三鷹教会のロゴ メッセージ

羊飼い 『分かち合う教会』
ローマ人への手紙 15章13−21節
2006/1/1 説教者 濱和弘
賛美 : 21,233,145

さて、2006年の元旦を迎えるにあたって、私は今年一年、どの言葉に導かれて歩んでいけばいいのかを、思いめぐらし、そして求めていました。そして、最終的には、このローマ人への手紙の15章5節6節の言葉に導かれました。この「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにならって、互いに同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせてくださるように」と言う言葉には、教会の一致、つまりは、教会が一つになるようにいった響きが感じられます。教会が一つに一致するといことの大切さは、言うまでもないことです。神を信じる民が、心を一つにし、思いを一つにして、声を合わせ神を賛美する事は、教会にとって本当に麗しいことです。

昨年のクリスマス、といっても実はほんの先週のことでありますが、そのクリスマスの祝会で、その場で教会を4つのグループに分けて、それぞれが賛美の歌を披露しました。まさにその場の突然のグループ分けでしたが、歌っていても、聞いていても、私にはとても心地よいものに思えました。それは、声を一つにして賛美の歌を歌う私たち一人一人の歌声に、またその賛美の歌に心を合わせて耳を傾ける一人一人の姿に、「本当に、私たちの教会はひとつの神の民の群れなんだなぁ」ということを実感できた場であったように、私には思えたのですが、みなさんはいかがだったでしょうか。

そういった意味では、私たちの教会は、今更何も教会が一つになるということの大切さを強調しなくても、既に一つではないかと言えば、確かにその通りだろうと思います。けれども、どんなに一つにまとまっているように思える教会でも、ひょんなことから教会が二つ、三つに分かれてしまうと行ったことが起こってくることもあります。それは、些細なことから起こることもありますし、重大な問題から起こることもあります。それこそ、小さな気持ちのすれ違いが、教会に大きなひび割れを入れてしまうことだってあるのです。もちろん、そんなことが今年、私たちの教会に起こってくるだろうというような事を言っているのではありません。けれども、今年に限らす、これからも将来的にそのような事が起こってこないように、仮に起こっても、それをちゃんと乗る越えられる教会としての基盤が私たちの心の中に、また信仰の在り方の中に築き上げられていなければなりません。

あのクリスマスの賛美に感じ取られた一つに結ばれている麗しさを、これからも決して損いないためにも、これからも私たちが一つに結ばれるための術を、しっかりと身につけていくことが大切なことのように思うのです。そこで、私は、この年の初めに、このローマ人への手紙の15章5節6節の言葉から、教会が一つに結ばれるために必要なことを皆さんと一緒に考えたいのです。このローマ人への手紙の5章5節、6節は、同じ15章1節4節を受けての言葉です。そこには、「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣人の益を図って彼らを喜ばせるべきである。」とあります。つまり、教会が「互いに同じ思いに」になるためには、人の弱さをにない、その人の喜ぶことをしてあげることが大切なのだというのです。しかし、この人の弱さをになうということは、強い者が、弱いものを助けカバーするということではありません。

ともうしますのも、同じ15章の3節には、このように言えあれているからです。すなわち「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった。」というのです。この言葉は、「力ある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。」と言うことの模範は、イエス・キリスト様にあると言うことを示しています。神の御子であるイエス・キリスト様でさえそうしたのだから、あなたがたもそうしなさいと言うのです。この、私たちの模範であるキリストは、私たちの模範であるが故に、人となられたキリストです。それは三位一体なる神における子なる神として、絶大な力をもっておられるお方が、まったく無力な人となられたそのようなお方なのです。ですから、キリストは神の絶大な力を持って私たちの弱さをカバーして下さったお方ではありません。そうではなくて、私たちと同じ弱さを持ち、私たちと同じように無力になって、私たちと共に生きて下さったお方なのです。

私たちと共に生きて下さったと言うことは、私たちの負うべき運命も共に負って下さったと言うことです。だからこそ、罪人の私たちが負わなければならない神の裁きという運命をも負って下さったのです。そうやって神の御子が、私たちと共に歩み、私たちと共に生きることで私たちの弱さをになって下さったがゆえに、私たちは救われたのです。このような神の御子であるキリストが無力な人となられて、私たちの負うべき運命をも共におって下さった生き方は、上から下へ歩みより近づいていく生き方です。ですから、「私たち力のある者は、資からのない人の弱さをになうべきです。」という言葉は、力のある者とない者とを区別する者ではありません。力のある者と力のない者が同じ地平に立って共に歩んでいくことなのです。この同じ地平に立って共に歩んでいくと言いましても、私たちひとりびとりは、それぞれ違った生活の場を持っていますし、置かれている状況は違っています。ですから、誰かと全く同じになることはできません。だからこそ、同じ思いになることが大切なのだろうと思います。そして、互いに同じ思いになると言うことは、相手のこと、を理解すると言うことだと言っても良いように思うのです。

相手の置かれている状況や事情を理解し、そしてその心や気持ちを理解しようと務めるならば、そこには、励ましの言葉や慰めの言葉が生まれる事はあっても、相手を責める裁きの言葉や叱咤激励する言葉は生まれてくることはありません。そして、教会には人を責める言葉や叱咤する言葉はふさわしくないのです。というのも、神は裁く神である以上に、忍耐と慰めの神だからです。もちろん、神は罪をお裁きになります。ですから、いくら神が忍耐と慰めの神だからと言って、放蕩に身を任せて生きるような生き方が容認されると言うことではありません。しかし、どんなに私たちが誤りや失敗を犯すような存在であっても、神は忍耐し、私たちを励まし慰めて下さるお方なのです。

