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羊飼い 『クール・デウス・ホモ』
創世記 3章
2005/12/11 説教者 濱和弘
賛美 : 1,74,155

さて、今週は降誕節の第2週目になりますが、私は今週の説教題を「クール・デウス・ホモ」とつけました。この「「クール・デウス・ホモ」というのはラテン語で「なぜ神は人となられたか」という意味です。中世を代表する有名なに神学者アンセルムスという人が、この「クール・デウス・ホモ」という著作を書き、なぜ神が人となられるクリスマスの出来事が起こったのかについて、説明を試みました。その説明は、おおよそ、次のようなものです。「人間は神の言葉に従わないことで神の名誉を傷つけた。このことが、アダムによって引き起こされた罪の根源であり原罪である。個々の罪は一対一の対応が出来るものだが、アダムの原罪は、神の名誉に関する損害だから、人間にはどんなことをしても回復できないものである。それゆえに、神はそのひとり子を人として送り、そのひとり子を十字架の上で人間の代理(身代わり)として死なせることで、傷つけられた名誉を回復した」と、アンセルムスは言うのです。

このようなアンセルムスの説明を聞いても、正直なところ、舌足らずでピンと来ないとところもないわけではないのですが、ともかくも、なぜ、神の一人子であり、神ご自身であるイエス・キリスト様が人となってお生まれになったのかということの意味、その意義を真摯に問う言葉が、この「クール・デウス・ホモ」という言葉なのです。それでは、皆さんは、「なぜ、神は人となられたのですか」とそう問いかけられたならば、一体どのようにお答えになるでしょうか。おそらくは、「私たちを罪から救うため」であるとか、「私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で死ぬためであった。」とお答えになるのではないかと推察しますがどうでしょうか。

私たちを罪から救うために、神の一人子であり、神そのものであられるイエス・キリスト様が人となられたというのか、まことにその通りであろうと思います。また、「私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死ぬるために人となられたというのも、テストの回答としては100点の答えだと言えます。しかし、この「クール・デウス・ホモ」という言葉は、その100点満点の答えを越えて、更に私たちに「それでは神であり神の一人子であるイエス・キリスト様が、なぜ人となれば、私たち人間が救われるのかと言うところにまで、問題を掘り下げて、私たちに問いかけるのです。あるいは、イエス・キリスト様が、なぜ十字架に架かって死ぬる事で、私たちの罪の身代わりとなることが出来るのか。」という所にまで、問題を掘り下げるのです。先程の、アンセルムスの出した答えは、そのように掘り下げられたと問に対する11世紀における哲学的な回答であり、論理的名説明であると言えます。

しかし、私は、今朝のこの礼拝において、この「なぜ神は人となられたのか」という問に、21世紀における論理的な論証を試みようと言うのではありません。むしろ、「なぜ神が人となられたのか」という心情的な理解を、皆さんと共に共有できたらとそう願っているのです。それは、神であられたお方が、どうして人にまで身をやつそうとご決心なさったのかという、その心の内に、少しでも近づきたいと思うからです。一体どんな思いで神は人となられようとしたのか。神が人とならなければならない原因は、言うまでもありませんが、私たちの罪にその理由があります。先程、司式の兄弟にお読み頂いた創世記3章の1節から7節までには、人間の罪の始まりと言ったことが書かれています。

「さて、主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。ヘビは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神は言われたのですか。女はヘビに言った、『わたhしたちは園の木の実を食べることが赦されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これをとって食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました』。ヘビは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知るものとなることを、神は知っておられるのです』。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましく思われたから、その実をとって食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりは目が開け、自分たちが裸であることが分かったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

聖書は、この創世記の3章1節から7節までの出来事を人間の罪の始まりとして記しています。そして、この罪の始まりが、人間の原罪として、私たちの心の内に住み着き、私たちの内に宿る罪の性質として、私たちに罪を犯させるのです。その罪の始まりであり、私たちの内に宿る罪の性質とは、神の言葉に聞き従わないことであると言うことです。もとより、神は全き善なるお方ですから、私たちがその神の言葉に聞き従っているならば、私たちは罪を犯そうはずはありません。ところが、エバもアダムも、ヘビに誘惑されたときに、神の言葉に聞き従うと言うこと以上に、「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」というのです。ヘビが、善悪を食べる木を指し示しながら、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知るものとなることを、神は知っておられるのです」と言う言葉を聞くときに、確かにヘビの言う通りとそう思えたのです。だからこそ、食べたのです。この時、彼らの心の中、頭の中にあったのは、耳で聞き、目で見た事に対する客観的な判断です。まさに、目で見て「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましく思われた」ものだからこそ、神の言葉よりヘビの言葉の方が真実に思えたのです。

