『エッケ ホモ』
ルカによる福音書 2章8−21節
2005/12/4 説教者 濱和弘
賛美 : 19,86,99
さて、いよいよ今年度のクリスマスを迎える待降節アドベントに入りました。しかし、教会がアドベントに入るずっと前から、町中がクリスマスの雰囲気に包まれています。先週、教会学校の子どもたちとクリスマスツリーを飾ったり、クリスマスリースを飾りましたが、吉祥寺や三鷹駅前の商店街にいきますと、教会よりもっと派手やかにクリスマスの飾り付けがしてあります。そういう風景を見ていますと、この時期だけ、私たちの国はキリスト教国になったような感じがします。そして、たしかにこの時期になりますと、クリスマスぐらいは教会で過ごそうかと言って、クリスマス礼拝に出席なさる方も少なからずおられるようです。そんなわけで、クリスマスは教会にとって良い伝道の時期出もあると言うことも出来ます。ですから、私たちの教会も、今日の午後、クリスマスコンサートを行うわけでありますが、それはただ、良い音楽を聴いて頂くと言うだけではありません。コンサートに来られた方がいつかどこかで、クリスマスの主人公であり、教会の中心であるイエス・キリスト様とお出会いすることが出来るようにと願ってのことでもあります。
私たちは、このクリスマスコンサートを通して、イエス・キリスト様を指し示し、どうかイエス・キリスト様というに目を向けて下さい。そしてイエス・キリスト様というお方を知って下さい。という願いを込めて、多くの人を教会にお招きしようとしているのです。今日の待降節第一週の説教題に「エッケ・ホモ」というタイトルを付けました。私は、普段はあまり説教題に「こる」方ではないのですが、今回はかなり説教題にこだわりました。というのも、今年のクリスマスは、本当に私たちの信仰と言うことを、しっかりと見つめ直したいと思ったからです。この「エッケ ホモ」という言葉はラテン語であり、「この人を見よ!」と言う意味です。ですから言うまでもありません。「イエス・キリスト様を見なさい!」と言うことです。イエス・キリスト様にじっと目を注いで、このお方を見、このお方を知り、このお方から学ぶときでありたいと思いのです。
そして、今朝「この人を見よ!」といって指し示されているお方は、羊飼い達が御使いによってその誕生を知らされ、そして探し当てた生まれたばかりの赤ん坊のイエス・キリスト様です。ルカによる福音書には、羊飼い達が探し当てたのは、飼い葉桶に寝かしてあったイエス・キリスト様であったと書かれています。しかも、同じルカによる福音書の2章6節7節には「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼い葉桶の中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」と書かれています。ですから、羊飼い達が見たイエス・キリスト様は、まだ生まれたばかりの赤ん坊のイエス・キリスト様であったと考えられます。今日、私たちが「エッケ ホモ、この人を見よ」といって目を注ぐイエス・キリスト様は、しゃべることも出来ず、ただ母親マリヤの胸に抱かれ、乳を飲ませてもらっている赤ん坊です。身の世話を全てしてもらわなければ生きていけず、母の愛と暖かいまなざしの中に置かれている、赤ん坊のイエス・キリスト様なのです。
確かに、羊飼い達は、飼い葉桶に寝かされているイエス・キリスト様にお会いし、その姿を見たときに、神を崇め賛美したと聖書は告げています。しかし、それは私たちがラファエロの聖画にある聖母子像のように光輪をかざした姿を見たからではありません。羊飼い達が、神をあがめ、賛美したのは御使いが告げた通りの出来事が起こったからです。そして、その約束は、「恐れるな、見よ、全ての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える。今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ、主なるキリストです。」という言葉と結びつけられたものです。ですから、羊飼い達は、飼い葉桶に寝かされた赤ん坊のイエス・キリスト様の背後に神の約束を見出して、神をあがめ賛美を捧げながら帰っていったのです。私たちもまた、この御使いがつげた、約束の言葉に耳を傾けて聞かなければなりません。それは、私たちにも与えられた、約束だからです。
しかし、約束の言葉に耳を傾けると同時に、母親マリヤの胸に抱かれ、乳を与えてもらっている赤ん坊のイエス・キリスト様のお姿にも目を注ぎ、この人を見なければなりません。そこには、母親の愛に包まれ、愛の中で活かされているイエス・キリスト様のお姿があります。そしてそれこそが、クリスマスの原風景なのです。クリスマスは、神と人とを結ぶ接点です。神であられたお方が人となられた出来事がクリスマスなのです。だからこそ、このクリスマスにお生まれになったお方は、「神、我らと共にいます。」といわれるインマヌエルなるお方なのです。その神と人との接点には、母の愛と暖かいまなざしの中に見守られた赤ん坊のイエス・キリスト様のお姿があるのです。私たちの救いのとして、人としてお生まれになったお方は、母の愛情の中で守られているのです。仮に、イエス・キリスト様の御生涯をその誕生と死という両極面で見るならば、その死は、十字架という父なる神の厳しい側面が顔をのぞかせていると言えます。そこにあるのは神の義、正義です。それに対して、その誕生は、クリスマスの原風景の中に見られます。
