『神との接点』
マルコによる福音書 1章29−31節
2005/10/23 説教者 濱和弘
賛美 21,195,438
さて、ただ今お読みただいた箇所は、先々週の説教の箇所であるマルコによる福音書1章21節から28節の出来事に引き続いて起こってきた出来事です。そのマルコによる福音書1章21節から28節の出来事とは、イエス・キリスト様が安息日にシナゴーグと呼ばれるユダヤ人の会堂で行われた礼拝の中で、教えを語られた後に、汚れた霊に取り憑かれた人から、「この人から出て行け」という、言葉一つで汚れた霊を追い出し、お癒しになったという出来事です。たった今まで、汚れた霊に取り憑かれていた人からその霊が追い払われ、癒されるといったことは、実にセンセーショナルな出来事です。ですから、人々が「これは、いった何事か」と驚き、そのような癒しのわざをおこなったイエス・キリスト様に対して「権威ある新しい教えだ。汚れた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」と尊敬のまなざしをもってイエス・キリスト様を見上げたことは、容易に想像がつきます。
そんなわけでしょうか、イエス・キリスト様が会堂を出て、弟子であるシモンとアンデレの家、シモンというのはペテロのことですからつまりはペテロの実家にいかれると、人々は、そのシモン・ペテロの姑を連れてきます。ペテロの姑は熱病で床に就いていました。ですから、このペテロの姑を、イエス・キリスト様の所に連れてきた人々は、おそらくは、その日の朝のシナゴーグでイエス・キリスト様が悪霊に憑かれた人をお癒しになった出来事を見ていたのだろうと思います。そして、あの悪霊に憑かれた人さえも癒したお方だったならば、きっと、この女も癒されるとそう思って連れって来たのだろうと思います。そんな人々の期待に答えるかのようにして、イエス・キリスト様はペテロの姑を癒すのです。だいたい、良い薬があるとか、美容に良いとかと言った話題は、あっという間に広がるものです。何年か前にも、地中海ヨーグルトといったものが流行ると、あっという間にそのヨーグルト菌の株が広まったと聞きますし、今は、寒天が店先から消えてしまっているそうですが、その手の噂は、広まりやすいものです。
ましてや、汚れた霊を追い出すとか病人をたちどころに癒すと言ったことなどは、実のセンセーショナルな出来事ですから、それこそあっという間に、ひとびとの口こみで広がっていきます。そんなわけで、夕暮れなり日が沈むと、イエス・キリスト様のことを聞きつけた人々が、続々とやってきたのです。イエス・キリスト様のどんな噂が立っていたかと言うことは、集まってきた人たちをみれば一目瞭然です。34節には、さまざまの病気をわずらっているひと癒し、また多くの悪霊を追い出された」とありますから、そこにやってきた人は、病気を患っている人や、多くの悪霊に憑かれていた人たち、そしてその家族の人たちでした。ですから、人々が耳にしたイエス・キリストの噂は、「効き目のある、悪魔払いをするお方、病気を癒してくれるお方」といったものであったろうと思われます。そういった噂を聞いた人たちが、それこそ、彼らは、夕暮れになって日が沈んでからやってきたというのです。
-東京の夜は、本当に明るく光っています。私などは、下手をすると夜、車で走るときにヘッドライトをつけるのを忘れてしまいそうになることがあります。ヘッドライトがなくても十分見えるからです。東京の夜は、それほど明るいのです。ところが、私が以前住んでいた、愛媛県の土居町、今は四国中央市になりましたが、しかし、四国中央市という名前にはほど遠いいなかです。そして、そのような田舎だと、東京のようにはいきません。やっぱり夜は暗いのです。ですからヘッドライトなしでは、とても運転ません。それほど、夜道は暗いのです。それは、東京ほど街灯がないからです。しかし、いくら土居町がいなかであっても、街灯が全くないというわけではありません。家のあかりだってもれてきます。けれどの、この当時のイスラエルのしかもカペナウムという小さな田舎町なのです。それこそ夜は、町中が漆黒に包まれた中を、人々がやってきたというのです。彼らは、もう夜だから、明日の朝までまって、日が昇ったら行こうなどと言っていたのではありません。もうトップと日が暮れて夜の暗闇になったけれども、明日まで待ってはいられない、今から、すぐに出かけようといって、真っ暗な夜道の中をやってきたのです。
