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羊飼い 『全て新しくなる』
ヨハネの黙示録 21章1−7節
2005/11/6 説教者 濱和弘
賛美 : 104,248,468

さて、今お読みいただきました聖書の箇所は、やがてくる神の国、天国の希望が語られている箇所です。新約聖書の中のコリント人への手紙13節には、有名な言葉「いつまでもの存続するものは、信仰と希望と愛である。このうち最も大いなるものは、愛である。」という言葉があります。このコリントへの手紙13章は、神様が、神を信じるものに何をプレゼントとして与えて下さるかと言うことについて述べられているところです。そのプレゼントを、コリントの手紙では、霊の賜物と言う呼び方をしています。何かをいただけるということは、かなり具体的なことです。私が修養生の頃、伝道実習として公園や教会で子ども会を開いて伝道するというプログラムがありました。その伝道実習の終わりには、specialという特別な集会を行うことが多かったのですが、その時には、子どもたちにお菓子をプレゼントすると言ったようなこともありました。その特別な集会の前には、リスやブタの着ぐるみをきてチラシなどを配ったのですが、そのチラシに、「プレゼントともあるよ」などと書くと、「ねぇ、ねぇ、何がもらえるの」と子どもたちの興味は、ひたすらプレゼントがないかに目が向けられました。

大人でも、子供でも、何かをいただけるとなると、何がもらえるかに関心が集まります。私たちの教会でも、今年もクリスマスでプレゼント交換がありますが、やっぱり一体何が入っているか、木になるのではないでしょうか。そんな風に、人々は神様から霊の賜物として、具体的に預言や威厳や癒しやの賜物を求めている姿に、パウロはこの、コリント人への第一の手紙13章で、神様の与えてくれるプレゼント最も素晴らしいものは、信仰と希望と愛であり、それらは、いつまでも存続するものだというのです。そして、その中で、最も大いなるものは、愛であるというのですが、それは、神が私たちを愛する愛が、信仰と希望の根源だからです。ここで言われている信仰と希望というのは、キリスト教的な信仰と希望と考えて良いだろうと思います。イエス・キリスト様を信じる信仰、そしてイエス・キリスト様が絶えてくれる希望、これらは、全て神様が私たちを愛して下さった結果だといえます。

神様が私たちを愛して下さり、私たちをこうして教会に招き導いて下さったからこそ、私たちは信仰を持つことが出来たのです。毎週の礼拝で、その始まりの時に聖書から招きの言葉が読まれますが、誰一人として、神様の招きなくしては、教会の礼拝に集うことは出来ないのです。誰かに誘われて教会に来るようになり、自分の意志で神を信じる決断をしたように思います。しかし、実は、その背後には、神様の豊かな愛による導きがあるのです。ですから、私たちが教会に集うものとなった、また礼拝に集うものとなったと言うことの背後には、神様の豊かな愛があるのです。またそのように、私たちを愛するお方であるからこそ、神様は将来に希望を与えて下さるお方だというのです。もちろん、今、ここでの、慰めや励ましといったものも与えてくだいます。それはそれで大きな望みでありプレゼントです。

けれども、神様は、今ここでという限られたときだけではない、いつまでも続くより大きな将来への希望を与えて下さるというのです。そしてそれは、今、ここで何か具体的なものをいただけると言うこと以上に、夜大きな将来に希望なのです。この希望は、イエス・キリスト様が私たちの罪の赦しのために十字架に付いて死んでくださったという、キリストの愛に根ざしています。そして、そのキリストの愛に根ざした将来の希望というのは、最終的には、天国という神の国なのです。その神の国ということが書き記されているのがこの、ヨハネの黙示録13章1節から7節まであり、ここに書かれているあたらしい天と地というのが天国のことなのです。この新しい天と地がどのようなところかというと、23節にこう書いてあります。「見よ。神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」

