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羊飼い 『権威と権力』
マルコによる福音書 1章21−28節
2005/10/9 説教者 濱和弘
賛美 264,324,427

さて、この3週間、私たちの教会にとって特別な期間であったように思います。それは、広島から加藤亨先生迎え、また、先週は羽鳥明先生をお迎えしての礼拝の時を持つことができたからです。言うまでもありませんが、加藤先生は、私たち三鷹キリスト教会の創立の時から、牧師として、この教会を導いてこられました。また、表舞台には立ちませんでしたが、黒子のようにして日本ホーリネス教団や総動員伝道をはじめとする様々な超教派の働きを支えてこられました。また、羽鳥明先生は、本田弘慈先生と共に、日本の福音派のリーダー的存在として、それこそ表舞台にたって、戦後の福音派キリスト教会を引っ張ってこられた先生です。ですから、お二人とも、いわば戦後の日本のキリスト教、とくに福音はと呼ばれるグループの指導者的立場におられた方々です。そう言った、方々を礼拝にお迎えできると言うことは本当に嬉しいことだとおもうのですが、しかし、そこで考えなければならないこともあるように思うのです。何を考えるのか、そのことを、今日のテキストであるマルコによる福音書1章21節から28節は教えてくれているように思うのです。

この、マルコによる福音書1章21節から28節までの出来事を、イエス・キリスト様の宣教が始まった後に、初めてカペナウム人々に教えを語られた出来事のように記しています。そういった意味では、今日のテキストの箇所は、初めてイエス・キリスト様の語る言葉に、じかに触れた人のいわば第一印象が記されているところです。しかも、そのイエス・キリスト様の語る言葉を聞いた人たちは、決して聖書の伝える神について、何も知らない人たちではありませんでした。21節を見ますと、イエス・キリスト様は、安息日会堂に入って教えられたと記されています。このユダヤ人の会堂と呼ばれる場所は、エルサレム神殿とは違い動物の犠牲をささげると言ったいわゆる祭儀は行われませんでした。むしろ、今日の私たちプロテスタント教会の礼拝のように、祈りが捧げられ、聖書、この場合は旧約聖書が読まれ、その聖書の箇所を解き明すような説教がなされていたのです。

これは余談になりますが、佐藤敏夫という神学者が、このようなことを言って言いました。それはカトリック教会とプロテスタント教会のもつ性質の違いについてです。佐藤先生は、カトリック教会を、旧約聖書の伝統の内、神殿で行われた、祭儀的な一面を受け継いだ祭司的宗教であるといいます。そして、プロテスタント教会は、預言者的一面を受け継いでいる預言者的宗教だというのです。それは、礼拝で聖書の言葉が語られ、その聖書の言葉を解き明す説教によって、クリスチャンが具体的な生活の場で、いかにして神の言葉に聞き従いながら生きていくかということを主眼に置いているからです。なるほど、そう言っわれてみれば、カトリックの礼拝の中心は、聖体拝受というプロテスタント教会でいう聖餐式にあたるものです。そして、カトリック教会の聖体拝受は、イエス・キリスト様の体と血を、私たちの罪に対する犠牲として捧げることであるといった理解します。つまり、イエス・キリスト様が、ご自身を私たちの罪に対する神の怒りをなだめるための、なだめの供え物として、自分の命を十字架の上でご犠牲として差し出されたととらえるのです。そしてそれは、神に対する最高の奉仕だったのです

ですから、その行為を、礼拝の中で聖体拝受として再現し、神に対する最高の奉仕を捧げることで、礼拝という言葉、ギリシャ語のレイトルギアという「神の民の奉仕」という意味が全うされるのです。このようなカトリック教会の礼拝観は、それはそれで、筋の通った神学的一貫性を持っています。しかし、同じように、パンと杯を用い聖餐式をおこなう、私たちプロテスタント教会は、聖餐式を犠牲をささげる行為だとは考えません。むしろ、聖餐式を通して、イエス・キリスト様が私たちの罪を赦して下さったということを具体的行為を通して受け取る「恵みの手段」であると捕らえます。そして、そのように、神に罪ゆるされた恵みを受けたものとして、この世の中に出ていって、神の言葉を述べ伝える伝道したり、神の言葉に聞き従いながら生きていくことが、神に対する奉仕であると考えます。これはこれで、また神学的な一貫性を持っています。そして、このようなプロテスタント教会の礼拝観だからこそ、礼拝の最後に、この世の中に使わされていくものに対する派遣の祈りである祝祷が祈られるのです。それは、日曜日の礼拝だけでなく、普段の生き方全てに置いて、神の言葉に聞き従いながら生きていくというプロテスタント教会の信仰の在り方(霊性)につながっているのです。