しかし、このふたり、アダムとエバは大切なことを忘れていました。それは神が語られた言葉は、天地を造られ、また私たち人間の創造主であるお方の言葉であると言うことです。そして、私たちの父なる神の言葉であると言うことです。それは創造者と被造物、父と子という関係の中で語られたこと言葉で合うと言うことです。ここ数ヶ月、私はルーテル学院大学の公開授業に出席していますが、そこで宗教改革者であり、私たちプロテスタントの祖でもあるルターの生涯に付いて学んでいます。もちろん、ルターと私たちホーリネス教団は神学的にも色々な違いがありますし、今学んでいることには、必ずしも同意できないことも少なくはありませんが、しかし、教えられることや参考になることも数多くあります。そのような中で、先日ルターの父親のことについて少しく学びましたが、ルターの父親というのは、かなり厳しい人だったようです。ルターの言葉の中に、自分の父親について語った言葉がありますが、ルターはこのようなことを言っています。「かつて、父が私を殴ったので、私は逃げだし、父が言い寄って来ない限り父を憎んでいた。」

ルターの父親は、どうやら父親というものに対して余り好感を持っていなかったようであり、父親とは心と心が通い合っていなかったようなのですが、しかし、ルターの父親は、その当時の人々が感じた感じ方で、子供の幸せというのを願っていた人のようです。その当時の、親が子供の将来を考えるときに、考えたことは、子供が社会に出て行ってひとかどの人物となり出世して欲しいと願っていたようです。ましてやルターの父親は貧しい坑夫という仕事から身を起し、それこそ、一つの都市の市民の代表の一人となるところにまで出世した人ですので、自分のように、また自分以上になって欲しい途願っていたと思われます。そんなわけで、ルターが大学で一般教養の学びを終え、学士の称号を得たときには、大変喜んだようです。その喜びようは、大変なもので、自分の息子にたいして、それ以後は、それまでは「お前」とよんでいたのを、尊敬を込めた「あなた様」といった呼び方に替えたほどでした。つまり、ルターの父親は厳格さと殴りつけるまでの厳しさの中に、実はルターを大事に思う、子供を大切に思う心があったというのです。

私は、授業でこの話を聞きながら、ちょうど今日のこの礼拝メッセージに取り組んでいる中でのことでもありましたので、父なる神の心の内と言うことに思い当たりました。神の「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からはとって食べてはならない。それを食べると、きっと死ぬであろう。」という言葉は、単に倫理道徳的な意味合い以上に、私たちにとって父であり創造者である神が、私たちの事をおもんばかって語って下さった言葉であろうと思うのです。そこには、掛け値のない子を思う親の愛情がそこにこもった言葉なのだと言うことです。そう考えますと、聖書として表わされた神の言葉は、全て神が父として子どもたちに語りきかせる言葉であると、そう言うことも出来るだろうと思います。そして、そこには、実に厳しい言葉も記されているのです。旧約聖書などを読みますと、そこには人々に律法を与え、厳しく裁かれる厳格な父の姿が描かれています。また、仮に、私たちの罪の身代わりとするためであったとしても、イエス・キリスト様を十字架に磔け、死なせる厳しい父の姿を私たちは見ることができるのです。

けれども、その厳しさの背後には、私たちを導き、私たちの将来を思う父の姿があるのです。まさに、神は父であるからこそ、私たちに厳しいそのお顔を向ける事もあると言うことです。そして、将来のことを思うからこそ、どんなに厳しい裁きお顔を見せても、神は私たちをほってはおけないのです。「お前なんかもう知らん」と突き放すことが出来ないのです。そこには、まさに父なる神の父としての愛情があるのです。今日のテキストの創世記3章の14節以降は、罪を犯した人間と、罪を犯させたヘビに対する神の厳しい裁きの言葉が書き記されています。14節から15節にはヘビに対する裁きの言葉が記され、16節以降にはアダムとエバに対する裁きの言葉です。そして、その裁きの言葉に基づき、人はエデンの園を追われるのです。まさに神の裁きが下されたのです。ところが、その裁きの言葉の最後には、「主なる神は、人とその妻のために皮の着物を造って、彼らに着させた。」と書かれています。21節です。この21節に書き記されている「皮の着物を造って彼らに着させた」と言う言葉は、明らかに3章7節の「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることが分かったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」という言葉を意識したものだと考えられます。

3章の7節において、アダムとエバが自分達の辱を覆うために使ったのは、「いちじくの葉」でした。それは、衣服としては、実に原始的で、不完全で、そして危ういものです。それに対して、動物の皮で造った着物は、丈夫で、自分たちの身を覆うには十分であり、更には、寒さから身を守る暖も取ることが出来るものです。父なる神は、アダムとエバの罪に対して怒りを発し、裁きを下され、エデンの園という守られた世界から厳しい外の世界に追放される二人に対して、皮の着物を与えるのです。いちじくの葉っぱで身を覆っているような哀れな姿の二人をほってはおけずに、動物を犠牲にしてまでして、彼らに皮の着物をお与えになられる。そこには、どんなに厳しく裁いても、人を捨てきれない父なる神の愛情があります。アダムとエバがエデンの外の世界に追放されると言うこと、それは確かに神の裁きでした。けれども同時に、それは、そこから始まる神の永い永い人類の救いに歴史の始まりでもあります。その救いの歴史に向っていく者を、神はほっておくことが出来ずに、神は動物を犠牲にし、動物の血を流すことで造られた皮の衣を着させたのです。