天国は、私たちの罪のために、自分の一人子を犠牲にし、またその一人子も、私たちのために命を投げ出して下さるほどに、私たちを愛して下さるお方が、私たちのすぐそばにいて下さるというのです。そして、そのお方が、目の涙を全てぬぐいとって下さるのだというのです。本当に素晴らしいことだなと思います。有り難いことだとも思います。しかし、正直言って、私は、頭では、本当に有り難いことだと思いますし、嬉しいという気持ちもあるのですが、どれぐらい天国の希望が実感として感じられていたかと言われると、それほども無かったように思われるのです。もう3年4年前になると思いますが、村上宣道先生が、特別伝道礼拝の御用して下さいましたことを、ご記憶なさっておられる方も多いのではないかと思います。その時に、村上先生が、ご自分のお父様が亡くなられるときの話をされておられましたが、覚えていらっしゃいますでしょうか。その話は、こんな話でした。村上先生が、病気のお父様をお見舞いに行ったときに、親子で楽しそうに話をしている姿を見て、看護士さんが、「楽しそうですね。何を話しているのですか」と尋ねられたそうです。それで、村上先生は「ええ、葬式の打ち合わせです」と答えたというのです。

それは、冗談でも何でもありませんでした。本当にまじめに、お葬式の打ち合わせを、お父さんとしていたのです。それほど、お父さんの死期は近かったのです。それにしても、その自分の葬式に打ち合わせをする父とその子供の様子が余りにも楽しそうだったというのは、奇妙なものです。けれどの、村上先生に聞きますと、本当に楽しかったのだから仕方がないというのです。「前奏は、結婚行進曲にして欲しい」「いやそりゃ、やっぱりまずいだろ」なんて話して本当に楽しかったというのです。きっと、村上先生親子の間では、天国と言う場所が、本当に希望に満ちた将来、それもそう遠くない将来として受け止められていたのだろうと思います。私は、その話を聞きながら、「すごいなぁ」とおもいつる、なんだか自分と随分と縁遠い話のように思われました。やっぱり、自分の親の時、また自分が死ぬと言うときには、そんな風には行かないだろうと思ったのです。

実際、私の母がもう1時間余りで召されると分かったとき、父と葬儀の話をしたのですが、とても楽しいとは思えませんでした。実は、その日、私が母の見舞いに行ったときに、父は私に、母の葬儀について、話をしようかと思っていたというのです。でも、私が嫌がると思って、私には話せなかったと言うのです。私は私で、父とそろそろ母の葬儀のことも話し合わなければと思っていたのですが、やっぱり父が嫌がるだろうと思って、話せませんでした。結局、父にとって私にとっても葬儀の話は快い話ではないのです。もちろん、母は洗礼を受けていましたし、イエス・キリスト様が救って下さって天国に行くとそう信じていました。けれどの、その天国への旅立ちが、そう希望に満ちたものには私には、思えなかったのです。けれども、前にも何回かお話しましたように、母が亡くなる三,四日前に、痛み止めのモルヒネを打っていましたから、何を言っているのか良くわかりませんでしたが、それでも、何時間も話し続けるといったことが二日ほど続いたということがありました。

先日も、父が「こんなもんが出てきた」といって、母が書いた書きかけの手記の、それこそ下書きのようなものを見せてくれました。それを見ると、母は、小さい頃から本当にいろいろと苦労したようです。実際、そこには、学校に行きたくても聞けなかったことや、辛い思いをしたことなどがつづられていました。そういえば、私の、母から、自分の幼いときの話や、祖父や祖母に話を聞いたことがありません。ですから、私は、母方の祖父の名前も顔も、また祖母の名前も顔も知らなかったほどです。そういった意味では、母の人生は、苦労が少なくない余り良い人生ではなかったのかもしれません。もちろん、父もよくしてくれましたし、楽しいことも遭ったでしょうが、辛く苦しいことのほうが、もっと多かったのではないかと思うのです。けれども、臨終の間際に思い出したのは、楽しいことばかりだったようなのです。私は、その話を聞きながら、先程の「神が人と共に人の目から涙をすっかりぬぐいとって下さるからです。」という聖書の言葉を思わずにはいられないのです。

