになれば、サタンなど近寄ることも出来ないであろうはずなのに、そのお方がサタンから試みられているのです。試みと書かれていますが実際には、誘惑です。神であるお方が、サタンに誘惑されているのです。その誘惑の内容が何であったのかについては、マルコのよる福音書は何も記していません。ですから、その内容は、マタイによる福音書あるいはルカによる福音書に頼らなければなりませんが、それらによると、おおよそ次の3つです。一つ目は、40日の断食によって空腹になられたイエス・キリスト様に「もし神の子なら、パンを石になるように命じなさい」と言うことです。空腹なお腹に、石をパンに変えて食べなさいと言うのは、実に魅力的な誘惑であったろうと思われます。二つ目は、イエス・キリスト様を神殿に連れて行き、「もし神の子なら、そこからから飛び降りてみなさい」とそのように言います。「きっと神が天使に命じてあなたを支えて下さる」とそう言うのです。三つ目は、この世のすべての国々とその栄華をみせ、サタンを拝むなら、それらをすべて差し上げようといったものです。
このサタンの、一つ目と二つ目の誘惑は、「もし神の子なら」という呼びかけから始まっています。「もし神の子なら、パンを石になるように命じなさい。」とか「もし神の子なら高い神殿から飛び降りてみなさい。神が支えてくれるだろう」といって誘惑するのは、イエス・キリスト様なら出来ると思うから言うのです。はじめから出来ないことを、やって見せてごらんといっても、それは無理難題をふっかけていることにしか過ぎません。それでは誘惑にも何にもなりません。出来そうと思うことを持ちかけるからこそ、誘惑になるのです。実際、イエス・キリスト様は、嵐を静める権威を持った子なる神です。ですから、パンを石に変えることできるでしょうし、神殿から飛び降りても、天使が支えて地面に打ち付けられるといったこともないだろうと思います。子なる神として、神として振るまえば、サタンが示した二つの誘惑は、出来ないことではないのです。ですから、サタンの一つ目の誘惑、二つ目の誘惑というのは、罪を悔い、罪から離れたいと願う私たちと一つになり、人となって下さったイエス・キリスト様に、神に立ち返り、神として振る舞いなさいという言う誘惑であったとも言えます。
イエス・キリスト様は、そのサタンの誘惑を退けられたのです。それによって、バプテスマのヨハネから洗礼を受けることによって示された、罪を悔い、罪から離れたいと願う私たちと一つに結ばれて、私たしを、罪とその罪の裁きから救い出す、救い主としての揺るぎのない、固い決意を示されたのです。そのように、神として振る舞うことを拒否され、人として歩むことに対するゆるぎない決意を示されたイエス・キリスト様に、対してなされた3つ目の誘惑が「サタンを拝むなら、この世のすべての国々とその栄華をみせ、それらをすべて差し上げよう」といったものです。」この世のすべての国々とその栄華を治めると言ったことは、人として歩まれる決意を示したイエス・貴意スト様にとっては、魅力的なものであったと思われます。この時に、「すべての国々にとその栄華」といわているものは、おそらくはその当時のローマ帝国を指していただろうと思われます。そういった意味では、ローマ帝国の支配者が、民衆からすでに神のように崇められ始めていたということは、先週お話し致しました。そのような中で、ローマ帝国を支配する支配者となるということは、イエス・キリスト様が崇められ、人々がイエス・キリスト様の言うことに聞き従うと言うことです。
だとすると、人々に神に立ち返るようにイエス・キリスト様が号令をかければ、人々は、その支配者としてのイエス・キリスト様の言葉通りに聞き従うという事になります。そうすれば、イエス・キリスト様の救い主としての使命は、容易に達成されるかのように思います。しかし、本当の救いは、罪を悔い、罪から離れたいと願う人の心の中から始まるものです。けっして権力や権威ある存在から命令されて聞きいれるものではありません。ましてや、ローマ帝国の支配者としてとなれば、それはまさにこの世の中の権力構造によるものです。ですから、そのような地位から、号令をかけ、人々がそれに従ったとしても、そこに救いの出来事は起こってこないのです。救いの出来事は、自分自身が神の前に罪人であることを認め、その罪を悔い、罪から離れて行きたいと願う、切なる心の思いなしには、起こりえないのです。この世のすべての国々とその栄華を手に入れるということ、それは一件、目的を達成するのには、賢い知恵あるやり方のように思われます。しかし、サタンが示した方法が、どんなに知恵ある賢いやりかたに見えても、それに聞き従わずに、神が示した方法に従われたのです。
その神の示した方法とはただ、その罪を悔い、罪から離れて行きたいと願う人々の仲間に、それは私たちのことでもあるのですが、その私たちの仲間として、同じ苦しみ悲しみを味わい、共に生きることなのです。そして、その私たちの苦しみや悲しみを十分に知ったお方が、十字架の上で、私たちの罪の身代わりとなって死なれることで、私たちの罪を示し、またその罪を赦される神の愛を示されることで、私たちに心の底から罪を悔い、神を求めるという方法を歩まれたのです。みなさん、近年、もっとも効率の良い伝道と称して、奇跡や癒しといったセンセーショナルな話題によって、人々をはっと驚かせ、人々を救いに導くと言った動きがありました。最近では、さすがに奇跡ウンヌンといったことは、以前よりはあまり耳にしなくなりましたが、それでも、礼拝の賛美を楽しいものにすることや、神を信じることで具体的な問題が解決すると言ったことを全面に押し出すことで、伝道すると行ったことがないわけではありません。