それは、こういう表現が赦されるとするならば、母なるものに包まれた神の暖かな側面を見ることができると言えるのではないかと思います。そしてそこにあるのは、神の愛であり、慈しみなのです。羊飼い達は、この神の愛と、神の慈しみが顔をのぞかせているようなクリスマスの原風景のなかで、「今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ、主なるキリストです。」という約束の出来事を見たのです。ですから、彼らがそのクリスマスの原風景の中で感じ取った救いは、愛と慈しみに満ちたものであっただろうと思います。また、彼らが見た救い主は、愛と慈しみの中に置かれていたのです。それは、弱々しい赤ん坊です。力強さもなく、何の権威の象徴や威厳の象徴を身にまとっているわけではありません。むしろ、母親の腕に抱かれ、守られ、生かされなければならない弱さの中に置かれた救い主なのです。
しかし、この弱々しく、無力な救い主は、人々を救う自信のかけらも見せていません。時代を切り開いていくような力強い言葉を語るわけでもないのです。ただ自分の身を、自分を愛する母親の腕にゆだね、泣き声を上げている。けれども、そのような幼子のイエス・キリスト様をつつむ暖かな愛と慈しみというクリスマスの原風景が、弱々しさや無力さを乗り越えて、羊飼いたちに希望を与えているのです。先程お読み頂きましたルカによる福音書の2章8節か21節のすぐ前の6節7節には、このような言葉が書いてあります。「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布に来るんで、飼い葉桶の中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」とあります。皆さんもご存知のように、当時のイスラエルの飼い葉桶は石をくり抜くようにして削ったものです。ですから、そのような場所に寝かされているということは、環境的には、決して善いものだとは言えません。
しかし、その石の冷たい飼い葉桶に寝かせなければならないときに、イエス・キリスト様は布にくるまれていたというのです。そこには、冷たく固い飼い葉桶に、赤ん坊を寝かせなければならないような状況の中で、少しでも暖かく、少しでも柔らかに寝床にしてあげたいという、優しい思いやりが感じ取られます。そして、そのような優しい思いやりを注ぐ者は、必ず優しい愛のまなざしを、赤ん坊のイエス・キリスト様に注いでいるだろうと思います。そして、優しい愛の言葉で語りかけているのだろうと思うのです。この神と人とが相交わる接点にあるクリスマスの原風景は、私たち神との原風景でもあります。私たちは、神の優しい愛のまなざしと優しい愛の語りかけの中で、神の子として産み出されたのです。神の一人子が、人となってこの世に生まれたときがクリスマスであるならば、人の子が、神の子として産み出されるときも、クリスマスであると言うことができます。そういった意味で、私たちクリスチャンは、一人一人のクリスマスをもっています。
神を信じ、イエス・キリスト様を信じたときに、人の子であった私が神の子として新しく生まれたクリスマスの出来事が起こったのです。私の場合、1977年の8月でした。日にちは正確に覚えていませんが、教会の青年キャンプの初日の夜の集会で、神様を信じる決心をしたのです。皆さんも、正確に日にちや年度などを覚えていなくても、ああ、あのとき神を信じようと決心したという出来事があっただろうと思います。あるいは、自分が洗礼を受けた日を覚えているのではないだ労かと思います。ひょっとしたら、洗礼を受けたことは確かなんだけれど、いつだったかしらと言うことだってあるかも知れませんね。でも、私たちが、こうして今、こうして、イエス・キリスト様を信じ、自分はクリスチャンだという自覚を持っているならば、また洗礼を受けたという確かな出来事があるならば、私たちは、神の子として生まれた自分自身のクリスマスを持っているのです。
そして、そのあなた自身クリスマスは、あの羊飼いが見たクリスマスの原風景と同じ風景があったのです。神の子として生まれたばかりの弱々しい、何も出来ない私たちに、優しいまなざしを注いで見つめ、優しい愛の言葉をかけていて下さる神様がそこにおられたのです。私たちは、そのように母の腕に抱かれ、命の糧のなる乳を与えられ、愛の微笑みを注がれ、愛の言葉をかけらながら、神の子として生まれ今日まで生きてきたのです。そして、これからもそうです。それは、神は私たちを愛で包む、マリヤのような存在だからです。いえ、赤子のイエス・キリスト様に対するマリヤという存在が、神がその子を愛し慈しむ存在に似た存在であると言って良いのかも知れません。そして、母親にとって自分の産んだ子は、その子がどんなに独り立ちしても、自分の子どもなのです。それは、自分の体の一部分だからです。自分のお腹の中に宿り、そこで育ち、生まれ出た自分自身の一部分なのです。だから、どんなに一人立ちしても自分の子どもは、どこまで行っても自分の子どもなのです。
