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羊飼い 『一番伝えたい言葉』
マルコによる福音書 2章1−12節
2005/11/27 説教者 濱和弘
賛美 : 20,185,264

さて、ただ今司式の兄弟にお読みいただきましたマルコによる福音書2章1節から12節は、イエス・キリスト様が、ガリラヤ地方のカペナウムの町での癒しの出来事が記されている箇所です。カペナウムという町は、イエスキリスト様がガリラヤ地方での宣教活動の拠点としていた町でした。ですから、この2章1節においては「イエスが、またカペナウムにお帰りになると」とそう言うのです。そういった意味では、カペナウムの人々は、イエス・キリスト様のことをよく知っていたであろうと思うのです。ですから、イエス・キリスト様が、またカペナウムにお帰りになると、人々は大勢集まってきて、家の中が一杯になってしまったというのです。

 この人々が大勢集まったという家は、おそらくペテロの実家であったろうと思われますが、当時のイスラエルの一般的な家というのは、一部屋しかないものでした。ですから、戸口のあたりまで、すき間のないほど一杯になる程大勢であったといっても、そこは一般庶民のペテロのいえですから、おそらくは2〜30人ぐらい、仮に大きな家で、この三鷹教会の会堂ぐらい広さがあっても、せいぜい100名前後ぐらいであっただろうと思われます。現在、カペナウムの町は、廃墟になっていますが、当時のカペナウムの町は、東西の交通の要地であり、取税所やローマ軍が駐屯していたことなどから、比較的大きな町であった事が伺われます。インターネットなどで調べますと、ガリラヤ地方最大の人口町で、5万人ぐらいであったといったことが書かれているものもありましたが、いずれにしても、決して人口数十人とか数百人といった小さな村ではなかったようです。

その中で、イエス・キリスト様が再びカペナウムに来られたと聞いて、そこに集まったのは、大勢とは言われていますが、どんなに多くて見積もって百数十名の人たちだったのです。この戸口一杯に集まった人たちが、どのような人たちであったかは、聖書に明瞭に書かれているわけではありませんから、押して計るしか在りません。しかし、同じマルコによる福音書の1章32節から34節には、前回イエス・キリスト様がカペナウムにやってこられたときに、そこで町中の病人や悪霊に憑かれた人たちをお癒しになられたと書かれてありますので、おそらくは、その時癒された人たちか、その関係者が集まっていただろうと思われます。町中の病人や悪霊に憑かれた人を癒されたとありますが、町中というのは、大勢の人数を強調するための修辞法であろうと思われますが、それでも、人口が5万人もいる町ですから、イエス・キリスト様によって癒された人の数は、その家族も合わせれば、百人やそこらではなかったろうと思われます。ですから、その時集まった人たちが、人そのとき癒された人の家族であったとしたら、よほどの感謝な思いか、イエス・キリスト様を慕う思いで、集まっていたのだろうと思われます。

あるいは、前回のカペナウムに訪れたときに、イエス・キリスト様のもとに来るとの出来なかった病人や悪霊に憑かれた人や、それ以後、病気になった人たちが連れてこられていたのかも知れません。実際、今日のテキストには、前回イエス・キリスト様連れてこられなかった中風の人が運ばれてきているのです。ですから、おそらくは、この家に立錐の余地もないほどに集まっていた人たちの多くは、イエス・キリスト様の癒しの業に関わって集まってきていたと言えます。そんな中で、この中風の人が、連れてこられる3節以降の箇所は、ある意味、絵画的に描けるような箇所です。ですから、教会学校の紙芝居やお話しで使われるところでもあります。そんなわけで、皆さんの中でも、教会学校から教会に来ているとか、かって教会学校に行ったことがあるという方は、おそれく、このマルコによる福音書2章3節から12節話を教会学校できいたとのではないかとおもうのですが、どうでしょうかね。

