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羊飼い 『救い主の第一声』
マルコによる福音書 1章14−15節
2005/9/4 説教者 濱和弘
賛美 18,449,145

さて、先週、先々週の礼拝説教を通しまして、私たちは、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、荒野での試みに遭われる事を通して、イエス・キリスト様が、罪を悔い、罪から離れていきたいと願う者達と一つに結ばれて下さった事を知りました。今日の礼拝説教のテキストとなった箇所は、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、荒野での試みに遭われたイエス・キリスト様が、私たちに向けて語られた最初のメッセージです。いわば、イエス・キリスト様の救い主としての第一声であります。イエス・キリスト様が洗礼を受けられたことに対して、それは救い主メシヤの就任式であるといわれる方がいらっしゃいます。それは、イエス・キリスト様が洗礼を受けられるということを通して、自分の罪や心の汚れ、醜さを悔い、それから離れたいと願う人と一つに結ばれる意志を明確にお示しになったことを考えると、極めて適切な表現だと言えます。私たちと一つに結ばれているからこそ、私たちの代表として神の裁きを身に負って十字架につけられ、私たちの罪を贖うことが出来たからです。まさに、私たちと一つに結ばれたお方だからこそ、私たちを罪から救う、救い主となることが出来たのです。

今は、ちょうど衆議院選挙のただ中ですが、選挙の公示の時に立候補者や各党の党首が語る第一声は、その候補者や各政党が政治家として人々に伝えたい、政策や政治に対する取り組み方が現われています。それになどらえていうならば、イエス・キリスト様が救い主として、人々に示した救い主として、人々に伝えたいことの中心が「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。という、神の国の到来を告げるものなのです。私たちは、キリスト教は、御利益宗教ではないといいます、それは、ひとえに、このキリスト教の信仰の中心が、私たちの罪を赦しにあるからだです。そして、その罪の赦しは、天国、つまりやがて来る神の国に対する希望につながるものです。そういった意味では、確かに、神を信じることは、私たちの現世的な願望や欲求を満たすものではありません。しかし、だからといって、キリスト教の信仰が、今、ここでの私たちに、将来の希望以外に何をもたらさないかというと、必ずしもそうと言うわけはないように思います。キリスト教の信仰は、今、ここでの私たちの歩みにも、豊かな恵みをもたらしてくれるものでもあるのです。

と申しますのも、イエス・キリスト様が私たちと一つに結ばれ、私たちの救い主となられたと言うことは、単に私たちを罪から救い、罪に赦しを与えるといった意味においてだけの、「救い主」ということではないからです。イエス・キリスト様が私たちと一つに結ばれたと言うことは、私たちの味わう試練や、試み、苦しさや悲しみをも同じように味われということでもあります。実際、イエス・キリスト様は、洗礼を受けられた後、40日間荒野に留まられ断食をした後に、サタンからの試みに遭われました。そして、人として、苦難や試練、誘惑といったものを、自ら経験なさったのです。この、人として苦難や試練、誘惑といったものを経験なされた方が、私たちと共に歩んで下さるのです。それは、神の一人子であるイエス・キリスト様というお方が、私たちの人生の様々な問題や試練の中にあっても、私たちと共に歩き、共に生きて下さるということでもあります。そしてそれは、イエス・キリスト様が、私たちの人生の様々な問題や、試練の時に、私たちと共に歩き、私たちが決して倒れないように、慰め励ましながら、守り支えて下さると言うことなのです。

ですから、イエス・キリスト様は、私たちの罪を赦し、やがて来る神の国に対する希望を与えて下さる救い主というだけではありません。イエス・キリスト様は、私たちと共に歩んでくださることによって、私たちに、今という時に生きる力と希望を与えてくださる「救い主」でもあるのです。ですから、イエス・キリスト様は、将来に対する希望をもたらす救い主であると同時に、今の希望を与える救い主でもあります。それはつまり、神の国は、やがて来る将来の出来事であると同時に、今の私たちの生活の中にも、すでに神の国は存在していると言うことでもあるのです。

昨日、私は椙浦由宇さんの結婚式の司式をいたしました。椙浦さんのご一家はお父様が入院中という事情もあり、ご家族だけに見守られての結婚式でしたが、お二人のにこやかな笑顔によって、本当にいい結婚式となりました。その式の中で、私は短くお勧めの言葉を述べさせていただいたのですが、そのおお勧めで、私は、次のようにお二人に述べさせて頂きました。「今日、私は、夫婦となられたお二人に聖書の言葉をお贈りしたいと思います。それは、旧約聖書の伝道の書4章9節から12節までの言葉です。『ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れるときには、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またふたりが一緒に練れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、一人を攻め撃ったなら、ふたりでそれに当るであろう。三つよりの綱はたやすく切れない。』この言葉は、私ども夫婦が結婚する際に、神から与えられた言葉であり、私ども夫婦にとっては特別な言葉です。その言葉を、お二人の幸せを願ってお贈りしたいと思います。

