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羊飼い 献堂記念・幼児祝福礼拝
『小さな事の中に』
列王記下 5章1−14節
2005/11/13 説教者 濱和弘
賛美 : 11,474,397

さて、今日は、幼児祝福礼拝です。ですから、大人と子供が一緒に礼拝を守ります。この教会では、大人と子供が一緒に礼拝を守るときは、礼拝のお話しでは、まず最初に子供のみなさんのために、お話しします。そして、その後に、大人の人たちのためのお話しをします。ですから、今日も、まず最初に子供のみんなのためにお話しをしますから静かにして、よく聞いて下さい。今日の礼拝のお話しは、いま司会のおじちゃんが呼んでくれた、旧約聖書の列王紀下の5章1節から15節に書いてあるお話しです。

このお話しに出てくる主人公は、ナアマンという人です。ナアマンという人は、スリヤという国のとても力強が強い、兵隊さんでした。力が強いだけはありません。とっても勇気のあるひとでした。だから、みんなからも「すごい人だなー」と尊敬されていました。スリヤの王様も、そんなナアマンさんのことをとっても大切におもっていました。でも、力強くて、勇気もあって、頭も良いナアマンさんにも、たったひとつ困っていたことがありました。それは、ナアマンさんが病気になっていたからです。病気といっても、熱が出て「ウンウン」と唸っていると言うわけではありません。また病院に入院しなければならないといったような重い病気では在りませんでした。体中の手や足やお腹が、だんだんと白くなっていくような病気です。ですから、ナアマンさんは、王様の宮殿や、お友達といるときには、元気にしているんですが、お家に帰って、白くなっている自分の体を見ると、とっても悲しくなってきました。

そんな、ナアマンさんの様子が悲しがっている様子を知っている人が、二人いました。一人は、ナアマンさんのお嫁さんです。ナアマンさんのお嫁さんも、ナアマンさんが自分の病気のことで、がっかりして悲しんでいるのをよく知っていました。それで、何とかナアマンさんの病気を治してあげたいと思っていました。でも、ナアマンさんのかかっている病気を治してくれそうなお医者さんは、スリヤの国中を捜してもみつかりません。だからナアマンさんのお嫁さんも、ナアマンさんが、自分の体が白くなっていくのを見て、「はぁー」とがっかりして悲しんでいるとなりで、一緒に「はぁー」といって悲しんでいるしか出来ませんでした。もう一人は、このナアマンさんのお家で働いていた小さな女の子です。この女の子は、イスラエルから連れてこられた女の子です。昔、スリヤの国とイスラエルの国が戦争をしたときに、イスラエルの国が負けてしまって、それで連れてこられていたのです。

その女の子が、病気のためにがっかりして悲しんでいるナアマンさんとそのお嫁さんの様子をじっと見ていました。それでね、ナアマンさんとそのお嫁さんが、とっても悲しんでいるのを見て「その病気を治してくれる人を教えてあげたい」と思っていました。でも「なかなか、言い出すことは出いいませんでした。」今日入ってあげようか、明日は教えてあげようか、どうしようかと思っていましたが、ある時、勇気を出して、ナアマンさんのお嫁さんに「私ナアマンさんの病気を治せる人を知っています。」とそう言いました。女の子から「ナアマンさんの病気を治せる人を知っています。」と聞いて、ナアマンさんのお嫁さんはびっくりしました。「それは誰なの。どこにいるの。すぐに教えて」女の子に、「その病気を治してくれる人」のことを聞きました。すると、その小さな女の子は「それは、私の生まれた国のイスラエルにいる、エリシャという人です。エリシャは、預言者と言って神様の為の働きをしている人です。あのエリシャなら、きっとご主人ナアマンさんの病気をなおせるでしょう。」というのです。