この2章3節以降に出てくる中風の人は、だいぶんとお具合が悪かったのでしょう、自分の力では歩けず、4人の人が床を抱えるようにして連れてこられます。しかし、家の中は立錐の余地もないほどに大勢の人で一杯になっているのです。それで、屋根をはがして、天上から床のまま釣り降ろして、イエス・キリスト様のところまで連れてきたというのです。イスラエルの一般庶民の家というのは、いわゆる乾燥煉瓦を積み重ねてつくったブロック細工のような家です。観想させた煉瓦を積み上げて四角い囲いをつくり、その上に木材の梁を通し、その上に木の枝などを渡してむしろを敷き、更にその上に土を踏み重ねて屋根を作るといった簡単なものでした。ですから、天上に穴をあけると言ったことは、私たちの想像以上に簡単なことだったと言えます。しかし、それにしても、天上に穴を空けて、そこから病人を寝床のまま吊り降ろすというのは、まさに絵にでも描けるような情景です。そのようなことをする人たちの行動は、実は彼らの信仰からなされたことなのだと、聖書はそう言います。そして、イエス・キリスト様は、そのような彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦された」とそう言われるのです。

「イエスは彼らの信仰を見て」と聖書はそう言いますが、このように、「信仰を見て」と言われますと、私たちは、彼らが屋根に穴を空けてまでして、中風の人をイエス・キリスト様のところに連れてこようとした熱心さや、一途さと言ったものを、その信仰の中に見出します。もちろん、そのような一途さや熱心な心が、この四人の人にあったことは確かだろうと思います。そして、イエス・キリスト様のところに連れてくれば必ず良くなるといった信頼や確信を持っていたのだろうことは間違いありません。ですから、そこから熱心な信仰の大切さ、ひたすらイエス・キリと様を信頼し願い求める信仰の大切さと言うことを学ぶことも出来るだろうと思いますし、それはそれで大切な聖書の読み方のひとつです。けれども、このマルコによる福音書の著者は、そのような教訓を示し、熱心に求める信仰を持つことの大切さが、一番伝えたかったことではないように思うのです。このマルコの福音書2章1節から12節までは、全て5節にある「子よ、あなたの罪は赦された」というイエス・キリスト様のお言葉を中心に話が展開しているからです。

たとえば、6節以降は、このイエス・キリスト様の「子よ、あなたの罪は赦された」というお言葉を聞いた幾人の律法学者が「この人は、なぜあんな事を言うのか。それは神を汚すことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と反発した事が書かれています。そして、この反発を通して、イエス・キリスト様と律法学者の間で、罪を赦す権威に関する短い論争が起こっているのです。そして、イエス・キリスト様はその最後のところで、イエス・キリスト様に罪をゆるす権威があることを示すためにといって、この中風の人をお癒しになられるのです。それは、単に、「この人は、なぜあんな事を言うのか。それは神を汚すことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と反発した幾人の律法学者に対してだけではありません。イエス・キリスト様は、御自分のところに連れてくれば必ず癒されるという信仰を持ち、あの屋根に穴を開けて中風の人を吊り降ろした4人の人たちにも、同じように罪の赦しを語り示されたのです。そして、さらには、家に立錐の余地もないほどに集まっていた大勢の人たちに対してもです。

ですから、ここにおいて、マルコによる福音書の著者が、私たちに最も伝えたかったことは、イエス・キリスト様は、私たちの罪を全て許して下さるお方であると言うことだったと言えます。イエス・キリスト様が語られた「子よ、あなたの罪は赦された」というこの言葉を、私たちに聞かせたかったのだろうと思うのです。私たちは、信仰という言葉に、多くのことを期待します。そこには、この中風の人を連れてきた人たちのように、健康や癒しを求める心があります。あるいは仕事がうまくいくようにと願う気持ちがそこに込められているかもしれません。もちろん、それらのことを願う事が悪いことではありません。むしろ、それは、私たちの心からの願いとして祈り求めて行かれるべきものであろうと思います。けれども、このマルコによる福音書の著者のマルコが、私たちにもっとも伝えたかったことは、「あなたは、いろんな願いや思いを持って、あなたはイエス・キリスト様の元に来ているだろう。でもあなたに、もっとも聞いて欲しいイエス・キリスト様の言葉は「子よ、あなたの罪は赦された」と言うことなのだろうと思うのです。

