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羊飼い 『日だまりの中のクリスマス』
マラキ書 4章1−2節
2005/12/25 説教者 濱和弘
賛美 : 76,211,88

クリスマスに、私たちの主イエス・キリストの御降誕を覚え、心からお祝いをしたいと思います。もっとも、キリストがいつお生まれになったのかは分かりませんが、長い教会の歴史の中で、教会は、クリスマスを12月25日にお祝いするようになりました。この12月25日にクリスマスをお祝いするようになったと言うことについては、一般的には3世紀頃のローマ帝国で行われていた、冬至の祭り、あるいはミトラ教といわれる密議宗教のお祭りに対抗させようとしたためと言われています。この3世紀に行われていた冬至の祭り、あるいはミトラ教のお祭りは、太陽を神とし、不滅の太陽を讃えるためのお祭りでした。この不滅の太陽を誉め称える祭りを冬至の祭りとしてお祝いしたのは、冬至の時が一年で一番日が短いときだからです。逆に言えば、一年で一番夜が長い日が冬至と言えます。夏至を境にして、日はだんだんと短くなっていきます。そのように日が短くなっていく状況は、太陽が衰退していくように思われたようです。しかし、その衰退していく太陽が、再び息を吹き返し、だんだんと力を増していくその境目にあるのが、冬至なのです。

ですから、3世紀時代のローマ帝国に生きた人々は、日がこれから長くなっていくであろう冬至の日に、どんなに衰退しても、再び力を盛り返していく太陽を崇めたのです。きっと、その背後には、そのように、どんな苦難や困難にも屈しないで、それを乗り越えていくことを期待する人々の願いや、思いがそこに込められていたのだろうと思います。そして、そのような思いは、時を越え、場所を越え、すべての人の心の中にある願いであり、望みであろうかと思います。チョット、言葉は違いますが、ことわざに「冬、来たりなば、春、遠からじ」というものがあります。この言葉は、日本のことわざのように思われていますが、どうやら、もともとはイギリスのシェリーという詩人の言葉のようです。しかし、もともと誰の言葉であったかどうかがもんだいではなく、一般的には、どんなに厳しく、辛く苦しい時期があっても、いつまでもそのような辛い時期が続くわけではない、必ずそのような辛い時期を乗り越える事が出来るという意味であろうかと思います。そこには、まさに、3世紀のローマ帝国時代に、冬至に不滅の太陽を崇めた人々と同じ、困難や試練に屈しないで、それを乗り越えて、春のような穏やかで心地よい時を迎えたいという、私たちの願いや思いがあるのです。

そのような中で、3世紀の教会は、この冬至の祭りに、神がお造りになった太陽を崇めるのではなく、その太陽をもお造りになった神を崇めるようにと勧めるようになりました。それは、太陽に私たちの希望があるのではなく、神にこそ、私たちの希望や望みがあるからです。そして、その私たちの希望と望みの光を照らすお方として、イエス・キリスト様がこの地上に来られたのです。ヨハネによる福音書1章9節には、「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。」とありますが、この言葉は、まさに、イエス・キリスト様が私たちの希望の光であることを、端的に言い表している言葉であろうかと思います。そんなわけで、3世紀の教会の指導者の独りであったアンブロシウスという人は、「キリストは私たちの新しい太陽だ」と、そう人々に語ったのです。

アンブロシウスが「キリストは私たちの新しい太陽だ」とそう語った背後には、先程、司式の兄弟がお読み下さいましたマラキ書4章1節2節があります。もう一度お読みしますが、「万軍の主は言われる。見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽くして、根も枝も残さない。しかし、わが名をおそれるあなたがたには、義の太陽が昇り、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは、牛舎から出る子牛のように、外に出て、とびはねる。」このマラキ書4章2節には、「わが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり」とありますが、この義の太陽は、イエス・キリスト様を指していると思われます。だからこそ、神がお造りになった太陽を拝むのではなく、この義の太陽がこの地上に現われたその降誕を祝おうではないかとして、12月25日にクリスマスをお祝いするようになったのです。

そこで、この義の太陽が昇るときはどのようなときかと言いますと、「見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽くして、根も枝も残さない。」と言われるようなときです。これは、まさにこの世の終わりの神の裁き、すなわち終末を意識した言葉であろうと思われます。「すべて高ぶる者と、悪を行う者とが、わらのように、燃える炉の中で焼きつくされ、なにも残さない」というような言葉は、厳しい神の審判を思わせます。わたしは、システィー名礼拝堂にあるミケランジェロの最後の審判という壁画を、原寸大に忠実に復元したものを見たことがありますが、そこに描かれた神の裁きとは、本当に恐ろしいものでした。もちろん、ミケランジェロの描いた最後の審判の様子は、彼の頭で思い描いたもので、現実がそのような者であるかは定かではありません。ミケランジェロが描いた、最後の決定的瞬間はまだ訪れていないからです。けれども、義なる太陽であるイエス・キリスト様が2000年前にお生まれになったということは、既に、この世の終わりである、終末の時代は始まっていると言うことでもあります。そして、私たちは、その終末の時代に生きているのです。