その話をきいたナアマンさんのお嫁さんは、すぐにナアマンさんのところに行きました。そしてナアマンさんに、預言者エリシャのことをおしえました。ナアマンさんは、自分の病気を治ス事が出来る人がいると聞いて、大喜びです。それで、ナアマンさんは、すぐにスリヤ王様のところに行って、「イスラエルの国にエリシャという預言者なら、私の病気も治せるかも知れません。ですから、イスラエルの国に行こうと思いますので、しばらく王様のお城で働くのを休ませて下さい。」と御願いしに行きました。スリヤの王様もナアマンさんのことを大切に思っていましたから「良しわかった。言ってきなさい」とそう言ました。それだけではありません。「私がイスラエルの国の王様に手紙を書いて、頼んであげよう」とまで言ってくれたのです。それで、ナアマンさんは、すぐに準備をして、エリシャさんのところへ出かけていきました。そしてエリシャさんのお家の前に来て、家のドアを「トントン」「トントン」とたたき「私はスリヤの国からきた、ナアマンというものです。あなたが私の、体を白くなる病気を治して下さると聞いてやってきました。」とそう叫びました。

すると、家の中からエリシャさんの使いがやってきました。そして、「ナアマンさん、エリシャさんが、あなたにこう言っています。」そういって、家の近くにあるヨルダン川のほうを指さしました。「あのヨルダン川に行って、7回、水をあびなさい。」ナアマンさんは、最初は「川で水浴びをするくらいの簡単なことで治るんだろうか」と疑いましたが、周りの人が、「川で水浴びをしろと言うんだから、やってみるだけやってみたらいいですよ。」とそう言いました。そう言われてナアマンさんは「それもそうだな」と思って、そうするとね、エリシャが言ったとおりヨルダン川で水浴びを7回しました。するとね、びっくりしたことに、本当に病気が治ってしまったのです。あのスリヤの国で、ナアマンさんに「エリヤという人なら病気が治せますよ」といった小さな女の子の言葉通りにナアマンさんの病気は、確かに治ったんですね。

このお話しは、みんなに大切な三つのことを教えてくれています。一つは、人のことを思いやる心の大切さです。もし、あの小さな女の子が、エリシャさんのことを、ナアマンさんに教えてあげなければ、ナアマンさんはエリシャさんのところに来ることが出来ませんでした。でも、どうして、あの小さな女の子は、ナアマンさんにエリシャさんのことを教えてあげようと思ったのでしょうか。それは、エリシャさんと、エリシャさんのお嫁さんが、病気の事でとてもがっかりして悲しんでいたからです。自分の体がだんだん白くなっていくのを見るたびに「はぁー」といって悲しんで着る姿をみて、可哀想だな、何とか治してあげたいなって思ったのです。そのように、人を思いやる優しい心はとても大切な事なんですね。二つ目は、勇気を出して伝えるってことです。この小さな女子は、ナアマンさんと、そのお嫁さんのことを可哀想に思い、何とかナアマンさんの病気を治してあげたいと思いました。でも、この小さな女の子が、エリシャさんことを教えてあげなければ、ナアマンさんは、エリシャさんところに来ることはありませんでした。

もうすぐクリスマスが立ってきますが、イエス・キリスト様は、私たちの罪を赦し、私たちを天国に行くことが出来るようにして下さいました。誰も、イエス・キリスト様の罪の赦し信じなければ天国に入ることが出来ません。でも、イエス・キリスト様を信じてクリスチャンになった人は、必ず天国にはいることが出来るのです。せっかくイエス・キリスト様のことを信じれば天国に行けるのに、イエス様のことを知らなければ、イエス様をしんじることもできませんよね。だから、イエス・キリスト様のことを教えてあげるって子とは、とても大切なことです。

三つ目は、信じるということの大切さです。ナアマンさんは、小さな女の子が「私の生まれた国のイスラエルにいる、エリシャという預言者なら、きっとご主人ナアマンさんの病気をなおせるでしょう。」と言う言葉を信じました。信じたからこそ、自分の住むスリヤの国からは遠い遠いイスラエルの国まで、わざわざ何日もかけて旅してやってきたのです。そして、エリシャさんが「ヨルダン川で体を7回洗いなさい」と言われて、最初は「本当かな?」とおもいながらも、最後は「良し、やってみよう」とそう思って、言われたとおりにしたのです。