私は、このような母の最後の出来事や、静かに息を引き取っていったことなどを思いますときに、すこしだけ天国の希望と言うことが身近に感じられてくるようになったような気がします。確かに、将来の希望の出来事である天国が、あの短い最後の数日間の中に、垣間見られた様な気がするのです。みなさん、今日は召天者記念礼拝です。今、こうして皆さんの前に飾られているお写真は、私たちの教会に繋がりを持たれたお一人お一人です。そして、みなさん、この教会に集われている方のご家族であり、私たち教会の家族です。お写真のお一人お一人にも、神が与えて下さる将来の希望がそこにあるのです。そして、このお一人お一人に確かな将来の希望があると言うことは、このお一人お一人に繋がる神の家族である私たち一人一人にも希望があると言うことです。今日のテキストの、21章2節には、「聖なる都。新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下ってくるのを見た」。とあります。

聖書、時に新約聖書において、花嫁というのは教会のことを指していることが多いのですが、ここもそうだろうと思います。まさに新しい天と新しい地という天国が将来の希望ではなく、現実にあるときには、救われた一人一人という個人ではなく、教会としてこの天国に迎え入れられるというのです。もちろん、教会は、一人一人の個人によって築き上げられ共同体です。ですから、一人一人と言った個人の存在が軽んじられてはなりません。教会を築き上げる一人一人は、大切にされるべき尊い一人一人なのです。しかし、その尊い一人一人が天国に迎え入れられるときには教会として迎え入れられるのだと言うのです。この教会とは、単に三鷹キリスト教会とか、聖書学院教会といったような個々の教会ということではありません。2000年前のペテロやヨハネの時代から、今日に至るまでの歴史に横たわる全ての教会を含んだ教会を指しています。私たちは、今朝も使徒信条を唱和致しましたが、その中にある聖なる公同の教会というのがそれです。

私たちの教会は、この聖なる公同の教会の現われである一個の教会として、今の時代のこの三鷹の地に置かれているのです。ですから、このお写真が飾られているお一人お一人も、その2000年の歴史に横たわる教会の一人として、将来の確かな希望である天国に迎え入れられています。そして、そのお一人お一人を私たちが忘れない限り、そのお一人お一人に繋がっている私たちもまた、その天国の希望に繋がっているのです。だからこそ、こうしてこの事情に表わされた一個の教会として、記念会をもつことは意義があることなのです。そして、私たちが先人に繋がっているならば、将来の天国という確かな希望に繋がっているということは、私たちが、私たちを取り巻く一人一人、具体的には、家族や友人と言った人々を決して忘れないで繋がり続けているならば、その人達もまた天国の希望に繋がっているのです。ですから、私たちも忘れないようにしましょう。私たちの大切な人の顔を、名前を忘れないようにしましょう。そしてその人との絆を決して切れないようして繋がっていたいのです。そして、その大切な人に私たちも忘れられないようにしなければなりません。私たちが、この三鷹キリスト教会を築きあげていく一人一人として個々に呼び集められているのは、そうやって、教会が確かな希望に、私たちの大切な人を繋ぎ合わせていく使命を負っているのです。

そして、天国に教会が迎えられているということのもう一つの大切な側面は、教会が天国のこの地上の現われとして、今のこの時代の、この地の使わされていると言うことです。天国というところが、神が人と共いるところであるとするならば、その地上の現われである教会も、神が共にいますところでなければなりません。それは、教会という交わりの中心には、神様の御現臨がなければならないと言うことです。御現臨というと何やら難しい感じがしますが、要は、教会の交わりというものには、祈りであるとか、御言葉といったことが中心になければならないと言うことです。二人、三人が私の名によって集まるところには、私もまたそこにいますという、イエス・キリスト様の言葉は、そう言うことです。それは、何も、クリスチャンが集まれば、いつも祈祷会みたいになって祈っていなければならないといったことを行っているのではありません。また、いつも聖書研究会のように聖書を勉強していなければならないと行ったことを行っているのでもありません。

遊んでも良いのですし、とりとめのない話で時間を過ごしてもかまわないのです。けれどの、そのようなときでも、お互いが共に主イエス・キリストにあって神の家族である問うことを意識し、相手のことを思う気持ちを持ち続けるのです。本当にその人のことを思うならば、その人の痛みや苦しみ、あるいは悩みと言ったことを分かち合えます。そして、それを本当に分かち合えるならば、それは自分の痛みや悩みですから、祈ることが出来ます。そのような交わりが教会なのです。そして、そのような交わりがあるところには、「人の目から涙をぬぐいとって下さる」といわれるような、慰め合い励まし合うことの出来る天国の現われのような教会の交わりとなっていくと思うのです。