私たちは、イエス・キリスト様に、私たちが犯した罪の全てを赦していただくことができる。それは、まさに、今ここで起こる出来事です。それは、頑張っていれば将来、最後の審判で罪が許していただけるだろうという将来の望みが示されたといったものではありません。私たちに、イエス・キリスト様があなたに、「子よ、あなたの罪は赦された」と語らえた瞬間に、あなたは赦されているのです。そして、将来に渡るまで、赦され続けるのです。ともうしますのも、このように、罪の赦しを宣言し、それが紛れもなく、神がもつ罪を赦す権威であることを、実際にお示しになるために「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」とそうおっしゃっておられるからです。そして、この言葉通りに、中風で苦しんでいた人は、起きあがって帰っていったのです。この中風の人が癒され起きあがったという奇跡は、確かにイエス・キリスト様が罪を赦すことのできるお方であることを指し示す出来事であると言えます。

しかし、私は、そのような奇跡以上に、イエス・キリスト様が「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた言葉に、本当にイエス・キリスト様は私たちの罪をお許し下さるお方なのだと思わされるのです。「床を取り上げて家に帰れ」と言う言葉は、何気ない言葉ですよね。病が癒されたものが自分の家に帰るのは、当たり前のことのようにおもわれます。いや、仮に病が癒されなかったとしても、きっとこの中風の人は自分の家に帰って言っただろうと思うのです。ですから、この「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言う言葉は、第一義的には、実際の自分の家を指しているのだろうと思います。しかし、この言葉が、罪の赦しとの関係で語られるとき、それは、単純に家に帰ると言うこと以上の、特別な重みがあるように思われるのです。「帰れ」と言われるとき、そこには帰るべき場所があります。そして家に帰れと言われるとき、そこには安心して帰ることのできる家が在るのです。安心して帰ることができる家と言うことは、そこ必ずじぶんの居場所がある所であるといっても良いのかも知れません。

長く病に伏していたものが立ち上がって、自分の居場所の帰っていく、それが罪の赦しと深く結びついて語られるとき、私たちは、イエス・キリスト様から罪の赦しを頂いて神の前に立ち上がって、天国にある自分の居場所に帰っていくと言うことでもあるのです。ですから、この中風の人が癒されて、起きあがり、床をたたんで家に帰っていくと言うことは、確かに自分の家に帰っていくことではありますが、同時に神に御元に帰って行くと言うことでもあります。ヨハネによる福音書14章1節か3節にはイエス・キリスト様が語られた次のような言葉が書かれています。「あなたがたは、心を騒がせないよい。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなかったならば、そう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだから。そして、行って場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしがおる所にあなたがたもおらせるためである。」

この言葉は、やがて来る将来の出来事である天国のことが語られているところです。イエス・キリスト様は、天国に私たちの住まい、つまりは家を用意しておいて下さるとそう言うのです。天国には、チャンと私たちの居場所がある。それは、イエス・キリスト様の私たちに対する約束です。イエス・キリスト様は私たちが、その罪のために、決して滅びることがないようにと、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれたのです。そうやって、私たちが天国にある私たちの家に、私たちが帰っていくことができるようにして下さっているのです。もちろん、このマルコによる福音書2章5節で「子よ、あなたの罪が赦された」と言われたときに、この事がイエス・キリスト様の頭になかったはずはありません。イエス・キリスト様はそのために、この地上に来られたからです。ですから、この中風の人に罪の赦しの宣言をなさったときに、「この人のために、罪の身代わりとなって十字架に架かって死ぬのだ」という、はっきりとしたお覚悟をもって「子よ、あなたの罪が赦された」とそうおっしゃっておられるのです。