みんなも、神様を信じ、イエス・キリスト様を信じたら、天国に行けるよって教会で聞きます。教会学校に来ていると、父なる神様のお話、子なる神イエス・キリスト様のお話をいっぱい聞きます。なかには、ナアマンさんみたいに「本当かな」って思うこともあるかも知れません。でもね、最後はナアマンさんもエリシャさんの言葉を信じたように、みんなも教会で聞く父なるかみ様の話、子なる神イエス・キリスト様のお話を、心で「よし信じよう」とて思うことが大切なんです。ですから、今日のナアマンさんのお話から、この三つの大切なことを忘れないで下さい。一つはなんだったけ? …そう一緒に言おう、大人の人もね、はい「人を思いやる心」。二つ目は、はい「勇気を出して伝えること」、三つ目は、ハイ「(神様とイエス様を)信じること」「人を思いやる心」。「勇気を出して伝えること」。「(神様とイエス様を)信じること」この大切なことを忘れないでいて下さい。

さて、そこで大人の人たちです。大人の人たちにとっても、この「人を思いやる心」。「勇気を出して伝えること」。「神様とイエス様を信じること」の三つのことを、しっかりと覚えておいて欲しいと思うのですが、もうひとつのことを知っていただきたいと思うのです。小さな事にも忠実であると言うことです。「忠実である」と言いますと、教会では、何か奉仕をしたりすることや礼拝を守るということに置いて「忠実である」といった印象があるかも知れませんが、どうでしょうか。けれども、ここではそう言ったことを言おうとしているのではありません。むしろ神様の言葉を信頼すると言うことに置いて忠実であることが大切だと言うことが言いたいのです。今日のテキストを見ますと、ナアマンがエリシャの家を尋ねたとき、エリシャの使いの者が、「ヨルダン川で体を7回洗いなさい。」と伝えています。その時に、ナアマンは怒って、帰ろうとするのです。聖書はナアマンの言葉を書き記していますが、そこにはナアマンが腹を立てた理由が十分にうかがい知れるのです。そこにはこう書いてあります。

「わたしは、彼がきっと私のところに出てきてたち、その神、主の名を呼んで、その箇所に手を置いて動かして、らい病(このらい病というのが、この前お話しいたしましたツァーラートですが、そのツァーラート)を治してくれるだろうと思った。ダマスコの川アバナとパルパルにはイスラエルすべての川水のまさるではないか。わたしは、これらの川に身を洗って清まることは出来ないであろうか。」この言葉から伺われることは、ナアマンが期待していたものは、何か特別な宗教的神秘性をともなった癒しの業だったようです。奇跡的な出来事だったと言っても良いように思うのです。そのことのために、わざわざスリヤから尋ねてきているのです。何の、エリシャは自分応対するわけでもなく、使いを寄せて「川で体を洗えと言うのです」。ここでナアマンが患っているツァーラートと言う病気は、皮膚が白くなっていくものですから疥癬の一種つまり皮膚病であっただろうと思います。

皮膚病にかかった体をきれいに洗うと言うことは、取りあえず誰でも考えそうなことですし、誰にでも出来ることです。実際、ナアマン自身「ダマスコの川アバナとパルパルにはイスラエルすべての川水のまさるではないか。わたしは、「自分のすんでいるダマスコの川アバナとパルパルに身を洗って清まることは出来ないであろうか。」と言っています。それは、そんなことはとは出来るとナアマンは言っているのです。彼は、そんな当たり前のことを期待したのではない、もっと特別なことを期待したのです。そもそも、ナアマンはスリヤの国の軍勢の長です。しかも後の17節を見れば分かりますが、スリヤの王のかたわらにあって王を守っている立場ですから、かなり高い地位にある人だと言えます。しかも、イスラエルとスリヤの関係を見ますと、圧倒的にスリヤの方が強い立場にあったようです。7節にスリヤの王がナアマンのために書いた手紙を読んだイスラエルの王のうろたえようから見てもそれはうかがい知れます。そのスリヤの国の高い地位にある自分が、何日もかけて遠い距離をわざわざやってきているのに、自分で応対もせずに、使いの者を寄よこして、当たり前の事のように思えることを言われた腹立たしさが、ナアマンの言葉の中には読みとれます。