この言葉が記されている伝道の書は、人生がいかに空しいものかと言うことを教えています。伝道の書には、「空の空」という言葉が繰り返されていますが、確かに、私たちの人生には「空の空」と思われるような空しさを感じることがあります。人生の様々な困難や問題にぶつかったときに、心から喜べず、ただ空しさだけを感じる局面は必ずやってくるといってもいい。また、どんなに成功していても、心にぽっかりと空いた穴から冷たい風が吹き込むことだってあるのです。そのように、人の世の営みには、必ず虚しさがあるからこそ、聖書は、「ふたりはひとりにまさる」というのです。それは、問題や困難にぶつかっても、ふたりでそれに当るならば、乗り越えていけるからです。仮に心に冷たい風が吹いても、二人が暖め合えば、冷たい風にも打ち勝てるのです。しかし、長い人生の中では、ふたりで助け合っても乗り越えられないような大きな問題にぶつかることもあるでしょう。ふたりで暖め合っても暖めきれないほどの冷たい風に吹かれることだってあるかもしれません。その時は、どうか聖書の神に頼り、助けを求めて下さい。

神は、神の前で夫婦となる約束したお二人と共にいて、三つよりの綱となって下さいます。そして、守り支え、祝福して下さるのです。この三よりの綱はたやすくは切れません。」これは、結婚するお二人に対してのお勧めでありますが、それは私たちの教会に対する勧めの言葉ともなるものです。それは、イエス・キリスト様が私たち三鷹キリスト教会と、共に歩んでくださる時に、教会は決して切れない三よりの綱となって、教会が直面する様々な問題を乗り越えていくことが出来るからです。そして、教会の中心にイエス・キリスト様がおられるならば、教会は、私たちが現実に生きていく社会の中で、教会に集う皆さんお一人お一人の心の休み場となり、心を温め、安らぎを与えてくれる場所となり、心を温め、安らぎを与えてくれる場所となるはずです。そのような教会は、「神の国の地上での現われである。」といわれます。それは、教会が、イエス・キリスト様を中心に据え、イエス・キリスト様と共に歩んでいる所だからなのです。イエス・キリスト様と共に歩まれところには、私たちの心の休み場があります。

そして、その心の休み場は、様々な問題や試練、悩みや悲しみの中に置かれた一人一人の心が、心を温め、安らぎを与えてくれる場所だからこそ、そこに今という時を生きている私たちに対する神の国が表わされているのです。つまり、神の国の本質は、私たちが神の愛によって慰められ、励まされ、癒される、私たちの身も心も安らぐことの出来る場所なのです。そのように考えますと、教会だけでなく、夫婦や親子の間にもイエス・キリスト様が関わって下さるならば、そこにも神の国があると言うことができます。イエス・キリスト様の十字架によって示された神の愛で、互いのことを思い、赦し合うならば、家庭の中にも神の国は確かにあるのです。互いの思い合い。許し合うところに安らぎと平和があるからですまた、皆さん一人一人の心の中に、イエス・キリスト様がいて下さるならば、皆さんの心に慰めや励まし、また平安があたえられます。それは、皆さんの心の中に神の国があるからなのです。だからこそ、神の国とは、やがて来る将来の出来事であると同時に、今、ここでの私たちの生活の中にも存在するものだということができるのです。

先ほど申しましたように、今日の礼拝説教のテキストとなった箇所は、イエス・キリスト様が、救い主として、私たちに語られた最初のメッセージです。救い主としての第一声です。そして、その第一声は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。というものでした。時が満ちたとは、まさに「その時がきた」ということですが、この「時」というのは、ギリシャ語ではκαιροσという言葉が使ってあります。ギリシャ語では、時を表わす言葉に、κυρονοσという言葉とκαιροσというふたつの言葉があります。κυρονοσという言葉は、いわゆる時間や時刻を表わす言葉です。それに対してκαιροσという言葉は、いわゆる時期やチャンスとか、ピンチという機会といったものを表わします。ですから、ここで、καιροσという言葉を使って「時が満ちた、その時がきた」といっているのは、それは「その時期がきた」というふうに考えればよろしいかと思います。