今日は、召天記念礼拝ですが、聖餐式礼拝でもあります。私たちは、この聖餐のパンとぶどう酒にあずかります。これはイエス・キリスト様が、私たちの罪のために、私たちの身代わりになって神の裁きを受けて下さったことを、私たちの心に刻むための、行ないによって示される神の言葉です。そのキリストの救いのみ業を、行ないによって示される神の言葉を通して私たちに知らせる恵みの手段です。イエス・キリスト様は、神で在られたのに人となられて、それこそ、私たちの悩みや苦しみを分かち合って下さったのです。特に、現代の悩みや苦しみの多くの原因は、人と人との人間関係にあるように思いますが、どうでしょうか。もちろん、人の悩みや苦しみというのは、単純に図式化できるものではありません。経済上の問題や、病気など、様々な要因があります。けれどの、そのような苦しみの中にあっても、悩みがわかち合え、支えられるならば、そのような悩みや苦しみも少しは和らぎます。けれども、人間関係の中で、そこで傷つき、疲れ果ててしまう中で、苦しみや悩みが深まっていくように思うのですがどうでしょうか。

江藤淳という文芸評論家が、もう40年も前に「成熟と喪失」という本を書きました。江藤淳は、この本の中で、現代のこれからの問題は家庭問題である。そしてそれは、「父の不在と、母の崩壊」いったことが根底にある原因によって引き起こされると言います。父と母というのは、子供にとってはいわゆる家族です。そして、本来は、自分の人生の歩みに、示唆を与え導いてくれる存在である父親が、家庭の中に不在となり、傷つき痛んだときに優しく包んでくれる母親が崩壊してしまった家庭には、問題が生じてくると言うのです。そして、現代はそのような状況になりつつあるというのです。江藤淳が時代を鋭く批評してから40年が立ちます。40年たって今の時代を見ますと、確かに様々な家庭問題が引き起こされています。しかし、それは家庭問題だけには納まりません。家庭は、もっとも小さな社会です。ですから家庭で起こっていることは、社会でも興っているのです。今の日本社会には、しっかりと私たちを教え導いてくれる存在はありません。学校もその機能を十分に果たせていないというのが現状です。そして、傷つき痛んだときに私たちを受容し包んでくれるような存在は、社会のどこにも見あたらないのです。だからこそ、私たちは行き場を見失い、傷つき疲れ果ててしまうと言ったことがあるのです。

けれどの、教会という社会は、私たちをしっかりと導いてくれる父なる神があります。この父なる神が、私たちが如何に生きるべきか、私たちがどうあるべきかを、聖書の言葉を通して導いて下さいます。同時に、私たちが、失敗したり、誤ったりしたときも、優しく包んで切れるイエス・キリスト様がおられます。イエス・キリスト様は、母親のように、私たちの苦しみや悩みを自分のことのように受け止めて、慰め支えて下さるのです。教会は、そのような父なる神、子なる神が中心にいて下さる社会なのです。そして、私たちが、この聖餐のパンとぶどう酒にあずかると言うことは、この私たちの悩みや苦しみ、痛みを共に分かち合って下さったイエス・キリスト様に繋がると言うことでもあります。それは聖餐のパンとぶどう酒にあずかり、イエス・キリストに繋がっている一人一人によって気づきあげられる教会は母なる教会として、共に痛みや悩みを分かち合うものとなっていかなければならないと言うことでもあります。また、傷つきつかれたものが、暖かく迎え入れられるところになっていかなければならないと言う事でもあります。

そうやって、現代という時代に存在しない、神の国である天国に繋がる、天国の現われである全く新しい社会、コミュニティーを教会は示していかなければならないのだろうと思います。そして人の目から涙を全てぬぐい取る社会を教会というところ築き上げていかなければならないのだと思うのです。 皆さんは、その全く新しい社会を産み出していく一人一人として、今、ここに召し出されている一人一人なのですね。

お祈りしましょう。