もちろん、それで本当に罪の悔い改めに導かれ、心から神を信じクリスチャンになられる方がおられるのでしょうから、それも全く否定するわけではありません。けれどの、楽しい賛美を歌い、楽しい雰囲気の礼拝をもつこと、あるいは奇跡や癒し、あるいは、神を信じることで問題が解決する等と言ったことを是面に打ち出して、それが効果的な伝道であるとするならば、私たちは、そのようなことには注意しなければなりません。それは、一歩間違えば「この世のすべての国々とその栄華をみせ、それらをすべて差し上げよう」といったものと、同じようなものになってしまうからです。もちろん、今の教会の中で、そのような動きをなさっている方が、サタンを拝んでいるというのではありません。しかし、一歩間違うと、私たち人間の知恵や賢さといったものが、良いと思う方法に頼ってしまう危険性があるというのです。みなさん、私たちの教会は、今日に至るまで、そのような規制とか癒しといったセンセーショナルな事を伝道の手段と考えてきませんでした。また礼拝を音楽などによって感情が高揚し、楽しくなるようなものにすることで、人々の心を引きつけるようなこともしてきませんでした。そしてそれは、決して間違っていなかったのです。
イエス・キリスト様は、子なる神としての力や権威をお示しになることや、この世の権威や力によって人々を救いに導かれる道を退けられました。そして、最も弱い人間の仲間として共に生きられることで、私たち一人一人を救おうとなさったのです。そのためには、神としての力や権威をお示しになることも、この世の知恵が「良し」と考えることも退けられ、ある意味では最も愚かと思われるような方法を選ばれたのです。それは、私たちの心が、しっかりと、自分の犯したことや、醜い心汚れた心といった、行為の罪、内面の罪に向き合う為なのです。そして、そのような心が、神をしたい求めるところに、イエス・キリスト様の十字架による救いの出来事が起こるのです。イエス・キリスト様が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、イエス・キリスト様は、私たち人間と同じ弱さの中で生きて下さるということをお示しになりました。だからこそ神なるお方がサタンから誘惑を受け、荒野で獣によって身に危険が及ぶといった中では、御使いである天使に、仕え支えられなければならなかったのです。
みなさん、そのイエス・キリスト様は、人としての私たちの弱さを十分に知っておられます。ご自身では、誘惑に負けることはありませんでした。が、私たちが誘惑されるとき、揺らいでしまうその心の弱さを知っておられるのです。それは、イエス・キリスト様御自身が、荒野でサタンに試みられ、誘惑され事を通して、自らも経験なさったことだからです。そこにおいては、イエス・キリスト様ですら、人となられた以上は、御使いの助けと支えが必要でした。ですから、私たちが誘惑や試みにあったときに、自分自身でそれに打ち勝つことが出来ないこともあるのだと言うことも、ちゃんとご存じなのです。愛する兄弟姉妹のみなさん、そのお方が、私たちと共に歩いて下さっているのです。イエス・キリスト様は、私たちの弱さを知り、私たちを助け支えて下さっているのです。イエス・キリスト様を、御使いが支え、助けたように、私たちをイエス・キリスト様が、助け支えて下さるのです。
私たちの人生には、様々な誘惑や試みがあります。その誘惑に対して、自分の力でそれに打ち勝てれば、それにこしたことはありません。けれども、自分の力で打ち勝てないようなものだってあります。そんな時には、イエス・キリスト様が、助け支えて下さるのです。イエス・キリスト様が、私たち罪人の仲間となり、共に歩んで下さると言うことは、そう言うことでもあるのです。また、それでも私たちは、誘惑に負けてしまったということもあるでしょう。しかし、そのような、弱さを露見した私たちであったとしても、私たちの弱さを知るイエス・キリスト様は、私たちの弱さを知るがゆえに、十字架に架かって死なれることで、私たちの犯した罪をすべて赦して下さっているのです。イエス・キリスト様が洗礼を受けられたと言うことと、荒野でサタンの試みに遭われたと言うことは、このように、一人子なる神が、人として私たちと共に歩むことで私たちを愛し、憐れみと慈しみという恵みを与えて下さることを、私たちに示して下さった出来事でもあるのですね。
子なる神であるイエス・キリスト様は、私たちの中で神としての権威を用いることや、この世の権威を振りかざすことによって、私たちを自らに従わせようとはなさいませんでした。そのような方法は、すべて拒否されたのです。むしろ、イエス・キリスト様の方から、憐れみと慈しみという恵みを与えて下さるというゆるぎない決意をもって、私たちに近づき、歩み寄って下さいました。そして、私たちの仲間となって、私たちに寄り添い、共に歩んで下さったのです。神が、まず私たちを愛して下さったのです。ですから、私たちも、この神の御子の愛と慈しみを信じて、このお方と共に歩んでいきたいと思います。神が、最初に私たちの方を愛して下さったのですから、私たちも神を愛する者として、イエス・キリスト様と共に歩んでいきたいと思うのです。それは、どんなときにも、イエス・キリスト様が、私たちのそんな罪や心の醜さ汚れであっても、すべて赦し、救って下さる救い主だと信じて続けていくことなんですね。
お祈りしましょう。