それでは、どういう時期がやってきたのかといいますと、旧約聖書から新約聖書に変わる時期がやってきたと言うことです。つまり、旧約聖書の生き方から、新約聖書の生き方に変わる、その時期がきたと言うことであり、また、そのような変化をもたらす旧約聖書に約束されている救い主キリストが、こられるその時がきたと言うことなのです。この「時が満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。という言葉を、イエス・キリスト様がメシヤとしての使命に就かれた第一声として伝えています。そして、その第一声は、バプテスマのヨハネが伝えられた後に、述べられたと、今日のテキストであるマルコによる福音書1章14節には書かれてあります。それは、マタイによる福音書も同じです。マルコによる福音書とマタイによる福音書とが同じなのは、おそらくマタイによる福音書は、マルコによる福音書を資料として参考にしているからだろうと思われます。

ところが、マルコによる福音書とは、全く別の資料を用いて書かれたヨハネによる福音書の3章を見ますと、イエス・キリスト様は、ヨハネが投獄される以前から、教えを語り、弟子を作りそして、イエス・キリスト様の弟子立ちもまた洗礼を授けていたことがわかります。つまり、イエス・キリスト様が、救い主としての第一声を語り、伝道のわざを始められたのは、ヨハネが投獄される以前のことだったというのです。今日の研究では、イエス・キリスト様の御生涯の時間経過について、比較的正確に書かれているのはヨハネによる福音書ではないかといわれています。それは、ヨハネによる福音書には、「その翌日」とか、「それから3日目に」とか、あるいは、「さて2日の後」といった具合に、出来事の時間経過が、「そののち」とか「それから」いった漠然とした表現ではなくかなり明確に書かれているからです。そのようなわけで、イエス・キリスト様の御生涯に起こった出来事の時系列は、ヨハネによる福音書の方が正しいと考えられます。だとすれば、なぜマルコはあえて、事実とはことなってでも、イエス・キリスト様の救い主の第一声を、ヨハネが捕らえられた後に持ってきたのかが問題になります。そこには、マルコの神学的な見解があるからです。

おそらく、マルコは、バプテスマのヨハネが捕らえられたことによって、それまでの旧約聖書の時代に終わりが告げられたということを、伝えたかったのではないかと思われます。そして、それは旧約聖書時代に見られた神を求める生き方の終わりでもあったのです。旧約聖書時代の神を求める生き方は、自分たちが律法とよばれる規則を守ることが基本でした。そして、自分たちの手で、神の前に罪の贖いのために、動物を犠牲に捧げることによって、神を求め、神の国を求めたのです。しかし、このような旧約聖書時代の神を求める生き方は、最初にお話ししたような、神の愛によって、慰められ、励まされ、癒される、私たちの身も心も安らぐことの出来るような、神の国の本質を手に入れることが出来なかったのです。また、将来に訪れる天国とよばれる、その神の国に迎え入れられる明確な希望も持つことが出来なかったようです。だからこそ、このマルコ医よる福音書の1章4節、5節にあるように、バプテスマのヨハネが、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたときに、ユダヤの全国から、ぞろぞろとヨハネの元にやってきたのです。みんな不安だったんですね。

こんな話が聖書にあります。それは、マタイによる福音書の19章16節から22節に書かれている話ですが、大まかこのような内容です。ある時、一人の青年が、イエス・キリスト様の所にやってきます。そして、イエス・キリスト様に質問します。その質問は、「永遠の命を得るためには、何をしたらいいのでしょうか」というものです。永遠の命を得るということは、神の国に迎え入れられるということと同じことです。ですから、この青年は、自分が神の国に迎え入れられるという確信もなく、不安で一杯だったのだろうと思います。その青年に、イエス・キリスト様は、戒めをしっかりと守りなさいと言います。この戒めこそが、旧約聖書に記されている律法と呼ばれる様々な規則なのです。ところが、この青年は、「それら戒めはみな守ってきました」とそう言うのです。律法を「それらは、みな守ってきました」というのですから、おそらくは、罪の贖いのために動物を犠牲として捧げると行った宗教儀式(神殿祭儀)もちゃんと守っていたものと思われます。ですから、彼は、旧約聖書時代の生き方からすれば、完全な人だと言ってもいいのかもしれません。ですから、神の国の希望も手に入れ、今、ここでの人生に置いても、平安と安らぎの中に生きることが出来るはずなのです。

ところが、彼には確かな確信もなく、不安なのです。不安だからこそ、イエス・キリスト様の所にやってきて「今の自分の生き方には、何か足りない、何をすればいいのですか」とそう尋ねるのです。不安があるところに、平安や安らぎなどあろうはずがありません。この青年は、神を求め、神の国を求めているのに、それは決して近くにはなく、遠い存在だったのです。そこには、自分の力や頑張りで、神を求め、神の国を求める生き方の限界が見事に描かれています。そのような自分の力や頑張り、あるいは、人間が神に何かをすることで、神の国を求めるといったことは、私たち人間にはありがちです。これだけのことをしたのだから、その報酬として神から恵みや祝福をいただけると考えることは、私たちにとって理にかなっているように思えます。しかし、それは、旧約聖書時代の人々と同じなのです。そして、そのような考えに基づく生き方では、神の国は決して近づいてこないのです。ですから、旧約聖書の時代の考え方や生き方に終わりを告げなければ、神の国は、私たちに近づいてこないのだと、マルコはそう言いたかったのだろうと思います。