4節に「これまでに書かれたことがらは、すべてわたしたちの教えのためにかかれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。」とあります。これまでに書かれたことがらというのは、おそらくは旧約聖書のことであろうと思われます。旧約聖書全体は、神の選びの民であるイスラエルの民が、神の選びにも拘らず、神の前に罪を犯しながらも、神がそれをじっと忍耐し、励まし、慰め導いてこられたことの証です。そういった意味では、旧約聖書はイスラエル民族を通して示された神の救いの歴史であると言えます。そして、そこに神の忍耐と、励ましと慰めがある以上、私たちもまた、この忍耐と慰めの神のことを心に覚え、相手を責める言葉を語る者となるのではなく、慰めと励ましの言葉を語る者となりたいと思うのです。そして、互いに慰めと励ましの言葉を掛け合いながら歩んでいくことが出来たなら、共にキリスト者として、キリストにふさわしい者へと成長して行くことが出来るように思うのです。そして、教会がそのようなキリスト者によって築かれる神の民の群れであるならば、それはまさしく神の民の群れにふさわしい、教会らしい存在になっていくに違いありません。

私は、父親として自分が最も欠けている点は、自分の子どもたちをほめてやることが非常に下手だと言うことです。学校の成績にしろ、何にしろ、なかなかほめてやることができません。もちろん、心の中では、「ああ頑張ったな」とか、「よくやったな」と言う気持ちがないというわけではないのですが、どうしても、ほめる言葉より叱咤する方が多いといえます。もちろん、それを自覚していますので、ほめる言葉をかけることもあるのですが、やりなれていないことをしますと、どうもぎこちなくていけません。良いところよりもあらのほうが見えてしかたがないのです。だからといって、子どもたちに良いところがないかというと、そうではありません。それぞれに良いところがあるのです。なのに、そこをしっかりと見ようとしないで、ついついアラの法が目についてしまうのです。もちろん、それは良くないことなのです。

教会は、決してそのようなことであってはいけません。なぜなら、教会はキリストの体だからです。教会そのものがイエス・キリスト様というお方を証しし、イエス・キリスト様が生きられたように生きていく存在だからです。そして、そのイエス・キリスト様こそが、神の忍耐と慰め、励ましと言ったことが結実した存在そのものなのです。私たちの弱さや罪深さ、あるいは無力さといったもの、神はすべてご存知で、だからこそ、罪を悔いる私たちの心を、心のままで受け取って下さって、救いへと導いて下さったのです。その救いへの導きが、イエス・キリスト様というお方であり、その救いのみ業を通して、神は、私たちを神の子という高みへと導いていって下さっているのです。ですから、私たちは、決して互いに責め合ったり、叱咤するのではなく、相手のことを理解しようと務めていくことが大切です。そして、互いの心や気持ちを理解していこうとつとめる者となっていきたいと思うのです。

そうすれば、私たちは共に歩んでいく者となれるだろうと思います。相手のことを理解し、相手の心や気持ちを理解していくならば、悲しみや苦しみも分かち合うことが出来るようになるからです。そして、悲しみや苦しみが分かち合われていくならば、そこに喜びが生まれます。決して一人ではなく、共に歩んでくれる者がいる、共に分かち合ってくれる者がいると言う喜びが生まれます。そして、その喜びが苦しみや悲しみを乗り越えていく力になるのです。もちろん、そこに嬉しいことがあるならば、その喜びが分かち合われるときに、何倍もの喜びになっていきます。よく言われることですが、悲しいことを二人で分け合うならば、その悲しみは半分になり、嬉しいことを二人で喜べば、その喜びは二倍になると言うことなのです。

このように、共に歩み、共に分かち合う教会の姿を語りつつ、私自身がどうであったかを問われるような思いでいます。この三鷹教会に皆さんとともに集う一人として、皆さんと共に生き、共に歩む者であっただろうかを問われています。確かに、皆さんに理解して頂き、共に歩んでもらったと言うことは間違いのないことですが、私が皆さんに対してどうであっただろうかと言うことを、心に深く問いかけられる思いです。そのような、深い自責の念を持ちながら、もっともっと思いをひとつにし、分かち合い、心からの慰めと励ましの言葉を語れる者となりたいと思うのです。そうやって、皆さんと共に、信仰の深み、恵みの深みへと共に歩まさせて頂きたいと思うのです。そして、私たち一人一人、つまりは教会が結ばれているならば、きっと、今こうして一つに結ばれている私たちの教会が揺らぐことはないだろうと思いますし、これからの将来も決して揺るぐことはないだろうと思うのです。

私が、この教会に来てから27年が経とうとしています。牧師として赴任してから数えても6年が過ぎようとしていますが、本当にこの教会は暖かくて良い教会だと思います。もちろん、大変な時期もありましたし、試みもありましたが、そんな風雪を乗り越えながら、皆さんが、本当にこの教会の暖かさを守り続けて来て下さいました。それは決して失ってはならない大切な宝なのです。そのために、もう一度、私たちの教会が一つに結ばれキリストにある一致を保つ原点である思いを一つにすると言うことに目を向け、今年も共に歩む一年でありたいと思うのです。そして、そのように共に歩んでいくならば、この2006年のクリスマスの時にも、昨年のクリスマスの時と同じように、みんなで心を一つにし、私たちの主イエス・キリスト様の父なる神を崇め、褒め讃えつつ、声を合わせ賛美の歌を歌うことが出来ると思うのです。

お祈りしましょう。