そして、そのうえで「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」とそうこの人に語りかけておられる。だからこそ、私たちは、中風という病で苦しみ抜いた人が、癒され喜び踊りながら、自分の家に帰っていく後ろ姿の中に、罪ゆるされて、喜びながら、天国に用意されている私たちの家に、喜びながら帰っていく自分の姿を重ね合わせてみることが出来るのです。なぜなら、私たちもまた、イエス・キリスト様から「子よ、あなたの罪は赦された」とそう言っていただいている一人一人だからです。ここに集っているお一人お一人のために、あなたのために。罪の身代わりとなってイエス・キリスト様は十字架に架かって命を投げ出されたのです。その十字架の出来事を踏まえて、主イエス・キリスト様はあなたに「子よ、あなたの罪は赦された」と、あなたにそう語りかけているのです。そして、イエス・キリスト様は、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と語りかけられたものには、「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」とも言われるのです。そしてその帰って行き先は、天国に、私たちのために用意された家なのです。

この二つの言葉は、イエス・キリスト様は、あのペテロの実家に集まった立錐の余地のない程に集まった一人一人に、一番聞かせたかった言葉だったろうと思うのです。病の癒しを求めてきている人々や、癒されたことに感謝の思いを持って集まってきた人に、イエス・キリスト様は、罪の赦しを与える言葉と、天国の希望、神の国の希望を語り聞かせたかったのです。どんなに、私たちが、私たちの人生の歩みの中で、つまずき倒れる事があっても、傷つき立ち上がれないようなことがあっても、また心も体も疲れ切って起きあがれないようなとき出会っても、イエス・キリスト様は、私たちが安心して帰っていくことのできる天国の住まいを指して、「そこに帰って行きなさい」とそう言っておられるのです。この天国は、やがて来る将来の希望です。しかし、ただ遠い将来のことだけではありません。と申しますのも、イエス・キリスト様の「子よ、あなたの罪は赦された」と言う言葉は、現在形だからです。

ちょっと専門的になりますが、ギリシャ語の現在形には、まさに今の一瞬動作を表わす時にも用いられます。ですから、先程も申しましたように、イエス・キリスト様が「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたときに、私たちの罪は赦されています。イエス・キリスト様が罪の赦しがなされたその瞬間に私たちの罪の赦しは全て終わっているのです。そして全て終わっている以上、「今、ここで」私たちは赦されているのです。ですから、私たちに対する罪の赦しは、今、現在の、この地上の出来事でもあるのです。だからこそ、イエス・キリスト様は「人の子は、この地上で罪を赦す権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」とそう言われるのです。それは、遠い未来の出来事でもありますが、今、ここでの出来事でもあるのです。このように、罪の赦しが「今、ここで」の出来事であるとするならば、私たちが「帰れ」と言われる、安心できる居場所、天国の住まいも、遠い未来にある場所というだけではなく、「今、ここで」の地上の場所であっても良いはずです。

そして、確かに神を信じるものが、「今、ここで」の地上で安心して身を置くことが出来る場所が、間違いなくあるのです。それが教会という場所なのです。ですから、教会には誰一人、「自分の居場所がない」と言うようなことがあってはなりません。教会は、神を信じるものが、安心できる居場所を見つけ出せるところでなくてはならないのです。そして、教会が神を信じるクリスチャンにとって安心できる居場所を見つけるためには、互いに相手のことを思いやる心が必要です。今日のテキストの箇所で、ペテロの実家に人々が集まったときに、四人の男に床に乗せられたまま連れてこられた人は、家の中に居場所を見つけることが出来ませんでした。誰一人、重い中風を患って、運ばれているものがいるからと言って、声を掛け合って通してやるものなど居なかったのです。おそらく、みんな自分の居場所を確保するので精一杯だったのだろうと思うのです。だから、この中風の人のことを思いやってあげることなど出来なかったのだろうと思われます。そんな中で、この人のことを思いやる人たちが居ました。それは、この人を連れてきた四人の男です。この四人の男は、何とかしてやりたいと思って、屋根に上がり、そこをこじ開けて、天上からつるし降ろしたのです。