「バプテスマのヨハネのように、ラクダの毛衣を着、腰に皮の帯をしめ、イナゴと野蜜を食べるといった禁欲生活によって自らを律し、罪を洗い清めようと水に身を浸しても、それだけでは、神の国に迎えられる確かな希望を手に入れることは出来ない。ましてや今の生活の中で平安と安らぎを手に入れることなんかできない。自分の力に頼っている限り神の国は私たちの近くにはやってこないんだ。」きっとそんな思いから、マルコは、イエス・キリスト様が救い主として第一声を発し、福音を宣べ伝たえ始めたということを、ヨハネが捕らえられた後と言い表わしたのでしょうね。そして、そのようなマルコの思いを裏付けるように、救い主であるイエス・キリストさまの第一声が、まさに「時が満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。という言葉だったのです。それは、自分の力や頑張りで、神を求め、神の国を求めるのではなく、ただイエス・キリスト様が、自分の罪のすべてを背負って十字架の上で死んでくださったということを信じることの大切さを、私たちに教えてくれる言葉でもあります。そうやって、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主であると信じるときに、神の国の希望は確かなものになるのです。

また、福音を信じるということは、イエス・キリスト様が私たちを罪から救う救い主ということを信じるだけではありません。イエス・キリスト様は、私たちの人生に起こってくる様々な問題や悩みの時に、私たちを導いて下さるお方であるということを信じることでもあります。そして、そのような、問題や悩みの中で、私たちが苦しんだり、悩んだりするときに、イエス・キリスト様は、私たちを慰め、励まし、力づけて下さるのです。そうやって、現実の今という世界で生きている私たちの心に、平安と安らぎを与えて下さるお方のです。私たちの、現実の世界の世界では、仕事が思うようにいかないこともあります。思うようにいかないどころか失敗する事だってあるのです。以前PBAのライフ・ライン紹介した人は、経営するお店がうまくいかず、土地を手放したといった話をしておられました。クリスチャンでのうまくいかないことだってあるのです。また人間関係がうまくいかないことだってあるでしょう。でも、イエス・キリスト様が自分の人生と共に歩み、導いて下さるお方だと信じて、イエス・キリスト様に頼って生きるものには、イエス・キリスト様は、どんなに苦しいときでも、悲しいときでも、慰めを与え、励ましを与え、力を与えて下さるお方なのです。

先程、ご紹介したマタイによる福音書19章16節から22節に書かれている話の青年は、「律法はすべて守っています。他に何が足りないのでしょうか」と問うたときに、イエス・キリスト様にこう言われています。「もし、あなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を持つようになろう。そしてわたしに従ってきなさい。」「私に従ってきなさい」ということは、イエス・キリスト様を自分の人生の主人として、イエス・キリスト様と共に歩んで行きなさいと言うことです。それは、裏を返せば、自分の人生の様々な局面で、イエス・キリスト様に頼りなさい。」ということです。しかも、あなたの持ち物を売り払い貧しい人に施せというのですから、もはや、イエス・キリスト様以外に頼る物がないほどに、イエス・キリスト様に頼れというのです。そうすれば、イエス・キリスト様は、そのようにイエス・キリスト様を頼り、助けを求める人の人生を、守り支えてくださるのです。

先程の、土地を手放さなければならなかったというクリスチャンの人も、そのような困難な中にあっても、神に支えられながら、今を喜びと感謝の中で生きておられます。それは、神の慰めと、励ましと近づけの中で支えられ、導かれながら歩まれたからです。ですから、私たちも、仕事や勉強が思うようにいかなかったり、人間関係に悩むようなことがあっても、けっして落胆せずに、イエス・キリスト様を信じ、このお方を頼りましょう。イエス・キリスト様は、きっと、あなたを支え、心に慰めと励ましを与えてくださいます。そして、安らぎと平安で満たしてくださるお方なのです。そして、私たち教会も、教会堂に集まり礼拝することによって、また教会に集う私たちの交わりの中に、絶えずイエス・キリスト様の愛によって、慰めと癒しが与えられるようなそのような教会を目指していきましょう。それが、「時が満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。という言葉に生きる、クリスチャンの生き方であり、教会の生き方だと思うからです。

お祈りしましょう。