じっさい、19世紀には、私たち人間の理性や可能性といったものを、きわめて無邪気に信じることが出来ました。そして、私たちの住む世界は確実に進歩し、素晴らしい世界になっていくと信じられました。それは、ある部分では間違っていなかっただろうと思われます。急速な科学技術に発展は、私たちの暮らしを、より快適で心地よい豊かなものに変えていってくれました。反面、私たちを取りまく人間社会は、ますます不安や恐れ、心配事が深まって言っているようにも思えます。皆さんも感じておられると思いますし、耳にされることもあろうかと思いますが、昔の親は「、子供は外に出て遊んできなさい。」といったものですが、今の親は、「勝手に外に行って遊びに行ってはいけない」と教えなければならなくなっている状況です。「人に道を聞かれたら親切に教えてあげなさい」というのではなく、「人に道を聞かれても、できるだけ近づかないようにしなさい」と教えなければならなくなっています。人を信じること以上に、まず人を疑ってかかることを、子供に教えなければならないと思われるような時代になってきているのです。

それは、どう考えても、おかしいことです。けれどの、そのように思わされるのも現実です。そのような時代に私たちは生きている。もちろん、今の時代だけがことさら悪いと言った訳ではないのかも知れません。人間の心の中に暗い影として潜んでいる罪の思いは、いつの時代のどの地域の人にも会っただろうと思います。けれども、倫理観や道徳心と言った社会を束ねていた帯が、私たちの罪の心を表面科させてこなかったのかも知れません。ところが、だんだんと、その結びの帯がゆるんでくるに連れて、人間の心にある欲望が、罪と深く結びついて様々な問題を引き起こしているように、私には思えるのです。そういった意味では、私たちは、まさにこの世の終わりに向っている終末の時代に生きていると言えるだろうと思います。それは本当に厳しい大変な時代です。一体どなってしまうのだろうかと、不安と恐れにさいなまされてしまうような暗い時代であると言っても、必ずしも言い過ぎではないのかも知れません。

だからといって、私たちは落胆し、絶望する必要はありません。今日、お読みしたマラキ書4章の1節2節には、そのような、終末の時であっても、神を信じ、恐れ敬う者には、義の太陽が与えられると約束されているのです。そして、その義なる太陽であるイエス・キリスト様は、2000年前に確かにこの地上にお生まれ下さったのです。だからこそ、私たちは、クリスマスに、そのお方の御降誕を祝うのです。しかも、それは人間の歴史上は2000年前の出来事ですが、神の歴史においては、今の出来事でもあります。私たちは、今日、このクリスマス礼拝の中で、藤塚巧君と濱献吾君の洗礼式を持ちます。このふたりは、神を信じ、イエス・キリスト様を、自分の救い主と信じ告白しました。彼らは、まだ10歳の少年ですが、10歳の少年として神とキリストを信じ、信仰を言い表したのです。皆さんは、この後の洗礼式で、彼らの精一杯の信仰告白に触れるだろうと思いますが、それは、彼らの心に、イエス・キリスト様という子なる神様がお生まれになって下さったということの、まぎれもない証なのです。

ですから、クリスマスの出来事は、神の歴史の時間に置いては、まさに今、ここでの出来事なのです。そして、それは、私たちの希望です。私たちの周りには、私たちの家族がいます。伴侶がおり、子供がおり、親兄弟がいます。クリスマスが、神の歴史に置いては、今ここでの出来事である以上、そう言った一人一人にもクリスマスの出来事が起こることが出来るからです。そして、誰の心の中にも、苦難や困難を乗り越えていくことを期待する思いや願いが心にあるのです。つまりは希望の光を求めているといえます。だからこそ、この希望の光をもたらす義なる太陽であるイエス・キリスト様を、心に迎えることが必ず出来るはずです。ですから、私たちは、心からこのキリストの誕生を喜びたいと思います。洗礼式を喜び、燭火礼拝を喜び、心からの感謝を捧げたいと思います。それが、本当に人々にキリストが真の太陽であることを証することだからです。

そして、その喜び支えられながら、来年一年間も、神の前に生きていきたいと思うのです。もちろん、先程も申し上げましたように、今の時代は、終末の時代ですから、困難や試練もあるでしょう。試みにあって悩み苦しむ事もあるかも知れません。けれどの、私たちの所に生まれてくださった義なる太陽であるイエス・キリスト様は「その翼にはいやす力を備えている」と言われるお方なのです。ですから、私たちが、そのような困難や試練、試みの中にあるときにも、私たちをいやし支えてくださるお方なのです。それは、私たちが厳しい時代の中にあっても、神の暖かさが溢れる日だまりの中を歩んでいくことが出来るということでもあります。最後に、聖書を一箇所お読みしたいと思います、イザヤ書41章10節の言葉です。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたを支える。」イエス・キリスト様は、「インマヌエル、その意味は、神、我らと共にいます」と言われるお方です。そして、そのお方が、私たちの心に住んでくださり、私たちに寄り添いながら、私たちを慰め、励まし、支えてくださるのです。

お祈りしましょう。