おそらくは、イエス・キリスト様が成長し、救い主メシヤとして公に活動なさっていたときであっても、マリヤにとってはイエス・キリスト様は息子であっただろうと思うのです。もちろん、頭では、このお方は、救い主であり神なるお方であると理解していただろうと思います。けれども、自分のお腹を痛めた子という現実が、十字架の死に至ったその時でも、自分の息子という思いとまなざしは、イエス・キリスト様に注がれていただろうと思うのです。同じように、神の中にある母性が、私たちが、どんなにクリスチャンとして独り立ちし、自立した歩みをしていようと、いつでも、どんなときにでも愛のまなざしを注ぎ続けて下さり、愛の言葉をかけ続けて下さるのです。ましてや、私たちが、神の子クリスチャンとして、弱々しく頼りない者であるならなおさらです。父なるものであるならば、弱さや頼りなさがあるならば、叱咤激励し、強く自立できるようにと導き教育していくであろうと思います。しかし、母なるものは、どこまでも私たちの弱さを受け入れ、慈しみ、赦し、支え続けていくだろうと思うのです。それは、どこまで行っても、私たちは神から生まれた者だからです。
私たちは、神を信じ、イエス・キリスト様を信じクリスチャンとなりました。そして神の子として新しく生まれたのです。その私たちに、神は慈しみのまなざしを注ぎ続けて下さり、愛の言葉をかけ続けて下さっているのです。こんにちの社会は、「エッケ ホモ」「この人を見よ」といって自分を指さす人が多くいます。そこには自信と確信に満ちた姿とで力強く立つ勇ましい姿があります。政治の世界で、経済の世界で、また学問の世界でリーダーシップをとり、成功した人たちの言葉の中に、そのような人たちが多くいるように思われます。そして、そのような人は、自信に満ち、時代を切り開いていくような力強い言葉を、声たかだかに語るのです。そして、そのような人はキリスト教の世界の中にもいないわけではありません。だからこそ、私は、今日みなさんに、「エッケ ホモ」「この人を見よ」といって、母親の腕に抱かれている赤子のイエス・キリスト様を指し示したいのです。
弱々しく、無力で母に頼らなければ生きてはいけない、幼子として生まれてきたイエス・キリスト様を指し示したいのです。そこには、神の子として新しく生まれたばかりの私たちの姿があります。そして、母の暖かいまなざしと愛の語りかけの中で、心安らかにしているイエス・キリスト様と同じように、神の暖かい愛のまなざしと、語りかけの中に心安んじることの出来る私たちがいるのです。私たちが、この赤ん坊のイエス・キリスト様のお姿を見失ってしまうならば、教会は私たちにとって慰めの場にはならなくなってしまいます。それは人生の修練の場であり、鍛錬の場だけに過ぎなくなります。もちろん、信仰は人間の生き方に関わりますから、鍛錬や修練も必要です。また、神の子として新しく生まれたと言うことは、そこに成長すると言うことが求められてきます。子供がいつまでも成長しないと言うことは、親にとって心配なことでもあり、ゆゆしき問題でもあります。同じように、クリスチャンも、神の子として生まれた以上は成長しなければなりません。そしてそのためには教育や訓練と言った事も必要になってきます。これらのことは教会の中から取り除かれるべきではありません。だからこそ、私たちは例会や様々な場で学びの時を持ち、聖書の通読表で御言葉に養われる霊性を鍛錬し、祈祷のカレンダーを通して神に祈る敬虔を養っているのです。
しかし、それだけならば、教会は決して心地よい場所ではなくなります。しかし、私たちの教会は決して居心地の悪い場所ではありません。むしろ、教会に集う一人一人にとって、自分の居場所が見いだせるそのような教会になっていると思うのです。それは、誰もが、それぞれの信仰の歩みに応じて受け入れられているからです。それは、教会に集うお一人お一人の優しい心持ちによるものだろうと思います。しかし、それだけではなく、私たちは、十字架に架かられたイエス・キリスト様と同時に、母親の腕に抱かれたイエス・キリスト様に目を向けていきたいと思うのです。そのお姿には、私たちの信仰の弱さや頼りなさの全てを引き受け、私たちを見守り支えて下さる神の愛が充ち満ちているからです。そして、この愛に見守られ支えられているからこそ、私たちは信仰や人間としての生き方の中で鍛錬され、あるいは修練されながら、確かに神の子として、愛し合い、慈しみ愛、許し合う、神の子らしい姿へと成長していくことが出来るのです。
お祈りしましょう。