そこには、せっぱ詰まった人の姿を垣間見ます。もう一刻も待つことの出来ないような人々の姿があるのです。そのようなせっぱ詰まった姿の背後にあるのは、私たち人間の悲しさです。病気や悪霊に憑かれたとしか思われないような現状を悲しんでいる人間の姿があります。そのような人々の悲しみに、イエス・キリスト様は向き合いお癒しになられたのです。それこそ、32節には、「人々は病人や悪霊に憑かれた者をみな、イエスの所に連れてきた。」と書かれていますから、如何にかペナウムが田舎町だったとしても、決して少なくはない人数だったでしょう。ですから、それこそ夜を徹するようにして、人々の悲しみにかかりきりになっておられただろうと思うのです。ところが、まだ日も改まらないその日の朝に、イエス・キリスト様がまずなさったことは、あのシナゴーグで教えを語られると言うことでした。そして、人々は、ます、その教えを聞いて驚いたのです。それは律法学者と呼ばれる旧約聖書の専門家、ユダヤ人の戒律である律法の専門家の誰もが語らなかったような、権威ある教えを語られたからです。
しかし、せっぱ詰まった思いでイエス・キリスト様を求めてきた人々の心の中に、イエス・キリスト様のお姿を読みとることは出来ません。確かに、その日の朝、人々は、まず第一にイエス・キリスト様の権威ある教えに驚きました。じぇれども、悪霊払いの出来事と癒しの出来事のセンセーショナルさに、もはやその教えのことはどこかに飛んで消えてしまっていたのです。そして、ただイエス・キリスト様の「驚くべき悪魔払いをするお方、病気を癒してくれるお方」という姿だけがクローズアップされているのです。もちろん、2000年前のイスラエルの状況を考えますと、イエス・キリスト様が「悪魔払いをするお姿や病気を癒すお姿」を通して、神の権威をイエス・キリスト様の背後に見ていただろうとは思います。けれども、この時に、だれもイエス・キリスト様の語る教えを求めてはいないのです。この人々の姿を、私は責めようと言うのではありません。むしろ、この人々の姿に、自分たちの悲しみを接点として神を求める姿を見ることができるように思うのです。それは、私たちの姿でもあります。というのも、私たちが、切に神を求める時は、まさに私たちの悲しみと深く結びついているからです。
そういった意味では、私たちが求める神との接点は、私たちの悲しみとそれに対する神の哀れみであるといっても良いのかも知れません。当たり前のことのだといえば、当たり前なのですが、人が神や仏を求めるときは、大体は何か問題があって、困ったときです。その問題に困って苦しさや悲しさを感じたときに、人は神を求めるものです。そして、それはけっして間違ったことではないだろうと思います。というのも、イエス・キリスト様は、夜になって真っ暗闇のような田舎道を、せっぱ詰まって止むに止まれぬ思いでやってきた人々を、お癒しになったからです。イエス・キリスト様は、哀れみを求めてくる人をけっして拒みはなさいませんでした。
ところが、翌朝になりますと、イエス・キリスト様は、朝早く起きて、寂しいところに行き、そこで祈っておられたと聖書は告げます。祈りは、神との交わりの時であり、神との会話だといえます。独り子の神であるイエス・キリスト様と父なる神が、朝早く、周りに誰もいないようなところで、二人きりで交わりを持ち会話を交わすのです。そのイエス・キリスト様と神との交わりである祈りの中で、イエス・キリスト様が何を祈られていたかは、聖書に書かれているわけではありませんから、想像するしかありません。しかし、確かなことは、この祈りを通して、イエス・キリスト様は、「ほかの、付近の町々にみんなで行って、そこでも教えを宣べ伝たえよう。わたしはこのために出てきたのだから」とそう言って、ガリラヤの全地に伝道をしに出かけていったと言うことです。それは、「悪魔払いをするお方、病気の癒してくれるお方」としてのお姿ではありません。むしろ、それは、教えを語るイエス・キリスト様のお姿を、もう一度とりもどすんだという宣言でもあります。
イエス・キリスト様は「そこでも教えを宣べ伝たえよう。わたしはこのために出てきたのだから」とそう言われているからです。だとすれば、イエス・キリスト様は、人々の悲しみと向き合い、それを取り扱われることをおうあめになったのでしょうか。決してそうではありません。「そこでも教えを宣べ伝たえよう。わたしはこのために出てきたのだから」という、イエス・キリスト様の言葉は、かえって、より深く人々の悲しみや苦しみに向き合い、それを引き受けて行かれる救い主としての決意の言葉であると言っても良いだろうと思います。というのも、イエス・キリスト様は、私たちの悲しみというものの本質を、より深いところで、捉えていたからです。