そんな、ナアマンをしもべは、こう言っていさめます。「わが父よ、預言者があなたに、なにか大きいことをせよと命じもそれをなさらなかったでしょうか。ましてや彼に、あなたに『身を洗って、清くなれ』というだけではありませんか。」わたしは、このしもべのことばは、なんと含蓄のある、また洞察力のある言葉だろうと思うのです。ともうしますのも、私たちは当たり前のことをやっていてはダメだ、何か特別なことをしなければ、大きな成果は得られないというようなそんな錯覚に陥ってしまうようなことがあるように思うのですがどうでしょうか。もちろん、受験勉強やスポーツの試合などでは、人と同じ当たり前のことをしていたら勝つことは出来ないということは、言えるかも知れません。それと同じように、信仰の世界でも、何か特別なことをすれば、殊更お祈りが聞かれるかのような錯覚に陥ったり、何か特別な奉仕をしたり、献金をすれば、特別な神様の祝福があるように思ってしまうことなどは無いだろうかと思うのですが、皆さんはそう言ったことはなかったでしょうか。けれども、実際のところは、そのような特別なことをしたから、特別な恵みや祝福が私たちに与えられると言うことではありません。むしろ、当たり前のようなこと、それは誰にでも出来ると思われるような小さな事を忠実であることの中に神様の恵みといったものがあるのです。

その小さな事に忠実であることだという、小さな事とは、生活の中でおこる、当たり前のようなことであっても、神様の言葉に聞き従うと言うことです。というのも、その生活の当たり前のような出来事の中に神様の恵みが在るからです。今日は、私たち三鷹キリスト教会の幼児祝福礼拝であると同時に、献堂記念礼拝でもあります。本来でしたら、来週が献堂記念礼拝ですが、山形教会の特別伝道集会の御用があってどうしても日程の都合が付かず、一週間早めていただき、今週にその記念の礼拝を行わせていただきました。この教会が、できてもうじき50年になろうとしていますが、この教会にも50年の歴史を築きあげるだけの様々な出来事、トピックスがありました。けれどの、その50年の歩みのほとんどは、決して特別なことではなく、普通の教会生活に支えられているのです。そして、そのごく普通に当たり前のようにして礼拝を守り、お祈りをし、賛美を捧げると言ったことを通して、実は神様はこの教会に恵みを注いできて下さり、50年の歴史を与えて下さっているのです。

この日本という国で、教会が50年の歴史を持っていると言うことは、それだけで素晴らしいことです。その素晴らしい祝福を、神様は、当たり前のようにして守られてきた礼拝、お祈り、賛美、そういったことを忠実に行ってきた私たちの教会に与えて下さっているのです。そして、その根底にあったのは、私たちの教会の伝統である「御言葉信仰」と言うことです。「御言葉信仰」というと何か古くさく、ちょっとうさんくさい響きがないわけでもありませんが、要は、聖書を通して神様の言葉を聴き、それに従って生きると言うことなのです。みなさん、本当に信仰に大切なことは、何か特別なことにあるのではありません。ごく当たり前のようなささやかなこと、小さな事の中のなかにあるのです。私たちが、私たちの普段の生活の中の、ごくごく小さな事の中で、神様にお従いしようと生きていくならば、神様は、私たちの生活の極めてちさ出来事のまで、愛と恵みを注いで下さるのです。ですから、私たちは、これからも、私たちにできる、ごくごく普通の教会生活、信仰生活を大切にしていきたいと思います。そのように、小さな事の中で、私たちが神様に忠実であることが、教会のこれからの歩みに神様の恵みと祝福をもたらしてくれますし、私たちに生活の中を神様の恵みが導いていってくれると思うのです。

お祈りしましょう。