この、動物を犠牲にし、「動物の血を流すことで造られた皮の衣」と言うことを、多くの学者は、原始福音であると言います。つまり、最も古いイエス・キリスト様の十字架の死が預言されているところであるとそう言うのです。そして、それは確かにそうであろうと思います。だとすれば、父なる神は、神の救いというものを受け、この世にあって生きて行く私たちに、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた完全な義の衣を私たちに与えて下さったのです。そして、それは神が決して私たちを見捨てず、私たちのことをほってはおけない、父なる神の愛情から出たものであると言うことが出来ます。どんなに、私たちがこの世の中で生きていく上で、過ちを犯そうと、失敗しようと、そこには、私たちの罪を被い、包み神の義の衣があるのです。

私たちプロテスタント教会は、預言者的宗教であるといわれます。預言者というのは、人の罪、社会の罪を明らかにし、それに対する神の裁きを伝え、神の前に正しく生きることを求めます。ですから、プロテスタント教会が預言射的宗教であるといわれるのは、聖書の言葉を中心に据えると言うことと同時に、聖書の言葉を中心に据えるからこそ、如何に生きるのか、神の前に聖く正しく生きるのだという倫理的な側面が強く押し出されるのです。振り返ってみれば、私たちホーリネス教団も、また私たち教会もそのような歩みをしてきました。もちろん、それは間違ったことではありません。神の前に清く正しく生きようとする生き方が否定されはずがありません。しかし、どんなに、頑張って清く正しく生きようとしても、現実には、そううまくはいかないものです。私たちの努力や頑張りで出来るものと言ったら、それこそ、まさに、自分の手で造ったいちじくの葉っぱのようなものに過ぎません。失敗や過ちを犯すことなど数多くあるのです。そんな私たちを、神は決して見捨てることはなさいません。ほってもおくこともしないのです。私たち一人一人が、神の救いの歴史の中を、一歩一歩の歩みであっても良い、正しく歩んでいけるように父なる神は、私たちに期待をかけていて下さっているのです。

そのような期待は、ただ一方的に押しつけられる神から人への期待ではありません。もしそうだとしたら、それこそ、それは私たちの重荷なってしまいます。けれども、神の私たちに対する期待は、何度失敗を重ねても、過ちを繰り返すことがあっても、イエス・キリスト様の十字架を見上げ続ける限り、私たちの罪は赦され、神に受け入れられ、神の懐に抱かれているという保証の内に置かれているのです。ですから何度でもやり直しが効くのです。そしてそのために、イエス・キリスト様は十字架の上で死なれたのです。そうやって、父なる神は、その一人子なる神イエスキリスト様を、十字架に磔け、血を流し死なれることで造られた完全な義の衣を与えて下さっているのです。そのために、神の一人子なる神であるイエス・キリスト様は人となられたのであり、それがクリスマスと言うことでもあります。そういった意味からすれば、私たちは「クール・デウス・ホモ(なぜ神は人となられたか)」と問われたならば、それは私たちが神の前に聖く正しく生きるためであるといえるかもしれません。

つまり、キリストが、人となられたのは、単に、私たちの罪を赦すという救済論的な意味だけでなく、私たちが、父なる神の言葉を聞き、神の前に聖く正しく生きくことを期待する父なる神の御思いがそこにあるのです。そして、その期待の中で、仮に私たちが、過ちを犯しても、失敗をしても、よしんば罪を犯しても、何度でもやり直し前に向って生きていくことが出来るようにと言う、神の父としての愛情が、皮の衣であるキリストの十字架の死に表わされているのです。ですから、わたしたちは、神の救いを受け、神の救いの歴史の中を生きる者として、倫理的に正しく生きていく者とならなければなりません。神の言葉である聖書の言葉に耳を傾け、実際にこの世の中で神の前に聖く正しく生きていく者として成長していくことが大切なのです。

もちろん、この世の中で生きていくことは、単に倫理的なことだけを問わず、大変なことです。ですから、わたしたちは、この神の前に聖く正しく生きると言うことが裁きの言葉となってはなりません。むしろ、どんなに過ちを犯し、失敗してものに対しても、皮の衣を与えて下さる父なる神の根底にある父としての愛情を信じ、互いに励まし合い、支え合いながら、何度でも一緒に立ち上がり、共に歩み、共に成長していく共同体でなくてはなりません。そういった意味で、今日、私たちは、このキリストが人となられたクリスマスを迎えようとしているこの礼拝で、この世にあって神の言葉を聞きながら、互いに支え合い、励まし合いながら神の聖さと正しさをあらわす教会として一歩一歩前に向って前進する共同体であることを目指したいと思うのです。そして、私たちがそのような共同体である限り、私たちは神を喜ぶキリストの体なる教会として、この地にあって神の愛を証していくことが出来る教会で在り続けられるだろうと思うのです。