それこそ、立錐の余地もなく、誰もが自分のことで精一杯で、この中風の人に居場所を造ってあげられないその場所に、居場所を作ろうとしたのです。そんな彼らの振る舞いに対して、イエス・キリスト様は信仰を見るのです。彼らの信仰は、イエス・キリスト様が、イエス・キリスト様を求めてくるもの対して思いやりの心をもって接することの中に信仰をみられたのは、そのような思いやりの心があるところに教会が建てあげられるからです。だからこそ、誰一人、中風の人のために居場所を作ってあげようとしなかった人々の中で、屋根を派がしてでも居場所を作ろうとした人たちの姿に、信仰を見てイエス・キリスト様は「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたのだろうと思うのです。それは、癒しを求めてきた中風の人に聞かせる罪の赦しの宣言と言うだけでなく、自分のことしか考えられなかった人たちにも聞いて欲しい言葉だったように思えるのですがどうでしょうか。

それは、イエス・キリスト様を求めてやってきた人々に、本当の神の民の群れ、すなわち教会とはこのような思いやりによって出来ている所だと言うことをお示しになるものであったように思われるのです。そして、ひいてはそれが、教会が指し示す神の国である天国は、神とキリストの愛と思いやりに満ちあふれたところであるという事を示しているように思うのです。もちろん、たしかに、われわれプロテスタントの神学上で教会とは何かと問われれば、それは福音、あるいは御言葉が正しく語られ、聖礼典が正しく行われるところであるとそう言うことが出来ます。そして、信仰告白の上に教会は建てあげられるものだと言えます。けれども、どんなに御言葉が正しく語られ、聖礼典が正しく行われたとしても、また、同じ信仰告白をするものが集まったとしても、そこに相手を思いやる心がなかったとしたら、それは教会とは言えません。なぜなら、教会は、神様が中心におられ場所だからです。イエス・キリスト様が教会の中心におられる所が教会なのです。

福音、あるいは御言葉が正しく語られ、聖礼典が正しく行われるところが教会だと言われるのは、御言葉が正しく語られる所にイエス・キリスト様が明らかに表わされ、聖礼典がただしく行われるところに、イエス・キリスト様が共におられるからです。そして、教会の中心にイエス・キリスト様がおられるのですから、教会は思いやりの上に立て挙げられるのです。なぜなら、イエス・キリスト様のお心の中には、神様のお心の中には、私たちに対する思いやりが一杯に詰まっているからです。私たちに対する思いやりが一杯に詰まっているからこそ、私たちの罪を赦すために、私たちの罪に身代わりとなるために、ご自分の命を十字架の上に投げ出されたのです。そこには、自分のことではない相手のことを思いやる心があります。そして「子よ、あなたの罪は赦された」とそう言われるのです。だからこそ、私たち教会は思いやりの上に立て挙げられなければなりません。そして、今、私たちの教会には、確かに相手に対する思いやりがあります。礼拝に来ることのできない方のために、誰に言われるでもなく週報を届けてくださる方がおられます。

また、病んでいる方や大変な中にある方ことを心配し、その人のために祈って下っている方々おられます。また、教会の子どもたちの為に祈ってくださっておられる方々もおられる。そういった一人一人の思いやりの心の上に、私たちの教会は建てあげられているのです。そのような、自分のことではなく、相手のことを思いやる心の上に立て挙げられた教会には、安心して過ごせる居場所が生まれます。どんなに社会や学校で傷ついたり、疲れたり、あるいは倒れてしまうようなことがあっても、安心して心和まし、癒される居場所が教会の中に生まれるのです。ですから、私たちは、教会の中に「子よ、あなたの罪は赦された」という赦しの言葉が語られ続けなければなりません。そして「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言うことが出来る家を、教会の中に立て挙げていかなければなりません。私たちが目指すところの教会は、そこにあるように思うのです。

お祈りしましょう。