そして、このような預言者的宗教の性質を受け継いでいるプロテスタント教会の礼拝は、確かに、今日のテクストの箇所で、イエス・キリスト様が教えを語られた、あのユダヤ教の会堂で行われていた安息日の礼拝に極めて似ているのです。ですから、この時ユダヤ教の会堂に集まっていた人は、おそらくイエス・キリスト様が教えを語られた時に、旧約聖書に記されている言葉から、自分たちの生活の中にいかに、律法を適用するかというその解釈が語られることを期待していただろうと思われます。それは、イエス・キリスト様の言葉を聞いた会衆は、イエス・キリスト様の教えが、律法学者達のようではなく、権威あるもののように教えられたからだという言葉からも伺われます。というもの、律法学者と呼ばれる人たちは、旧約聖書に書かれていることを、まさにその時代時代の生活に、いかに適用させていくかと言うことを研究していた人たちだったからです。ただし、彼らは、自分で直接旧約聖書の言葉と向き合い、聖書の言葉から、いかに生きるべきかを見出していたというわけではありませんでした。むしろ、長いユダヤ教の歴史の中で、偉大な教師達が伝えたことを引用しながら語ったのです。つまり、律法学者達は自分たちに先立つ偉大な学者といわれる人たちの権威により頼みながら語ったのです。

イエス・キリスト様が、律法学者達のようではなく、権威ある者のように教えられたということは、イエス・キリスト様は、過去の偉大な教師達の権威により頼まず、ご自身の言葉で、人々に神の前に如何に生きるかということを語ったということになります。もちろん、そのイエス・キリスト様の言葉が、旧約聖書の言葉とかけ離れたことが語られたわけではなかったことは明らかです。旧約聖書も、そこに記されている言葉の起源は神にあります。旧約聖書も紛れもない神の言葉なのです。そしてイエス・キリスト様は、旧約聖書という神の言葉を示された神ご自身でもあるのです。ですから、ここで、イエス・キリスト様の語る教えを聞いた人たちは、律法学者や彼らがより頼む先人達を介することなく、まさに直接神の言葉に向き合ったのです。この、神の言葉に直接向きあるということ、これは、ある意味、私たちプロテスタント教会の生命線でもあり、私たちの教会の生命線でもます。ともうしますのも、私たちは一人一人が聖書を読み、祈りながら自分の歩みを決断して、生きていく者だからです。

私が、大学4年生の時の話ですが、当時は今のように就職が難しいような環境ではなく、むしろ、企業からの引く手あまたといった状況でした。そんなわけで、大学の就職課には、色々な企業からの問い合わせや、企業説明会の案内やってきていました。そのような中で、私が希望していた一つ中のある企業の会社説明会が学内で行われるとの案内が大学の就職課の室内に掲示されていました。この掲示板ではなく室内に掲示されていたというのが味噌でして、室内に掲示されている案内は、特別な意味があるものです。それは、単なる会社説明会だけではなく、そこに出席することは、就職に有利に働く内容があるということでした。実際、私が希望していたというその会社の会社説明会の案内には、その会社を第一志望とする学生は、就職課の職員にその旨を申し出るようにと添え書きがしてありました。つまり、第一希望であると申し出れば、かなり就職が有利になるのです。もちろん、第一希望ですと申し出て、そこに採用が決まれば、他の企業に行くことは出来ません。私の場合、その企業は、第一志望群ではありましたが、第一志望ではありませんでした。しかし、第一希望と申し出れば、有利になるのは明らかなのです。

それで随分悩みました。それでも決められなくて、いよいよその申し出期限の前日になりました。そんなわけで、礼拝後加藤先生に、どうしましょうかと相談したのです。その時先生は、「自分で祈って決めなさい。」と、そうおっしゃられました。しかし、期限は明日です。ですので、「祈ってきましたが、まだ結論が出せません。しかも期限は明日なのです。」と申しますと「だったら徹夜で祈りなさい。」とそう言われるのです。相談ぐらい乗ってくれてもと思うようなことですが、しかし、牧師がこう言った、ああ言ったということで、自分の人生の決断をきめることではありません。結局、自分で神様に祈って決めるしかないのです。結果、私は第一希望として申し出ることに、どうしても心の平安が得られなくて、申し出るのを断念しました。もちろん、その企業は受けましたが、残念ながら採用には至りませんでした。それでも、自分で最後まで祈った結果なのです。それは、牧師を介してでもなく、私と神様とが一対一出向き合い、それこそ、ヤコブのヤボクの渡しではありませんが、取り組んで決断したことなのです。

私たちは、神の前に一人一人がそれぞれ神と向き合いながら生きています。皆さんの一人一人が神に祈り、聖書を読み、その中で皆さん一人一人の人生の決断をすることができるのです。それは、逆に言うならば、みなさん一人一人が直接、神様からか語りかけていただける存在であるということです。もちろん、このように「みなさん一人一人が直接、神様からか語りかけていただける存在である」といっていることは、最近の一部の教派の人がいっているような預言の賜物や、直接啓示が皆さんにあるということを言っているわけではありません。私たち一人一人は弱い人間です。ですから、祈りつつ神の御心だと思い決断したことであっても、実は自分の思いを押し通していることも全くないとは言えません。「これが道だ。これを歩め」と、そう神様は語り、導いておられると思っても、それは神の思いではなく自分の思いかも知れません。また、逆にこれは、神の御心ではないと、神様が道を閉ざしておられると思っても、それは結局は自分の逃げだったりすることもあるのです。