もう何年も前に、みなさんも、よくご存知の星野富弘さんがこんな事を言っていました。以前にもお話ししたかも知れませんが、こういう言葉でした。「不自由と不幸とは、結びつきやすい性質をもっていますが、不自由と不幸は同じものではありません。」たしかに、星野富弘さんにとって、首から下全身が動かないと言うことは現実です。自由に走ったり飛び回ったりすることはもちろん、自分で箸を動かして、食事を取ることも出来ないのです。何でこんな体になったのだと、嘆き悲しんでも、誰も「そんなこと言っちゃいけないよ」と言うことはできません。誰もが、体が不自由なここと不幸とを結びつけて「本当にそうだね、大変だね。可哀想だね」とそう思うのです。けれどの、星野さんは、不自由なことと不幸なことは必ずしも同じではないと、そう言いきるのです。それだけではない。「今は、本当に幸せですから、昔の自由に体が動いていた頃に戻らなくても良い」いえ「戻りたくない」とまで言うのです。多くの人は、不自由なことと不幸とが結びつけて、可哀想だとそう思います。けれどの、星野富弘さんの中では、不自由なことと不幸とは決して結びついていないのです。
体が不自由なことだけではありません。病気であるということもまた、不幸と結びつきやすい性質があります。だからこそ、あの下ペナウムでイエス・キリスト様の所に、病気を治して欲しいというせっぱ詰まった思いで、夜であるにも関わらずやってきったのです。ほかにも、不幸と結びつきやすいものは沢山あります。私たちは、貧乏と不幸を結びつけて、嘆き悲しむことも少なくはありません。あるいは願いが叶わないことと不幸を結びつけて、夢が実現できない現実を不幸であると嘆き悲しむこともあるでしょう。このようにしてみると、不幸と結びつきやすいものというのは、何かが出来ない。何かを持っていないと感じるときに、私たちは不幸だと思ってしまうようです。そして、そこにあるのは、何かが出来ることが良いこと、何かを持っていることが素晴らしい事だという価値観です。不幸の反対側にある者は幸せです。だとすれば、何かが出来ることが本当に幸せに通じるのか、何かを持っていれば幸せになれるのでしょうか。
イエス・キリスト様の所に病気の癒しを求めてやってきた人、悪霊を追い払って欲しいと願ってきた人たちは、みんな癒されて帰っていきました。真っ暗な夜道を、イエス・キリスト様の所の向ってくる人々の顔は、夜の暗闇と変わらないくらい暗い者だったろうと思います。そして、同じ夜道を帰っていくときの人々の顔は、喜びに輝く明るい笑顔だったろうと思うのです。けれども、彼らの多くは貧しい暮らしをしていました。その時に、喜びにわきかえってたとしても夜が明けた翌日からは、また厳しい現実の生活が始まるのです。それでも、しばらくは、病気が癒されたという喜びで、その厳しい現実をやり過ごしていきことが出来るのかもしれません。けれども、何かが出来ること、何かを持っていることが素晴らしい事だという価値観を持ち続けるならば、繰り返し繰り返しやってくる日々の生活の中で、いつかは、再び自分は不幸だと思うようになってしますのです。
体が不自由で、自分では息をすること意外は、生きていくためにしなければならないことが何一つ出来ない星野富弘さんが、「自分は今、幸せだ」と感じているのは、沢山の愛に包まれているからではないかと思います。もし、星野富弘さんが、沢山の愛に包まれるのではなく、沢山の哀れみに包まれていたとしたら、星野さんは、あの結びつきやすい性質の不自由と不幸を結びつけて、自分の人生を嘆きながら生きて行ったのかも知れません。けれども、沢山の愛に包まれた時に、本来なら結びつきやすい性質の不自由さと不幸は決して結びつかないで、幸せだと思うようになったのです。星野富弘さんの自伝の「愛深き淵より」の中に、こんな一節があります。それは、星野さんが洗礼式を受けた後に、人々の前で話した話ですが、星野さんは次のように言っています。
「わたしが入院する前の母は、昼は四つんばいになって土をかき回し、夜はうす暗い電灯の下で金がないと泣き言を言いながら内職をしていた、私にとって余り魅力のない母だった。私がけがをした時、話を聞いただけで貧血をおこし、気管切開の手術のあとをみてへなへなと坐り込む母だった。母が世間一般にいう強い人なら、私をおいて家に帰り、私のために自分のすべてを犠牲にするようなことはしないで、もっと別の方法を考えたのかも知れない。そのどうにもならない弱さが、いまの母を支えているもっとも強い力なのではないだろうか。もし私がけがをしなければ、この愛に満ちた母に気づくことなく、私は母をうす汚れたひとりの百姓女としてしかみられないままに、一生を高慢な気持ちで過ごしてしまう、不幸な人間になってしまったのかもしれなかった。」星野さんは、ご自分の怪我を通して、自分を愛する存在に気が付かないままに生きていくことが不幸な人生であり、その愛に包まれていることがわかったところに、彼の幸福への道が切り開かれていったのだと言うことだろうと思います。