それでも、「みなさん一人一人が直接、神様からか語りかけていただける存在である」というのは、皆さん一人一人の人生の問題に、たとえ牧師であっても、大説教家や神学者であっても、それに介入することはできないのだと言うことです。もちろん、牧師に相談することも出来ますしアドバイスを聞くこともできます。しかし、それはあくまで、アドバイスであって、大切なのは、自分自身で神に祈り、聖書を読み、聖書のお言葉に取り組んで決断することなのです。そして、そのように祈り、聖書の言葉に取り組んでいく中で、決断したことにたいしては、それが正しくても、あるいは誤った判断であったとしても、神様はその誤りを責めることもありません。それは神様と向き合い、神の言葉に取り組み、自分の責任で引き受けた結果だからです。今日のテキストでいわれている律法学者達は、「今までにこのような教えがある。」といって自分自身で責任を引き受けようとはしませんでした。しかし、神の御子であるイエス・キリスト様はご自分の語られることにたいして、全ての責任を引き受けられるのです。

それは、語った言葉だけではない、その言葉を聞いて受け止めた人の生涯に対しても責任を引き受けて下さるのです。だからこそ、イエス・キリスト様の言葉には権威があるのです。そして、それはまさに神の子としての権威だったのです。その当時の律法学者と呼ばれる人々は、イスラエルの人々の生活に深く関わりました。そしてイスラエルの人々の歴史の中で蓄えられてきた律法の解釈やそれに基づく口伝律法が権威となり、人々が如何に生きるかを決め、また、人々を裁く権力となっていたのです。この、律法学者が立っていた、権威と権力の構造は、人の手によって気付かれた、人々を罪に定める権威と権力の構造でした。もちろん、パリサイ派やサドカイ派といった宗教的エリートも産み出しました。彼らは、偉大な教師という人の権威に基づき、人が人を抑圧する権力を行使するものとなって、多くの罪人として蔑まれるような人々も産み出したのです。つまり、人が打ち立てた権威と権力の下では、人を罪人に定め裁くような社会となっていったのです。

しかし、今日のテキストを見ますと、人々からまさに「権威ある新しい教えである。」といわれたイエス・キリスト様の教えが語られたところで何が起こったかというと、汚れた霊に憑かれた人が癒されたのでした。汚れた霊に憑かれているというのですから、それは悪霊に憑かれているということです。少なくとも、悪魔の支配下に置かれていると言うことです。ですから、聖なる神の前に立つことは出来ません。だからこそ、この汚れた霊に憑かれた人は「ナザレのイエスよ、あなたは私たちとなんの係わりがあるのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です。」とそう叫ばせるのです。そして、その汚れた霊が、イエス・キリスト様の一言で、逃げ出していくのです。このことは、この汚れた霊に憑かれた人にとっては救いの出来事です。イエス・キリスト様の権威ある言葉が語られるところには、救いの出来事が起こるのです。このことは、律法学者が先人達の権威を引用しながら語る言葉が、人を罪に定めたこととは、全く逆の者だと言えます。まさに、イエス・キリスト様が言葉を語られるところには救いの出来事が起こるのです。それは、イエス・キリスト様が語られる言葉は、恵みの言葉だからです。

聖書の言葉が語られるところは、神の恵みがあり、赦しの出来事があるのです。そして、このような恵みの言葉が語られるからこそ、私たちが、真摯に神に向き合いながら、神に祈り、聖書を読み、聖書のお言葉に取り組んで決断するときに、たとえその判断が誤っていたとしても、神は私たしを責めることなどないのです。むしろ、そこには救いの出来事が起こるのです。教会は、このイエス・キリスト様を土台として建てあげられています。ですから、その教会が語る言葉、教会内で語られる言葉は、人を裁く言葉であってはなりません。それは律法学者の言葉なのです。むしろ、教会が語るべき言葉は恵みの言葉であり、救いの言葉なのです。そして、教会という社会は、決して人の権威が重んぜられ、人の権力が横行するような社会であってはなりません。それは、イエス・キリスト様が教えを語られた場所とは、似てもにつかないところなのです。

ですから、私たちは、いつも罪の赦しを語りたいと思います。そしてイエス・キリスト様の恵みの言葉を語っていきたいと思います。そうすれば、厳しく倫理的な言葉を語らなくても、教会の中から、罪や過ちは逃げ去っていきます。聖書の言葉が語られ、神の赦しの恵みを伝えられるところには、たとえ目には見えなくても、イエス・キリスト様がご臨在して下さっているからです。そして、イエス・キリスト様の前には、汚れた霊も、罪も、決してその場にいることは出来ず、逃げ出して行くしかないのです。そのことを覚えながら、今日、私たちは聖餐式に臨みたいと思います。聖餐式は、この神の罪の赦し、救いの恵みを伝える、恵みの手段であり、行為によって示される神の恵みの言葉だからです。ですから、私たちが、真摯な思いでこの聖餐のパンと杯にあずかるならば、それぞれが、それぞれの置かれた生活の場で、神の言葉に従って生きていくものなっていくことが出来るからです。

お祈りしましょう。