つまり、私たちにとって幸せなことは、何かが出来ると言うことでもなく、何かを持っていると言うことでもなく、愛に包まれていると言うことが本当の幸せに通じる道なのです。だからこそ、イエス・キリスト様は「「ほかの、付近の町々にみんなで行って、そこでも教えを宣べ伝たえよう。わたしはこのために出てきたのだから」とそう言って旅立たれるのです。それは、イエス・キリスト様の教えが、律法を守ることも出来ない、お金も持っていない、病気で人の世話にならなければ生きていけない人でも、神は愛して下さっているというものだからです。イエス・キリスト様は私たちは、何かできることや、何かを持っていることが価値ある尊いことではないという価値観の上に立っています。何も出来なくても、何も持っていなくても、神様は、私たちを高価で尊い価値あるものだと認めて下さいます。そして、私たちは尽きることのない神の愛で、いつでも、どんなときでも愛されていると言うことを、私たちに教え、語り聞かせて下さっているのです。
だからこそ、教会には、決して哀れみが満ちてはなりません。イエス・キリスト様の体である教会も、愛に満ちていなければならないのです。先日、私は一人の友人と久しぶりに会いました。彼は、20才(はたち)の時に交通事故で、半身不随になり、車いすの生活をもう十数年に渡ってしています。彼のお母さんを交えての、ほんの短い時間でしたが、楽しい一時でした。数日後、彼のお母さんからお手紙をいただきました。そこにはこんな内容のことが書いてありました。「先日、息子と濱さんとの会話を聞いて「僕を呼び捨てにして呼んでくれるのは、濱さんと、誰々さんぐらいだ」という、息子の言葉に、私も気づかなかった息子の本音を聞いたような気がします。事故以来、皆さんが息子のことを気遣ってくださって、事故のことも聞かないようにして下っています。けれどの、そのことが、逆に息子にとっては、辛いことなのかも知れません。」というようなものでした。もちろん、彼の昔からの友人は、みんな優しい気持ちで、彼のことを気遣っているのです。
気遣っているからこそ、知らず知らずのうちに、かっては呼び捨てで、「お前、俺」のように呼び合っていたのが、「さん、君」付けで呼んでしまうようになっていたのです。彼は、敏感にそのことを察知していたのです。もちろん、それは、彼の友人の優しさから出ていることです。優しさからのものだからこそ、彼も本音を言い出せなかったのだろうと思います。けれども、その優しさが、そこに、車いすの生活を余儀なくされた彼を、可哀想だと哀れむ気持ちと結びついたら優しさであったとしたならば、たとえ優しさであったとしても、その優しさが、必ずしも彼を幸せにするものではなくなるのです。確かに、彼は車いすで生活していますから、出来ないことが沢山あります。健常者の私たちからすれば、出来ないことの方が多い意といっても良いかも知れません。でも、何かすることが出来ない、何も持っていない、すべて人の世話にならなければ生きていけないといったことは、人間として何かが欠落していることではありません。独りの高価で尊い存在として、神と人から愛されるにふさわしい存在なのです。
そして、愛に包まれていることを知ることが出来たならば、そこから本当に幸せになる道が開かれてきます。私の友人も、自分が愛に包まれているということがわかるならば、きっと幸せに至る道を見いだせるだろうと思います。私たちも同じです。イエス・キリスト様は、その私たちを幸せに至らせる神の愛を、語っておられるのです。神は、限りない大きな愛で私たちを包んでくださっている。私たちが何をもなさず、何も出来なくても、また何をもっていなくても、私たちを深く尊び愛してくださっているのです。ですから、私たちは、こうして教会の礼拝で、また聖書を通して、私たちを愛する神の愛を語って下さるイエス・キリスト様の言葉に、耳を傾けながら生きていきたいと思います。そして、哀れみに満ちた教会、そちろんそれも大切でしょうが、それ以上に、愛に満ちた教会を築きあげていきたいと思います。私たちと神との接点は、決して私たちの悲しみと哀れみにあるのではありません。私たちと神の接点は、私たちを尊び愛する神の愛にあるからです。
お祈りしましょう。